近江の淡海を遠くに
近江の淡海を遠くに望む叡山。
空には隠す雲なき満月。
丑の三つ、此岸と彼岸が最も近づく頃。
陰の気が極まる刻、無明を破る覚悟を定め、松明を掲げて闇の中へ歩み出す。
浄衣と呼ばれる死装束、頭には未だ開かぬ蓮華笠。
腰には降魔の剣、すなわち決死の刃と冥土の渡し六文銭。
回峰行七年目の深夜、己は無動寺明王堂を後にする。
悟りを開くためではなく、悟りに近づくための一人の行者。
西方の彼方は、はるかに遠い。
齢九歳にして仏門へ入る。
遠い過去の淡い記憶の中で、ただ二つだけが鮮やかに残っている。
一つ目は、叔父に繰り返し教えられ、覚え込まされた言葉。
二つ目は、その叔父に連れられて尋ねた、青蓮院門跡の和尚の、満月の光を思わせる瞳の輝き。
その眼差しは、眩しい日の輝きではなく、いつまでも見つめていたくなる、こぼれる月の光。
それだけは忘れられない。
その当時、私はすでに両親を失っていた。
加えて、平家全盛の時代、源氏の血を引く私の身の安全を案じた叔父は、私を仏門に入れることを画策する。
叔父は混迷する政治の風向きと、戦火に揺れる世の中を見極め、生き抜いてきた人である。
あの日、私たちは青蓮院の門をたたいた。
桜のつぼみがほころびかける春だった。
私と叔父は和尚の前に座し、深く頭を下げた。
顔を上げた叔父は、私の入門、すなわち得度を願い出ていた。
和尚は、まだ幼かった私の顔を澄んだ目で見つめる。
私もまた、和尚の面差しを初めて目にした。
隣で叔父は言葉を尽くして、私の帰依を懇願していたが、返事は渋い。
幼かりしゆえであろう。
それでも叔父は、諦めず頼み続けていた。
やがて和尚は、根負けしたのか「得度は、あすになさればよろしからむ。」と微笑んだ。
その響きには、考える時間と、そこはかとなく断りたいというお心の内があったのかもしれない。
そして、叔父が私に、さりげなく目配せ。
誰にも気づかれぬよう舞う、桜の花弁ひとひらのごとく。
私は、その日初めて言葉を発した。
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
叔父に教えられた通りに言えた、とその時は思っていた。
しかし和尚は、零れ射す月の光のような眼光で私を見つめる。
その目は、私の心を透かし、表も裏も照らしていた。
胸の奥が急に熱くなり、恥ずかしさに包まれる。
嘘を言ったわけではない。
ただ、教わった言葉を繰り返しただけ。
それなのに、失った父母の面影が思い浮かび、悲しみが込み上げる。
私は和尚の視線から逃れるように、目を伏せ頭を下げた。
だが、下げたところで光から逃れられるわけではない。
静けさの中、桜の気配だけが漂う。
花弁ひとひらをわずかに揺らすがごとく、和尚の吐息。
青く澄んだ静寂の後、和尚は私の得度を認めた。
私の中で、ひとひらがはらりとこぼれる。
剃刀の刃が頭皮に触れる冷たさは青い月光。
耳元で髪が落ちるかすかな音は静寂の裏返し。
一筋ごとに、父母の面影が遠のいてゆく。
月光は救いの道を照らすのではなく、私の影に棲む苦悶を照らす道だった。




