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乙名と老女が、しずしずと

 乙名と老女が、しずしずと部屋へ入ってきた。


 乙名は手に鉄鍋を提げ、老女は膳を重ねて持っている。


 老女の手で、俺たちの前に食事が手早く整えられた。


 東の空がわずかに白み始めた、早朝のこと。


 一日の始まりの空気は冷たく澄んでいる。


 村の一日は、すでに始まっていた。


 膳の上には、玄米に麦と粟、稗の雑穀を加えた塩粥がある。


 刻まれた青菜が添えられている。


 苦しい台所事情から用意された粥が、塩味とともに心に沁みる。


 ほのかに湯気を立てる粥を、俺たち四人は黙々といただいた。


 食べ終えた頃合い、乙名が少し遠慮するように口を開く。


 「かたじけなく候。村の衆、皆して御礼申さんとて、みづから御目見え仕りたく候。内へ召し入れられ候へば、幸ひに候。」


 彼らは片栗粉の件に感謝の意を示したいという。


 少し照れくさく、面映ゆい心地で鼻の頭を掻きながら、俺は了承した。


 すると老女は部屋を出ていき、すぐに村人たちを導き入れる。


 どうやら、すでに建物の外で待っていたようだ。


 俺たちの前に、まず入ってきた痩せた男は、久しぶりに米が食べられると、俺が渡したわずかな米に涙した。


 次に入ってきた若い親子三人は、片栗粉を売った金で新しい農具や着物が買えると喜んでいた。


 幼い男児も、おずおずと頭を下げ、俺たちを興味深げにじっと見つめている。


 小六が、照れ隠しか「我に尾は生えず候」と腰を上げて尻を向けた。


 男児は慌てて目を逸らす。


 善は優しい面持ちを湛え、日の温かさのごとく、その眼差しにて幼子の心を包み込んでいた。


 男児は、善の瞳にはにかんだ笑みを返した。


 花里は終始、顔を赤らめ、目を細めて微笑んでいた。


 その後も、腰の曲がった老婆や、過酷な日々を刻んだ男たち、藁の匂いのする女たちが、深く感謝の言葉を述べた。


 最後に乙名から改めて礼を述べられた。


 あわせて、片栗粉のことはくれぐれも内密にと願われ、深く頭を下げられる。


 俺たちは、部屋に招き入れられた村人たちとの挨拶をすべて終え、背負子の籠へ片栗粉の入った箱を納め、肩に担いだ。


 どこか近くからふらりと立ち寄ったかのような風情で、持ち物はほかに何もない。


 建物の外へ出ると、わっと歓声が上がった。


 そこにも村人たちは待っていた。


 老若男女。


 笑みで送り出す者、手を合わせる者、俯いて涙ぐむ者。


 等しく喜びの面持ちを俺たちへ向けた。


 一礼し、小川沿いの道を歩き出す。


 山の麓から村へ至った道を引き返す。


 俺たちが歩き出すと、少し離れて村人の多くが静かに後をついてくる。


 その足音に驚いたのか、畦から水田に蛙が飛び込み、水が円を描き動く。


 歩く先々で波紋が広がる。


 もうそろそろ麓の森。


 俺たちは振り返り、見送る村人たちに手を振った。


 立ち止まった村人たちも、そこから手を振り、送り返す。


 笑顔を送り、笑顔で返す。


 すると村の子供三人が、村人たちの前に踊り出て、狐の仕草を見せた。


 小六はすぐに裾をたくしあげ、狐の真似で飛び跳ねた。


 花里が頭の所で両手を立てて「コン」と一言、甲高く。


 俺と善は大きく手を振った。


 今朝の塩粥は忘れられない味になった。


 それから俺たちは森へ入った。


 村人たちの前から俺たち四人は山へと消えた。


 薄光の水田には、蛙の声だけが残った。



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