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両の掌を数回打ち合わせ

 両の掌を数回打ち合わせ、指先の粉を払う。


 思ったよりもその音は部屋の壁に跳ね返り、大きく木霊する。


 蛙の声はたちまち遠のき、善の影絵はふっと途切れる。


 小六と花里は演じ手を失い、踊りを止める。


 憑き物が落ちたのだ。


 いつの間にか妖しい狐火は、ただの蝋燭の炎に戻っている。


 村の男たちは目を覚まし、慌てて宋銭の束に触れ、木の葉に化けていないのを確かめ、胸を撫で下ろす。


 俺はその様子を、わずかな意地の悪さを覚えつつ、くすりと笑う。


 怪異の名残だけが、まだ俺の中で燻っている。


 老女は読経をやめ、乾いた喉にしわぶきを一つつき、こちらを見る。


 揺るぎないその目にやがて安堵が宿り、老女は大きく息を吐く。


 正気に戻った乙名が身震いし、改めて俺に礼を言う。


 男たちもそれにならい、頭を下げる。


 俺も軽く一礼し、明朝の出発を告げる。


 乙名は承知し、「明日は朝食を準備します」と言って、人々と一緒に部屋を出ていく。


 去り際、最後尾の老女が幾度となく振り返り、量るような視線だけを部屋に残して去っていく。


 濃密だった空気は、部屋から一気に消える。


 善が蝋燭の炎を吹き消す。


 灯芯に残る灯りだけが、わずかに部屋を照らしている。


 踊り疲れたのか、小六と花里は筵の上に横になり、ほどなく静かな寝息を立て始める。


 俺と善も隣同士で横になる。


 少し眠れない俺は、まだ起きている善に声を落として尋ねる。


 どうして人々は満足に食べられず、苦しんでいるのか。


 何故、米を収穫しても、雑穀しか食べられないのか。


 長く続いた天候不順の天災と、まつりごとに端を発する戦災が原因だと語り、口を固く噤む。


 灯芯の淡光が、善の顔に鈍い翳を落とす。


 橙色が片面を照らし、残る半面を濃い陰が呑む。


 その表情からは、何も読み取れない。


 ほどなく、善の呼吸も静まり、寝息が揃う。


 俺も、部屋のただ一条の灯を吹き消し、目を閉じて闇に沈む。


 蛙の声が再び近づく。


 やがてそれは一つの音になり、老女の「南無」が声明へと変わる。


 二つは織り合い、一つの調べとなって、眠りに落ちる俺の耳奥で鳴っている。


 調べは記憶へ染み込み、溶け、深く響く。


 その震えるような響きは、怨嗟、渇望、飢餓。


 誰とも知れぬ声が、記憶の底から滲み出す。


 ただ「食わせろ、食わせろ」と。


 俺はいま、どこにいるのか。


 どこに立っているのか。


 長く深い夜は、俺の中に舞台を移して、なお続く。


 蛙は初めから終いまで、変わらぬ声で鳴いている。


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