表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
143/174

乙名が俺たちに

 乙名が俺たちに、一宿をぜひにと勧めてきた。


 「宴など催すことは叶ひませぬなれども、今宵は宿やどりくだされ。心より迎へ奉り候ふ。」


 彼は、俺たちがどこから来たのか、そしてどこへ向かうのかも、尋ねようとはしなかった。


 俺たちの格好は、どこかふらりと近くの村から現れたような雰囲気だった。


 持ち物といえば、俺が背負う籠と腰の小刀だけ。


 不思議に思っているはずだが、乙名は何も問わない。


 まだ日は高いが、これから吾国山を越えて稲田の草庵を訪ねるには、日が暮れてしまう。


 俺たちは乙名の勧めに従い、ここに一泊することにした。


 そうすると、小六と花里は「村の様子を眺めてくる」と言って出かけていった。


 残されたのは、俺と善。


 俺は乙名の前で、善が描いた絵図を懐から取り出し、広げて、山を越えた稲田郷のことを教えてもらった。


 彼の話によると、笠間と呼ばれる盆地の中に稲田郷があり、「笠間」とは、周囲を山々に囲まれた地形のくぼみが、ちょうど笠を伏せたように見えることから名付けられたという。


 彼はそう話しながら、絵図の一点を指し、「此の辺り、稲田郷にて候ふ。」と示してくれた。


 俺は、丁寧に教えてくれた乙名に礼を言い、何気なく、川辺で出会った際に、乙名が村の者たちとともに桶を並べ、何か作業をしていたようだったので、それは何だったのかを尋ねた。


 すると乙名の表情が変わり、すぐには返事をせず、しばらく言い淀んだ末に、「今は申すまじきことにて、村の者とはかりて、後ほど申し上げ候はん。」と、心苦しさを顔に浮かべて答えてくれた。


 そうして乙名は、床の軋みに気をつけながら、静かに出ていった。


 俺はその姿を見送りながら、声を潜めて善に聞いた。


 「何事だと思う、善?」


 俺は、聞いてはいけないことを問うてしまったような気がして、不安を覚えた。


 「それは分からん。しかし、相談して話してくれるみたいだし、それを待とうじゃないか」と、善は気楽に答えた。


 やがて日が傾き、小六と花里が帰ってくる。


 その後、老女がやって来て、「今宵は、此れをご用ひくだされ。」と言いながら、横になるための真新しい筵を四枚運び入れ、灯芯に火をともす。


 「ただ今、乙名さま、参られ候。」と告げ、音を立てぬように出ていった。


 暗くなるにつれ、次第に蛙の鳴き声が大きくなる。


 皿の上に揺らぐ頼りない灯りのせいか、俺の不安が増していく。


 そんな俺に気づいたのか、善はそっと懐を探りはじめた。


 そして、以前舟で手渡していた蝋燭を取り出し、灯芯の火を蝋燭へと移して、部屋の中を照らしてくれた。


 部屋が明るくなった分だけ不安は和らいだが、それでも俺の心は蝋燭の炎のように、まだ揺れている。


 外の暗闇では、わずかな星の明かりの下、蛙が休むことなく鳴いている。


 どうして蛙はあれほどまでに鳴き続けるのか。


 そんな疑問が脳裏をかすめる。


 夜はどこまでも長く、そして深い。



 


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ