乙名が俺たちに
乙名が俺たちに、一宿をぜひにと勧めてきた。
「宴など催すことは叶ひませぬなれども、今宵は宿りくだされ。心より迎へ奉り候ふ。」
彼は、俺たちがどこから来たのか、そしてどこへ向かうのかも、尋ねようとはしなかった。
俺たちの格好は、どこかふらりと近くの村から現れたような雰囲気だった。
持ち物といえば、俺が背負う籠と腰の小刀だけ。
不思議に思っているはずだが、乙名は何も問わない。
まだ日は高いが、これから吾国山を越えて稲田の草庵を訪ねるには、日が暮れてしまう。
俺たちは乙名の勧めに従い、ここに一泊することにした。
そうすると、小六と花里は「村の様子を眺めてくる」と言って出かけていった。
残されたのは、俺と善。
俺は乙名の前で、善が描いた絵図を懐から取り出し、広げて、山を越えた稲田郷のことを教えてもらった。
彼の話によると、笠間と呼ばれる盆地の中に稲田郷があり、「笠間」とは、周囲を山々に囲まれた地形のくぼみが、ちょうど笠を伏せたように見えることから名付けられたという。
彼はそう話しながら、絵図の一点を指し、「此の辺り、稲田郷にて候ふ。」と示してくれた。
俺は、丁寧に教えてくれた乙名に礼を言い、何気なく、川辺で出会った際に、乙名が村の者たちとともに桶を並べ、何か作業をしていたようだったので、それは何だったのかを尋ねた。
すると乙名の表情が変わり、すぐには返事をせず、しばらく言い淀んだ末に、「今は申すまじきことにて、村の者と諮りて、後ほど申し上げ候はん。」と、心苦しさを顔に浮かべて答えてくれた。
そうして乙名は、床の軋みに気をつけながら、静かに出ていった。
俺はその姿を見送りながら、声を潜めて善に聞いた。
「何事だと思う、善?」
俺は、聞いてはいけないことを問うてしまったような気がして、不安を覚えた。
「それは分からん。しかし、相談して話してくれるみたいだし、それを待とうじゃないか」と、善は気楽に答えた。
やがて日が傾き、小六と花里が帰ってくる。
その後、老女がやって来て、「今宵は、此れをご用ひくだされ。」と言いながら、横になるための真新しい筵を四枚運び入れ、灯芯に火をともす。
「ただ今、乙名さま、参られ候。」と告げ、音を立てぬように出ていった。
暗くなるにつれ、次第に蛙の鳴き声が大きくなる。
皿の上に揺らぐ頼りない灯りのせいか、俺の不安が増していく。
そんな俺に気づいたのか、善はそっと懐を探りはじめた。
そして、以前舟で手渡していた蝋燭を取り出し、灯芯の火を蝋燭へと移して、部屋の中を照らしてくれた。
部屋が明るくなった分だけ不安は和らいだが、それでも俺の心は蝋燭の炎のように、まだ揺れている。
外の暗闇では、わずかな星の明かりの下、蛙が休むことなく鳴いている。
どうして蛙はあれほどまでに鳴き続けるのか。
そんな疑問が脳裏をかすめる。
夜はどこまでも長く、そして深い。




