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俺と善は一枚の絵図を

 俺と善は一枚の絵図を広げ、向かい合って相談していた。


 朝餉を終え、翌朝には鎌倉を離れることを小六と花里に告げると、二人は驚いたような顔で街へ出かけていった。


 二人は楽しげな町を見納めるように、庵を後にした。


 賑やかなこの町が、きっと気に入っているのだろう。


 二人が去ったあと、手書きの絵図を挟んで前に座った善が、周囲を気にするように声をひそめて話し始めた。


 「史郎。義尚が言っていた通り、俺たちは見張られている。今朝、この庵に入る前に周囲を確かめたら、林の中に蓑を肩に掛けた男がいた。所在なげにこちらを見ていた。嵐の翌朝に、そんな場所に人影があるのは不自然だ。あれは間違いなく、俺たちを見張っている」


 心が震え、肌にざわめきが走る。


 俺は気を落ち着け、善にこれからの予定を語った。


 妙心さんから教えてもらった稲田の草庵の所在は、善が描いたこの絵図に記されている。


 俺の記憶にある地図ほどではないが、おおよその位置は把握できる。


 まず小湊から北へ向かう。絵図には「流海ながれうみ」と記された広がりが描かれている。


 それは霞ヶ浦のことだろう。


 そこからさらに北上し、山を越え、常陸国稲田郷を目指す。


 そこまで辿り着ければ、草庵を探し出し、近くに住む石工の重兵衛さんに会うことができる。


 「それから、もうひとつ。茶の若い芽を分けてほしいと頼んだところ、庭の茶の木から切ってよいと許可を得た。寺には種もあるので、それも分けてくれるそうだ」


 そう用件を伝えた善は、「俺は庫裡で、まだ目を通していない書籍を広げてくる」と告げて立ち上がった。


 俺が一人になることに不安を感じていることがわかったのか、「この寺は幕府とのかかわりが深い。ここで刀傷沙汰になることはない。まあ、心配するな」と気楽に言い残して、善もまた時間を惜しむように庵を後にした。


 一人になると、狭かった部屋が急に広く感じられる。


 何もない静けさに、心が落ち着かない。


 とりあえず歌を口ずさみ、庭の茶の木の青い枝を数本、小刀で切り落とす。


 春の青い香りが立つ。


 茶碗に水を張り、切り口を浸して置いた。


 そこまですると、ここではもう何もすることがなくなる。


 外に出る勇気もない。


 部屋の真ん中に座り、ぼんやりと庭を眺めている。


 寝不足と雨上がりの光の心地よさが、身体を解くように沁みてくる。


 まぶたは次第に重くなり、意識が緩やかにほどけていく。


 その微睡みのなかで、ふと頭の奥に浮かんだのは春の記憶だった。


 高校での授業、懐かしい思い出。


 「春眠暁を覚えず」


 しかし、その後の句がどうしても思い出せない。


 たしか高校の斎藤先生の授業中に習ったような気がするが、それも不確かで、はっきりとは思い出せない。


 ただ、授業中に居眠りをする生徒の頭を「春眠暁を覚えず」と言いながら、教科書の角でこつんと叩いていた姿だけは、なぜか鮮やかに思い出す。


 その光景は春に限らず、夏も秋も、そして冬も。


 居眠りをする生徒には「春眠暁を覚えず」と言ってコツン。


 ある時、生徒の一人が「どうして一年中“春眠”なのか」と尋ねると、斎藤先生は、「君たちは青春の真っ只中じゃないか」と、聞いている生徒が恥ずかしくなるようなことを堂々と話していた。


 その生徒が「先生はどうなんですか」と問い返すと、斎藤先生は教室の黒板の真ん中に、チョークで小さな黒丸をひとつ書いた。


 クラスの全員がその意味を理解できずにいると、先生は笑って言った。


 「冬眠だ」


 小さな黒丸。


 それは、草野心平の「世界でいちばん短い詩」だ。


 短いけれど、その周りには無限の余白と余韻が広がっている。


 孤独、始まり、雫、存在、ピリオド。


 ……


 部屋には俺一人。


 音のない静けさが満ちていて、庭は時間が止まったような枯山水。


 今の俺は春眠なのか、それとも小さな黒丸のような冬眠なのか。


 二つの眠りが、季節のように移ろいながら、いつのまにか過ぎていく。


 もしかすると、俺自身が、小さい点なのかもしれない。


 うつらうつらと。




 




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