義尚さんが、冷めた茶碗を
義尚さんが、冷めた茶碗を、そろりと、音もなく置く。
袈裟からのぞく手には、しみが浮かび、枯れ枝のように細い。
それまで義尚さんの隣で、塑像のように座していた高弁さんが、口を開いた。
完全に気配を消していたため、まるで突然そこに現れたかのように、その存在に気づかされる。
「権大僧正、そろそろ。」
そう、言葉少なに語る。
一を知り十を知るように、義尚さんは頷き、姿勢を改めて善を見つめる。
白く長い眉の下に、薄く開かれた目は、どこまでも深い湖を思わせる。
その義尚さんが、善にひとつの提案をした。
「ひと月の後、我れは鎌倉を発ちて、比叡の山へ帰参仕る所存にて候。高弁も供を成す。そなたも来よ。」
そう告げる義尚さんの言葉と姿は、老いてなお、心は動かぬ湖面のようであった。
ただ、肉体は、無常の流れに委ねられていた。
その提案に、善は横に首を振るばかりであった。
しかし、俺には、その沈黙に、善の心がほんの僅かに揺れたように感じられた。
「此度、別れ申し候わば、今生にて相まみゆること、叶うまじ。」
再び、義尚さんは誘うも、やはり善は首を振り、両手をついて、無言で頭を下げる。
そうして善が頭を上げると、義尚さんは、今までの会話が存在していなかったかのように、すべてを諦観した表情に笑みを浮かべて言った。
「今日のひととき、誠に楽しみ申し候う。」
しばらくの間に、動かぬ風景の静寂と、心象風景の葛藤。
それから、義尚さんは俺に目を向けた。
相変わらず、その目は、言葉と一挙手一投足のすべてを吸い込むような深淵だった。
俺は見つめられて、慌てて姿勢を正す。
義尚さんは、「そなたの目に映りしもの、いかなるものでありしや。これよりのち、また何をか見んとす。」とだけ告げて、答えを求めようとはされなかった。
続けて、「見ゆるものは多くこそあれ、見えぬものもまた多かりけり。我が許に、そなたらが鎌倉に来たりしこと知られたる如く、よもや幕府の耳に入らぬなどという理、あり得まじ。」と、暗に幕府が俺たちを監視下に置いていることを教えてくれた。
その言葉は、俺の気持ちを、ざわりと撫でた。
高弁さんが「では」と義尚さんを促すと、二人は立ち上がり、義尚さんが庭に一瞥をくれると、「佳き庭にて候。」と言い、衣擦れの音一つ残して、庵を出た。
俺と善も後に続いて、見送るため外に出る。
別れ際、義尚さんが善に「また会おう」と短く告げる。
すると善が、「今生の別れとなると仰せになりました」と返した。
義尚さんは呵々と笑いながら言った。
「こういう言い時には、素直に『はい』と答えるものじゃ。」
すると善は、にっこりと笑い、素直に言った。
「はい、楽しみにしております。」
義尚さんは中啓を小さく鳴らし、「良き返事かな。」と満足し、高弁さんと共に庵を後にした。
二人は乾いた石畳を歩み行き、山門で一度振り返り、一礼する。
俺たちも、それに合わせて一礼する。
頭を下げると、湿った土が僅かに匂い、二匹の蟻が這っているのが目に留まる。
頭を上げると、そこには二人の姿はもうない。
山門から吹く寂しい風が、俺の頬を撫でるばかりである。




