俺は庵の隅で、風景の
俺は庵の隅で、風景の一部となり、二人の対座を見守っていた。
毛筆一線、空に澄んだ鳶の声が描かれる。
それが合図のように、権大僧正義尚が間合いを計り、肚から抑えた声で言葉を発した。
「虎が翼を得て、鎌倉にやってきたか」
善は舌鋒鋭く応じながら、間合いを詰める。
「俺と史郎、どちらが虎で、どちらが翼ですか」
義尚はその矛先を軽くいなして、一足一刀の間を保つ。
「虎にして翼なり。見極めるは己が慧眼のみ」
義尚の心は、枯山水のさざれ石の如く、微動だにせず。
善が言葉を放とうとした刹那、中啓が一閃され、先を取られる。
切っ先の向こうに、義尚の姿はもう見えなかった。
何かをきっかけに、義尚さんと善の問答が始まった。
張り詰めた空気の中で、最初に言葉を発したのは義尚さんだった。
それに対して、善は挑発するような言葉を返していた。
相手は権大僧正であり、寺で修業を始めたばかりの善にとっては、まさに雲の上の存在だ。
そんな相手に、善は物おじせず遠慮なく言葉を繋ごうとしたが、義尚さんは絶妙のタイミングで中啓をそっと打ち、慈しみに満ちた声で気勢を制する。
遠くで鳶が春の風を捉えて空に留まる。
「善日よ、清澄寺では何を学んだ。そして、何を見てきた」
その言葉に、善は魅入られたように、単刀直入に知見や疑問を口にする。
義尚さんの眼は、善の言葉を一つ一つ、残らず呑み込んでいく。
そうして、問いに答える。
仏教について何も知らない俺には、彼らの話はほとんど理解できなかった。
最澄、智顗、鳩摩羅什、おそらく人の名前だろう。
話しぶりから察するに、偉大な足跡を感じ取ることしかできなかった。
具体的に何をしたのかは掴めない。
ただ、二人の対話には屏風絵のような美しさがあった。
時に意見が違えば、六曲一双の龍虎の如く対峙し、あるいは互いに賛同すれば、二曲一双の風神雷神の如く共鳴する。
いつまでも見飽きない物語に、俺は時の経過を見失っていた。
春の風が枯山水にそろりと渡る。
最後に、善は渾身の葛藤一撃を振り下ろす。
「この国にて仏法、花の如くに咲き誇れども、なにゆえ天の災ひ、戦の禍に人々は阿鼻の叫びを漏らすや」
義尚の心は無刀となり、ただ善の苦悩を己の体で受け止めた。
そして、初めて己の心を吐露する。
「われは権大僧正にて候へども、いまわの際に至りても、成仏仕るや否や、定め難きものなり」
語り終えた義尚さんは、飲むことを忘れていた薄茶をおもむろに含む。
濃密だった庵の中の空気がようやくゆるみ、やっと春の風が舞い込んだ。
茶碗から残り香が僅かに漂う。
智顗は中国天台宗の実質的な開祖であり、釈迦が五十年間にわたって説いた教えを「五時八教」として体系化し、華厳経を起点に法華経と涅槃経を最勝の教えと位置づける教義を示した。
鳩摩羅什は後秦の時代(4世紀末~5世紀初頭)に長安に招かれ、約300巻の経典を漢訳して遺し、玄奘と並ぶ訳聖と称された。




