浜辺から逃げるように戻って
浜辺から逃げるように戻ってきた翌朝、妙心さんの代わりに善が粥の入った鍋を持って庵に現れた。
数日ぶりに四人で膳を並べたが、小六は「これでは足りぬ」と言い残し、海辺の漁師のもとへ魚を食べに向かい、花里とともに寺を後にした。
騒がしい小六が出かけると、ひと時の静けさが部屋を包んだ。
ふたり残された庵の中で、俺と善はここ数日のことを語り合った。
茶臼を買い、蜂蜜と砂糖が交換できるようになったことを話した。
それから、今度は石臼を手に入れるため、正確な場所は分からないが常陸国稲田郷に行こうと考えていることも伝えた。
すると善は、後で賢光さんか妙心さんに稲田の草庵の場所を尋ねておくと約束してくれた。
今度は俺が善に、ここ数日をどう過ごしていたのかを尋ねた。
善は少しだけ庭に目をやり、枯山水の中に一株だけ植えられた茶の木と、わずかに苔むす庭石の緑に目を休めると、静かに語り始めた。
日の出とともに蔵書や経典に目を通し、日が暮れて文字が霞んで見えなくなるまで没頭していたという。
そう語る善の指は、ゆっくりと目元をほぐしていた。
「それで、成果はあったのか」と重ねて尋ねると、読み解けないところもあったが、そういう時には賢光さんに教えを乞うと、そのいかつい体と野生的な雰囲気とは裏腹に、掌を開くように丁寧に解き明かしてくれるという。
それでも、すべてに得心したわけではなく、一つ納得すると新たな疑問が湧き上がってくるものだと、今度は首の辺りを手で揉みほぐしながら語った。
庭に春風がそよぎ、茶の若葉を揺らした。
ふたりで時間を過ごしていると、妙心さんが「お二人にご来客です」と静寂を崩すことなく、控えめに声を掛けながら庵へ現れた。
知り合いのいるはずもない鎌倉で、誰が訪ねてきたのかと訝しく思っていると、妙心さんの後ろには俺の取り調べの時に立ち会った義尚さんと高弁さんが春の光の中に立っていた。
ふたりは妙心さんの案内で中へ入り、俺たちの前に所作美しく席についた。
俺は慌てて姿勢を正し、あの取り調べの時と、その後の事後処理のお礼を述べた。
そして、なぜ俺がここに滞在していることを知ったのかと尋ねると、それは賢光さんが身元保証の書状に記された義尚さんの名前を見て、彼がいる杉本寺へ使いを出したことが今回の訪問へと繋がったのだという。
妙心さんが部屋の隅で湯を沸かし、茶の用意をしてくれた。
その間、義尚さんも高弁さんも何も語らなかった。
ただ、義尚さんの開いているのか閉じているのか判然としない眼差しの先には、枯山水が広がっていた。
やがて、妙心さんは点てた薄茶をそれぞれの前に置き、「されば、ごゆるりと」と言葉少なに告げて、庵を退出した。
小さな庵の中で海の潮が高まるように、何故か緊張感が満ちていった。
俺は無性にのどが渇き、前の薄茶を飲んだ。
ゴクリという喉の音が、やけに大きく、体の内に響いた。
俺は茶を飲み干し、前に置き直すと、少しだけ庭の方へ席をずらし、張り詰めた空気の中でやっと呼吸が楽になった。
しかし、依然として三人が包まれている空間には、呼吸すらままならぬ深海が広がっていた。
枯山水との音無の海。
一閃、遠くの空で鳶の声が沈黙を裂いた。




