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その国語の先生は

 その国語の先生は斎藤と言い、あまり見栄えのしない、禿げた男性の教師であった。


 俺は日本語を流暢に話すことはできても、読み書き、特に漢字には苦手意識があった。


 そのため、授業に集中できず、ぼんやりと時間をやり過ごしていることが多かった。


 その日の授業でも、俺は窓際の席から外の景色を眺めていた。


 すると、斎藤先生が突然俺を指名し、「I love you をどう訳するかね」と問いかけてきた。


 俺が直訳のまま答えたところ、先生は優しく、あるエピソードを教えてくれた。


 夏目漱石が英語の先生だった頃、生徒が “I love you” を「我君ヲ愛ス」と訳したのを聞いて、「日本人はそんなことは言わない。『月が綺麗ですね』とでも訳しておきなさい」と言ったという。


 先生はそんな逸話を語ってくれた。


 そして、直接的な言葉ではなく、自然や風景を通して心情を伝えることの美しさについて物語った。


 「見えない、聞こえない、言わない。その余白に想像の余地を残す日本語は、素晴らしいと思わないかね」と締めくくった。


 話を聞き終えて、俺は斎藤先生を見る。


 彼が少しだけ格好よく見えた。


 国語の余白にある余韻を知り、斎藤先生の授業が好きになった。


 そんな中、生徒の一人が話を茶化すように先生に質問した。


 「先生は、奥さんにどんな告白をしたんですか?」


 先生は少し照れながら、「私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから、あなたが消して行ってください」と答えた。


 そして続けて、「これは太宰治の『斜陽』からの受け売りだけどね」と付け加えた。


 何人かの生徒が冷やかすように笑い声を上げたが、先生は落ち着いて、「今、そんなことを妻に言えば、コップの水どころか、バケツの水を頭からかけられるがね」と自虐的に笑っていた。


 今度は、クラスの全員が、どっと沸いていた。


 今、思い返せば、妙に懐かしい。


 俺は小六に、「おまえの気持ちを一途に伝えるよりも、察してもらえるように伝えるのがいいんじゃないか」と、夏目漱石の話や斎藤先生の話を思い出しながら、わかりやすく助言した。


 話を聞き終えた小六は、納得したような、しないような表情を浮かべていたが、何か思案するような様子が窺えた。


 俺はひとまず安心することにした。


 帰りの道すがら、俺は小六に花里のどんなところが好きになったのか尋ねた。


 彼いわく、髪はからすの濡れ羽のようにつややかで、肌はしっとりと白く、美人だという。


 そう語りながら、彼はひとり、うっとりとしていた。


 俺には、花里が目を細めて笑う、あの顔が思い浮かぶ。


 けれども、美人というよりも、愛嬌のある顔だとしか思えない。


 細い切れ長の一重の目、下ぶくれの輪郭。


 例えるなら、百人一首の読み札に出てくる姫様たちのイメージ。


 それ以外には思い当たらない。


 時代が違えば、美の基準も変わるのかもしれない。


 それから、小六がその歌を花里に披露したのか、あるいは俺の助言を受け入れて、違う恋歌を歌ったのかは知らない。


 しかし、あの日以来、ほんの少しだけ彼らの間に温かさと距離が縮まったような気がしている。





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