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彼は「耽美主義」と称される

 彼は「耽美たんび主義」と称される一派の作家である。


 耽美という字面じづら、言葉の響きは、実にあでやかである。


 彼の著書に、日本の美はかげに存在すると讃えるものがある。


 その作品では、陽は脇役であり、主役はあくまで陰である。


 光は影を引き立てるための、単なる道具にすぎない。


 そして、その記述の一つに、日本のトイレについても語られている。


 彼は、京都や奈良の寺にある、昔の趣を残した薄暗く清潔な厠を通じて、日本建築ならではの情緒と美意識を描いている。


 彼は廊下を伝って、少し離れたそこへ向かい、薄明かりに包まれた狭い空間に身を屈める。


 ほのかに照り返す障子の光を受けながらも、薄暗いそこで瞑想にふける。


 内側は閑寂な壁と端正な木目に囲まれ、蚊のうなりすら聞こえるような静けさがある。


 床には細長い掃き出し窓。


 そこから外に目をやれば、青葉の色や苔の匂いが感じられるような、植え込みが広がっている。


 彼は、そこで聴くことができる、しとしとと降る雨の音を好む。


 軒先や木の葉からしたたり落ちるしずくが、石燈籠の根を洗い、飛び石の苔を湿らせながら、土へ沁み入っていく。


 そのしめやかな音を、そこでは、ひときわ身近に聴くことができるとも書いている。


 さらに彼は、厠という場所は虫の音にも鳥の声にも、月明かりにもよく調和し、四季折々の「もののあわれ」を味わうのにふさわしい場であると語り、古くからの俳人たちも、そこから数多あまたの題材を得てきたのではないかと推している。


 そして最後に、『やはりあゝ云う場所は、もや/\とした薄暗がりの光線で包んで、何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧もうろうとぼかして置いた方がよい。』と結んでいる。


 



 俺は、多くの人たちが忙しく働く建築現場の様子を、邪魔にならないよう脇に立って眺めていた。


 主屋を中心とした建物群から、少し離れた場所に、トイレが作られる。


 その建物が立つ場所に、広口の大きなかめが二つ埋められた。


 その様子を見ていた俺に、又左さんが近づいて、にこやかに説明してくれた。


 厳めしい顔をしていた彼だが、きな粉棒や蜂蜜パンを食べてからは、すっかり好好爺こうこうやになっている。


 彼によれば、厠は建物としては、すこぶる難しいという。


 あまり目立ってはいけない。


 しかし、きちんと建てなければいけない。


 そこはかとなく、風情と趣のあるものでなければならない、というのが又左さんの持論である。


 建物にある掃き出し窓の外には、目隠しの置き石や香木のしきみなどを配し、一人、寛げる安息の居場所にするという。


 彼の美意識のおかげで、不浄であるはずの場所が浄に変わる。


 俺は、又左さんの持論を聞き、その感性に感心するばかりである。




 『べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致がちのある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。これを西洋人が頭から不浄扱いにし、公衆の前で口にすることをさえ忌むのに比べれば、我等の方が遙かに賢明であり、真に風雅の骨髄を得ている。』




 彼は作品の中で、鮮やか筆致でトイレを見事に昇華させた。

 

 すべての命題が美に繋がる耽美主義、ほとほと感心した次第である。





 谷崎潤一郎「陰翳礼讃」からの引用です。

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