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その日は朝から空が晴れ渡っていた

 その日は朝から空が晴れ渡っていた。


 俺は母と歩いて買い物に出かけ、昼頃に帰ると、満智子さんの家のフェンス沿いに、大型トラックが二台横付けされ、彼女の家の家具が積み込まれていた。


 ほんの数日前に聞いたばかりだった、「エリーゼのために」。


 脚やペダルを取り外されたグランドピアノが、四人がかりの男性たちによって、ベランダから運び出されようとしている。


 そのベランダから清美さんも一緒に出てきた。


 俺たちに気が付くと、彼女は会釈し、フェンス越しに近づいた。


 母が「引っ越しなんですか?」と尋ねると、清美さんは少しやつれた様子で、「はい、実は満智子の夫、邦夫さんが病気で入院しまして……」


 「お母さん」


 清美さんはその声に、はっとして振り返ると、玄関先に満智子さんが冷ややかな目をして立っていた。


 清美さんは、何かに気が付いたように、「今は立て込んでおりますので、ご挨拶は後ほどに」と言い、そそくさと家の中へ戻っていった。


 代わりに満智子さんが俺たちに笑顔で近づいてきたが、その瞳は氷のように冷めていた。


 フェンス越しに対面すると、母は清美さんに聞いたように、少し怯えるように「引っ越しですか?」と尋ねた。


 満智子さんは笑顔を絶やさず、「はい、急に決まりまして、私たちも慌てているんですよ。落ち着きましたらご挨拶に伺います」と、何の理由も語ることなく、深く会釈した。


 その時、彼女のいつも可憐に動いていた指先は、白く固く握りしめられ、少し震えていた。


 そうしてピアノがトラックに積み込まれると、安心したように俺たちに一言、「では、のちほど」と告げ、家に向かい、玄関先でもう一度振り返ると、俺たちが立ち去るまで深々と頭を下げていた。


 それから、彼女たちが引っ越して三日後には、住んでいた家の取り壊しが始まった。


 新築してまだ数年しか経っていないその家は、跡形もなく消えた。


 庭の芝生はすべて剥がされ、満智子さんが大切に育てていたバラも引き抜かれた。


 そして十日後には、すべての痕跡を消すかのように更地が広がっていた。


 ぽっかりと空いた土地の上には、あの日と同じように青く澄み渡った空が広がっていた。


 しばらくすると、三人のスーツ姿の男性が家を訪ねてきた。


 身なりの整った彼らは母に、満智子さんたちの消息を尋ねたという。


 また、俺がその空き地の前を通りかかると、鋭い目をした中年男性がやはり満智子さんについて尋ねてきた。


 俺が警戒する様子を見せると、彼は急に柔和な表情を浮かべ、正直に興信所の人間だと明かし、何か知っていることがあれば連絡してほしいと名刺を手渡された。


 その後、満智子さんからの連絡はない。


 どこへ行ったのかも、何をしているのかも、何も想像がつかない。


 ただ、満智子さんは「エリーゼ」から解放され、もう「エリーゼ」ではなくなり、もう二度と「エリーゼ」を弾くことはないのだろうと。


 

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