第97話 煙草の正体
ニコチン。
アルカロイドの一種で、神経毒性の強い猛毒。
喫煙によって煙から体内に取り込まれ、急速に全身に広がる。
フランスの駐ポルトガル大使ジャン・ニコが本国に煙草を持ち帰り、王妃カトリーヌ・ド・メディシスの頭痛を治療してみせたことで、「ニコチン」という名前が与えられ、当初は薬として扱われた。
だが実際は、脳の報酬系と呼ばれる神経回路に作用して心地よさをもたらし、強い依存性を持つ毒。
発見されてから500年、誰からも忌み嫌われる化合物となった。
「————つまり、僕達はずっと毒を吸わされてきたというのか……?」
フェンは呆然と呟いた。
薄暗い部屋の中で、フェンの青ざめた顔が間接照明の光に照らし出される。
震える指先が、自分の胸元をそっと押さえた。
まるで、そこに潜む見えない毒を確かめるかのように。
依存性のある毒。
体内に残り続ける毒は、さらなる欲望を植え付け、もっと吸いたいという衝動を煽る。
魔法煙草とは、深く、深く体内に根を張り巡らせ、決して離そうとしない魔性の代物だったのだ。
「お前……!」
フェンは激昂し、拳を振り上げた。
「騙したなああ!?」
「人聞きの悪いことを言うねえ。君が聞かなかっただけだろう?」
美味しそうな果実ほど毒が入っているように、都合のいい話には必ず裏があるものさ。
憎悪の炎を燃やすフェンに対し、シエラの反応は軽い。
まるで他人事を語るような冷たさが滲んでいた。
フェンが怒りに任せて拳を振り下ろそうとしたその時、シエラは冷たく言い放った。
「いくら私を殴ろうと構わないけどね。君達の血液に入り込んでしまった魔法煙草はどうにもならないよ————もちろん、そいつももう手遅れだ」
さらに、息も絶え絶えのショーイを指差す。
床に横たわる親友の姿に、フェンの怒りは一瞬にして凍りついた。
ショーイの肌は不自然な青みを帯び、その指先から徐々に魔石化が進んでいた。
ショーイには時間がない。
こんなことをしている間に、ショーイが死にかけている。
今優先すべきは怒りをぶつけることではない。
ショーイを救うことだ。
フェンは歯を食いしばって冷静さを保ちながら、シエラに問いかける。
「……どうすればいい? お前と取引してやるよ」
「分かってるじゃないか。そう来なくちゃね」
シエラは冷静に薬品の小瓶を取り出した。
琥珀色の液体が、妖しく輝いている。
「煙草を体から抜く薬だ。これを使えば、その男の魔石化は止められる。ただし————もちろん、タダじゃないよ」
焦燥の表情を浮かべたフェン。
額には冷や汗が滲み、拳を強く握りしめる。
だが、迷っている暇はなかった。
友の命か、それ以外か————その選択に躊躇う余裕すらない。
シエラの提案に頷くしかない。
「————分かった……買ってやるよ」
「取引成立だ」
シエラはフェンの手を払いのけ、ショーイの方に近づく。
そして、その薬品をショーイに振りかけた。
琥珀色の液体が、繊細な霧となって空中に舞い散る。
すると、ショーイの荒い息が少しずつ落ち着いていく。
苦痛に歪んでいた表情も、わずかに和らいでいった。
だが、魔石化した肌は依然としてそのままだった。
「この量じゃまだ応急処置だね。またすぐに発作が起きる」
シエラは薄笑いを浮かべながら続けた。
「追加の薬にも、もちろん支払いが必要さ」
フェンの中で怒りが沸騰する。
この期に及んで、足元を見てくる。
その卑劣さに、胸の内で憤怒が渦を巻いた。
「お前————正真正銘のクズだな……!」
フェンはシエラを憎悪を込めた目で睨みつける。
シエラはその言葉を聞き、大きく笑い出した。
「あははは! いいねえ。久々にそんなセリフを吐かれたよ」
彼女の笑い声は館の壁を打ち、不気味な反響となって戻ってきた。
ひとしきり笑った後、改めて取引相手の方に視線を向ける。
「落ち着けなよ少年。みんなが幸せになる方法が一つだけあるじゃないか」
シエラは不敵な笑みを浮かべ、こちらに歩み寄ってきた。
邪悪な魔女の誘惑するような笑顔。
初めてこの魔道具店にきた時のことを思い出す。
そして彼女は、その時と同じ提案をするのだ。
「君が『ロード・オブ・ウィザード』になればいい。そして、報酬金を使って君の願いを全部叶えればいいんだ」
どっちにしろ、君は立ち止まってはいけないのさ。
シエラはいつものように煙管を吸い、優雅に振る舞う。
紫がかった煙が、蛇のように空中をうねっていった。
「フェン……」
エリナが心配そうな顔つきで、フェンを見る。
フェンは何も言い返すことができなかった。
この笑顔を今すぐにでもぶっ飛ばしてやりたいが、そんなことをしても何の意味もない。
すると、シエラはメイドを呼び出し、ショーイの体を運ばせた。
以前も見かけた獣人のメイドは、まるで影のように静かに現れ、静かに消える。
「こいつはサービスだ。この男の世話はこっちで預かってやるよ。魔法煙草のことが学校にバレるのは、こっちとしても本意じゃないしね————気前がいいだろ?」
シエラは挑発するように笑った。
その口調にフェンの頭は一瞬にして沸騰した。
シエラをキッと睨み、煮えたぎる怒りをぶつける。
「お前……いつか絶対に殺してやる!」
フェンは捨て台詞を吐き、怒りを抑えきれないまま店を後にした。
重たい扉が、フェンの背後で大きな音を立てて閉まる。
「ちょっと、フェン、待ってよ!」
エリナの声が虚しく響く中、フェンは振り返ることなく森を駆け抜けていった。
太陽はジリジリと、沸騰した彼の頭を焦がすように照りつける。
その足取りには、絶望の色が深く滲んでいた。
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