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第72話 新しい現実

 カリフォルニアの灼熱の太陽が容赦なく照りつける真昼時、空は青く澄み渡っているというのに、街全体が濁った空気に包まれていた。

 アスファルトから立ち上る熱気が、まるで地獄の業火のように揺らめいている。


 路地には無造作に放り投げられた生活ゴミ、壁という壁には不穏な意味を込めたスプレーアートが乱舞し、通りには打ち捨てられた車両が点々と佇んでいる。その多くはバンパーが千切れ、フロントガラスには蜘蛛の巣状のひび割れが走っていた。

 路上で横たわる人影は、果たして眠っているのか、それとも————


 耳に届くのは、遠吠えを繰り返す野良犬の声か、混濁した意識のまま天国の救いを説く女の叫び声。

 そして時折、誰かの運命を変えるかもしれない鋭い破裂音。


 ここはコンプトン。

 全米で最も危険と謳われる街の一角に、パブロ率いる『クラロワ・カルテル』のアメリカ支部が構えを取っていた。


 窓には分厚い鉄格子、塀の上には幾重にも張り巡らされた有刺鉄線————そんな要塞のような建物の一室で、アストラ家のメイド見習い————シーナは一人、激務に追われていた。


「この書類を10分で覚えて10分で仕分けしろ。出来なかったら圧縮加工したチャンドラーバットで頭の強度を試してやる」


 煙草の煙を漂わせながら、パブロは無感情に言い放つ。

 着古した黄土色の背広は、彼のこれまで超えてきた数々の修羅場を物語るかのようだった。

 死んだ魚のような冷たい目で、シーナを見下している。


 パブロの指示には、容赦というものは一切ない。

 だが、シーナは優しさを期待してここに来たわけではなかった。


 強くなるためにここに来たんだ。

 こんなことでも必要とされているだけ、アストラ家の時とは違う。


 シーナは己を奮い立たせるように深く息を吸い、書類を手に取った。

 目を皿のようにして文字を追い始める。

 ここに来て今まで同じような仕分け作業をすることが何度かあり、書類に目を通していくつか分かったことがあった。


 まず、この『クラロワ・カルテル』は、麻薬の製造・売買に関する活動を行う、筋金入りの犯罪組織だということだ。

 メキシコに本拠地を構え、南米全域に触手を伸ばす巨大組織で、マリファナをはじめとした様々な麻薬————中には違法とされる薬物に至るまで、アメリカ国内に密輸している。

 その密輸ルートは数知れず、政治家、警察、公務員————あらゆる組織とのパイプを持つ。あらゆる機関に食い込んだその影響力は、メキシコ最大と言われていた。


 悪党中の悪党だ。


 そんなとんでもない組織の中で、シーナの役割は至極単純だった。


「おいクソガキ、これもやっとけ」


 目を通していた書類の上から、雑然と追加の書類を放り投げられる。

 投げてよこしたのはボスではなく、スーツに身を包んだ、ガラの悪い若い構成員の二人だった。

 その態度からは、新入りである彼女への明らかな軽蔑が滲み出ている。


 シーナは思わず、二人をじっと見つめた。


「あん? なんか文句あんのか?」


「いえ————」


 シーナはそう言って立ち上がる。

 そして、まるでバネが跳ねたように勢いよく二人の前に躍り出た。


「ぜひ! 私にお任せください!」


「え? ああ……おう……」


 シーナは目を輝かせる。

 予想外の反応に面食らった構成員は、シーナの異常なまでの熱意に当惑の色を隠せない。

 こいつ、頭おかしいんじゃねえか、とでも言いたげな目つきで、二人はそそくさとその場を立ち去っていった。


 雑用、雑用、雑用————

 そもそも異世界の事など何も分からないため、シーナにできるのはこれが精一杯。


 だからこそ、自分にできることは、全力でやってやろうと決めていた。



 書類仕事が終わり、それをパブロに報告すると、今度は別室に連れて行かれた。

 その場所はとてつもなく汚く、荒れた部屋だった。


「1時間で掃除して来客用のスペースを確保しろ。この後来る客の待機場所がここしかない。埃の一つでも残ってたら殺すぞ。いいな」


「はい。パブロさ————」


 返事をしようとした瞬間、胸ぐらを掴まれる。


「いいか? ここにいる間は俺のことをボスと呼べ。返事は『イェス、ボス』だ」


「い、イェス、ボス……」


 パブロはシーナの襟元を掴んでいた手を乱暴に放すと、部屋を出ていった。

 こういう扱いをされると、アストラ家の時のことを思い出して、胸が少し締め付けられる。


 まだ、自分は誰からも認められていない。

 それは異世界に来ても変わらない現実だった。


 しかし、落ち込んでいる暇はない。

 探さなきゃいけないんだ。

 自分の存在価値を————誰かに必要とされるような自分だけの価値を。


 そして、いつの日か賢者様の傍らに堂々と立てる自分になるために。


 ここで泣いているようじゃ、地下の牢獄にいたあの時と同じだ。

 シーナは強く首を振り、雑念を振り払うように立ち上がった。


「さてと————」


 改めて、シーナは部屋を見渡す。


 床は時の流れと人々の足跡で黒く変色し、壁には嫌な染みが無数に広がっている。

 革張りのソファは、これでもかというくらいの埃に覆われていた。

 机の上には、山と積まれた書類の間に無造作に捨てられた煙草の吸い殻。

 灰皿は溢れ返り、腐敗した匂いを漂わせている。


 普通の人間ならば、諦めて逃げ出したくなるような惨状。

 だが————


「————婦長様だったら、これを片付けるのに10分もかからない……!」


 アストラ家の婦長、ジンの下で叩き込まれた掃除の技術が、シーナの身体には染み付いている。

 この程度なら————


 白い手拭いをきつく頭に巻き付け、袖をまくり上げる。

 見習いとはいえ、アストラ家のメイドとしての誇りを胸に、シーナの掃除が始まった。



 *



 シーナが掃除を始めて、ちょうど1時間後。

 カルテルの若い構成員に連れられて、来客が参った。


「すんません。汚いところですが————あれ?」


 慣れた枕詞を口にした構成員は、目の前の光景に言葉を失う。


 部屋は驚くほど生まれ変わっていた。

 床からは一片の塵も消え失せ、黒ずんでいたフローリングは鏡のように輝きを放っている。

 深い赤のカーテンが優雅に揺れ、まるで高級ホテルのスイートルームのような佇まいだった。


「ふん、てめぇらのような()()()()()()()には似合わん部屋だ。俺達が使ってやる」


「え、ええ……ボスがお呼びするまでお待ちください」


 案内された男は、用意されたソファにどかっと座る。

 続いて、その手下と思しき者たちが入室してきた。

 そして、最後にカルテルの構成員が入ろうとした瞬間、男が怒鳴り声を上げる。


「おい、俺の組以外のもんは入るんじゃねえよボケ。分かったらさっさと消えろ」


 来客の手下の一人が、躊躇するカルテル構成員の尻を容赦なく蹴り飛ばして追い出した。

 重たい扉がバタンと閉まる音が、静まり返った廊下に響き渡る。


 そしてシーナは————部屋の赤いカーテンで仕切られた向こう側で、身を潜めていた。


 簡単な話だ。

 部屋の半分を完璧に仕上げ、残りの汚れを全てもう半分に寄せ、赤いカーテンで隠したのだ。

 シーナといえど、1時間で部屋全体の掃除は厳しいが、半分であれば難易度は格段に減る。

 これでもパブロの『来客用のスペースを確保しろ』という指示は、クリアになるはずだ。


 その結果、シーナのいる空間は先ほどの惨状を圧縮したような有様となっていた。

 だが、建物全体に漂う「商品」の異臭が、この密やかな作戦の隠れ蓑となってくれるはず。


 シーナがそのスペースにあえて残っているのは、来客の存在が気がかりだったからだ。


 来客はコンプトンの新興ギャング『レイドス』

 シーナが目を通していた書類に載っていた。

 10分で覚えろというパブロの指示を、シーナは正確に実施していたのである。


 書類によれば、『レイドス』は最近になってボスが交代したばかりだという。

 新しいボスは武力による縄張り拡大を志向する凶暴な男で、商談中でも躊躇なく銃を使うという噂が記されていた。

 今回の取引話も、他のギャングの予定を強引に押しのけて割り込んできたものらしい。


 この危険な情報を把握しているのは、ひょっとすると書類に目を通したシーナだけかもしれない。

 だとすれば、彼らを警戒するという使命は、私にしかできないことかも知れないのだ。


 若々しい風貌のボスは、ソファに大の字で座り込むと、不敵な笑みを浮かべながら煙草の煙を吐き出していた。


「ふう……この取引が成立すれば、メキシコからのヘロインルートを俺らが独占したも同然だ。フヒヒ……これはアガるぜ」


 今日の取引の成功を想像し、機嫌が良さそうなギャングの若きボス。

 すると、その傍で軽薄そうな部下の一人が、調子に乗った口調で話し始めた。


「なあボス! 商品を確保できたらよぉ……個別に10個くらい俺に回しちゃくんねえか?」


「あ?」


「俺が今狙ってるいい感じのスケがいるんすよ。そいつをヤク漬けして、マワそう思ってるんすよ〜〜! ちょっとくらいいいっすよね!」


 下卑た笑い声を上げながら、男はボスに提案する。

 シーナは全てを理解できないまでも、その邪悪な意図だけは直感的に感じ取っていた。


「そうかそうか。そんなにその女とヤリてえのか」


「ええボス! いいっすよねえ————」


 突如として、閉め切られた室内に轟音が響き渡る。

 続いて、重たい何かが床に崩れ落ちる鈍い音。

 シーナの全身が震え、背筋が凍った。


「ガキのお遊びじゃねえんだよクソが……てめえみてえのに分けるもんなんざねえよ」


 音だけで何が起こったのかは、シーナにも想像がついていた。

 ボスに部下が撃たれたのだ。


 あんなに簡単に仲間を切って捨てるなんて————

 噂に聞いていた凶暴性は、むしろ控えめな評価だったのかもしれない。


「まあ————でも部下にすら恩恵を分けられねえってほど、余裕がねえのも考えもんだな……でも今日の取引だけじゃ、そんなに量を確保できねえし————」


 ボスは再び椅子に腰を下ろし、独り言のように呟く。

 残された部下達は、恐怖で声すら出せない様子だった。


 沈黙を引き裂くように、ボスの声が低く、悪意を滲ませながら室内に響き渡る。



「いっそ————このカルテル潰しちまうか」


「!?」



 その言葉に、シーナの心臓が大きく跳ねた。

 今から取引をしようとしている相手を潰すだなんて————正気なのか?


「ボ、ボス……相手はメキシコ最大のカルテルっすよ。それを簡単に潰すだなんて————」


 かすかな理性の声を上げた部下の言葉は、ボスの鳴らす撃鉄の音によって容赦なく遮られた。


「俺に口答えをするな————ようやくここまで来られたんだ。ここでカルテルのボスを撃っちまって、カルテルが持ってる全ての密輸ルートを俺らが牛耳れば、億万長者どころの話じゃねえぜ?」


 その言葉を最後に、部下たちは完全な沈黙に支配された。

 言いようもない、()()()()()()の生み出す恐怖が、部屋全体を覆い尽くす。


「いいねえ……本当に楽しくなってきやがった」


 不敵な笑い声が、閉ざされた空間に不吉な余韻を残す。


 シーナの頭の中で警報が鳴り響いていた。

 強引なやり方を取ってくる奴らだ。この場で突発的な暴力に走る可能性は極めて高い。


 パブロは果たして、この危険な来客の本質を理解しているのだろうか。今のままでは、彼の命が危険に晒される————


 静かに部屋を出て、パブロに伝えに行こうと廊下を走ろうとする。

 だが————そこで、ふと思いとどまった。


 私が言ったところで、信じてくれるのか……?


 大金が動く商談の場で、最下層の雑用係の言葉など、誰が真剣に受け止めてくれるだろう。

 たとえ真実を告げたところで、確固たる証拠なしでは、取り合ってもらえる可能性は限りなく低い。

 かといって、何か証拠を用意することもできない。


 ではどうする————


 奴らの思惑を知っているのは、私だけだ。

 私がなんとかしなければならないのではないか。


 シーナは踵を返し、来た道を引き返す。

 混乱する思考を必死に整理しながら、どう切り抜けるべきかを考えるんだ。


 考えろ————考えて話すんだ。



 パブロさんを救うために。


読んでくださりありがとうございます。



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