第70話 白煙の力
結局、『ロード・オブ・ウィザード』の部屋に侵入したあの後、特に騒がれることも、咎められることもなかった。
実際、貴重品を盗んだわけでもなく、何かを破壊したわけでもない。
部屋の扉が魔法で壊されていることは、何者かが侵入した証拠となるわけで、あの時に寮の廊下で出会したフェン達がそれについて疑われてもおかしくないのだが、言及されることはなかった。
不気味なほどに何もなかったのだ。
まるで、侵入されることが想定内だったかのように。
不可解で気持ちの悪い気分だったフェン、ショーイ、エリナの三人だったが、訴えられるのを待っているのもおかしい話なので、今日のところは解散して帰ることにした。
そして、その夜————
漆黒の闇が支配する深夜、月明かりすら届かない森。
虫の音や夜風に揺れる木々のざわめきが聞こえてもいいはずなのに、この『イーシルガルド』の森は、不気味なまでの静寂が支配していた。
まるで森全体が息を潜めているかのように。
そんな森の中を、フェンは警戒しながら恐る恐る進んでいた
異様な静けさは、この森に足を踏み入れることを拒絶しているかのようだった。
生暖かい風が頬を撫で、フェンの背筋を凍らせる。
(……もうすぐ、メモに書いてある地点のはず)
フェンは改めて、例の白い箱を開け、中身のメモを見た。
薄れかけた文字が、かすかな月明かりに照らされて浮かび上がる。
この森の道を30分————そう記されている。
フェンがこの森に足を踏み入れてから、まさにその時間が経とうとしていた。
『編入者狩り』の唯一の戦利品。
結局箱のこともメモのことも、ショーイとエリナには話していないが、これを生かさない手はない。
メモの示す場所がフェンの家から近かったことは、不思議な偶然と言えた。
一体、この先に何があるのか。
あの首席の家だろうか。
いや、家の住所をメモに書いて持ち歩くものだろうか。
首席はこの箱のことを生死に関わる大事なものだと言っていた。
絶対に中を開けるなとも。
ということは、中に入っているものを誰かに見られれば、首席のあいつは命の危険に晒されるということ。
明確な弱みだ。
現首席を引き摺り下ろすチャンスだ。
自身の野望に一歩近づいたことに心を躍らせる。
しかし、この不気味すぎる森を本当に進んでもいいのかという懸念もあった。
そもそも現首席すら手に負えないような事柄に、フェンは向かおうとしているのではないか。
そう考えれば、途轍もなく危険な行為だ。
言い表しようもない恐怖が、フェンの体にまとわりつく。
だが、決めたんだ。
カナを救うために、どんなことでもやってやろうと決めた。
だから————ここで立ち止まるわけには行かないんだ。
フェンは震える足を奮い立たせ、前へと歩を進める。
不自然な霧が立ち込め、まるで意思を持つかのように絡みつき、方向感覚を狂わせようとする。
それでも、細く続く一本道を黙々と進む。
すると————濃霧の向こうに、ぼんやりとした温かな光が漏れ始めた。
「あれは……?」
近づくにつれ、建物の輪郭が霧の中から浮かび上がってきた。
風化した部分がどこにも見られない、このような森の奥深くには似つかわしくない新築の建物。
何かの店のような外観だった。
しかし、商店なのに全く人気がないという違和感は、フェンの恐怖を一層増大させた。
道は行き止まりで、この建物以外に進む場所はない。
フェンは震える手を握りしめ、意を決してその建物へと歩み寄った。
灯りがついているということは、誰かが中にいるはずだ。
扉に手をかけ、ガチャリと開ける。
すると途端に、白い煙が部屋の中から漏れ出した。
今まで嗅いだことのない異臭が鼻を突く。
思わず吸い込んでしまい、フェンは激しく咳き込んだ。
鼻腔に突き刺すような痛みが走る。
目を開けると、煙で充満した部屋の奥に、一つの人影が座っていた。
「————どんな奴が来るのかと思っていたら、チワワみたいな子犬が来るとはね」
甘く溶け込むような声が、煙の向こうから響いてくる。
その声音には、どこか人を惑わせるような妖艶さが混ざっていた。
フェンは立ち込める白煙を手で払いながら進むと、そこには魔女を思わせる黒い女が悠然と座っていた。
褐色の肌は柔らかな明かりに照らされて艶めき、紫色に染められた唇が微かに笑みを浮かべている。
黒い丸い帽子の下からは、月光のような銀色の髪がこぼれ落ち、紫水晶を思わせる瞳が煙越しにフェンを見つめていた。
女は右手に繊細な模様の刻まれた金属の棒を持ち、その先端からは薄い白煙が螺旋を描きながら立ち上っている。
「ようこそ、ここは『ドクター・パープルサムズ』————地元のスモークショップほど品揃えはないが、あんたの望むものがある場所さ」
「……!」
煙で霞んでいた視界が徐々に晴れ、部屋の様子が明らかになってきた。
深紅のビロードに覆われた二つのソファが、黒檀でできた長机を挟んで向かい合うように配置されている。女はその一方に優雅な姿勢で腰かけていた。
壁際の棚には、見たこともない植物の束が干されていたかと思えば、樽職人の技が光る巨大な酒樽が並び、さらには得体の知れない器具や道具が雑多に置かれている。
その無秩序な配置が、部屋の不可解な雰囲気を一層強めていた。
そして————煙に紛れて気づかなかったが、褐色の魔女の両脇には二人のメイドが静かに佇んでいた。
一人は、人ならざる者の証である獣の耳を持つ亜人。
もう一人は特に身体的特徴のない人間みたいだが、どちらも表情を微動だにさせない。
どうしてメイド……?
商館なことには恐らく間違いないが、一体何を売っているところなんだ……?
「まあ、座んなよ。子犬に出すような茶があるわけじゃないが、玄関でずっと立ってられても困るからね」
魔女めいた女性が柔らかな手つきで招き入れる仕草に、フェンは逃げ場を失う。
ここまで来て、今から逃げ出すという選択肢はない。
フェンは促されるままにソファへと腰を下ろした。
革張りの座面が軋むような音を立てる。
「ここは、一体何なんだ……?」
フェンは一番の疑問を口にする。
メモに書いてあった場所はこんな森の奥地で、いかにも怪しい奴らが中にいた。
疑問を持たない方が不自然だ。
「見ての通り、店だ。誰かにものを売って金を得る。この世で最もシンプルな仕事をする場所さ」
女は意図的に核心を避けるかのように、当たり障りのない返答を返す。
求めている答えはそんな表面的なものではない。
フェンは懐から例の白い箱を取り出し、女に突きつけた。
「この箱————中に入っていたメモにこの場所が記されていたんだ。これを持っていたのは、魔法学校『ウィンダム』の首席、『ロード・オブ・ウィザード』だ。この場所と『ロード・オブ・ウィザード』の関係は、一体何だ……!?」
フェンは一行に言いたいことを全て詰め込んで、目の前の褐色の魔女にぶつける。
こいつらの正体をはっきりさせて、『ロード・オブ・ウィザード』の弱みを握るんだ。
対して、褐色の魔女は優雅な仕草で金属の棒を口元へと運び、深々と息を吸い込んだ。
繊細な模様が刻まれた金具の先端、不自然に上方へ反り返った部分から、かすかにチリチリと音が立つ。
そして、紫に染まった唇から、白い煙が幽玄な螺旋を描きながら立ち上っていく。
金属の棒から煙を吸っているのか……?
何をしているんだ……?
「その箱に入っているメモは、言っちまえばおまけだ。本体はもう一つの方だよ」
シガレットカードみたいなもんさ。ほら、ホークス・ワグナーとかの絵が描いてあった————いつの時代の話だよって感じだけどね。
褐色の魔女は意味の分からないことを付け加えている。
このメモがおまけだと?
じゃあ、箱の中身で重要なのは、この細い髪の棒……なのか?
フェンは、その棒を一本取り出して、まじまじと見つめる。
「そいつの使い方が分かるかい?」
「……?」
使い方?
何かに使うものなのか?
魔法の触媒か? それとも何かの植物の肥料?
思案に暮れるフェンの前で、褐色の魔女は再びキセルに口づけると、艶めく紫の唇に指を添えた。
「オレンジの方を咥えてみな。噛んじゃいけないよ。唇の先で挟むように、やさしくだ」
妖艶な笑みを浮かべながら、魔女は促す。
フェンは躊躇いながらも、白い棒のオレンジ色をした先端を、そっと唇で挟んだ。
これが罠なのではないか、何か企まれているのではないか————そんな警戒心が頭をよぎる。
しかし、目の前の謎めいた物体への好奇心が、それを上回っていた。
褐色の魔女が後ろの猫耳メイドに目配せすると、メイドは優雅に会釈して前に進み出る。
右手の指をパチンと鳴らすと、無詠唱の炎魔法が指先に小さな火花を灯した。
その炎を、フェンの咥える白い棒の先端へとゆっくりと近づけていく。
「火をつけてやるから、そいつを吸ってみな————」
魔女の言葉で、メイドは炎を棒の先に添える。
温かな魔法の炎を間近に感じながら、フェンは恐る恐る吸い込んでみた。
すると————
「————うっ!? ゲホッ————ゲホッゲホッ! なんだこれ!?」
灼熱の気体が喉から肺へと流れ込み、これまで経験したことのない激しい違和感が全身を貫く。
体が必死に警告を発している————これは明らかに、人体に入れてはいけない何かだ。
「ど、毒を盛ったのか……?」
「あー、こいつを毒とは呼びたくないね。私も吸ってるんだから」
褐色の魔女は悠然と金属の棒を吸い、近くの入れ物に燃え滓を落とした。
そして、フェンが取り落とした箱を拾い上げ、中から白い棒を取り出して見せる。
「こいつはシガー、『煙草』だ————いや、こっちの世界に準えて言えば、『魔法煙草』ってところかな」
「まほう————たばこ?」
初めて耳にする単語に、フェンは思わず聞き返す。
すると、褐色の魔女の唇に、意味ありげな笑みが浮かび上がった。
「すなわち、そいつは魔道具ってやつになるらしい。あんたの魔法に、なにか変化が起こったかもね」
フェンは呼吸を整えながら、自分の手のひらをじっと見つめた。
すると、徐々に自分自身の変化に気づき始める。
頭はクラクラとしながらも、そこまで気分は悪くない。
不思議なことに体はこれまでにない解放感に包まれていた。
視界がクリアになったようにさえ感じられる。
日中は学校に行っていて、体はそれなりに疲労しているはずなのに、その疲労感も眠気もどこかへ行ってしまった。
そして、胸の奥がじんわりと熱を帯びていて、どういうわけか一向に収まる気配を見せない。
これが、この魔道具の効果……?
魔法に、変化をもたらす————
フェンは何度か手を開閉し、その感覚を確かめるように握り締めた。
好奇心に突き動かされるように、急いで通学用のバッグに手を伸ばす。
取り出したのは、普段使い慣れた杖と、昨日の課題である魔法陣の描かれた羊皮紙。
それらを目の前の机に広げ、杖を構えた。
『アース・ランプ』
呪文を唱えた時の手応えが明らかに違った。
魔法陣が目が潰れるのではないかというくらいの光を放ち、その衝撃で机が軋むような音を立てて揺れる。
上空に生成されたのは、昨日の不格好な土の塊とは似ても似つかない、まるで鉄球のように均一に圧縮された完璧な球体だった。
「……まじかよ」
フェンが杖を下ろすと、土塊は重力に従って落下し、机の上に鈍い音を響かせた。
魔法陣の輝きが薄れゆく中、羊皮紙の端に計測結果が浮かび上がる。
『魔力A+、魔法精度A-、行使速度A+』
そこに記されていたのは、Aクラス所属の魔法使いと言われてもおかしくない数値だった。
これまでの自分の限界をはるかに超える力の向上に、フェンの心臓は高鳴りを覚えた。
魔力が何倍にも増幅されている感覚が、体の芯まで染み渡っていく。
この魔道具は……すごい……!
フェンは頬を上気させ、興奮を隠せずにいた。
「今はまだ一本も吸えてないからそんなもんだが————そいつは、吸えば吸うほど体に浸透し、より強い魔力を引き出せる」
まだ試作品の段階だったが、効果は見込めるようだな————
褐色の魔女は満足げに頷いていた。
彼女は草の塊のようなものを取り出し、金属の管の先に詰めて火を点ける。
立ち昇る煙は、間違いなく先ほどフェンが体験したものと同じ『魔法煙草』の気配を漂わせていた。
この白い棒も、彼女の金属の棒もおそらく『魔法煙草』であり、こいつらの商品。
この商人達は『魔法煙草』を密かに売り捌いている。
そして、これを所持していた『ロード・オブ・ウィザード』————アイスクラッドはここの顧客。
「こいつは……『ロード・オブ・ウィザード』のとんでもない秘密だ。うまく使えば————」
フェンの脳裏に、計算された悪意が渦を巻き始めた。
この秘密をうまく使えば、確実にあの首席を陥れられる。
アイスクラッドはここの商品を服用していて、偽りの力で『ロード・オブ・ウィザード』の座を手に入れたのだ。
服用していた直接的な証拠こそないものの、それは問題じゃない。
この魔道具の存在が学院中に知れ渡れば、突如として頭角を現した田舎者は、真っ先に疑いの目を向けられることになるだろう。
そうすれば、あいつの地位も————
フェンは今までにないくらいの集中力を発揮し、脳を回転させ、悪どいアイデアが泉のように湧き出る。
その様子を、褐色の魔女は興味深そうに見ていた。
「ふうん……子犬は子犬でも、飢えた子犬だったわけだ————だが、牙を剥く相手は考えたほうがいい」
魔女は釘を刺すようにそう告げた。
こっちの思考はお見通しってわけか。
フェンも負けじと眉を寄せ、反抗的な視線を褐色の魔女に向ける————魔道具のおかげで、いつもより気が大きくなっているのかもしれなかった。
「お前達は、あの『ロード・オブ・ウィザード』の方を庇うってのか?」
「そりゃ大事な顧客だもの。商人として、商売を奪われたくはないね————それにあんただって、その男一人を貶めるだけじゃ足りないのだろう?」
魔女の口角が意味ありげに釣り上がる。
その通りだ。
フェンが勝たなくてはならない相手は現首席のアイスクラッド一人ではなく、自分より序列が上の生徒を全員追い抜かなければならない。
暗い商館に漂う甘い煙の香りが、二人の間に立ち込める緊張を際立たせる。
魔女は相変わらず余裕げな表情を崩さないが、その瞳の奥には何か計算するような光が宿っていた。
まるでフェンの心の奥底に潜む野望すらも見透かしているかのように。
「そこでだ。この魔道具はまだ試作品でね。服用した効果を確かめるテスターが欲しいところだったんだよ」
褐色の魔女は立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩み寄る。
魔女の影が、室内の淡い照明に揺らめきながら、フェンに近づいた。
「————魔道具を使用した結果、『ロード・オブ・ウィザード』になりましたってんなら、この商品にもいい感じに箔がつくってもんだな」
魔女は肩を竦ませながらそう言い、流し目でこちらを見る。
本気で思っているのか、冗談なのか、フェンにはその女の考えていることが分からない。
踵の高い靴が木材の床に当たり、カツ、カツと音を立てる。
やがて————褐色の魔女はフェンの正面に立った。
「どうだい? この話、乗ってみないかい?」
魔女は色黒い右手を差し伸べる。
甘い蜜のようでありながら、毒を含んでいるのではないかと不安になる、妖艶な笑み。
そこには商人としての打算なのか、それとも何か別の思惑なのか、何かが含まれている。
フェンは、試されている————
怪しい商人に怪しい魔道具————これらの毒を喰らうことができるかの度胸を。
そして、毒を喰らってでも目的を達成できるかの執念を。
答えは、考えるまでもなかった。
「ああ————やってやろうじゃんか」
フェンは躊躇なく手を取った。
契約成立だ。
カナを救うために、どんなことだってやろうと決めている。
今、目の前に差し出されたチャンスは、決して逃してはならない運命の分かれ道のように思えた。
「自己紹介が遅れたね————私はシエラ。好きなものは薬と毒、そしてこいつね」
「僕は————フェンだ。フェン・ニルヴァータ」
森の奥深くに佇む、不気味な建物。
フェンは、『シエラ』と名乗る魔女と契約を交わした。
それが、フェンの学校生活を波乱に満ちたものに変えるとは、まだ知らなかったのである。
読んでくださりありがとうございます。
今作を読んで、なんかおもろそうやんと少しでも思ってくれたら↓の★★★★★を押して応援してくれると嬉しいです!
ブックマークもお願いします!
あなたの応援が、作者の更新の原動力になります!
よろしくお願いします!




