第67話 校舎裏の魔法使いと獣
校舎裏。
生徒達の喧騒はここには届かず、沈黙だけが支配していた。
積み上げられた古びた教科書の山が風に揺られ、使い古された魔法の杖や箒が束ねられて置いてある。
まさに、学校生活の裏側といったところだ。
リルはそこにある適当な木箱に腰を下ろし、煙草を吹かしていた。
銘柄は『マルボロ』
昨今のアメリカでは、煙草の規制が厳しく値段も高い。
だからこれは、パブロのカルテルで麻薬と一緒に密輸している物を流してもらっている、所謂、闇煙草と言われる代物だ。
粗悪品も多く、物によっては中身がスカスカなこともあるが、どうやら今回は当たりのようだ。
煙が肺の奥まで染み渡り、ゆっくりと吐き出され、薄暗い空気に溶けていく。
タバコを吸う理由なんて、もはや存在しない。
それは呼吸のように、血液に溶け込んだ日課でしかなかった。
人が飯を食い、水を飲むように、リルはタバコを吸って生きながらえている。
異世界に転移して、魔法学校に入学しようが、この体質は変わらない。
この身に流れる血は、綺麗にも汚くもならなかった。
「あーー、戻りたくねえな……」
別にアイスの虫唾が走る演技が見たくないとかいう話ではない。
単純にこの学校の空気が合わないのだ。
全員が恵まれている。
自分のしたいことをしている。
誰も死なないし、誰も不幸にならない。
誰も血で手を汚すことを強要されない。
そんな理想郷のような空間が、却って居心地の悪さを募らせる。
この魔法学校に漂う生温かい空気が、リルには耐え難かった。
自分は、棘だらけの環境でこそ生きられる。
タバコの先端が静かに燃え続け、赤い光点が闇の中で明滅する。
その時————横から声をかけられた。
「————おい、ようやく見つけたぜ」
影から現れた複数の人影が、日陰の空間を更に暗くする。
その男達は全員が魔法の杖を構え、その姿勢からは明らかな敵意が滲んでいた。
リルは煙を吐きながら、面倒くさそうに視線を上げる。
「お前を探してたんだよ。教室から出ていって一人になるのを見計らってなぁ……」
眉間に深い皺を寄せ、憎々しげな視線を向けてくる男。
同じクラスの人間みたいだが、リルの記憶には一片も残っていない顔だった。
「俺は生徒序列第4位のアルバス・ダンフォード。魔眼持ちの魔法使いの家系だ。俺の眼でお前を見ていたが、お前には全く魔力の影が映らない。つまり、Aクラスに相応しくない雑魚だということだ」
第4位の男————ダンフォードはリルに指を差し、侮蔑の言葉を投げつける。
奴の瞳は、魔眼特有の虹色の輝きを放っていた。
その周りでは第4位の取り巻き達が、ハイエナのように下卑た笑いを漏らしていた。
「お前のような奴が、俺と同じクラスで、同格だと思われるのは実に不愉快だ。だからここで実力の差を証明してやろう————なぁに、ここで痛めつけて数週間ほど学校を休みでもすれば、Aクラスからは降格だ。それ以降はお前に何もしないと誓ってやろう」
まあ、お前の実力じゃ何もしないでも降格する。遅いか早いかの違いだ————
ダンフォードとその取り巻き達の嘲笑が、校舎裏に響く。
「それと……今年の首席のあいつも魔力を感じなかった。お前とも仲がいいみたいだし、もしかしたら————ぐはははは、面白くなってきたぞ?」
何もかもが思い通りになることを想像し、大口を開けて盛大に笑う。
リルの次はどうやらアイスを標的にするらしい。
気がつけば完全に包囲されている。
丸腰のリルに対し、ダンフォードと仲間達は全員が杖という名の武器を構えていた。
一見すれば、これは絶体絶命の状況に見えたかもしれない。
「さあ、お前にもう逃げ場はない。観念し————お前、何を笑っている……!?」
リルの顔には、悪魔のような笑みが浮かんでいた。
茶髪の下から覗く瞳が、獣のように鋭く光る。
「こういう手合いを待ってたんだよ。やっぱりこんな場所でも、血に飢えた獣ってのは惹かれ合うもんだ……けどな、てめえらはまだまだだ。匂いが1ミリの煙草並に薄いんだよ」
ゆっくりと立ち上がり、首を鳴らす音が静寂を切り裂いた。
久しく感じなかった高揚感が、全身を駆け巡る。
退屈していた血液が、棘ついた空気によって踊り出す。
学校ごっこで鈍った体には、いい運動だ。
「————誰を痛めつけるって? やってみろ。相手してやる」
「この女……減らず口を叩くな!」
全員の杖がリルに向けられ、詠唱の声が重なり合う。
魔法の詠唱は、魔法使いにとって厳正で不可侵な儀式。
しかし、そんな常識はリルには通用しない。
「炎の精霊よ、私に宿り————おわあっ! お前っ!!」
リルの動きは蛇のように滑らかで、そして予測不能だった。
詠唱の言葉が終わる前に、その懐に潜り込み、容赦なく蹴撃を叩き込む。
魔法使いの一人は、その一発で声もなく気絶した。
「お、おい! 詠唱中に攻撃とは卑怯だぞ!」
「そんなルール誰が決めたんだよ。あ?」
「こんの……!」
ダンフォードは余計に苛立ち、返り討ちにしようと再び杖を向ける。
詠唱は完了しているため、あとは打つだけだったのだが————
リルは既に気絶した仲間を人盾として掲げていた。
味方を盾にされるとは思っておらず、ダンフォード達の動きが固まった。
「お、お前……!」
リルが、たじろいだ男達の隙を逃すはずがない。
その盾は投擲武器と化し、残りの連中に叩きつけられる。
そして、大きく怯んだ敵に、リルは飛び蹴りを喰らわせた。
至近距離での格闘戦。
近づかれたその時点で、魔法を放つ間合いではない。
魔法使いにとって、最も無力な距離だった。
「ごほおおっ!」
「ぐああああ……!」
リルの動きは獣のように効率的で、そして人間離れしていた。
拳は急所を、足は関節を的確に破壊していく。
二人、三人と、意識を刈り取られていく同胞を前に、ダンフォードの瞳が恐怖に震えた。
(この女……魔力は一切感じないのに……なんなんだこれは!?)
どうして魔法も使っていない丸腰の女がこんなにも強いのか————
魔法使いの常識を覆す存在が、そこにはいた。
気付けば、残されたのはダンフォード一人。
かつての傲慢な態度は、完全に崩れ去っていた。
「ちょ、調子に乗るなよ!? 俺の家系の魔法適正は雷属性魔法だ。俺の雷を喰らったら、一生歩けない体になっちまうぞ!?」
「だからさぁ、そうじゃないんだっつうの」
ダンフォードの脅しの言葉を前にしても、リルの足取りは軽やかだった。
まるで子供の威嚇を聞き流すような、そんな余裕の表情。
それはダンフォードの自尊心を、更に深く傷つけていく。
「う、うおおおおおっ!!」
ダンフォードが怒りのままに突進する。
魔法の必中距離まで接近し、杖から魔法を放った。
叫び声と共に放たれた渾身の魔法。
しかし、リルの体は既にその軌道を読み切り、いとも簡単に躱していた。
「な、何ぃ!?」
それだけで勝負は決した。
リルは接近戦の間合いにまで入り込み、杖を持つ腕を掴む。
そして、するりと杖を奪った。
その動作には無駄が一切ない。
まるで、幾度となく人の命を奪ってきた者の所作のように。
リルはそれを右手でナイフのようにして持ち、ダンフォードの目を突こうと振りかぶった。
「……っ!!」
————それは、寸前のところで止められる。
ダンフォードの目前で止められた杖先。
それは、まるで死神の鎌のように、彼の命を刈り取らんとしていた。
「ハッ……ハァッ……!」
リルの目は、本物の殺気を帯びていた。
今にもその杖を、目から後頭部まで貫通させてくるのではというほどの威圧感。
それは学校という檻の中で育った魔法使い達が、決して知ることのない。
生きるか死ぬかの世界の目だった。
「獲物を抜いたら殺るか殺られるかだ。よぉく覚えておくんだな」
リルはそう言った後、杖————ではない方の左手で、手刀を男の首に直撃させ、意識を刈り取った。
倒れた体が地面に触れる音が、この一方的な戦いの終わりを告げる。
校舎裏に再び静寂が戻り、ただ煙草の煙だけが、この場の証人として空へと消えていった。
「殺らなかったんだな」
すると、よく知った声が後ろから聞こえてきた。
校舎の影から姿を現したのは、アイスとセラフィリア。
アイスは先程までの優等生の雰囲気ではなく、いつもの胡散臭い詐欺師に戻っていた。
「生徒をヤったら大事になる。だからヤるなって言ったのはてめえだろうが」
リルは肩をすくめ、不機嫌そうに顔を背ける。
この学校で信仰を集めようとしているのに、その対象者を殺してしまっては本末転倒だ。
リルもそんなことは十分に理解していた。
「————にしても、このザマだ。第3位のスカし野郎もそうだが、てめえに反抗しかねない奴ってのは少なからずいるわけだな」
リルは、倒れた生徒達を冷ややかな目で見下ろす。
こいつらはリルの次にアイスを標的にしようといていた。
放っておけば、アイスに歯向かっていたのは明白だ。
「確かにAクラスの中にも、友好的に接してくる者と、興味がないか、むしろ敵対視している者、大体半分くらいの割合だったな。これが学校全体となれば、余計に割合は減るだろうな」
ましてや、命を賭けて従う者など、さらに少ないだろう。
セラフィリアも同じ懸念を抱えているようだった。
「どうするアイス。いっそ『賢者』だって言いふらしちまった方が早いんじゃねえのか?」
賢者を崇拝する者たちは必ずいるはずだ。
賢者であることを前面に押し出した方が、信奉者を集めやすいに決まっている。
肩書きを利用しない手はない————そう思えた。
だが、アイスは何言ってんだと言わんばかりに、眉を顰める。
「てめえ、目の前に『俺が神様です〜』って現れた奴を信じて、命を賭けようと思うかよ」
「……確かに」
その返答に、リルもセラフィリアも言葉を失う。
今や賢者の存在は、ほとんど伝説と化していた。
そんな曖昧模糊とした存在を、現代の魔法使い達に信じさせることなど至難の業だ。
そもそも、偽物の賢者であるアイスには、その証明手段さえない。
「じゃあどうすんだよ〜、今やったみてえにボコって従わせんのかぁ?」
「青いぜリル……確かに暴力ってのは昔から人を従わせんのに優秀な手法だが、今の時代それも古臭え。俺達は石槍を持つ原始人じゃなく、フラスコを持った科学人のはずだ」
アイスが人差し指を立てる仕草には、なにか確信めいたものが感じられた。
その顔に浮かぶ不敵な笑みは、既に勝負の結末を見通しているかのようだった。
「大丈夫だ。今日の夜には仕掛けが動き出す————俺達は待っているだけでいいのさ」
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