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翌朝、智樹は友人二人と連れ立って登校していた。校門近くに差し掛かった所で、速足で歩く薫が智樹達の脇を掠める。薫は不意に踵を返し、智樹の顔を見遣った。

 「おはよう」

 智樹に向かってそう言ったかと思うと、直ぐ様身を翻しスタスタと歩き去ってしまった。

 智樹の両脇に居る友人二人は狐にでもつままれた顔をしている。

 「なあ、俺の聞き間違いかと思うんだけど、一ノ瀬のヤツ、今おはようって言わなかったか?」

 「お前にもそう聞こえたか。俺もたった今、自分の耳を疑ってた所だったんだ」

 「二人とも何呆けた事言うとるんじゃ。そりゃ、朝はおはようじゃろ。これがもし、こんばんわじゃったら俺も変だと思うが、朝だからおはようで合うちょるじゃろう」

 「莫迦だなぁ。俺達はそんな事を言ってるんじゃ無くて、あの年中不機嫌そうな顔してる不愛想女が、他人に挨拶したって事に対して耳を疑ったって言ってるんだ」

 「お前達はどうやら一ノ瀬を誤解しとるんじゃねえか?あいつは人付き合いが下手なだけで、話してみると案外いい奴かもしんねえぞ」

 「これまでに何度も話し掛けて悉く無視され続けてた奴が何言ってんだよ。話し掛けたって無視されるんだから真面に会話すら出来ねえ。そんなんだから、いい奴かどうかなんて図り様が無えよ」

 友人二人は笑った。

 智樹はそんな二人の態度にもどかしさを覚えた。同時に、昨日までの智樹自身も、二人と同じ色眼鏡で薫を見ていたと思うと汗顔の至りである。

 教室に入ると薫は既に着座しており、また何時もの如く仏頂面で窓の外を眺めている。

 チャイムと共に入室した高梨が薫の机の前に躍り出て快活な挨拶をした。薫は高梨を一顧だにせずにべもない。気落ちした高梨がガックリと肩を落としながら真後ろの席に着座した。

 薫はそんな高梨の気持ちなど素知らぬ振りをし、相変わらず窓の外を眺める。

 つと、薫の唇が微かに動くのを見た。

 「おはよう。高梨さん」

 それは本人ですら声に出したか分らぬ程の囁き声だったから、当然高梨の耳に届く筈も無かった。

 智樹は薫のそんなささやかな変化を遠くから嬉しそうに見ていた。昨日までの薫であれば、高梨など手で蚊でも払うかの様に邪険に扱っていただろう。

 そんな智樹を憎々し気に見つめる視線があるのに、当の智樹はまるで気付いていない。

 薫から痛め付けられた傷が治らぬまま登校した桜井である。智樹の斜め後ろの席から鋭い眼光を向けている。智樹があんな気狂いじみた女に優しい目を向けているのが憎くて堪らないのだ。

 桜井は中休憩の折に廊下を歩いていると、遠くから友人に囲まれて此方に向かって歩いて来る智樹を見た。このままではすれ違い様、近距離で腫れの残る無様な顔を見られるかもしれない。慌てて他のクラスに逃げ込もうと思案するも、移動教室の為か、どの教室も鍵が掛かっている。そうこうしている内に智樹との距離はどんどんと縮まる。桜井は逃げるのを諦め、窓際に身を寄せると智樹には背を向ける形で俯き加減で立った。智樹は桜井に気付かなかったのか、何事も無かったかの様に通り過ぎた。

 桜井はホッと一息つくも、気付いて貰えなかった寂しさも微かにだが感じていた。「どうてこんな男の一挙手一投足に、この私が一喜一憂しなきゃなんないのよ」と悔しくなる。そんな事を思ったのも束の間。智樹は俄かに踵を返し、友人達の輪から離れた。桜井は智樹の行方を追ってなかった為、智樹が踵を返し、此方へ向かって駆け出したなど露程も知らない。

 桜井の耳に大きな足音が響く。足音は着々と桜井に迫る。桜井は足に根が生えた様に動けないでいる。女の勘とも言おうか、足音の主が誰であるか、その姿を見ずとも分かってしまったからだ。

 足音が桜井の背後でピタリと止まる。

 「おう、桜井や。怪我の具合はどうじゃ」

 にこやかな顔で智樹は言った。

 桜井は、「あなたに顔を見られたくないが為に、こうして背を向けて遣り過ごそうと頑張ってたのに、どうしてそれが分からないの。この無神経男」と怒鳴りたくなるのを必死に抑えた。そんな気持ちに相反して、智樹が自分を気に掛けてくれて、わざわざ引き返してくれたのが嬉しい。

 「こんなのどうって事ないわ。放っておいて」

 「そうか。だったらええんじゃが。まあ、何か不自由があれば遠慮無く言うちょくれ」

 「フン。あんたの助けなんか要らないわよ」

 「おお、恐いのう。まあ、そんだけ啖呵も切れりゃ心配無さそうじゃ」

 智樹は颯爽と去って行った。

 桜井は智樹の姿が視界から消えたのを見るや、へなへなとへたり込んだ。

 自分の愚かさには、ほとほと嫌気が差す。どうして素直に「心配しくれてありがとう」って言えないのだろう。心配してくれる相手に対しても、つい意固地になってしまうのが、この桜井の悲しい所である。


 昼休みになると薫は、購買所でパンとコーヒーを買い中庭に出た。風雨に曝られ腐りかけているガーデンベンチに座る。この今にも朽ちて壊れそうなベンチを好んで座る生徒は、薫を於いて他に居ない。真新しいガーデンベンチはいつも満席なのだが、これらのベンチとも隔たりのがあり、中庭の隅の比較的寂しい場所にあるこのベンチは、いつ来ても空席なのだ。

 樫の木をぼんやりと眺めながらパンを口に運ぶ。薫は喧噪から遠ざかっているこの場所が好きだった。食事を終えた後、うたた寝をするのが好きだった。

 しかしこの日は何時もと違っていた。先程から、ちらちらと視界に入っているのを無視をしているのだが、高梨が弁当箱を持ったまま方々を駆け回っている。

 「あっ」

 高梨は薫の姿を見つけ、思わず声を上げた。

 喜々として駆け寄り、薫の斜向かいに立つ。

 「一ノ瀬さん、ずっと探してたんだよ。ねぇ、一緒にランチ食べましょう」

 「あんた、私と一緒に居るとこ桜井さん達にでも見られたら困るんじゃないの」

 「私の事心配してくれるの?一ノ瀬さんってやっぱり優しいんだね。私は桜井さん達のグループを抜けるって決めたから、もう気にしなくて良いの。だから隣に座って良いかな?」

 「勝手にすれば」

 「うん。勝手にするね」

 高梨は飛び跳ねながら薫の隣に座った。つっけんどんな言い方ではあったが、高梨にとっては、それが友達と認めてくれた様に思えて嬉しかった。高梨はおしゃべりな女である。薫にクラスメイトや家族の笑い話を間断無く一方的にし、適当に相槌をする薫を余所に、一人でげらげら笑っている。薫はこの賑やかな女が段々と可笑しくなった。高梨はそれを見て、自分の話が可笑しくて笑ってくれているものだと勘違いし、更に調子付いた。薫は不思議と平素一人きりで昼休みを過ごす時には得られなかった居心地の良さを感じた。こういうのを友と云うのかと、ぼんやり樫の枝葉から漏れる光を見ながら思った。

 その日から薫と高梨は昼食を共にするのが当たり前となった。これまで、人を近付けなかった薫にとっての大きな変化と言って良いだろう。

 薫の他にもう一人、この数日の間に身辺が、がらりと変わった人間が居る。

 桜井である。桜井は一ノ瀬に完膚なきまでに叩きのめされたが為に、その求心力を失い孤立していた。それだけに留まらず、これまで虐げられて来た股分達が、ここぞとばかりに弱った桜井に対して仕返しをするべく何やら下らぬ策謀を巡らしている。

 凡愚な元股分達は、その密談を桜井に隠れて、昼休みの裏庭でコソコソとしているのだが、元股分達が教室から示し合わせた様に一斉に居なくなるのだから、急に自分を避ける様になった彼女達の動静から勘の良い桜井には大方の予想は付いていた。実際にその場に行き、物陰に隠れて聞き耳を立てると案の定、そうであった。

 日頃の股分達への接し方が良くなかったのだから、これも自業自得である。そうして掌を返す股分達の裏切りに、友達じゃなかったのかと思わず感傷的になりそうな自分を叱咤する。この問題は桜井自身が一人で解決せねばならなぬのだ。

 終礼が終わり、帰り支度をしている桜井の席の前に、元股分の下田が立った。

 「桜井さん。ちょっと顔かしてくれるかしら」

 下田は腕組をし、眼下の桜井を見下ろしながら、尊大な態度で顎をしゃくった。。

 「ええ。この間、一ノ瀬さんを呼び付けた河川敷まで行けばいいのかしら?」

 桜井は机の中の教科書を鞄に詰めながら平坦な声で言った。実の所、桜井は当てずっぽうに言ったのだが、下田は密談を聞かれていたのか、将又、寝返った者が居るのかと大きく狼狽している。

 「あら、適当に言っただけなんだけど、どうやら当たってたみたいね」

 「莫迦にしやがって。まあ、それでもこれまでの行いを、床に頭を擦り付けて泣きながら詫びるってんなら、考え直してやってもいいわ」

 これまで、せこせこと桜井の歓心を買うのに執心していた下田は、離れた場所から二人の様子を伺う仲間の威を借りて居丈高である。桜井はそんな下田を莫迦な女だと鼻で嗤った。そんな奴に頭を下げる位なら戦って倒れる方がましだ。

 下田は桜井が逃げぬ様、ガッチリと肩が触れ合う距離を保ちながら河原を目指した。桜井は鞄を脇に挟みスカートのポケットに両手を突っ込んだまま大股で泰然自若と歩く。

 河原まで数百メートルの所で、道中押し黙っていた下田が俄かに口を開いた。

 「一ノ瀬に負かされてから、あんたはすっかりあいつにびびっちまったのか、突っ張らなくなった。派手な化粧を止め、急に清純派振る様になりやがって、みっともねえたらありゃしねえ。私はこんな奴に今まで顎で使われてたかと思うとほとほと情けなくなる」

 下田は吐き捨てる様に言った。

 「そんなに私が羨ましいんだったら、あんたも、そんな派手な化粧、今直ぐ止めてみたら?」

 桜井が化粧を薄くする様になった理由は、薫に負けてこれまでの様に堂々と突っ張れなくなったからでは無い。智樹が派手で粋がってる女は嫌いだというのを、偶然耳にしてしまったからだ。話を聞いたその日に、桜井はこれまで愛用していた化粧道具の一切を捨てた。

 好きな男の趣味に合わせて、身形を変える女には虫唾が走ると嫌悪していたが、そんな女に身を窶す自分はとんだ滑稽者だ。桜井が毳々しい化粧を止めた事に関して、未だに智樹が何も言ってくれないのが腹立たしく焦れったいのだ。

 二人は石段を下り、河原へ降りた。橋脚の陰から、木刀を持った女衆十人程が桜井の周りを取り囲む様にしてにじり寄った。どれも知った顔である。この橋梁の下というのは、藪が死角となり、人目には付きにくい。頭上を走る電車の轟音もあり、叫び声を上げたとしても、近隣を歩く者の耳には届かない。助けが来る見込みは無い。ほんの数日前は桜井主導の許、ふんぞり返って薫を取り囲んでいたのに、今は自らが嘗ての股分達に取り囲まれ、私刑を受ける側となった。桜井は袋叩きに遭うまでは予想していたのだが、その人数は精々四、五人であろうと高を括っていた。自分を袋叩きするのに、その倍以上の人数が集まっているのに、悔しさを感じた。女衆は口汚く桜井を罵った。大人数に囲まれて罵られる恐怖に桜井は気が狂いそうなっていた。スカートのポケットに両手を突っ込んだまま、虚勢を張って女衆を睨んで必死に対面と保とするが、手の震えは一向に止まない。早く手の震えを止めなければと、思えば思う程、その焦りが虚しく空回りするばかり。集団に囲まれて、全く動じなかった薫を今更ながら称賛する。

 「いつまで、ぺちゃくちゃ喋ってんの。私はあんた達みたいに暇じゃないんだから、やるならさっさとやりなさい」

 「桜井。あんた自分の置かれている状況がいまいち理解出来てないらしいね。そんなに殴られたいんだったら、お望み通りそうしてあげるわ。まぁ、元より無傷で帰す気は無かったんだけどね」

 下田の号令で女衆は木刀を振り上げた。桜井は怖いと思った。多勢に無勢。一人や二人斃した所で活路は見い出せないだろう。ここまで形勢が悪ければ、致命傷を避ける為に、防御に徹するより他無い。木刀を振り下ろす女衆の顔は醜悪に満ちていた。そのどれもが、これまで桜井におべっかを使い、気色の悪い愛想笑いを張り付けていたのだと考えると、吐き気を催す。体を庇いながら、チラリと石段を見遣る。智樹が、今にでも石段を駆け下りて、この窮地を救ってくれないかと願った。

 しかし、それが如何に身勝手な望みであるのかは、桜井自身が一番よく知っている。


 校門を出た薫と高梨は二人並んで路傍を歩いている。

 橋梁が眼前に迫った時、薫は高梨に一寸した意地悪をしてやりたくなった。朴念仁の皮を被る薫だが、元来の彼女は茶目っ気のある少女である。

 「高梨さん。この橋梁覚えてるかしら。まあ、私達にとってここは思い出の場所だから、そう簡単に忘れる筈無いよね?」

 「ギクッ」

 高梨はわざとらしく肩を竦めて見せた。

 「ねえ、どうなの?」

 薫は高梨の顔を覗き込む様にして言った。

 「一ノ瀬さん。あの時の事、まだ根に持ってるの?」

 「あら。あんな酷い事されて、根に持たない方がどうかしてるわ」

 高梨の顔色が蒼褪める。てっきり許してくれたとものと思っていたのに、その話柄を持ち出されてしまっては決まりが悪い。

 困惑する高橋を見て、薫は破顔する。

 「冗談よ。私はネチネチと人に恨みを持たない人間なの。そんなの一々気にしてても時間の無駄だしね」

 「は~。よかった」

 高梨は安堵の溜息を漏らし、その言葉が嘘では無いか顔色を窺うが、何故だか薫の視線は橋梁を捉えたまま動かない。

 「ねえ、藪の隙間から何か見えない?」

 薫に言われ、高梨は目を細め、藪の隙間に目を凝らす。

 「あっ!あれって桜井さんだ。桜井さんが、袋叩きに遭ってる」

 「やっぱりそうよね。高梨さん、これ預かってて」

 薫は高梨の胸に自らの鞄を押し当てた。

 「どうするつもり?」

 「助けに行くのよ」

 「何言ってるの。この間、桜井さんに酷い目に遭わされたばっかりじゃない。桜井さんも罰が当たって、いい気味だわ。一ノ瀬さんが危険を冒してまで助けに行く義理は無いよ。見なかった振りして行きましょ」

 高梨にそう言われて、素直に見て見ぬ振りを出来ぬのが薫である。

 「見なきゃ良かった。だけど見てしまったからには、助けに行かない訳にいかない。ここで見て見ぬ振りをするのは、私の流儀に反する。流石にあの人数を相手には出来ないから、隙を見て桜井さんを連れて逃げるわ」

 「だったら。私も一緒に行く」

 高梨は、駆け出そうとする薫の肩を掴んで言った。

 「駄目よ。二人飛び出した所で、きっと状況は好転しないわ。それに、もしあなたまで捕まる様な事になれば、それこそ目も当てられない。だからあなたは、私達が逃げられなかった時の為に、今直ぐ助けを呼びに走って」

 薫は石段を駆け下り、桜井は助けを呼ぶべく走った。


 何度気絶しただろうか。桜井は気絶する度に、女衆が川から汲み上げた水を顔に打ち掛けられた。裏切り者達に対して抵抗する気力も沸かない。いいようにされる惨めな自分に涙が零れた。全身に激痛が走り、立つ事すら出来ず、身を丸めて木刀を耐え忍ぶのが精一杯だ。だからと言って、決して命乞いはしない。そうしてしまえば、自分自身が壊れてしまうのを知っているから。

 『ドサッ』

 大きな物音がしたかと思うと、桜井の横に女衆の顔が転がっている。誰しもが何が起こったのか状況を飲み込めずに居る。

 「桜井さん立てるかしら?」

 桜井が慌てて顔を上げると、そこに石礫を握る薫の姿があった。桜井は困惑顔である。薫は先日の仕返しとばかりに、自分に追い打ちを掛けに来たのだろうか。集団を使ってあんなに酷い事をしたのだから恨まれてこそ当然である。

 薫は石礫を放り投げ、倒した女の手から離れた木刀を掴んだ。

 「一緒にここから逃げるわよ」

 薫は事も無げに笑って言った。

 一瞬、桜井は薫が言った、この言葉の意味を理解出来なかった。桜井にとっては考えられぬ言葉だったからである。

 こんな私を助けてくれるの?絶望の淵に立たされてた桜井には願っても無い一言である。藁にも縋る思いだった。薫の強さは身を以って知っている。そんな薫がどういう理由だか分らぬが助けに来てくれたのだから、自然と桜井の身体の奥底に力が漲った。よろめきながらも、地にしっかりと足を着く。

 「どうして助けるの?私が憎くないの?」

 「あなたの事は大嫌いだけど、今だけはその事を忘れてあげる」

 薫は木刀を中段に構える。前衛に出ていた女の胴に鋭い突きを放つ。女は身を悶え、涎を誑しながら呻吟する。薫は女の傍らに転がる木刀を桜井に向かって放り投げた。桜井はそれを掴むと、咆哮を上げながら、集団に突っ込み、我武者羅に木刀を振り回した。薫も負けじと集団に切り込み、忽ち小手を打ち取り、手から落ちた木刀を遠くに蹴り飛ばす。数人に痛手を負わせるも桜井と薫も四方八方から受ける攻撃の全てを躱す事は出来ずボロボロになりながらも気魄だけで押し切る。途中、女衆に強く横腹を蹴られた薫が苦悶の表情で膝を折った時には、桜井が剣戟の嵐の中を呻き声を上げながら駆け寄り、身を盾にし、薫を庇う様にして護った。

 次第に女衆にも疲れが見え始めた。ここで刺し違えても構わぬと言わんばかりの桜井と薫の凄みに女衆の誰彼もが畏怖した。そもそも、居丈高な桜井を大人数で懲らしめてやろうという浅はかな動機の許に集まった烏合の衆なのだから、それぞれが自分が少しでも痛い思いをするのが厭なのである。一人、また一人、忍ぶ様に石段を登って逃げた。

 最後の一人も形勢が不利と見るや、木刀を投げ出し逃げ去った。桜井と薫はそれを見て安堵し、仰向けに大の字に倒れた。お互いに傷だらけで、呼吸もままならない。

 桜井は傍らにある薫の顔に向かって疑問を投げ掛けた。

 「この前、ここであんたに酷い事をしたのに、どうして助けてくれたの」

 「私にも分かんない」

 薫はぞんざいに答えた。薄雲を仰ぎながら改めて考える。桜井が惨めに見えたから?いや違う。それだけの理由で、こんな割に合わない事はしない。

 桜井は可憐な見た目にそぐわぬ、薫の眉根を寄せて考え込む、その無骨な表情から温もりらりき物を感じた。この子には敵わないと思った。そんな事はずっと前から分かっていたが、今の今まで、そこに目を向けたく無かった。それは、学内で突っ張る桜井にとって負けを意味するのだから。ずっと薫に対して引け目に感じていたのだ。何にも動じず、自らの信念を貫く彼女にいつしか羨望を抱き、悠々自適に世を闊歩する彼女に対し、自らは地を這い蹲ってせこせこと蠕動している気持ちにさせられた。

 そんなちっぽけなプライドに拘り続けていた自分を笑いたくなった。そして素直に自分を曝け出し、薫と仲良くなりたいと思った。

 「この前はごめんなさい」

 「可笑しな人ね。この前の事を言うんだったら、謝らなきゃなんないのは、むしろ私の方でしょう」

 「どういう事?」

 「だって、あの時は私があなたを一方的に馬乗りになってブン殴ったんだから」

 「・・・あっ、そうだ。あの時私はあなたに、いきなり馬乗りにされて、手も足も出ないまま泣かされたんだった」

 「そうよ。思い出してくれたみたいね」

 「ねえ。それだったら私の謝罪を返しなさい」

 高橋は薫の肩を揺らした。

 「イヤよ」

 薫はプイと横を向いて桜井から顔を反らし、肩を震わせながらクスクス笑った。桜井も釣られて笑った。橋梁を渡る電車が轟音を響かせると、二人はその轟音に負けじと、呵々大笑した。

 遅れて、高梨から急報を聞き付けた智樹が石段まで待てず、傾斜を駆け下りた。

 途中、足が縺れ、無様に転げ落ちる。擦りむいた膝頭を摩りながら顔を上げると、哄笑している桜井と薫を見た。二人だけで大挙して取り囲む女衆を退けたと見える。大事に至らなくて何よりだと、智樹はのんびりと顎を撫でながら感心している。

 ゆっくりと二人に歩み寄る智樹の姿に最初に気付いたのは桜井だった。桜井としては、「遅いんだよ!この役立たず!」と不満の一つも言ってやりたかった。桜井は智樹に過剰な期待を寄せていたが、智樹は実の所、喧嘩は滅法弱かった。小学校の低学年の頃には、近所の二歳年長の女児と喧嘩をしては悉く泣かされていたのだ。威勢だけは良く、腕力に乏しいので、女児の恰好の苛め相手であった。そんな智樹が加勢した所で、足手纏いになったに違いない。

 薫は自力で立ち上がり、高梨から預かって貰っていた鞄を受け取った。桜井の方は痛みから、足腰に力が入らず立ち上がれずにいる。

 智樹は中腰になり、桜井に語り掛ける。

 「桜井よ、こん前の傷も癒えん内に袋叩きに遭うて、災難続きじゃのう。余程、日頃の行いが悪いんじゃねえのか?」

 智樹の無神経な発言に腹が立ち、桜井は悪態を吐いてやろうと思ったが、智樹が直ぐに背を向けたので、その機会を逸してしまった。

 智樹は背を向けたまま、首だけを桜井に向ける。

 「こんだけ痛め付けられちょったら歩くのも難儀じゃろ。ほら、そこまでおぶっちゃるから、俺の肩に掴まるとええ」

 桜井は赤面しながら智樹の肩を掴もうと手を動かすも、途中で思い直し、その手を引っ込める。平素、智樹に対して喧嘩腰の自分が、今更しおらしくするのに違和感を感じたのだ。

 「あんたの助けなんていらないわよ」

 桜井は弱気な自分を見せまいと、気力だけで立ち上がり、ゆっくりとだが、着実に歩を進める。

 智樹は足元の覚束ない桜井を見て、やれやれと頭を掻く。

 桜井は石段まで僅かという所で、よろけて倒れそうになった。が倒れなかった。いつの間にか智樹が傍らに立っており、桜井を優しく支えたのだ。

 「そんなに片意地ばっかり張ったって良い事はねえぞ」

 桜井は俯いたまま、コクリと頷く。つと目から涙が零れ落ちた。桜井の虚勢を見抜き、いつの間にか傍を歩いてくれていた智樹の優しさが嬉しかったのだ。桜井は照れ臭そうに智樹の肩を借りながら階段をゆっくり上る。薫と高梨も微笑みながら二人の後に続く。

 薫は重なる二人の影法師を見つめながら歩く我が身に、解せない寂しさが沸き起こるのを知った。しかし、幾ら考えようとも、胸が疼くその理由が分からない。

 智樹が不意に足を止める。

 「そうだ、桜井よ。今のおまんにぴったりの歌を思い付いた。歌っちゃるから、静かに聴いとれ」

 智樹は桜井に優しく微笑んだ。桜井は、自分の為に智樹がどんな歌を歌ってくれるのだろうかと、期待に胸を膨らませる。

 今まで桜井は、智樹が薫に気があるのではなかろうかと、心中穏やかでは無かった。そんな智樹が美貌の薫にでは無く、自分の為に歌ってくれるのだと思うと、その喜びは一入である。

 「真剣に歌うからに、おまんも真面目に聴くんだぞ」

 「え、ええ」

 桜井は左胸を押さえ、固唾を吞んだ。自分の心臓の高鳴りが智樹に聞かれやしないかと、本気で案じている。

 歌を期待する桜井を見て、智樹はしたり顔だ。股分に裏切られ、落ち込む桜井も、これを聴けば必ず元気になる。何と言っても、俺の大好きなドラマの主題歌なのだから。

 智樹は大きく息を吸い込んだ。

 『男だったら一つにかける

  かけてもつれた謎をとく

  誰がよんだか誰がよんだか銭形平次~』

 声高らかに気持ち良さそうに歌う智樹とは対照的に、桜井は、怒りに身を震わせている。

 「これが私にぴったりの歌だって?あんたの顔なんて二度と見たく無い!」

 桜井は力一杯、智樹を突き放した。

 智樹は尻餅を付き、呆けた顔で何が桜井の癇に障ったのか考え込んでいる。

 そんな智樹に目もくれず、桜井は悔し泣きしながら、どんどん一人で歩を進め、電信柱の向こうへと消え去ってしまった。




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