三
智樹には誠一という、二つ歳の離れた兄が居る。誠一は幼少の頃から内気で謹厳実直な性格であったから、両親から見ても、手の掛からぬ聞き分けの良い子供である。我儘で奔放過ぎる弟の智樹とは大違いであった。言葉には出さぬが、母は昔から始終目を離しておけぬ智樹よりも、俗に言う”いい子”の誠一の方が心配でならなかった。必要以上に人に気を遣う気がある。それが他人に対してのみならばまだ良いのだが、家族に対してもそうであるから困るのだ。繊細な心の持ち主であるから、それが壊れてしまわぬか案じずには居られない。だからと言ってそれを叱るのは筋違いであるから、やきもきするのだ。
子供の頃、こんな事があった。
その頃の誠一はプラモデルが好きであった。兄弟は相部屋だったので、智樹は誠一が半年もの長い時間を掛けて、立派な戦闘機のプラモデルを組み立てたのを知っていた。完成した戦闘機を誠一は机の上に飾り、日に何度も眺めては、うっとりしていたのだ。
智樹に悪意は無かった。ただ、その戦闘機を持って一緒に滑走したいという衝動に駆られたのだ。もし、兄が部屋に居て、智樹が貸してくれと言ったのなら、兄ならばきっと喜んで弟にそれを貸しただろう。だが、今兄は外に出掛けており、家内には居ない。
智樹は悪いと思いつつ、無断で戦闘機を持って玄関を飛び出した。戦闘機にばかり目が行って、前方への注意が疎かになっていたのだろう。通行人とぶつかり、その拍子にプラモデルを落としてしまった。そこを折悪しく、自動車の車輪が智樹の手から離れた戦闘機をバラバラに踏み砕いてしまったのだ。戦闘機は見るも無残な姿となり、智樹は泣きながらその残骸を集めた。泣いたのは兄に怒られると思ったからでは無い。毎日嬉しそうにプラモデルを眺める兄の顔が浮かんだからだ。
家に帰ると、玄関には兄の靴がある。外から戻っているのだろう。
涙が止まらない。智樹は両手にプラモデルの残骸を抱えたまま、部屋の扉を開けられずにいた。兄の楽しみを奪ってしまったという悔恨の念が、智樹の両手に残骸として重く圧し掛かっている。
部屋の扉が開いた。
誠一と目が合う。唇を噛み締め、目を潤ませる智樹を誠一は訝しむが、智樹の手元の物が何であるか気付いていない。
智樹は声を上げ、わんわん泣いた。
そこで誠一も、智樹が両手に何を抱いているのか悟った。
「ああ、壊れちゃったか」
誠一は智樹の頭を優しく撫でながら、あっけらかんと笑って言った。
「兄貴、ごめんよ・・・。壊すつもりは無かったんだ、信じてくれ。ちょっと触ってみたかっただけなんだ・・・」
涙と鼻水が止め処なく流れるが、それを拭えば両手に抱く残骸を落としてしまうから拭わない。
誠一は自らの上着の袖で、智樹の涙と鼻水を拭う。
「なぁに、気にする事は無いさ。プラモデルは飾って眺めるのが好きって人も居れば、作る作業が好きって人も居る。どうやら俺は作る作業が好きだったみたいだ。もう十分過ぎる程楽しませて貰ったから、なにも智樹が罪悪感を感じて泣く事は無いんだよ」
誠一なら自分を責めないと分かっていたから余計に辛い。一思いに、二、三発打ってくれた方が気が楽になる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
智樹は謝る事しか出来なかった。
「それより、母ちゃんが下でおやつを準備してくれてるから一緒に食べに行こう」
誠一は智樹の手の中にある残骸を引き取り、自分の勉強机の引き出しの中に仕舞った。
智樹はそれでも泣き止まない。兄が密かに小遣いを貯めて、プラモデルを飾るショーケースを買おうとしていたのを知っていたから。誠一はそれ以来、プラモデルを作らなくなった。
そんな兄だから、智樹がどんなに道理に外れた事を言おうが喧嘩にならないのだ。
兄の誠一は成績優秀で道内で指折りの進学校に進んだ。中学時代には、何の部活にも所属していなかった誠一が、どういう訳だか、音楽に目覚め、高校入学と共に軽音楽部に入部した。大きなコンテストとあって、自主練習の為に学校から借りて来たギターが、部屋の片隅に置かれている。
「兄貴、何か弾いてくれよ」
智樹は何気無く肘枕で言った。
「まだ人に聞かせる程じゃ無いんだけどな・・・」
誠一は照れながら言った。ぎこちない手つきで弦を弾いて調律し、流行りのフォークソングを披露した。
途中何度も支えていたのだから、お世辞にも上手いとは言えない。しかし最後まで弾き切れたのには驚いた。
「ええじゃん」
智樹はむくっと起き上がり拍手した。
「ははは、そうか?」
誠一は自身は気付いていないだろうが、声が一際大きくなっている。自分のギターが褒められたのが余程嬉しかったのだろう。
「兄貴、俺にもギター教えてくれよ」
「よし、それじゃ智樹も少し鳴らしてみるか」
誠一は智樹にギターを渡した。
ギターの重みが、胡坐をかいた膝の上にずっしりと圧し掛かる。指板を押さえ、適当に音を鳴らす。空気が震えたかと思うと、鈴なりの音が鼓膜から脳に伝わった。刹那、抑えられぬ激情が起こり、血が逆流するのを感じた。
その時、”これだ”と確信した。これを自分の手足の様に弾き熟してやる。
「兄貴、これ凄いよ!俺は今日からミュージシャンじゃ!」
智樹は身震いしながら言った。
「ははは、何言ってんだ。まだ一曲も弾けないのに。でも、何故だろうか。智樹がこうしてギターを持ってると、堂に入って見えるから可笑しい」
誠一は腹を抱えて笑った。笑った理由は、智樹が初めてギターを触って、いきなりミュージシャンになると声高に宣言したからでは無い。それ所か、その言葉は不思議と誠一の胎にスッと落ちていた。笑った本当の理由は、何故だかこれが歴史的瞬間にでも立ち会ったかの様に思えてしまい、そんな莫迦らしい事を一瞬でも考えてしまった自分が可笑しくなったからだ。
智樹は常日頃から、どんな事でも良いから、世間に名を知らしめたいという願望を抱いていた。自分は必ず有名になると信じて疑わない。最早、これは決定事項であるとすら思っている。しかし、肝心の何をして有名になるかまでは考えていない。自分が他人より秀でているものを未だに見つけられずにいるから始末に負えない。
だから、これまでずっと周りには、「俺はいつか有名になって、みんなをあっと驚かせちゃる」と公言するだけに留めていた。智樹を知る教師や友人の大半は笑い飛ばすが、極一部の人間は、それを妄言とは思わなかった。もしかすると、本当に有名になるのではなかろうかと期待してしまうのだから、これまた不思議である。
一時はサッカーで有名になろうかとも考えていた。しかし、それは早々に断念した。市の選抜チームの合宿に参加した時に、チームメイトのサッカーへ懸ける直向きな情熱を知り、自分はこうはなれないと悟った。何より、この合宿中に周囲と自分との技量差を目の当たりにしたのが大きな要因とも言えるだろう。以来、サッカーに身が入らなくなった。かと言って、他に遣りたい事が見つからないのだから、こうして今もずるずるとサッカー部を続けていた。
今ここで、本に進むべき道は決まった。単純な頭の智樹は、この道の果てに斃れる覚悟である。中学生ながら、ここまで腹を括るのは異常とも思えるが、人一倍、愚直な男だから仕方ない。
明朝、智樹は登校するや否や、職員室の戸を叩いた。
「吹奏楽部の顧問ちゅうのはおらんかね?」
大声疾呼した。室内に居た教員の皆が思わず眉を顰める。
「私だけど」
名乗りを上げたのは、鼈甲眼鏡に後ろ髪を団子に結んだ痩身の三十代半ばの女性教員の橘だ。杓子定規で口煩く、生徒達からは嫌われている。が、本人はそんな事は、露程も知らない。
橘は背筋を正した美しい姿勢のまま、椅子から立ち上がる。
橘と目が合った智樹は、ずかずかと橘の席に向かって歩き出す。
一年生を受け持つこの橘は、これまで智樹と接点が無く、言葉を交わした例が無い。しかし、智樹の顔と名はよく見知っている。職員室で智樹の名を聞かぬ日は無いのだから。教員達は皆、いつもゲラゲラ笑いながら彼の話をするのだ。素行が極めて悪い訳でも無いのに、ここまで教師の間で話題に上る生徒と言うのは、彼を於いて他に居ない。粗野で礼儀知らずの問題児と言うのが、他の教員の話から彼に抱いた印象である。折り目正しい橘が最も嫌う人種である。
「今日からよろしゅう頼んます」
ペコリと頭を下げる。
橘は最初こそ無作法な生徒に一喝入れようとも考えたが、こうして、しおらしく辞儀する姿を見ると、一通りの礼節は弁えているらしいと思い、叱るのを踏み止まった。
「出し抜けに、私に何を頼むって言うの?」
橘は首を傾げながら言った。
「ああ、そうじゃった」
智樹を頭を掻き、懐手になり、そこから三つ折りにした紙を取り出すと、物を言わず橘に渡した。
紙を開いた瞬間、橘は激しい眩暈を覚え、膝から崩れ落ちそうになるのを何とか寸前の所で持ち堪えた。
”入部届”
それは、橘がこれまでに積み上げて来た、清く美しい吹奏楽部の歴史の崩壊を予感させた。
昨年はコンクールで入賞を果たし、今年こそは優勝するぞと、三年生を筆頭に皆が一丸となっているのだ。そんな部員達の日一日と成長する姿を見て、顧問として嬉しく、自らも青春時代に帰ったかの様に錯覚し、年甲斐もなく涙したのだ。「私が結婚と引き換えに築き上げた、命の次に大切な吹奏楽部が、野蛮人に蹂躙される」そんな危機感を抱いたのだ。壊されてなるものか。結婚出来ない理由は、吹奏楽部に心血を注いでいるからでは無く、橘のその激烈な性格の問題であるのだが、当の本人はそうは思っていないらしい。
「今日から吹奏楽部の一員じゃきい、よろしゅう頼んます」
智樹は舌をペロリと出して言い、言い終えるや、その舌先を鼻に当て寄り目をして見せた。
決して相手を莫迦にしているからそうするのでは無い。根っからの剽軽者であるが故に、初対面の相手には笑って欲しいのだ。だが、悲しいかな、それを快しと捉える人間と、そうで無い人間とが見分けられない。だからと言って何もせずには居られない。そうすると、必然的に出会う人全てに対し、そうせねば気が済まなくなるのだ。
橘は自分が虚仮にされたと感じ、頭にカッと血が上った。下品な舌を見せられたのが、尚、いけなかった。かくの如く、その怒りは累乗される。
「キィー!その、人を食ったような態度は何ですか!あなたの入部は絶対に許しませんから!」
橘は理性が抑えられなくなり、奇声を上げながら入部届をビリビリに破った。
「ははは、まるで猿じゃ!猟師は居らぬか!おー怖い、怖い」
智樹は腹を抱えて涙を流しながら大笑いした。周りの教師達も智樹に釣られて噴き出した。
「この糞餓鬼めが!」
橘は冷静さを完全に失った。
橘が智樹に掴み掛からんとするのを見て、慌てて年中タンクトップ姿の角刈り頭の体育教師が止めに入った。自尊心の強い橘は、高学歴で冷静な自分が、低学歴の単細胞莫迦に宥められたのが、腹立たしくなり、体育教師を鋭い目で睨んだ。
蛇の様な目に睨まれた熊の様な体躯に、鼠の様な卑屈な心臓を持つ体育教師は、怒りの矛先が自分に向いたのを素早く察知し、そそくさと自席へと取って返した。
「兎に角。何があろうと、あなたの入部は絶対に認めません!そういう訳だから、いい加減諦めて出て行きなさい!」
橘は腕を組み、プイと横を向いた。
「そう言われてもなぁ。困った困った・・・」
智樹は頭を掻きながら呟いた。
その時、二人の遣り取りに耳を欹てていた、智樹以上に困っているであろう男性教員の猪瀬が耐え切れず、智樹の前に立った。
猪瀬はサッカー部の顧問をしている。褐色肌の堀の深い端正な顔立ちである。引き締まった躰に青色のジャージがよく似合っている。生徒からも人気の高い熱い漢である。そんな猪瀬は、智樹が吹奏楽部に入るなど寝耳に水であり、泡を食った様な顔をしている。そもそも、退部の意志を本人の口から、まだ一言も聞いていない。
最初こそ、二人の会話を智樹のいつもの可愛らしい悪戯程度に思い、離れた席からに恵比須顔で笑っていたが、どうやらそうでは無いと思い至り、最早笑ってなど居られず、この徒ならぬ状況に血相を変えているのだ。
「斎藤よ!何を血迷ってんだ!吹奏楽部に入るなどと言う戯言、俺は一言も聞いてないぞ!」
「悪いな、いっちゃん。昨日決めたんだじゃ。いっちゃんには、吹奏楽部に入部して、然る後に、話すつもりだったんじゃ」
「莫迦野郎!退部の話をする前に、転部先に入部届を出す奴があるか!物事には順序ってものがあるだろうが!そんな手前勝手な道理がまかり通ってたまるか!吹奏楽などと言う下らん物に現を抜かすのは、貧弱な頭でっかちの御坊ちゃま連中だと相場が決まってる。お前にはそんなのは似合わん。考え直せ」
猪瀬は目を血走らせながら智樹の両肩を揺さぶりな必死に訴える。傍らで吹奏楽を侮辱され、怒りに震える橘の顔など全く目に入らない。
「うむ、そうか。ならば今ここでサッカー部を辞さねばならぬな。俺は誰に何と言われようが、吹奏楽と言う下らぬ物にこの身の全てを捧げる決意をした。その意志は曲げぬ。笑いたければ笑ってくれ。今まで世話になったな・・・」
智樹は惜別の別れを告げると、感慨に耽るかの様に渋い顔で目を閉じた。二度も吹奏楽を侮辱され、橘は拳を震わせながら憤懣遣る方無い様子であるが、智樹は目を閉じてしまい、それには一切気付いていない。
「勝手な事を言うな!それに、お前がサッカー部を抜けたら、チームはどうなる?優勝は疎か、初戦敗退もあるんだぞ!何よりも、お前にはプロになれるだけの素質があるんだ!頼むから、今一度思い直してくれ!なあ、頼む!」
智樹の肩を掴む手が震えている。
猪瀬は自らの保身の為に智樹を引き止めているのでは無い。この熱血漢は智樹のサッカーの才能に惚れているのだ。かつては自らもプロを目指し、夢半ばでその道を諦めざるを得なかった猪瀬は、密かにその叶えられなかった夢を智樹に託しているのだ。
「だからと言って、一度決めた事を曲げる訳にゃ行かん。みっちゃんも、漢なら分かってくれるよな?」
智樹は左肩に置かれた猪瀬の手を握り、しっかりと猪瀬の目を見据えて、優しい声で語りかけた。曇りの無い晴れ渡る目だった。こんな涼やかで、綺麗な目を持つ漢が他に居るだろうか。そんな漢に、「漢なら分かってくれるよな?」と問われれば、猪瀬の中の漢も黙ってはいない。
「かく言う俺も漢の端くれ。漢一匹が悩み抜いて下した決断を、これ以上とやかく言うまい。斎藤よ、吹奏楽の世界へ大いに羽ばたいて行くがいい。めでたい門出だ。こんな日にぴったりの良い詩が思い付いた。俺からの手向けだ。ここで一つ吟じさせてくれ」
中空を見つめながら、猪瀬は目に涙しながら言った。
猪瀬は見事な詩を吟じ切った。それは、しっかりと、智樹の肺腑へと届き、二匹の漢は熱い抱擁を交わした。言葉は要らない。無理に言葉にしようとする事こそが野暮なのである。ここへ来て、漢達は目だけで心が通じ合っているのだからそれで十分である。
二人が押し黙ったのを見て、話しの接ぎ穂を失っていた橘が、ここぞとばかりに前に出た。
「勝手に決めないで下さい!私の目の黒い内は、彼の入部は絶対に認めません!私を追い払ってでも入部するって言うんなら、私は吹奏楽部と心中します」
橘はそう言い残すと、肩を怒らせて職員室を出て行った。
二匹の漢はポカンと口を開けて、互いに見つめ合った。
その後、橘はその言葉通り東奔西走し、校長や教頭、父兄らを味方に付け、智樹の入部を水際で阻止した。結果。智樹の身柄はサッカー部へと引き戻され、詩まで吟じた猪瀬は立つ瀬がない思いに苦笑したのだ。