あまり悪くない悪役令嬢
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1
私はチェルシー・ベイカー。パン屋を営んでいる家に生まれた、ごく一般的な庶民だった。
――だった――
少々貧乏ながらも、優しく温かい両親の許に生まれた私は、特に不満や不自由を感じる事が無く育ってきた。
このままパンを作りながら、いつか優しくて、私と一緒にパンを作ってくれる男性と結婚して、細々とパン屋を営みながら、パパとママのような素敵な家庭を持つ。そんな平凡ながらも幸せな人生を歩んでいくのが夢だった。
だった、と言うのは、既に叶わない夢だからだ。
ある日、そんな私の人生計画を一変させる出来事が起きた。
自分でも知らなかったのだが、私は魔法が使えるのだと言われた。それも、極めて珍しい聖なる魔法だそうだ。
それが発覚してからは激動の日々だった。貴族や役人といった、今までは雲の上にいた偉い人たちがこぞって私を聖女だと言って、崇め奉るように持ち上げ始めたし、知らない人がうちに来ては、パパとママを交えて何やら話し合っている様子が何度も見られた。
そうしているうちに、私は学校に通う事になった。
貴族の養子に入れてはどうかという話もあったが、私はそれだけは断固として拒否した。私の両親は、パパとママだけだ。
魔法なんて使えなくても良かった。聖女になんてなりたくなかった。
ただ平凡な人生を夢見ていた筈なのに。
私にこんな力を与えたのが神様だとしたら、生まれて初めて神様を少しだけ恨んだ。
聖タルラ魔法学院――私の入学するその学校は、大昔の聖女様の名前が付けられた、由緒正しき、歴史ある学校。そして、この国の各地から貴族様の令息令嬢が集まる名門学校でもあった。
私を見送る時のパパとママの心配そうな表情を思い出す。あんな顔、させたくなかった。
せめて次に会う時には笑顔で「学校は楽しいよ」と言えるように、これからの学校生活を頑張ろう。
だけど、そこは私が思っていた以上に厳しい世界だった。貴族の社会で平民が一人で生きていけるはずがないのだ。貴族の養子に入る事を拒否した私は、殆ど何の後ろ盾も無い状態同然だった。
そして、周りの子は皆貴族で、幼い頃から面識のある者同士が多い。それぞれが家同士の繋がりによって付き合いをするのだから、入学してからまだ間もないというのに、既に派閥は出来上がっていた。
そんな中、誰とも繋がれず、皆の中で明らかに浮いている異物。それが私だ。
一人で過ごすのは別に良い。寂しいけれど、それを我慢する事は出来る。しかし、数多の敵意に晒されながら過ごすのは辛い。
直接私にそれをぶつける者もいれば、その視線の中に含ませる者もいる、発露の仕方が違うだけで、それら全ての根源は同じで、明確な悪意と敵意、侮蔑によってもたらされている。
中でも、アナベル・フリトン様は殊更はっきりとそれを向けてきた。アナベル様は大貴族に生まれながら、名門校たる聖タルラ女学院に首席で入学、またいずれ王太子妃となり、この国の母となるであろうと目される人物。そんな彼女は平民の私がこの学校に通う事が大層気に入らないらしく、いつもむき出しの敵意で私を睨みつけた。暴力などの直接的な手段に出ることは無いのだが、顔を合わせる度、周りにいるご友人方と共に私を罵倒していく。
――見目は、あれほど美しいのに……。
夜空に浮かぶ月のように綺麗な長い髪に、晴天の空よりもなお青く大きな瞳。美しい花には棘があると言うけれど、アナベル様は正にそれを体現されている方だった。
「平民の癖に、身分も弁えず、この由緒正しき聖タルラ魔法学院の敷居を跨ぐなんて。恥を知るべきですわ」アナベル様が扇で口許を覆いながら、私に鋭い目を向けて言った。
いつも言われる内容は殆ど同じで、"とにかく平民はこの学校を去れ"だった。私だって好きで入学したわけでは無い。もし実家に帰ってよいと言われたら、大手を振って帰るだろう。しかし、そんな事を言えるはずもなく、私はただ俯いてやり過ごし、相手の気が済むのを待った。
アナベル様はいつも周りには多数のご友人を連れていた。位の高い貴族というのもあるだろうが、それ以上に彼女自身が皆に慕われているような気がした。
アナベル様が私に敵意を向ける度、周りの令嬢もそれに倣って誹りの言葉を口にする。
「その通りですわ。パン屋の娘ですって? 貧乏くさい。親が親なら子も子だわ」そのうちの一人が、アナベル様に同調して言った。
ズキンと胸に痛みが走った。両親の事を悪く言われるのは何よりも辛い。今後、この学校で過ごしていく限り、幾度となく同じことを言われるのだろう。そんな事を考えるだけで、涙が溢れそうになる。
私は耐えられるのだろうか――そんな私の考えを打ち切る声が聞こえてきた。「ちょっとお待ちなさい。ご両親の事を言うのは反則ではなくて?」アナベル様の声だった。
言われた方の令嬢は、ハッとして私を見た後、後悔するような気落ちした表情を見せた。
「チェルシー様は平民でこの学院に相応しくないとは思いますが、彼女のご両親の事まで言及するのは言い過ぎなのでは? わたくしだって家の事を――特にお父様とお母様の事を――悪く言われたら傷つきます。そこは超えてはならない一線ですわよ」
もっと酷い事を言われるものだと覚悟していたら、寧ろそれを咎める発言。私がそれに出鼻をくじかれた気持ちでいると、先程の令嬢が非常に畏まった表情をして、私に向かっていた。
「本当に、その通りです……」そう言って、私に向かって深々と頭を下げた。「チェルシー様、大変失礼な事を申してしまいました。先ほどの言葉は撤回させてくださいませ。あなたのご両親の事は何も関係ありませんでした。申し訳ございません」
「お顔をあげてください! えっと、その――大丈夫ですから!」私は慌ててそれを止めた。貴族の令嬢にそのような事をされては、何故だかこちらが悪いような気にさえなってくる。
「お優しいのですわね。その、本当に申し訳ございません。あなたのようにお優しい方を育てられたあなたのご両親も、きっと立派で素敵な方ですわね。それなのに、わたくしったら本当にお恥ずかしいですわ……」
思っていた以上に申し訳なさそうにされて、逆に私の方が恐縮してしまう。そんな態度に、私がどうしようかと狼狽えていると、その時に聞こえた別の声によって私の意識はそちらに向くことになった。
「それに、パン屋だなんて、非常にご立派なお仕事ではございませんか。パンは歴史が深く、常に身近にある食べ物です。わたくしたちもパンが無ければ生きていけません。きっとチェルシー様のご両親も、きっとパンをお作りになる事に誇りを持ってお仕事をされている事と存じます。わたくしの父は、いつもこの国の行く末を案じて頭を悩ませておられます。チェルシー様のご両親もきっと美味しいパンを作る事に頭を悩ませ、パンを食べた方に満足してもらえるように、日々努力しておられる筈です。皆様のご両親もそうなのではなくて? 領地の運営をなさっている方も、他国との貿易をなさっている方も、皆、立派なお仕事ではございませんか。そこに貴賤はございません。全てが国にとっては欠けてはならない大切な方々なのです。それはパン屋だろうと――どのようなお仕事であろうと、同じです。そうして働いている全ての方を、わたくしは尊敬いたします」
アナベル様は周りの方に向かって滔々と語っていた。それを聞いている方たちも感銘を受けたように、真剣な表情でうんうんと頷いている。
気が付けば、私の頬を涙が濡らしていた。貴族は平民を蔑んでいて、気にも留められていないと思っていた。しかし、立派なお仕事だと言ってくれた。それが嬉しくて、私は先ほどとは違う涙が溢れていた。
アナベル様はそんな私を一瞥すると、くつくつと笑いながら言った。「まぁ。皆さま、見てくださいませ。涙を流しておりますわよ。場違いな自分が恥ずかしくなったのでしょう」
アナベル様のご友人方も、そんな私の様子を見て笑っていた。
「これに懲りたなら、己の身分を弁える事ですわね」アナベル様はそう言い残し、ご友人方と共に満足そうに去って行った。
その様子に、もしかするとアナベル様は平民全てが嫌いなのではなく、単純に私が嫌いなだけなのではないかと思った。それはそれで、余計に傷つくのだが。
2
学院に入学してから暫くすると、入学記念パーティーがある。
パーティーなので、当然普段着ではなくドレスを着ていかなければならない。
しかし、貧乏な私にドレスを買うお金なんて当然あるわけがなく、ママが持っていた古いドレスを仕立て直して、なんとか見られるようになったものしかなかった。
一度は着てみたいと思う事はあっても、元々パーティーに着ていくようなドレスなんて自分に縁の無いものとしか思っていなかったので、それに不満を言うつもりは無い。とはいえ、会場では周りの令嬢達は皆、煌びやかで豪華なドレスを纏っている。
比べてしまうと途端に恥ずかしくなり、私は一人、こそこそと人目に付かないようにしていた。しかし、ふと、そんな事をしている自分が情けなくて、さらにママに申し訳なくて、泣きそうになってしまう。
そんな私に追い打ちをかけるように、アナベル様の一行が私の前に現れた。目立たないようにしているつもりが、それが逆に目立ってしまったのだろうか。
「まぁ、あなたのドレス、なんてみすぼらしいのかしら」アナベル様は嘲笑と共に言った。
「平民が用意出来るドレスなんてこの程度なのですね」ご友人の令嬢も同じように笑った。周りにいる他の方々も馬鹿にするような笑いを零している。
いつもなら俯いて言われるままに耐えて、相手の気が収まるのを待っていたのだが、このドレスだけは、誰にも馬鹿にされたくなかった。
「こっ、これはママ――お母様が縫ってくれたドレスなんです! 馬鹿にしないでください!」だから私はつい声を荒げて言ってしまった。
言ってから、私はすぐに後悔した。大貴族のアナベル様に逆らうような真似をして、何をされるかわからない。
アナベル様は真剣な顔つきになると、じっと私のドレスを見つめた。心臓が警鐘を鳴らしている。怒らせてしまった。何をされるかわからない。ぶたれるか、お茶を浴びせられるくらいは覚悟した方がいいだろうか。
このドレスを汚されるのは厭だ。なので出来ればお茶はやめてほしい。
心のどこかでそんなことを考えながら、私はぎゅっと目を閉じて耐えようとした。
しかし、いつまでも何かをされる気配もなく、恐る恐る目を開けてアナベル様の方を見ると、逆に優しい表情をしていた。
アナベル様はその表情通りの優しい口調で言った。「お恥ずかしいですわ。わたくし、目が曇っていたようです」そして、その細い指で刺繍を優しくなぞる様に撫で、「よく見ると、とても素敵なドレスでしたわ。この丁寧な刺繍、あなたによく似合っておりますわね。きっとあなたの事を想って、気持ちを込めて縫われたのですね」
その言葉に、先程恥ずかしいと思ってしまった自分が情けなくなった。そうだ、恥ずかしがる必要なんてなかったのに。胸を張って歩けばよかったのに。
「とても素晴らしいお母様をお持ちなのですね」アナベル様は慈しむ表情でドレスを見つめていた。そして、その美しい姿勢を、それ以上に正すと、綺麗に頭を下げた。「このように優美な綾錦を、見間違いで侮辱してしまった事を謝罪させてください。申し訳ございません」
アナベル様が頭を下げたのを見て、周りにいたご友人方もそれに倣ったように次々と頭を下げ始めた。「わ、わたくしも! 申し訳ございませんでした!」
「お、お顔を上げてください!」私は慌ててそれを制した。「あの、私は気にしておりませんから。それよりも、ドレスを褒めてくださったことが嬉しいです」
「まぁ、本当にお優しいのですわね。あなたのお慈悲に感謝いたします」そう言ったアナベル様の表情は、とても穏やかで、慈愛に満ちていた。いつものように敵意の込められたものではない。「大切になさってくださいませ。お母様も、そのドレスも」
どうしよう。お礼を言わなければ。ありがとうございますって、けれど、私は何も言えず、アナベル様の美しさにただ見惚れていた。
そんな私に痺れを切らしたか、アナベル様はいつもの表情に戻ると、「精々そのドレスに恥じない作法を身に着けることですわね。もっとも、あなたのような平民には難しいでしょうけれど」そう言い残し、ご友人方を連れて去って行った。
アナベル様の言った通り、このドレスに恥じないような私になる事など、とてもではないが出来そうもない。私のドレスは、世界で一番素晴らしいドレスなのだから。
けれど、せめて――胸を張って、堂々と歩けるようにはなったみたいだ。
3
この学園に入学して困っている事が一つある。貴族の方と馴染めないというのはあるが、今、それ以上に困っているのはこの国の王太子殿下についてだった。
王太子殿下が私を気遣って、色々と話しかけてくるのだ。
どうやら、私の入学は国王陛下が決めた事らしく、その責任の一端が自分にもあると考えているのだろう。
けれど、今の私にはありがた迷惑でしかなかった。私のような平民が、そのような高貴な方に気にかけてもらえるというのは、それだけで反感を買ってしまうのだ。そして更に悪い事に、王太子殿下ともなれば、周りには多くの人が集まる。それ以上に厄介なのが、皆様揃って見目が麗しい殿方だという事だ。そして、得てしてそう言った方々は、やはり人気が高い。
特に、王太子殿下と仲が良く、婚約者の第一候補と言われている令嬢――アナベル様に見られた時には、本当に死を覚悟したほどだ。
いつものように王太子殿下が、その他のご令息と共に、私に「困った事は無いか」とか、「学校に馴染めているか」などと尋ねて来た。私はそれに対して一言二言交わして、逃げるようにその場を後にした。こんな場面を見られたら、何を言われるかわからない。そして運が悪い事に、どうやらしっかりとそれを見られてしまっていたらしい。それも、アナベル様に。
剣呑な雰囲気を纏いながら、多数の令嬢と共に私の方へと歩いてくる。
「平民の癖に、身分を弁えずに殿下に近付くなんて」そう言ったアナベル様の声色にも、いつも以上に怒りが含まれている。
アナベル様の周りにいるご友人方も同様に、侮蔑する視線を私に向けていた。それは無理もない事だろう。中には先ほど述べた将来有望な方々の婚約者の令嬢もいるのだから。
「平民は身体を使って殿方を誘惑するそうよ」
「まぁ、ではあの平民もそうやって多くの殿方を侍らせていますのね」
「なんて汚らわしい」
「厭らしいですわ。同じ女性とは思いたくありません」
アナベル様の後ろに控える方々から、次々と私を蔑む声が聞こえる。本心から私を汚らわしく思っているのだろう。
「違う。私はそんな事、していない。」そう叫びたかった。叫ぶことが出来てきたら、どれだけよかっただろうか。けれど、否定しなければいけないとわかっていても、私の周りに男性が集まってきているのは事実なので、何も言う事が出来なかった。
ついに私の双眸は涙で溢れ落ちそうになった。しかし、遮るように響いた声によって、私は泣くよりも、その声の主に意識がいった。
「お待ちになって。彼女は本当にそのような事をいたしましたの?」アナベル様だった。
「存じませんが、平民はそういう事をするものだと聞いたことがございます」
「憶測で物事を決めつけるのは、早計ではございませんこと?」
「ですが、では何故あの方の周りには殿方が集まるのですか?」
「それは――」アナベル様の視線が私に向いた。「彼女が魅力的だからではございませんか? 身なりこそ少々野暮ですが、目鼻立ちは整っていて、可愛らしいお顔をしておりますし、バランスの取れた身体も羨ましく思えるほどです」
それを受けて、他の方々の視線もこちらに集まった。「それは、確かにその通りですが」
思わぬ展開に、顔に熱が上がっていくのが自覚できる。
「ですが、それでしたら、猶の事怪しいです。その小動物のような愛らしさで誘惑したのでしょう!」
「そうですわ。チェルシー様の、男性のみならず、同性の私でさえも愛でたくなるその可憐さで殿方を誘ったのではなくて?」
「本当に美しいものは、何もせずとも人を惹きつけるものなのです。わたくしたちが物言わぬ花を見て心を動かされるのと同じです」アナベル様は力説されるように言った。
――この状況は一体何なのだろう。
私は涙が溢れそうになっていたのもすっかり忘れ、頭を混乱させていた。そして、それ以上に居た堪れない気持ちになった。皆が私に注目し、こぞって容姿を褒めている。恥ずかしい。
そもそも、私よりも皆さまの方が余程女性としての魅力に満ちている。華やかにドレスを着こなす姿は同じ女性として素直に憧れる。そんな方々が、よもや私なんかを口々に褒めそやすなんて。
「本人に直接確認するのが確実ではございませんか?」アナベル様はそう言って、私の方に向き直った。「チェルシー様、あなたは殿下を始め、その他の婚約者がいらっしゃる殿方を誘惑しましたの?」
「い、いいえ! しておりません! どうか信じてください!」突然こちらに話が振られたことに少々まごつきながらも、私は必死に答えた。
何よりも、アナベル様や皆様に私がそのような人間だと思われたままなのが厭だった。そうだ。自分の汚名は、自分自身でしか晴らすしかない。それを証明する手立ては私にはわからないけれど、この想いを伝えれば、きっといつかは。「そ、それに、私はちっとも可愛くなんてありません! 皆様の方が、ずっと綺麗で素敵です!」
こうして真摯に伝えていれば――今は無理しかもしれないけれど――きっといつかは信じて頂ける。信じて頂けるまで、何度だって――
アナベル様は私の言葉を聞くと、こくりと頷いた。「やはりしていないそうよ。事実を確認もせずに決めつけるのはよくありませんわ。それに、自分の優れた見目を誇るでもなく、他を上げてみせる謙虚さも持ち合わせております。こういった所に殿方も惹かれるのですわ」
その言葉を聞き、他の方々も皆、一様にばつが悪そうな表情を見せていた。逆に私は拍子抜けするものを感じていて、こんなにあっさりと信じてもらえるとは思っていなかった。むしろ、次々と出てくる私を褒める言葉に、顔が熱くなってくる。
「アナベル様の言う通りですわね……勝手な思い込みで非難してしまい、誠に申し訳ございませんでした」
「わたくしも謝罪致します。このままではあなたに大変不名誉な、あらぬ汚名を着せてしまう所でした。本当に申し訳ございません」
「淑女として恥じるべきはわたくしでした。どうか、私のことを気の済むまで打擲してくださいませ」
うう、と呻きながら顔を扇いでいた私に、皆さんは次々に頭を下げてきた。
「み、皆さま! お顔をあげてください!」私は慌ててそれをやめさせた。
ここのところ、謝られてばかりいる気がする。悪態を吐かれるのも辛いが、その直後にはやはりこうして謝罪されるので、なんとも、逆に申し訳ない気持ちになる。
「あなたは本当に可愛らしいのですから、あなたにその気がなくとも、相手の方が勘違いしてしまう事もあるかもしれません。十分に気を付けてくださいませ。聖女のあなたに手を出すような不届き者がいるとも思えませんが、殿方は狼、とは古くから言われている事です。羊の皮を被っていても、油断してはいけませんよ。それが嫌なら、平民は平民らしく、分相応の付き合いをなさることです」アナベル様はそう言うと、そのまま踵を返した。「皆さま、行きましょう」
そのまま、私に向かって頭を下げると、他の方々もそれに倣って一緒に行ってしまった。
アナベル様はああ言っていらしたけれど、今の私は分不相応な付き合いを望んでしまっている。
そんな事、許されるわけがないと頭ではわかっているけれど――私は、アナベル様とお友達になれたら、なんて、そんな高望みをしてしまっているのだ。
4
私がこの学院に入学し、凡そ一月ほどが経とうとしていた。いくつかの共通科目を除き、男女で学ぶ内容も違い、さらにそこから専攻する分野によっても選択する授業が分かれてくるこの学院は当然教室の移動も多くなる。だから、私もこの学院の全容にはある程度慣れているつもりだった。
しかし、その日、私は迷子になっていた。
そうなったのにも理由がある。普段は生徒が殆ど立ち寄らない場所にいるからだ。というのも、先ほど神学の授業が終わった後、授業内容が半分も理解できなかった私は教室で頭を悩ませていた。それが仇となったか、神学のイーデン先生は授業で使用した資料や文献の山を自分の研究室に運んでおいて欲しいと私に言いつけたのだ。
イーデン先生も一応は歴とした貴族。つい二つ返事で受けてしまったが、研究室と言われても、それがどこにあるのかわからない。教員の研究棟に行けば案内が出ていると言われたが、そもそもその研究棟にすら辿り着けていないのだ。
目的地もわからぬまま歩き回るというのは、中々辛いものがある。実際に距離にしてみたらそれ程でもないのだろうが、闇雲に歩いていたおかげか、必要以上に足が辛くなってきた。腕の中に積まれた資料の山も、こうなってくるとその実際よりも重く私を苛める。
深いため息が口を衝いて出た。私はこの程度の頼まれごとも出来ないのだろうか。暗く沈んだ心が、涙となって両の目から溢れそうになった時――
「平民が、何をうろうろしているのです」よく通る、綺麗な声が私の中に入り込んだ。「他の方の目障りになる前に、さっさと寮に戻ったらどうです」
私がこの学院で一番よく知る人――「アナベル様!」
アナベル様は不機嫌そうに歪められていた眉をもとに戻し、私の手許に視線を移した。「その資料、先ほどの神学の――イーデン先生ですわね」
「は、はい」
それでアナベル様は私が何をしているのか察し、ため息を吐いた後に言った。「平民には過ぎた御遣いのようですわね」
このような簡単な雑用もこなせないと思われてしまったのだろう。見るからに呆れられている様子だ。いや、実際にこなせていないのだから仕方がないのだが、しかし、ここからいつもの調子で責められたら本当に涙が溢れてしまうかもしれない。私が次に出てくる言葉に戦々恐々としていると――
「貸してくださいませ。半分お持ちいたしますわ」アナベル様は私の前に両手を差し出して言った。
「えっ?」
アナベル様が何を言っているのか理解するのに数秒を要した。まさか、手伝ってくれるのだろうか。
私が呆けていると、アナベル様はもう一度ため息を吐いた。「全く、イーデン先生には困ったものですわね。細腕の淑女にこのような雑事を押し付けるなんて」
「あの――」
アナベル様は痺れを切らしたのか、私の言葉を遮るように、半ば無理矢理に私の腕から資料をきっちりと半分、奪うように取り上げた。
「全く、何をもたついているのです?」険しい目つきになったアナベル様が私に言った。「まさかこの程度の御遣いも出来ず、放棄なさるおつもりですか? これだから平民は」
「いえ、いえ! えっと、そう言う訳では――ですが、その、アナベル様のお手を煩わせるわけにはいきません!」
「あなた、馬鹿にしておりますの? わたくしにもこれくらいは持てますわよ」アナベル様はそう言って、そのまま「こちらですわ」と歩いて行った。
これは不味い。貴族のご令嬢に道案内をさせて、その上、半分とはいえ、このような資料の山まで持たせてしまうとは。
「あの、お部屋だけ教えていただければ、私が全て持っていきます!」私は慌ててその後姿に声を掛けた。
私の言葉に足を止め、こちらに振り返ると、呆れや苛立ちを含んだような半目で私に言った。「平民のくせに口答えばかりして。つべこべ言わずについてきてくださいませ」
アナベル様も中々に頑固だった。仕方がなく、急いでその後を付いて行ったが、心の中も同じほどに落ち着かなかった。こんな高位の貴族のお嬢様に、このような雑用を手伝わせてしまっても良いものなのだろうか。
しかし、図らずとも訪れた二人きりの機会だ。何かをお話しして、少しでも距離を近づけたい。けれど、何を話したらいいのだろう。相手は住む世界の違うお方。私の話なんて、通じるかどうかも怪しい。足早にその後ろ姿に追いつくと、すこし後ろからちらりと顔を盗み見る。綺麗な顔。薄く施された化粧が、元の瑞々しさをさらに際立たせている。
大輪を咲かせた花に目を喜ばせ、美しい景色に見惚れる――そのような経験ならば、いくらでもある。しかし、人の顔をこれほどまでにいくらでも眺めていたいと思ったのは初めてだ。きっとこのまま陽が落ちるまででも飽きずに見続けられる。その全てを余すことなく見尽くしたい。
「先程から、何を不躾に見ているのです」アナベル様の流し目がこちらに刺さった。
心臓が大きく跳ねる。私の視線に込められた下心のようなものを見透かされ、咎められたような心地だ。
「申し訳、ございません」私は声を震わせて謝罪し、繕うように続けた。「あまりにお綺麗で、その」
「そう」それだけ言うと、アナベル様は再び視線を戻した。「前を見て歩きませんと、ぶつかりますわよ」
この程度の賛辞は散々に言われ慣れているのだろう。アナベル様は気にする様子もなく、いつもの怜悧さを感じさせる足取りで先を歩み続けた。
暫く歩き、階段をいくつか上がったところで、その階層の奥の更に奥、まるで隠し通路のように薄暗い一角に一つのドアがあった。アナベル様も思う所があるのだろう、少し困った表情になると、「ここですわ」とドアを指さした。
――コン、コン。
アナベル様が2度、ドアを叩いた。木と指がぶつかる小気味の良い音が綺麗に響き、中から「おーう」と、返事とも言えないような声が聞こえてきたのを確認すると、ドアを開けて一礼したので、私もそれに倣って入室した。
アナベル様は無遠慮にイーデン先生の机まで歩き、腕の中にあった資料の山を、どさどさと如何にもというふうな音を立たせながら、わざとらしく先生の目の前に置いた。「イーデン教授、今後このような雑用を押し付けるにも人をお選びくださいませ。淑女にこのような重い荷物を運ばせるなど、紳士のなさることではありませんわ」
「それは悪かった」イーデン先生はからからと悪びれた様子もなく言った。「では、次からはフリトンくんに頼むとしよう」
アナベル様はため息を吐くと、呆れた様に言った。「どうぞ、お好きになさってくださいませ」
私がこの程度の頼まれごとも満足にこなせないせいで、アナベル様に仕事が押し付けられてしまう。それだけはどうしても避けたかった。
「もう、お部屋の場所は覚えましたし、力仕事は慣れております! 次からも私に言いつけてくださいませ!」私はアナベル様の前に出て言った。
「何を言っておりますの? あなたのその華奢な腕では、運ぶのに日が暮れてしまいますわよ」
アナベル様はそう言うが、そもそも、身体の細さで言うならアナベル様の方が余程細い。ご飯だってしっかり食べているのか不安になる程で、きっと私でも簡単に持ち上げられるだろう。
「あ、アナベル様の方が、細いです!」私もそこは譲れなかった。
これでも入学する前は家のパン屋を手伝っていたのだから、力仕事なら間違いなく私に分がある。
暫く睨み合いになっていると、イーデン先生は、「わかった、わかった」と、煩わしそうに手を振って言った。「そんなに雑用がしたいとは、変わった子だなぁ。よし、次からは二人に頼むことにするよ」
雑用を押し付け合うどころか、逆に自分がやると言い合う私たちにイーデン先生は奇妙な視線を送ると、埒が明かないと見たか、適当な折衷案と共に私たちを研究室から出るように言った。
私たちにしてみてもこれ以上この場で言い争いをするわけにもいかず、とりあえず研究室を後にした。
そして廊下に出て、まずアナベル様はため息を吐いた。「ああ言われてしまったことですし、次から同じように雑用を押し付けられたら、わたくしにも教えてくださいませ」
「あの、よろしいのですか?」私は恐る恐る尋ねた。押し切られたような形とはいえ、本当に良いのか、まだ不安だ。「アナベル様がこのような雑用をする必要は……」
「仕方ないでしょう。あなた一人に押し付けるのも、どうかと思いますし」アナベル様は首を横に振って言った。そして呆れたように付け加えた。「尤も、本来であれば最初から殿方に頼むべきだと思いますが」
私もそれに苦笑いで頷く。
確かに、神学の授業は剣術の授業と時間が被っているからか、男の子には不人気なようで、受けている殆どが女生徒だった。とはいえ、いないわけでは無いし、何よりもイーデン先生自体が男性なのだから、多少は自分で運べば良いとも思うのだが。
しかし、それで私にお鉢が回ってくるのは兎も角として、やはりアナベル様まで巻き込んでしまうのはどうなのだろうかと思ってしまう。
そんなふうにまだ納得がいっていないのを見透かされたか、アナベル様は呆れたように小さくため息を吐いて言った。「良い事があれば誰かと分かち合いなさい。そうすれば、嬉しさや喜びが倍になります。そして誰かが困っているとき、それも分かち合ってしまいなさい。そうすれば、辛さや苦しさは半分になります」アナベル様は滔々と私に語り掛けた。その表情は、今までに見たことない程に優しさを湛えていた。「昔、お母様に言われた言葉です。あなた一人で気負う必要はありません。二人で分け合えばいいのです」
思わず恍とした息を漏らしてしまう。やはりアナベル様は美人だ。いつだって美しいけれど、こうしてその表情に優しげに微笑みを湛えているときは、何よりも。
そして、その優しさの根源を垣間見ることが出来たのが少し嬉しかった。きっと素敵なお母様なのだろう。
私が見惚れていると、アナベル様は付け加えるように言った。「それに、平民に任せておくのも不安ですからね」
いつものアナベル様に戻ってしまった。それを少し残念に思いながらも、やはり、綺麗なものは綺麗で、それでもなお美しいのがアナベル様だった。
私は息を飲み、大きく頭を下げた。「わかりました! ありがとうございます!」
アナベル様は妙なものを見るような目つきで私を見ると、「帰り道はこちらですわ」と寮への帰り道を案内してくれた。
その後ろを歩きながら、私は密かに神学の授業が楽しみになっていることを自覚する。
資料の量自体は一人でも運べる程度のものだったし、もう場所も覚えたので次からはおそらく一人でも辿り着けるだろう。けれど、こうまで言われたアナベル様の優しさを無下にするのは却って失礼だと思うし、それに――アナベル様と二人きりでいられる。それだけで、これから雑用を頼まれるのが少し楽しみになってしまった。我ながら単純だと思うが。
5
この学院に入学してからいくつかの月が過ぎた。この頃になると、生徒の実力を測るため、共通科目の試験が実施される。私の成績は見るも無残なもので、実技も座学も、下手をすると学年最下位なのではないかと思えるほどに悪かった。
何より最悪なのが、その全員分の成績が――最下位まできっちりと――順位と共に掲示されるという事だった。上位数名だけを貼り出すならともかく、これではまるで見せしめのようだ。あるいはそれを狙って、悪い点数を取らないように煽っているのかもしれない。この学校は優秀な生徒が集まっているので、元々悪い成績が余計に酷く見える。
順位表を上から順に見ていくと、まず真っ先にアナベル・フリトンの名前を見つけた。堂々と頂点に名前を残すその姿は、流石アナベル様と言う他ない。あんなに美しいのに成績まで優秀なんて、どこか神様の不平等さを感じる程だ。
同じようにアナベル様達も順位を見に来ているようだ。周りではいつものように友人の方たちが集まっており、口々にアナベル様を褒め称えていた。そうしてアナベル様を祝福している令嬢たちの名前も皆、上位に入っており、対して私の名前は下から数番目と、非常に情けない結果だった。
けれど、殆どの生徒はこの学院に入る前から勉強をしてきたのに対して、私は今まで生きてきて勉強なんてした事がなかったし、成績の大部分を占める魔法だって無縁のものとして生きてきたのだ。だから授業なんて殆どついていけていないし、わからない所を聞こうにも、どこがわからないかもわからないという有様だった。
しかし、自分の順位を見ていると、ため息を吐きたくなる。これでは何のために辛い思いをしてまでこの学校に通っているのかわからない。立派な聖女へと育て上げるため――そんな名目で入学した学校だ。しかし、こんな状態の私に、果たしてそれが務まるのだろうか。
憂鬱な気持ちが身体を重くさせる。これ以上ここにいても余計に惨めな気持ちになるばかりだ。私は俯き、その場を後にしようとすると、アナベル様とそのご友人方が私の前に立ちふさがった。
「あなた、平民の癖に聖女と祭り上げられて、天狗になって努力を疎かにしているのではなくて?」アナベル様は軽蔑を込めて言った。
私はそれに何も言い返さなかった。言い返せないと言った方が正しいかもしれない。自分では努力を疎かにしているつもりは無い。しかし、努力の方法もわからないのだ。
「このような無様な成績では、この由緒正しき聖タルラ魔法学院全体の名を貶めるという事がわかっておりますの?」アナベル様の冷たい声。情けなくて、惨めで、顔を上げることが出来なかった。
「申し訳、ございません」辛うじて、それだけ絞り出せた。
私だって、こんな成績は恥ずかしい。アナベル様と同じように上位の成績に、なんて過ぎたものは望まない。けれど、せめて平均程度になれなければ、私はずっと自分に自信も持てないまま、俯いて過ごしていく事になるだろう。
次も同じ成績だったら――
「これだから平民は」大きなため息が聞こえてきた。耳を塞ぎたい。そう思っていた私に、さらに――「テストの答案を見せてくださいませ」
「え?」私は何を言われているのか、すぐに理解できなかった。
答案を見ながら皆で馬鹿にするつもりだろうか。流石にそれは酷すぎる。出来れば見せたくない。放っておいて欲しい――
「あなた、まさかこんな成績のまま学校に居座るつもりですの?」いつまでも動こうとしない私に、アナベル様は呆れたように言った。「あなたが間違えた問題を、わたくしが解説して差し上げます。しっかり復習なさい! 嫌と言っても聞きませんわよ?」
「わたくしも微力ながら協力させてください」
「それぞれで分担して、得意分野を教えましょう」
アナベル様の言葉に、他の方々もそれは良いと賛同していた。私は未だにそれが意味するところをはっきりと理解できず、ただ茫然としていた。
「えっと」混乱する頭をなんとか整理して、私は言った。「皆様で勉強を教えてくださる、ということですか?」
「だからそう言っているではありませんか。それとも、自分は聖女だから成績なんて関係ないと開き直るつもりですか?」
「そ、そんなつもりはありません!」私は大袈裟に手を振ってそれを否定した。「ですが、よろしいのですか? 皆様のお手を煩わせてしまうことに……」
「そうですわ。私だけではなく、これだけの方が協力してくださるのですから、次も同じような成績だと許しませんわよ」ふん、と唇を尖らせて言うアナベル様。
言葉は厳しいが、私にとってはこれ以上ない申し出だった。今まではわからない事があっても、誰に聞けばよいのか、聞いてもよいのかもわからなかったのだ。
これ以上、情けない成績は取りたくない。これからの学院生活に光明が見えた気がした。
「ありがとうございます!」私は大きく頭を下げた。
こうして、私はアナベル様達から指導を受けることになった。空き時間や放課後を利用して、テストの結果を見ながら、私の為に苦手な分野や難しい箇所をわかりやすくまとめたものまで用意してもらい、わざわざ訓練場を借りてまで実技も教えてもらうなど、かなり甲斐甲斐しく教えてもらっている。中でも、アナベル様は、言葉は厳しいながらも、無学な私にもわかりやすく丁寧で、そして覚えが悪い箇所は何度も繰り返し教えてくれるなど、本当に親身になって教えてくれる。
それだけ手を尽くしてもらった甲斐もあって、ようやく、“わからない所がわからない”状態から脱し、今後は一人でもなんとか勉強できる程度になった。
「お見事です」アナベル様が作成したテストを私が一人で解き、それを採点し終えたアナベル様はそう言った。「これからはわからない所があればわたくし達に聞いてくださいませ。あなたに努力する意思があるのでしたら、わたくし達はそれに応えます」
その後、返ってきた答案を見ると、解答の全てにチェックマークが付けられていた。
まだまだ授業の初めの方に習った問題ばかりとはいえ、ついこの間までは殆ど理解できない問題ばかりだったのだ。自分の進歩を感じられて、私は嬉しくなった。
「はい! 本当にありがとうございました!」私はその嬉しさを隠すことなく、そのまま声に乗せて言った。
いや、本当は目の前のアナベル様を抱き締めたい程に嬉しかったのだけど、それは流石に自制した。
「そうでないのでしたら、平民らしく大人しくこの学院を去る事ですね」笑顔の私を見て、アナベル様はそう付け加えた。
今ではこの辛辣な物言いすらも愛おしく感じてしまう。
それから、私は放課後の数時間程度を勉強に充てる事になった。最早ある程度は一人でもなんとか理解できるようにはなっていたのだが、アナベル様やそのご友人方が見てくださると言うので、私はお言葉に甘えて教わる事にした。皆様のお時間を使わせるのは恐縮な想いもあったが、それでも、こうしていると――友達が出来たみたいで、嬉しい。
その後、勉強の甲斐もあり、私の成績は少しずつ上がっていった。アナベル様や皆様が付きっきりで指導してくれたおかげだ。
そして、遂に迎えた今回の実力テストでは、なんと半分よりも上位に入ることが出来た。今思えば、これまでの人生でこうしてはっきり努力が実る経験をしたのは初めてかもしれない。
勿論それは非常に嬉しかったのだが、それ以上に、点数の上がった私の答案を見て、アナベル様が「よく出来ましたわ」と言って頭を撫でてくれた。それが何よりも一番嬉しかった。
嬉しかったけれど、この前のように元気よくそれを表現することは出来なかった。
確かに嬉しいのに、身体の熱が一気に頭の方に上がっていく感覚と、身体全体がキャンディフロスのようにふわふわと舞い上がる心地で、ただ、撫でられた頭に残るアナベル様の手のひらの感触を意識していた。
近頃の私は少し変だ。
アナベル様を見ると、心臓がひとつ鼓動を高める。近くに寄ればさらにそれは大きくなって、触れられでもすると、まるで疾走する馬の蹄が地面を叩くように煩い音が鳴る。逆にアナベル様が他の令嬢と楽しそうに笑っているのを見ると、心に靄がかかったようになるし、平民が、と冷たい言葉を言われると――言われ慣れているはずなのに――過剰にちくちくとした痛みが走る。
――ああ、私はおかしくなってしまったのだろうか。
いつものように勉強を教わりながら、私はぼうっとしていた。どうも、いまいち集中できない。アナベル様を見ていると、体調が悪いわけでもないのに、どうしても顔が熱くなってくる。
もっと仲良くなることが出来れば、この熱も収まるのだろうか。そんな事を考えていると、アナベル様が私の不調に気付いたようだ。集中しなさいと叱られるよりも先に、「具合が悪いのですか?」と、こちらを心配して覗き込むように近付いてきた綺麗な顔に、また熱が上がるのを感じた。
6
私の実家は、片田舎にある小さなパン屋だ。勿論、家はあまり裕福ではない。
学費などは国が負担してくれているけれど、だからと言ってお金に余裕があるわけでは無い。それに、ここは元々貴族の令息令嬢が集う学校で、そんな学校に平民の私が通えるというだけでも御の字という事だろう。それ以上を望むのは贅沢というものだ。もっとも、学費と生活費を出してくれるだけでもありがたいので、それ以上は望むべくも無ければ、綺麗な寮での暮らしに、豪華な食事の出る食堂は無料で利用できるため、お金を使う当てなど殆ど無いから然程困っているわけでもないのだが。
とはいえ、そんな私にも密かな楽しみは必要だと思う。月に何度か、学院にあるカフェコーナーでお茶を飲みながら、甘いお菓子をつつく。その程度の贅沢は許されても良いだろう。ここ、聖タルラ魔法学院の学内カフェは、学内カフェでありながら、各地から取り揃えられた数多のお茶に、一流のお店にも引けを取らない極上の甘味を取り揃えており、まさにこの学院に通う生徒たちのオアシスと言って良いほどになっている。勿論お値段の方もそれ相応で、懐事情によりあまり頻繁には通えないものの、私にとってもささやかな楽しみの一つだった。
本日の授業を全て終え、私も1日の疲れを癒すため、カフェに来ていた。
試験が近づいているからだろうか――お茶を楽しみながら勉強をするためか、或いは試験前に最後の休息を楽しむためか――その日は非常に盛況だった。私はたまたま空いていた席を取れたものの、多くの生徒でごった返しており、他のテーブルを見ると、やはりほとんどが埋まっていた。そんな中で、私の周りには不自然な程に空間があった。平民の私には誰も好き好んで近づかないので、カフェに限らず、私の座る席の周りだけはいつもこのように空いているのだ。
何やら悪目立ちしている気がする。もしかすると、私を快く思っていない貴族の方に苦言を呈されるかもしれない。やはり、次からはもっと目立たない場所に座った方が良さそうだ。しかし空いていなかったのだから仕方がない。そんな事を考えていると、頭上から声がかかった。「ここ、よろしいですか?」
今ではすっかり聞き慣れた、凛としたよく通る声――私の好きな声。
顔を上げると、やはりアナベル様だった。二人の令嬢を伴い、人の多さに辟易とした様子を見せていた。
「あ、はい」私は惚けた様に返事をした。
それを聞き、アナベル様が私の隣に掛けると、周りにいた他の方も次々と席に着き始めた。しばらくして給仕がお茶を運び、美味しそうなお菓子も次々とテーブルに並べられていく。気になっていたものや、食べてみたかったものもある。あまり見ているとお腹がすきそうなので、私は出来るだけ視線を自分のお茶に集中させ、他のお菓子はあまり見ないようにした。
「あら、お茶だけなのですか?」
「え、ええ。ダイエット中なので……」私は誤魔化すように言った。本当はダイエットなんて考えてもいないのに。
アナベル様は私の顔をじっと見つめると、片眉を上げた。「そんな事を言って、本当はお金がないだけなのでしょう?」そして、大きくため息を吐いた。「これだから平民は」
図星を突かれ、言葉に詰まる。居心地が悪くなってきた。もったいないけど、さっさとお茶を飲んでここから離れようか。そう思っていると――
「皆様、この卑しい平民に少しお茶請けを恵んであげません事?」アナベル様が名案をひらめいたという風に言った。
「まぁ! 良い考えですわね」アナベル様の隣に掛けた令嬢が手を合わせて言った。
「目の前で貧乏くさい様をとられては、こちらも美味しくいただけませんからね」他の方も、そう言って頷いている。
私はその言葉にただ戸惑っていた。
どうしたらいいのだろう――ここは、とりあえず遠慮するべきだろうか。そう結論を得たときには、既に小皿が用意され、様々な甘味が今まさに取り分けられようとしていた。
「どうぞ、召し上がり下さい」
「こちらはわたくしのお気に入りです」
「こちらは食べた事あります? 美味しいですわよ」
あれよという間に、私の目の前になんとも彩り豊かなお菓子の花畑が出来上がった。
明らかに皆さんの分よりも豪華になってしまったそれに、私は畏れ多さを覚えた。「あの、こ、こんなに貰えません!」
「平民のくせに、遠慮なんてなさらずともよろしいのです」
「本当に、よろしいのですか?」
上目で表情を伺うと、アナベル様はくすりと笑った。「こういったものは、皆で分けていただく方が美味しいのです。ね、皆様」
他のお二人もそれに同調し、遠慮をするな、というような事を次々と口にした。
そうまで言われたら、ここでまた遠慮をするのは却って失礼だと思い、皆様の好意は素直に受け取る事にし、深く頭を下げ、お礼を言った。「皆さま、ありがとうございます!」
「まぁ。そんなに一生懸命お辞儀をなさらずともよろしいのですよ」くすくすと笑い声と共にアナベル様が言った。「さぁ、いただきましょう、皆さま」そして、目を瞑り、祈りを捧げる形をとると、周りの方々もそれに倣って続いた。「主よ、我々に甘味という至福を与えてくださったことに感謝いたします。これからいただくものを祝福してください」
私も同じように目を瞑って祈りを捧げたが、心の中でアナベル様に巡り合わせてくださった事への感謝も付け加えておいた。
祈りを捧げ終えると、皆、お茶とケーキを摘まみながら、楽しそうに談笑を始めた。内容は授業の事や、先生の愚痴といったありふれたものだが、私はこの学院に友達と呼べるような存在がいないので、それを羨ましく思ってしまう。
私も話に混ざりたい。けれど、私は平民で、他の子は貴族――そんな考えが胸中を渦巻くと、どうしてもその勇気が出なかった。
――ううん、けれど、これは折角の巡り合わせなんだから。
ここで勇気を出さなければ、私はずっとこのままなのだ。思い切って、ここで距離を縮めたい。そうして会話に入れそうなタイミングを見計らっていると――
「チェルシー様、あなた、随分と細っこいですけれど、しっかり食事はとっておりますの?」アナベル様が突然、こちらに視線を向けて言った。
「え、あ、はい!」突然、会話が振られたことに、慌てて返事を返す。「あ、えっと、寮のご飯は美味しいので、いっぱい食べています! むしろ、近頃は食べ過ぎを心配するくらいで」照れた笑いを混じらせて言った。
実は毎回、こっそりとおかわりをしている所を見られてはいないだろうかと思うと、途端に恥ずかしくなる。
「まぁ、羨ましいですわ。わたくしなんて、ここのところ余計な部分にばかりお肉がついてきてしまって……」別の令嬢――確か、名前はミーシャ・バートン様――が私の言葉に反応し、頬に手を当てながら言った。
「そんな事を言って、あなたいつもケーキを食べているではありませんの。控えればよろしいのですわ」ミーシャ様の隣に座る令嬢――リーナ・ヒーディ様――は呆れたように言った。
「こ、これで最後にするつもりだったのです!」
「何個目の最後かしら」リーナ様はそう言って、ホホホ、とわかりやすい笑い声をあげた。
それを受けて、皆様も楽しそうに笑い出したので、私もつられて笑ってしまった。
当たり前だが、こうしていると、皆様もやはり貴族の令嬢といえ、本当に普通の女の子だった。
私もこの中に入れたら――そう思わずにはいられなかった。
「皆さま笑いますけれど、このケーキは本当に美味しいのですわよ。これを控えるなんて、ヤマネコが子ネズミを目の前に、”待て”をしているようなものですわ」ミーシャ様はそう言って、またケーキを口に運んだ。
「まぁ、堪え性のないこと」
「もう、リーナ様はいけずばっかり!」ミーシャ様は頬を膨らませて顔を背けた。その先で、丁度ケーキを口に入れていた私と目が合った。「チェルシー様、あなたならわかってくださいますわよね。このケーキの美味しさを!」
「は、はい。本当に美味しくて、毎日でも食べたいくらいです」突然振られた話に私はこくこくと何度も頷いて答えた。
「ですわよね!」
その様子に、皆がくつくつと楽しそうな笑い声を漏らしていた。
「ミーシャ様は大袈裟ですけれど、お気持ちはわかりますわよ。ケーキを食べる時は罪悪感も一緒に食べると言いますけど、こんなに美味しいもの、食べない事の方が罪深いですわ」アナベル様はそう言って、うっとりとした目でケーキを見つめていた。
アナベル様も甘いものがお好きなのだろうか。思えば、ここに座ってから心なしかいつもより機嫌が良い気がする。
「全く、その通りですわ」ミーシャ様はうんうんと頷いて言った。そして、「罪悪感を少しでも減らすために、ケーキ同盟を結成いたしましょう!」そう高らかに宣言した。そして私の方に視線を向け、「チェルシー様、あなたももちろん入りますわよね?」
「え、あ、はい」思わず、了承してしまった。
そもそも、ケーキ同盟とは何なのだろうか。
「何ですの、その同盟」リーナ様も私と同じことを思っていたのか、素っ気なく言った。
「みんなで一緒にケーキを頂く事で、罪悪感なくケーキを頂く同盟ですわ」ミーシャ様は得意そうに鼻を鳴らして言った。「リーナ様も入りたければ、入れて差し上げてもよろしいのですよ」
リーナ様はそれに対し、厭そうな表情を見せていた。
対照的にアナベル様は、「素敵ですわ、ミーシャ様」と乗り気なようだ。
「わ、私も素敵だと思います!」私もそれに同意した。
よくわからないが、アナベル様と一緒に居られる時間が増えるという事ならば大歓迎だ。その内、お話しできる機会も増えて、友人のような関係になれるかもしれない。その事で頭がいっぱいになった私は、何も考えずにただ賛同していた。
「少なくとも、毎週1回はケーキ同盟の会合を開きましょう」ミーシャ様はにっこりと笑って言った。「もちろん、ケーキを頂きながら」
それを聞いて、早くも心配になった。
――お金は持つのだろうか。
7
それから私は時折、ケーキ同盟の会合という事で、アナベル様達と一緒にお茶をすることになった。最初はお金の事を心配していたのだが、毎回、皆様はいつもお茶しか買えない私にケーキを少し分けてくれた。ケーキ同盟の会合なのだから、ケーキを食べなければ意味がないと言って。
しかし、いつも頂いてばかりでは申し訳ない。
なんとかお返しを出来ないものか。お菓子の事だけではない。勉強を教えてもらったり、困っているときに手伝ってもらったりと、私はいつだって助けてもらっているのだ。
私は考えた結果、いつもお世話になっている方々に招待状を出した。
お茶会を開こう。貴族の方は時折お茶会を開いて友人をもてなすと聞いたことがある。
とはいえ、私の資産ではとてもではないが皆さんを満足させるほどのものは用意できないし、そもそも、皆貴族の令嬢であり、日頃から美味しい甘味は食べているのだ。代わり映えのしない同じようなものを用意するというのもあまり面白くない。そこで、私は一度実家に帰る事にした。
駅馬車に揺られる事長時間。長い旅路は身体に決して少なくない疲労を覚えさせたが、久しぶりの実家が見えてくると、その疲れもすっかり忘れ、ただ懐かしい故郷の空気を楽しんだ。馬車が止まると、私は飛び出すように自分の家に向けて駆けだした。
家に近付くにつれて、懐かしい香りが鼻をくすぐる。パンを焼いている匂い。私が何よりも好きだった匂い。学院に入ってからまだ一年も経っていないというのに、ひどく懐かしく思えてしまう。
弾む足取りを抑えきれず、お店のドアを開けると、私のよく知る顔がそこにあった。
「パパ、ママ!」
二人共驚いた顔をしている。やはり、いきなり帰ってくるのは不味かっただろうか。しかし、すぐに二人共笑顔になると、私の許に駆け寄ってきた。
「おお、チェルシー!」パパは私を抱き締めて、頬にキスをした。「ああ、私の可愛いチェルシー。久しぶりにお前に会えて幸せだよ」
「ただいま!」
「どうしたの? 急に帰ってくるなんて」ママは不安そうな表情で言った。
やはり、事前に手紙を出しておくべきだった。もしかしたら、成績が悪すぎて追い出されたとか、学校が厭になって逃げて来たとか、そんな勘違いをさせたかもしれない。
「ごめんね、急に帰ってきて。すぐ戻るんだけど、ちょっとお願いしたいことがあって」
「もちろん、お前のお願いなら何でも聞こう」パパは胸をトンと叩いて言った。
「ありがとう、パパ!」
記憶にある通りの優しいパパに、私は安堵した。こうして暖かく出迎えてもらえると、やはりこの家は私の家なのだという実感がこみあげてくる。
「学校はどう?」ママはまだ少し不安そうに言った。「あなたが貴族の学校に馴染めないんじゃあないかって、心配していたのよ」
以前の私ならば、それに対して暗い表情を隠せなかったかもしれない。両親に甘えて、弱音を吐いていたかもしれない。
「勉強が難しくて、付いて行くのに精いっぱい」私は自嘲するように言った。そして、学院の事を――アナベル様の事を――思い浮かべると、自然と声が弾んだ。「でもね、貴族の人たちは皆良い人なの!」
それから私は学院での生活を話した。どれだけ話しても、まだまだ話したいことが湧いて出てくるようだ。貴族の生活は自分が想像していたよりもずっと煌びやかで華やかだったこと、けれどそんな貴族の方たちも私と同じように生きていること、ママのドレスを褒められたこと、王太子殿下にお会いしたこと、貴族のお嬢様に勉強を教えてもらっていること、最近は一緒にお茶をするようになったこと、そして何よりもアナベル様のこと。
一つ一つ話していって、その度、光景が思い出されてくすりと笑みが零れる。こうして笑顔で報告できるのも、きっとアナベル様や他の貴族の皆様のお陰だ。
一通り話し終えて、満足した私は本題を思い出した。「それでね、学校の友達にパンやケーキを焼いて持っていきたいんだけど、良いかな?」
「もちろん!」パパは笑顔で快諾してくれた。「チェルシーの友達の為なら、いつも以上に腕を振るおう!」
「けれど、うちで焼いたパンが貴族様の口に合うのかしら?」ママが言った。
確かに、アナベル様達なら、こんな田舎のパン屋ではなく、ずっと上等で高価なパンを食べ慣れているのかもしれない。けれど――「きっと大丈夫だよ」これだけは胸を張って、ハッキリと言える。「だって、うちのパンは世界で一番美味しいもん」
流石に行ったその日にすぐに学院に戻る事など出来ず、私は一晩実家に泊まってから、翌日にまた馬車に乗って学院を目指した。本日は休息日だ。籠一杯のパンとケーキを抱えて学院に戻る頃には、準備も含めてアフタヌーン・ティーの時間には丁度良い頃合いになっていた。
会場は寮の食堂を借りた。他に良い場所も知らないし、そもそも、古くからの名門校の寮だけあって、内装や食器類も十分凝っており、私の知る限りこれ以上に適した会場はない。
各テーブルにそれぞれ簡単な装飾を施し、持ってきたパンとケーキ、お菓子を乗せていく。お茶も用意して、準備は万端だ。後は皆さまを待つだけなのだが――
折角の休日に、こんな平民の招待に応じてくれるだろうかという不安がある。しかしもうここまで用意したのだ。来なければ、こちらから出向いて頭を下げてでも来てもらうしかない。そんな風に祈る中、刻一刻と予定していた時間が迫り――
「こんな所に呼び出して、一体何のつもりなのですか?」時間ぴったりに、アナベル様がやってきた。
「そ、そうですわ。日頃の恨みを晴らす決闘のつもりでしたら、受けて立ちますわよ!」アナベル様と一緒にやってきた令嬢――リリー・コール様がアナベル様の後ろに隠れながら言った。
「ち、違いますよ!」私は手を振ってそれを否定した。
それから、私が招待状を出した方々が次々と会場へと入ってきた。思わず安堵の息が漏れるが、ここで終わりではない。寧ろこれからが本番で、私のお出しするものが皆さまのお口に合うか、それが一番重要なのだ。
「私、皆様にいつも助けていただいてばかりで――それて、今日はお返しに、私が皆さまをおもてなしいたします!」私は一度大きく頭を下げてから、手でテーブルを示した。「どうぞ、皆さま、掛けてください」
「まぁ、それは。ご招待いただき、ありがとう存じます」アナベル様は礼をすると、自分の名前が記された席へ掛けた。
「それは殊勝な心掛けですわね」リリー様もそれに倣って自分の席へ向かった。
ミーシャ様やリーナ様、その他招待した方も皆様来てもらえたようだ。
招待した方々が皆席に着いたのを確認し、私は深呼吸してから頭を下げた。「今日はお越しいただき、ありがとうございます。本日お出しするのは私の実家で焼いてきたパンとケーキです。どうぞ、お召し上がりください」
そこで賑やかなお茶会の始まり――とはいかず、皆様の反応は私の思っていたものとはまるで違い、なんとも微妙な雰囲気が広がるばかりで、パンとケーキには令嬢たちの怪訝そうな視線が集まっていた。
「平民の作ったパンなんて」一人の令嬢が言った。
それを皮切りに、また別の方からも同じように不安がる声が聞こえてきた。「本当に大丈夫ですの?」
「わたくし達の口に合うとは思えませんわね」
ざわざわと、そんな声が聞こえてくる。
私はそのまま、何も言えずに俯いてしまった。喜ばれるどころか、まさか食べてすらもらえないなんて。それが恥ずかしくて、情けなくて、そして、とても悔しかった。
このままでは折角パパと作ったパンが、一つも口に入る事さえなく無駄になってしまう――それが何よりも辛くて、私は自分の手が震えていることに気が付いた。
泣いてはいけない。ここで涙を流してしまうと、余計に惨めだ。人前で弱みを見せてはいけない。アナベル様にもそう教えられたではないか。そう、アナベル様――
「平民の癖に、随分と気の利いた事をなさるのですね」アナベル様がそう言うと、先ほどまでのざわめきが一気に止んだ。「折角のご厚意です。ありがたく頂きますわ」そう言って、ケーキを取った。霞む視界の中、心なしかその瞳が輝いている様に見える。
――嬉しい。
アナベル様に手に取ってもらえたというだけで、嬉しさや、安堵の気持ちがごちゃ混ぜになって、心臓がドキドキと鼓動を高めていくのがわかる。いつだって、私が困っているときには助けてくれるアナベル様。
口に合うだろうか。心臓の音は明確に調子を上げて身体中に響いている。じいっとその顔を見つめていると、アナベル様はケーキを口に運ぼうとしてすぐに止めた。そして少し居心地が悪そうにこちらを一瞥した。
「そんなに見つめられると食べられません」
「ご、ごめんなさい!」私は謝り、咄嗟に目線を逸らした。
私だけではなく、他の方も皆、アナベル様のほうに注目していたようで、一斉にさっと顔を背けるのがわかった。私がすぐに横目で盗み見るようにすると、アナベル様はケーキを口に運び、咀嚼して嚥下する。私は見ないふりをしながらも、何度もその様子を盗み見た。ケーキを食べているだけなのに、何故だか妙に艶やかだ。
暫くして、アナベル様は驚いたような表情になると、口許に手を遣りながら言った。「まぁ! とても美味しいですわ。こちらはご両親が?」
「は、はい! パパ――お父様と一緒に、私も焼きました!」
アナベル様は小皿に取ったケーキをつぶさに眺めると、何度も感嘆するような声をあげている。そして残っていた分も一つ一つ、器用に小さくフォークで切りながらではあるが、一息に食べ終えてしまった。その様子が本当に美味しそうで、それを見ただけで私は沈んでいた気持ちが一気に引き上げられるような心地になった。
「本当に美味しいケーキですわね」アナベル様は言った。そして私に向けて笑顔になった。「是非、また頂きたいですわ。今度は買わせていただきますから、お店に連れて行ってくださる?」
こんなに美味しそうに食べてもらえるとは。それに、アナベル様がお店に――つまり、私の実家に――来たいと言った。例えそれが社交辞令だとしても、これ以上ないほどに嬉しかった。
「も、もちろんです!」
私たちのやり取りを見ていた他の方が興味深そうにパンに視線を遣っている事に気が付いた。
「そんなに美味しいのですか?」一人の令嬢がアナベル様に尋ねていた。「わたくしも頂いてもよろしいでしょうか」
けれど、やはりまだ半信半疑なのか、どこか遠慮がちで、疑うような視線も伴っている。いつもならここで私は自信を無くし、おずおずと差し出していたのだろう。しかし、今は違った。アナベル様が美味しいと言ったのだから、それだけで絶対的な自信になる。
「はい! たくさんありますので、どんどん食べてください!」私は胸を張って言った。
「ありがとうございます。では、頂きますわね」その方はそう言って、パンを一つ取った。
「皆様も、どうぞ!」
それに端を発したように、他の方々もパンやケーキを取り始めた。今度こそ、絶対に大丈夫だという気持ちの中、私は皆様がそれを口にする様子を見守っていた。
「まぁ! 本当に美味しいですわ!」
「本当。こちらのケーキも柔らかくて甘くって」
「これならすぐにでも王都にお店を出せますわね」
それぞれが取ったものを食べた端から、次々にそのような声が聞こえてきて、私は安堵の息を吐いた。
やっぱり、うちのパンは世界で一番美味しい。改めてそれを強く確信した。
今度、パパとママにお礼の手紙を書かなくては。そして、うちで作ったパンが、皆様に美味しく食べていただけたことも。
そんな事を考えていると、いつの間にか、先程パンを取るのを躊躇っていた方が立っており、沈痛な表情で私を見ている事に気が付いた。
「申し訳ございません、チェルシー様」そのまま、私に向かって頭を下げた。「平民の作ったものと決めつけ、食べもせずに侮辱したことを謝罪させてくださいませ。今までに食べた事の無い程、とても美味しいパンでございました」
「わたくしも最初、躊躇ってしまった事を謝罪させてくださいませ!」続くようにミーシャ様も大きく頭を下げて言った。「ケーキ同盟の同志として、チェルシー様がわたくしたちの口に合わないものを持ってくるはずなど、ございませんのに……」
私は涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。パパと私の作ったパンやケーキが、皆様にも認めてもらえる。それは涙が出るほどに嬉しい。しかし、私は何も自分やパパの腕を認めさせたいわけでは無い。ただ、皆様に美味しいものを食べてもらって、少しでも楽しんでもらいたいのだ。
このままでは、また謝罪が続くことになってしまう。それを制するためにも、私は先んじて言った。「お顔をあげてください」ひとつ間を置いて、続けた。「皆様に美味しく食べていただけたなら、それだけで私は幸せなのです。ですので、どうか、謝罪をなさるよりも、お茶会をお楽しみください!」
そこでまたざわめきが起こった。もしかして、何か不味い事を言ってしまったのだろうか。不安に駆られ、冷や汗が流れるが、とりあえず令嬢たちの会話に耳を澄ませてみる事にした。
「まぁ、なんとお優しい」
「これまで酷い事ばかりを言ってきたわたくしたちに、このような慈悲を与えてくださるなんて」
「本当に、聖女に相応しいお方ですわ」
聞こえてくる声は、その様なものばかりだった。
何か間違いを犯したわけでは無い事に安心したが、人に褒められ慣れていない私は自分の顔が赤くなっている事を自覚して、恥ずかしくなってしまう。
両手で顔を抑えていると、そんな私の様子を見ていたアナベル様は楽しそうに微笑んでいた。
「皆様、折角このように素敵な場をご用意いただけたのですから、本日は楽しみましょう」微笑みを湛えたままアナベル様は言った。「チェルシー様も、そろそろお掛けになって。お茶もお菓子も楽しみですが、わたくし、あなたとお話するのも楽しみですのよ?」
「は、はい!」
その後、お茶会はつつがなく進んでいった。
途中で私もアナベル様に促され、腰を据えて会話に混ざることになったが、今日は私が開催したお茶会という事で、よく会話を振られるのは私だった。主な話題はパンやケーキに関することで、生地に混ぜ込んだフルーツの種類、キャロットケーキは何故ニンジンを使うのか、ケーキを食べる際の罪悪感の謎――
そして、私自身のこともたくさん話した。家族や故郷の話、パン屋の話や、学院に入学するまでどの様に生活していたか。思いのほか興味を示されることが多く、皆、平民の生活に興味があるのだろうか、あれこれといろいろ尋ねられた。こんなに人と話すのは久しぶりで、本当に楽しかった。気が付いた頃にはすっかりと日が落ちる時間となっていた。
楽しかった会もお開きとなり、私は招待した方々を見送った後、会場の片づけをしていた。先ほどまでは賑わっていた場所だけに、その深々とした様子には寂しさを感じてしまう。
けれど、今日は本当に楽しかった。久しぶりに人と話す喜びを思い出せた気がする。またいつか、今日と同じようにお茶会を開き、皆様を招こう。そうして皆様との距離をもっと縮められたら。
片付けをしていると、突然、食堂の扉がゆっくりと開く音がした。誰だろうと思い、その方に目を向けると、アナベル様が扉の間から中を伺うようにこちらを覗いていた。
「アナベル様?」何か忘れ物でもしたのだろうか、と疑問に思って声をかけると、アナベル様は私の姿を認め、そのまま中へ入り、こちらの方に歩いてきた。
「本日は素晴らしい場にお招きいただき、ありがとうございました」綺麗な姿勢で礼をされる。「ご用意していただいたものは、どれも本当に美味しかったですわ」
「いえ、こちらこそ、来てくださってありがとうございました! 私も皆様とお話することが出来て、とても楽しかったです」
もしかして、お礼を言う為に戻ってきたのだろうか。もう既に、お見送りをする際にいただいているというのに。その時は他の方と一緒に形式的なお礼の様になってしまったのを気にして、わざわざ改めてお礼をしたかったのだろうか。なんとも律儀な人だ。それに今日、成功したのは半分以上がアナベル様のお陰なのに。
けれど、アナベル様の姿を見られて、少し寂しさは紛れていた。
「あなた、これをお一人で片付けるつもりなのですか?」アナベル様がテーブルにまだたくさん残った食器を見て言った。
「ええ。食堂の方はこの後の夜ご飯の仕込みで忙しいですし、それに元々、私の我儘で貸していただいた場所です。お手を煩わせるわけにもいきません」
「お手伝いいたします」
アナベル様はテーブルの上の食器をトレイに乗せ始めた。
「えっ」私は慌ててそれを止めた。「そ、そんな! 悪いですよ! 私が主催したのですから、私がやります!」
「ですが、一人では大変でしょう。遅くなると食堂の方にも迷惑が掛かりますよ」
「急いでやるので、大丈夫です! お客様にそのような真似をされると、ホストの名誉に傷が付くでしょう? それと同じです。ここは私にやらせてください!」
アナベル様は暫く何も言わなかった。わかってもらえたのだろうか。そう思っていると、また食器に手を伸ばし始めた。「では、こちらで勝手にやります」
「あっ、もう、駄目ですよ!」
結局、押し切られる形でアナベル様に手伝ってもらう事になってしまった。実際、お茶会に招待したのは10人程で、それくらいなら洗い物も含めてもそれほど大変では無かったのだが。とはいえ、手伝ってもらえた事で多少なりとも助かったのは確かだし、それに、片付けをしている間、またアナベル様とお話が出来たのは嬉しかった。
――良い事があれば誰かと分かち合いなさい。そうすれば、嬉しさや喜びが倍になります。そして誰かが困っているとき、それも分かち合ってしまいなさい。そうすれば、辛さや苦しさは半分になります。
ふと思い出される、アナベル様が以前言っていた言葉。アナベル様のお母様からの言葉だというそれは、きっとアナベル様の生き方の規範となっているのだろう。
「ありがとうございました。片付けまで手伝っていただいて」
「申し訳ございません」アナベル様は何故か謝罪した。その理由がわからず、私が頭を傾げていると、はにかんだような笑顔を見せた。「あれこれ言ってしまったけれど、それはただの口実で――本当は、あなたともう少しだけお話がしたかったのです」
心臓が跳ねるように高鳴った。
わかってやっているのなら、アナベル様は狡い人だ。わかっていないのなら、本当に狡い人だ。その笑顔が、その仕草が、どれだけ人の心を揺さぶるのか、本人は理解しているのだろうか。
そもそも、口実なんて。最初からそう言ってくれれば、手伝いなんてしなくともいくらでもお話するのに。寧ろ、こちらからお願いしたいくらいなのに。
「突然そのような締りの無い顔をされて、一体どうなされましたの?」
アナベル様の怪訝そうな視線が突き刺さる。
そんなに変な顔をしていたのだろうか。けれど、突然あんな事を言うアナベル様も悪いのだ。
私は頬を押さえ、顔を背けた。「な、なんでもありません!」
「そう」アナベル様は淡々とそれだけ言った。そして、くつくつと笑いながら続けた。「それにしてもあなた、平民が背伸びしてここに通うよりも、実家でパンを作っていた方がよろしいのではなくて?」そして、次はくすりと笑った。「あれだけ美味しいパンを焼けるのですから。勿体ないですわ」
言われて、私はハッとした。そういえば、入学したばかりの頃はあれほど家に帰りたいと思っていたのに。貴族ばかりの学校に通うよりも、ずっと家でパンを焼いていたいと思っていたはずなのに。今ではそう思う事も少なくなっていた。
私は、この学院生活が好きになり始めていた。
8
聖女と言っても、どうも万能ではないらしい。
いや、当たり前だ。聖女の力があると判明してから、一度も万能感を得た覚えもないし、そもそも自分自身でも何が出来るのだろうかと、いまいち把握しきれていない部分の方が多いくらいなのだ。
聖女の力の一つに人を癒す力があるらしい。しかし、それはどうも自分の身体にまでは及ばないようだ。そもそも他人を癒す魔法さえまだ覚えていないのだから当たり前なのだが。医者の不養生、いや、聖女の不勉強とでも言うべきか。とにかく私は体調を崩してしまっていた。
今はお昼くらいだろうか。実家にいた頃はこうして風邪に罹ると、ママが傍で看病をしてくれたけれど、今は誰もいない。今日は普通に授業がある日で、寮の殆どの生徒も授業に行っており――いや、そもそも、平民の私の事を気にする人など元々いないから――当然、私を訪ねてくる人などいるはずもなく、朝からずっと一人で寝込んでいる。
一人ぼっちは入学してからずっと変わらないはずなのだが。体が弱っているせいか、いつも以上に不安と孤独感が私を苛んでくる。
――このまま、誰にも気に掛けられることも無く、一人で衰弱して死んでしまったらどうしよう。
そんな風に、どうしても良くない方向へと考えてしまう。
暫くすると、同じ大きさでノックする音が二度響いた。
誰だろう――返事をしようにも、喉が痛い。起き上がろうにも、身体が重くて動けそうにない。
どうしようかと悩んでいると、ドアの外から綺麗な声が聞こえてきた。「失礼いたします。チェルシー様、おりますの?」
いくら朦朧とした頭でもこの声を聞き間違えるつもりは無い。アナベル様だ。すぐに起きなければ――そう思い、重い身体を起こし、よろめきながらも足早にドアまでたどり着いた。そしてドアを開けた勢いで、急にふらついた私はそのまま、部屋の外にいたアナベル様に支えられた。
「アナベル、様」辛うじて出た声は、かすれていた。
何故来たのだろうという疑問に、人が来たという安心感と、みっともない所を見せてしまったという羞恥が、熱に浮かされた頭でぐるぐると混ざり合う。
直後、額に冷たいものを感じた。見ると、アナベル様の手が私の頭の方に伸びている。これはアナベル様の手の感触――そこまで思考出来たとき、水面に波紋が広がるかの如く、額から全身にかけ、さらに熱が回っていくような感覚に陥った。
「熱がありますわね」アナベル様が顔を顰めた。「やっぱり、あなた、体調が優れないのですね?」
「申し訳、ございません」
「無理をなさらないで。寝ていてくださいませ」いつもとは違う、優しさを多分に含んだ声色だった。
私はそのまま手を引かれ、ベッドまで誘導された。言われるまま横になると、アナベル様はブランケットを私に掛け、はぁ、と小さなため息を吐いた。「いつも授業は真面目に受けているあなたが、魔道学概論の授業で姿が見なかったので、心配になって見に来たのです」
――心配。アナベル様が。
辛うじて言葉の内容を把握する事は出来たが、裏腹に頭はまるっきり回っていない。それが熱の為に靄がかかったような頭の所為か、それともアナベル様に触れられたからなのかはわからない。
――アナベル様が私を心配してくださった?
まさかアナベル様に心配していただけるとは。今までもアナベル様には幾度となく助けられているが、こうして素直に心配だったと伝えられるのは、やはり嬉しいものがある。
「申し訳ございません。却ってお邪魔してしまったようですわね」アナベル様はブランケット越しに私の肩を二度、軽く叩いて言った。「すぐに出ていきますので、今日はゆっくりお休みくださいませ」
思わず引き止めそうになった。全く邪魔になっていないし、寧ろ今は傍に誰かいて欲しい。けれど、アナベル様に風邪をうつすわけにもいかないし、何よりもこの後、アナベル様は授業がある筈だ。
「はい。あの、心配して下さって、ありがとうございます」後ろ髪を引かれながらも、私はそう言った。
無理を言って引き留めるような真似は出来ない。アナベル様は心配そうな表情を見せながらも、そのまま退室していった。
再び、部屋が静寂に包まれると、やはり一人は心細かった。アナベル様が来たのはほんの僅かな時間だけだったが、それでもその僅かの間だけは、不安を忘れられることが出来た。
だから、そのせいか、改めて一人になると、途端に弱々と心が落ち込み萎んでいくのがよくわかる。アナベル様のせいだ。アナベル様があんなに優しいから、こんな気持ちにならなければならないのだ。
アナベル様が、アナベル様が、アナベル様が、アナベル様が、アナベル様が――
ぐるぐるとアナベル様の名前が頭の中で渦巻く中、私の意識は昏々と深い場所へ沈んでいった。
コン、コン――
つい数刻前に聞いたものと同じ、木を叩く音が綺麗に響き、私は意識を覚醒させた。
「チェルシー様、起きていますか?」ドアの外側からアナベル様の声が聞こえる。
身体を起こそうとするが、それよりも早くアナベル様は部屋の中へと入ってきた。左手でバランス良くトレイを持ち、「失礼いたします」と器用に頭を下げた。
「返事も待たずに申し訳ございません。どうぞ、そのまま横になっていてくださいませ」
「アナベル様」
「お昼になりましたので、消化に良い軽食と、お薬を持ってまいりました。召し上がる元気はございますか?」
私はこくこくと二度頷いた。
アナベル様はそれを認めると、相好を崩し、安心したような表情になって私の傍まで来た。そのまま、私の寝るベッドの縁に腰掛け、膝の上にトレイを乗せた。
「ありがとう、ございます」
アナベル様が膝のトレイから蓋を取ると、そこから如何にも美味しさを主張するような湯気が上がった。食欲は無いと思っていたが、その良い匂いは矢庭にお腹がすく感覚を思い出させた。
トレイの中身は、どうやらポリッジ(燕麦のミルク粥)のようだ。
これは私が見ている夢か、はたまた高熱が見せる幻覚だろうか。眠る直前までアナベル様の事を考えていたから、都合の良い夢でも見ているのかもしれない。アナベル様が、ママと一緒に出てきたような、ママのようになった、そんな幻覚。
アナベル様はスプーンでポリッジを一掬いすると、左手で髪を抑えながら、ふぅ、ふぅと何度か息を吹きかけた。その仕草がやけに艶めかしく見える。
「どうぞ」アナベル様がスプーンを私の前に差し出して言った。
不謹慎かもしれないが、こうも手厚く看病されると、体調も崩してみるものだと思ってしまう。もちろん良くない考えだとはわかっているのだが、心身共に弱っているこの状況にこの甘さは心地よすぎる。
本当ならば、「自分で食べられます」と、意地を張ってみせる場面だろうか。けれど、今の私にそんな事は出来なかった。頭が回らない。貴族の方に世話をされている事や、アナベル様に弱みを見せたくないという想いは留守になっているらしい。とにかく、この優しさに全てを委ねたくなった。
スプーンが更に口の近くまで運ばれた。
「はい、あーん」アナベル様が子供をあやすような口調で言った。
私が静かに小さく口を開けると、実に器用に、唇や歯に触れる事も無くスプーンは私の咥内に侵入してきた。
「熱くないですか?」アナベル様が尋ねた。
私は頷いて答えたが、熱さなんてわからない。味もわからない。
――アナベル様の吐息がかかったお粥が、私の口の中に――
やはり、どうも私は熱に浮かされてしまっているらしい。変な考えが過ってしまう。これでは変態みたいだ。急いで頭を切り替えて、邪念に塗れた頭を綺麗にする。
折角看病してもらっているのに、却って熱が出てしまったような気がする。私が勝手に墓穴を掘っているだけなのだが。
アナベル様の用意してくれたポリッジはすぐに完食してしまった。時間にしてみればそれ程早食いをしたつもりもない。ただ、体感的にはあっという間だった。
「これだけ召し上がる元気があれば、大丈夫そうですわね。このまま温かくしてお休みくださいませ」アナベル様は言うと、立ち上がり、ブランケットを肩までかけてくれた。「それでは、わたくしは午後の授業もございますので、そろそろ失礼いたします。寝込んでいるところ、お邪魔いたしました」
――行ってしまう。そう思うと、私は無意識のうちにアナベル様に手を伸ばしていた。
「行かないで」ドレスの袖を摘まんで、そんな弱々しい声が出た。
困らせてしまっただろうか。アナベル様の表情はこちらからは見えない。私は急に恥ずかしくなり、毛布を顔までかぶった。けれど、すぐに再びベッドが沈む感覚がして、毛布から少しだけ顔をのぞかせると、優しげな笑顔を見せるアナベル様がいた。
「どこにも行きませんわよ」アナベル様の手が私の額に触れた。ひんやりとした感触が心地良かった。
そのまま、柔らかな手つきで髪をかき上げるようにして何度か撫でられると、その度、冷たい指先は私に安心感をもたらした。私の熱を奪い去る指先――ガラス細工よりも透明で細く精緻な指先。私の熱はこの指に全て吸い込まれて、新たな別の熱に入れ替えられる。
体調が戻ったら、お礼をしなければ。またパンを焼いてこよう。甘いものが好きなアナベル様の為に、今度はうんと甘いケーキもいいかもしれない。元気になったら――
そのまま、再び私の意識は微睡からより深いものへと沈んでいった。
目を覚ました時には、アナベル様はいなくなっていた。どれほどの時間眠っていたのだろうか。わかるのは、カーテンの隙間から見える暗闇と、肌で感じられるほどの夜の静寂だけだった。
体調は概ね元に戻ったようだ。身体の重さも消え、頭もすっきりしている。
そのすっきりした頭でアナベル様が看病に来た時の事を思い出すと、自分がどれほどとんでもない事をしでかしたのか、はっきりと自覚できる。
その上、アナベル様の都合も考えずに、あんな我儘を言って引き留めてしまうなんて。一つ思い出す度に恥ずかしさが込み上げてくる。
明日には必ずお礼を言おう。その為にも今はしっかり休んで、身体を万全に整えなければ。
朝の鐘が鳴ると、私はすぐに身支度を済ませ、学院へと向かった。まだ授業まで少し時間がある。いつもならばもう少しゆっくりするのだが、居ても立っても居られなくなったのだ。
学院への短い道のりの間も、私は常にアナベル様の姿を探し続けた。教室に入ると、談笑している一団が見える。そしてその中に、私が探していた人もいた。
どう声を掛けよう――そう悩んでいると、私に気が付いたアナベル様が視線をこちらに向けた。
「お加減はもうよろしいのですか?」
「はい! お陰様で、すっかり元気になりました!」私は努めて元気に返事をした。
「そう」アナベル様は目を閉じてほっとしたような表情を見せると、すぐにいつもの表情に戻り、唇を突き出して言った。「全く、これだから平民は。自己の体調管理すら、平民には難しいことなのですね」
こんな憎まれ口も、最早愛おしくさえ思えてくる。
「あの、ありがとうございました!」
「お気になさらず」アナベル様は人差し指を立てて言った。「近頃はめっきり冷えますから、温かくしてください。学院から寮に帰った時はうがいと手洗いを忘れずに。それから空気も乾燥しておりますので、適度に水分を取って、のどを潤してくださいませ」
本当にママみたいだ。その様子に、私が学院へ行く直前、同じように私を心配してあれこれと言ってきたママの様子を思い出す。
自然とくすりと笑いが零れる。「ありがとうございます。このお礼は、必ず致します」
「平民がご無理をなさらずとも結構です」
「またケーキを焼いてきます」
「ケーキ」
アナベル様の目が輝いたのが分かった。
その様子に笑顔を見せると、アナベル様はこほん、と小さく咳を一つした。「それよりも――」半目になって私を見た。「昨日休んだ授業の分は、後ほど、きっちりと補習いたしますから。そのつもりで」
「はい!」
その後、授業を全て終えると、アナベル様達に休んでいた分の授業の範囲を教わった。その時に他の方から聞いた話では、アナベル様は昨日、午後の最初に授業に少し遅刻してきたらしい。皆様は珍しい事もあるものだと、理由を尋ねていたが、アナベル様ははぐらかして何も言わなかった。けれど、十中八九私の所為だろう。
私なんかよりも、ずっと聖女のようなお方だ。
やはり、私はいつかアナベル様の隣に立ちたい。分不相応だとはわかっているけれど、それが叶えばどれだけ幸せだろう。
――そして私があなたを求めるように、いつか私もあなたに求められたい。
9
「分を弁えない平民が、まだこの学院を去っていなかったのですね」アナベル様は不愉快そうな視線を私に向けて言った。「わたくしがあなたの立場でしたら、己を恥じてすぐにでも自主退学いたしますが」
少しは距離が縮まったと思っていたが、やはりアナベル様にとって私は目障りな平民でしかないようだ。その事に胸が痛くなる。
しかし、これは貴重なアナベル様が私に話しかけてくれる時間でもある。もし、私が平民ではなく、例え末端だとしても、貴族の生まれだったとしたなら、今の様に――例えそれが悪意でも――私に構う事など無かっただろう。そう思うと、自分が平民で会った事に感謝したくなる。
けれど、いずれは友人として――そんな身に余る願望も抱いてしまっている。
「アナベル様にお会いしたいので」そんな一言が言えたら、どれだけよかったろう。友人になりたいと、はっきりと言えたら、きっと何かが変わるかもしれないのに。
けれど、その変化が良いものとは限らない。もし拒絶され、今以上に溝が深まってしまえば、私はきっと立ち直れない。だから、今はこうして愛想笑いを浮かべてやり過ごすしか出来ない。胸の痛みに知らないふりをしながら。
そんな私の思考を遮るように、男性の声が響いた。「何をしている、アナベル」
王太子殿下だった。その声色や視線に険しいものが混ざっている事に気が付いたのか、皆様は委縮したように身を震わせた。王太子殿下はこの学校で数少ない、アナベル様よりも立場が上の人物の一人だ。しかし、それでもアナベル様だけは怯む様子もなく毅然としていた。
「殿下。ごきげんよう」アナベル様は恭しく礼を取った。
しかし、王太子殿下はそれを一瞥すると、さらに厳しい声で言った。「アナベル。よもや、平民という理由だけでチェルシー・ベイカー殿を迫害しているのではあるまいな」
「そうです。わたくしは、平民がこの歴史ある学院に通っている事が許せないのです。彼女自身は好ましい人物でありますし、もし貴族として生まれていれば良き友人になれただろうとは思わなくもありませんが、貴族は貴族、平民は平民ですわ」
その言葉は鋭く私の胸に突き刺さった。やはり、ただの平民では貴族の方と友人にはなれないのだろうか。決して踏み越えることが出来ない大きな壁――立場で全てが決まるのならば、私自身は好ましいと言われるよりも、いっそ私自身を嫌ってくれていた方が楽だった。平民や貴族など関係なしに、私が気に入らないと言われた方が、こんなに胸が苦しくなることも無かったのに。
もしも――あの時、貴族の養子になる話を断らなければ、今頃アナベル様とはこのような関係ではなく、友達同士として笑い合えていたのだろうか。
「チェルシーさんを入学させると決めたのは我が父――つまりは国王陛下だ。其方は王の判断が間違いだったと?」
「いえ、そのようなつもりはございません。彼女は非常に優秀ですし、聖女としての勉強をするのもこの学院よりも相応しい場所は無いでしょう。偉大なる国王陛下のご判断に間違いはございませんわ」
「では、其方が個人的に気に入らないと?」
「概ねその通りですわ。陛下のご意思に逆らうようで心苦しいのですが、元々この学院は平民が通うような場所ではございません。それに、突然聖女と祀り上げられて家族と離れ離れになり、好きだった家業を継げなくなった彼女の気持ちを考えた事がございませんか? あまりに酷すぎます」
その言葉に、私は俯いていた顔を上げてアナベル様を見た。
私が聖女だと発覚した際、様々な貴族の大人がやってきては、皆、聖女である事や、この学院に入学出来る事を大変な栄誉であるというふうに言ってきた。まるで、私自身がそうであることを喜んでいると信じ、疑いもしていない様子だった。実際は突然そんな事を言われて混乱していたし、状況を理解してからも嬉しさなんてちっともなかったのに。アナベル様だけは、それを最初から理解してくれていたというのだろうか。
――いや、やはり、いつもの様子を思い出すと、平民に対して思う所はあるのだろう。
しかし、平民を下賤な者として、貴族に交わることを許さないという価値観をもってしても、困っている者がいるならば、それが例えその嫌っている平民でも手を差し伸べずにはいられない。それが彼女の持つ本来の優しさなのだろう。その現金掛け値の無い純粋な優しさに私は何度も助けられた。
今はそれが少しだけ苦しい。
「ならば猶更、慮って優しく助けてやるべきだろう。それを、平民という理由だけで虐げるとは」王太子殿下は顔を顰めた。「幻滅したぞ。其方がまさかこのように酷い女だとは思わなかった」
「あ、あの、王太子殿下!」私は堪らず、殿下からアナベル様を庇うように前に出た。
私は相変わらず泣きそうだし、まだ気持ちは暗いままだ。けれど、今の王太子殿下の言葉だけはどうしても看過できなかった。アナベル様が酷い女などと誤解されるのは我慢ならない。
「無礼ですわよ、殿下の御前で」後ろからアナベル様の厳しい声がかかる。
しかし、殿下はそれを手で制した。
「よい。ここは学院であって、王宮ではない」私に向かってこくりと頷いた。「続けてくれ、チェルシーさん」
勢いで割って入る形になってしまったが、やはり緊張する。相手はこの国の王子様だ。粗相があってはいけない。私は一度大きく息を吸うと、見様見真似でアナベル様がしていたように、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。その、これは私たちなりのコミュニケーションと言いますか」
「何、そうなのか?」
「ええ。傍から見れば仲が悪いように見えるかもしれません。ですが、一線を越えて酷い事は言われたことがありませんし、それに、皆様はいつも平民である私を気にかけてくださって、何度も助けられているんです。以前も、風邪に罹って寝込んでいた私を、アナベル様は付きっきりで看護して下さました」
「なんと」王太子殿下はそれに驚いた表情になると、沈痛な面持ちで続けた。「私の早とちりだったというのか……。すまない、アナベル。私は其方の名誉を不当に貶めてしまった。如何様にでもしてくれ」そして、アナベル様に向き合うと、深く頭を下げた。
「おやめください、殿下!」アナベル様は慌てた様子で王太子殿下の行動を止めようとした。「殿下のおっしゃられる事は間違いではありません。わたくしは多少なりとも、彼女を貶める意思がございました。先ほども述べた通りに、如何に国是とはいえ、平民がこの学院に通う事を良く思っておりません」
アナベル様は胸を張って言う。正直なのは良い事だし、私はそういった所も好ましく思っているが、今回ばかりは私の話に合わせて欲しかった。
「で、ですが、私は皆様にはいつも良くして頂いております!」
「わたくしは平民を厚遇したつもりなどございません」
――ああ、もう!
「ですが!」私も思わず声を荒げてしまう。
「待たれよ」王太子殿下は言い合いになりそうな私とアナベル様の間に入って言った。そして、アナベル様の方に視線を送って言った。「アナベル、彼女に謝罪しろ」
アナベル様は険しい表情を見せた。しかし、やはり王太子殿下には逆らえないのか、すぐに私の方に身体を向け、「わたくしはあなたが平民であるというだけで、あなたの名誉を不当に傷つけてしまいました」真剣な表情でそう言った後、深く頭を下げた。「誠に申し訳ございません」
「やめてください! アナベル様が謝る事なんて何一つありません!」私はすぐにそれをやめさせた。その勢いのまま、私もアナベル様に向かって頭を下げた。「こうなったら、私も謝ります。アナベル様に頭を下げさせてしまい、ごめんなさい!」
かなり混乱して、自分でも訳の分からない事をしてしまったと思う。アナベル様も王太子殿下も、他の方も皆、何が何だかわからないような表情をしている。しかし、アナベル様に謝罪していただく必要は無いのだ。謝罪されてしまっては、これまでにしていただいた行為全てまで間違っていたと言われているようで、それはとても寂しい。
妙な空気になっている中、王太子殿下が笑いを零すと、今度はそちらに視線が集まった。「お互いに謝り合って、これで仲直りだな」そう言って満足そうに頷いた後、アナベル様へと向き直った。「アナベル、私も厳しい言い方をしてすまなかった」
「おやめください、殿下。殿下は間違った事は仰っておりません。ですので、そう簡単に謝罪をなさるのはおやめくださいませ……」
「いや、それでは私の気が済まん」
「ですが、殿下のような尊きお方に、これ以上頭を下げさせるわけには」
「では、こうしよう。詫びに今度、甘味をご馳走する。それで手打ちにしてくれるか?」
「甘味」アナベル様の目が明らかに輝いている。「殿下にそのように言われてしまっては、断れるはずもございませんわね」
お二人の会話をする様子を見ながら、私は胸に靄のかかる心地だった。
殿下は優しいお方だ。非常に高貴なお方なのに、それに驕る事無く、学院にいる間は平等だからと、誰にでも分け隔てなく、いつだって穏やかな表情を見せているようなお方だ。しかし、今、殿下のアナベル様を見つめる目は、他に向けるどんな視線よりもずっと慈しみを含んでいる様に見える。
今回も、実は謝罪にかこつけてアナベル様と出かける口実が欲しかっただけなのではないだろうか。それも、甘いお菓子で釣るような真似までして。
眉目も麗しく、勉学も優秀な正しく才色兼備な王太子殿下。
いつも私を気遣ってくれているのは理解できるし、その事をありがたいとも思う。しかし――
いずれ、アナベル様と結ばれ得る人。その事が喉に閊えて、どうしてもこの人を好きにはなれなかった。
10
学園の中庭ではブルーベルが綺麗に花をつけている。
アナベル様の瞳と同じ色を持つそれが、風にさわさわと揺れる様子をぼうっと見つめながら、私は考え事をしていた。
――アナベル様達と友人になりたい。
以前からずっと想っていた事だ。日ごとにその想いは強まっていき、いよいよ自分では抑えられない程に膨れ上がっていた。
けれど、ついこの前、アナベル様は、私が貴族の生まれであったなら良い友人になれたかもしれないと、そう言っていた。それが意味するのは、平民とでは決して友人になれないということ。
アナベル様はこの国有数の貴族のご令嬢だ。そしていつもアナベル様の周りにいる友人の方々も、皆家格の高い方々ばかりだ。それに対して私は平民で、ただの片田舎のパン屋の娘。あまりにも住む世界が違っているのはわかっている。
対等の友人になれる筈なんてない。叶う事がない望みである事は理解している筈なのに。
けれど、私は期待してしまっている。
――本当に、平民と貴族では友人にはなれないのでしょうか。
それでも、あの優しいアナベル様なら――もしかすると、こんな私でも受け入れてもらえるのではないだろうか。
今まで貴族になりたいと思った事は無かった。そもそも関わる事も無ければ、雲の上の人という認識で、どういう方たちなのかというのもあまり考えた事もなかった。
けれど、この学院で様々な方と知り合って、貴族の方も私と同じ人間なのだと知った。嬉しければ笑い、悲しければ泣き、怒り、ケーキに一喜一憂して、恋をする。どこにでもいる普通の少女と何も変わらなかった。
今は少しだけ貴族の方が羨ましい。けれど、貴族になりたいというわけでは無い。
アナベル様の顔を思い浮かべて、青い花が咲き誇る中に二人で寄り添い合う姿を幻視した。
それが私の、本当に望むもの。
このままでは厭なのに、勇気は出ない。どうすれば良いのかもわからず、気持ちは八方塞がりだった。
重たい気持ちのまま、朝の授業の為に教室へ向かうと、談笑をしながら歩いているアナベル様の姿を見つけた。
もしかすると――
自分にそう言い聞かせて、頭の中で何度も練習した言葉を口にした。「皆様、おはようございます」
しかし、そんな私に対する反応は冷ややかなものだった。
「ごきげんよう。なんです、平民の癖に馴れ馴れしい」アナベル様が冷たい口調で言った。
「ごきげんよう。そうですわ、立場を弁えてくださいませ」すぐ後ろを歩いていたリリー様もそれに同調するように言った。
一応挨拶は返してもらえたが、その直後には、やはり身分の違いを感じさせる言葉が続いた。けれど、こうして言葉として現実を突き付けられると、それを強く実感してしまう。気が付けば私の頬に雫が伝っていた。
「ちょっと、どうなさいましたの」アナベル様は慌てた様子で言うと、私に駆け寄ってきた。
「い、いえ……」私は涙を拭きながら言った。
しかし、拭っても拭っても、止め処なく涙が溢れてくる。そんな私を見かねたアナベル様は私の手を引き、ベンチまで誘導して、そこに私を掛けさせた。アナベル様も私の隣に座り、ハンカチを渡してくれた。「ほら、こちらをお使いください」
そのまま、私の背中をさすってくれた。他の方々も、心配そうな表情で私を見ていた。
「お腹でも痛いのですか?」リリー様はそう言って、「ええと、腹痛を抑えるには――」と、分厚い本をめくり始めた。
やはり、皆、口では色々言うけれど、とても優しい方々ばかりなのだ。けれど、今はその優しさが辛い。
「すみません。なんでもありません」私は首を振って言った。「後は一人でも大丈夫なので、皆様はもう行ってください」
「そんなはずはないでしょう。一体、どうされたのです」アナベル様はそう言ってから、苦い表情になった。「――いえ。先ほどのわたくしの言動が理由なのは明白ですわね」後悔し、自分を責めているような表情だった。「申し訳ございません。チェルシー様――」
「違います!」私はそれを遮って否定した。
言葉は引き金になっただけで、本質はもっと別の事にある。平民だと見下されることが辛いのではない。平民と貴族では友人にはなり得ないというのなら、その事実が辛いのだ。
私の言葉に、アナベル様は首を傾げた。「では、何が原因なのですか? わたくしではないのですか?」
「それは、違うような、違わないような」
「はっきりしませんわね。平民が隠し事など、許しませんわよ」
――隠し事。
隠していたつもりはない。けれど、口にしなければそれは隠しているのと同じだ。私はまだ一度も本心を曝け出せていない。最初から無理だと一線を引いて、ずっと現状に甘んじてきた。
私はもう一度だけ涙を拭うと、アナベル様をじっと見つめた。返ってくるアナベル様の視線は、疑問の色に満ちている。
――勇気をください、アナベル様。
正直なアナベル様。きっと、その言葉は全て本心からのもので、嘘はないのだろう。
私は先ほどアナベル様に引かれた方の手をそっと口許に当てて、大きく息を吸った。
「――私は、皆様とお友達になりたいんです」私は正直にそう言った。
「平民とお友達に? 冗談ではありませんわ」リリー様が言った。「ですよね、アナベル様」
やはり、無理なのだろうか――そう思っていたが、アナベル様が何も言わなかったことに気が付いた。
「アナベル様?」リリー様もアナベル様の反応を不思議に思ったのか、伺うような視線を向けていた。
当のアナベル様は口許を扇で隠しながら、何かを考え込むようなそぶりを見せていた。
「いえ。少し考えていたのですが」暫くして、ゆっくりと話し始めた。「相手が平民だからと、それだけでお友達になれない理由はあるのでしょうか」
その言葉に、他の方々もハッとした表情を見せた。その反応を確かめた後、アナベル様はさらに続けた。「大事なのは、生まれの貴賤よりも、その人そのものの資質ではないでしょうか。今までは勝手に平民とお友達になどなれないと思い込んでおりましたが、そうではないのかもしれません」
「確かに、同じ人間ですのに、お友達になれる方とお友達になれない方がいるというのもおかしな話ですわね」アナベル様の言葉に、リーナ様が口許に手を当て、考え込むような素振りで言った。
それに同意するように他の方々も頷き始めた。これは、もしかして――
「ええ。わたくしはこの半年ほどで、チェルシー様のことをたくさん知りました。その人柄がとても好ましいことも。それに、近頃はこの学院に相応しい成績を収めるようになりました。それは彼女の弛まぬ努力によるものでしょう。今までは平民というだけで見下しておりましたが、どうも愚かな過ちを犯してしまっていた気がしてなりません。その事に気が付いた今、わたくしの心はチェルシー様とお友達になりたがっております」
「本当に、その通りですわね。生まれはどうあれ、今は同じ場所にこうして立っているのです。お友達になれない道理など、ございませんわ!」リリー様が声高に言った。
それにミーシャ様が何度も頷きながら言った。「同じケーキ同盟の仲間ですもの! 同じものがお好きなのだから、お友達になるのだって簡単ですわ!」
おお、と歓声まで聞こえる程、何やら凄い盛り上がりを見せている。私も先ほどまで溢れていた涙はすっかり枯れ、代わりに胸の内から暖かな気持ちが溢れて止まらなかった。
人生でこれ程までに嬉しい事があっただろうか。半ば諦めかけていた。住む世界が違うと、自分に言い訳をして。けれど――
皆様の視線がこちらに向いていた。どの方も、いつもよりもずっと穏やかで、慈しみを湛えた表情をしている。
アナベル様も同じで、けれど、その瞳にはどこか不安げな色を宿している様にも見えた。「チェルシー様、こんなわたくし達でも――あなたに、幾度と酷い事を言ってしまったわたくしでも――本当にお友達になっていただけるのですか?」
「酷い事なんて、言われたことがありません!」私は大きく首を振って言った。「いつも助けて頂いて、私は皆様に本当に感謝しているんです。お優しい皆様が、私は大好きなのです! お友達になりたいんです!」
「そう」アナベル様はそう言って、静かに目を閉じた。そして、私に向かって頭を下げた。「では、これまで、大変失礼な態度を取ってしまったことを、まずは謝罪させてくださいませ」
「そんな――」謝っていただく必要などありません。そう言おうとしたところで、アナベル様は更に言葉を続けた。
「それから、非常に大切な事を気付かせてくださいましたことに感謝をいたします。そして、改めて――これからは対等のお友達として、よろしくお願いいたします。チェルシー様」アナベル様はそう言って、私の手を両手で包んだ。
それから、他の方々からも、同じように「よろしくお願いいたします」と礼をされた。
「こちらこそ、です! これからも皆様に助けてもらう事があるかもしれませんが、少しでも早く立派な聖女となれるように精進いたしますので、どうかよろしくお願いします」私は大きく頭を下げて言った。言いながら、また涙が溢れてきた。勿論、先程のものとは全く違う涙だ。
「まぁ、今度は一体どうなされましたの?」
「嬉しくて、涙が止まりません」
「泣き虫ですわね、あなたは」くすくすと、呆れを含んだように笑ってアナベル様が言った。
――ああ、良い香りだ。
突然そう思ったのは、頭を包むように抱き寄せられ、そのまま優しく撫でられたからだった。その事に気が付いた時、嬉しくて涙が止まらないとか、そんな事は言っていられなくなった。
悲しんだり、嬉しくなったり、そうだと思えば、今度は――この感情は、何だろう。嬉しいのは間違いない。アナベル様に抱き締められて、嬉しく思わない人がいるとも思ない。それから、少し恥ずかしい。皆様の前で子供扱いされているようで、なんとも言い難い居た堪れなさを感じる。それから、心地良いような、安心するような気持ちと同時に感じる、力が抜けるような、それとも逆にお腹の中がきゅっと締め付けられるような感覚。微かに感じるアナベル様の鼓動は、教会の鳴らす鐘の音のように規則正しいのに。裏腹に私の心臓は完全にペースを乱している。
ドキドキ、ドキドキと。柔らかな体温を肌で感じながら、私の感情も忙しなく揺れ動かされている。
11
近頃、学院に通うのがとても楽しい。
今までも楽しくなかったわけではないが、最近は朝に目覚めると、まず皆様に会えるのが楽しくて仕方が無いし、休息日には少し寂しさを感じるほどだ。
あの日以来、私の交友関係は一気に広がった。アナベル様は非常に交友関係が広く、またその友人方も、「アナベル様のご友人という事は、わたくしのご友人でもありますわ」という事で、今まであまり関りの無かった方からも挨拶をされるようになっていた。
授業ではアナベル様の近くに座れるようになったし、雑談にも自然に混ぜてもらえるようになった。
貴族の令嬢とはいえ、皆やっぱり年頃の女の子だ。よく話題に挙がるのは、恋愛の話や見目麗しい殿方の話。
「チェルシー様はどのような殿方がお好みなのですか?」リリー様は興味深そうな視線を私に向けた。
少し考えてから、私は言った。「私は、パパ――お父様のような方、でしょうか」
正直な所、それが好みの男性かどうかもわからない。別にパパの顔が好みだとか、見た目や性格がかっこいいと思っている訳ではない。パパは優しいし、力持ちで頼りになって、ママの事をしっかり愛しているのがよくわかるから、そんな人と結婚したら、私もきっと幸せになれるのだろうという程度の、漠然とした、好みとも言えないようなものに過ぎなかった。
けれど、他に好みらしい好みも思い浮かばない。私に優しくしてくれる王太子殿下や、他の令息の方も皆一様に麗しい眉目をしているのは私にも理解できる。しかし、それが恋愛に繋がるかと言えば、どうしてもそうなるところは想像できないというのが本音だった。
「まぁ、チェルシー様ってば、随分とおぼこなのですわね」リリー様が楽しそうに笑って言った。
それを受けて、また別の方が言った。「あら、わたくしも初恋はお父様でしたわよ?」
「ジェマ様のお父様は素敵な方ですもの! わたくしのお父様なんて……」
それから、次第に家族の話題へと変わっていき、ある方のお父様は素敵、またある方のお兄様は大変かっこいい、なんて話で盛り上がっていった。中でも、アナベル様のお兄様は非常に整った眉目をしており、令嬢たちの憧れの的らしい。残念ながら、既に婚約者がいるそうだが。
私に恋愛はまだ早いのだろうか。恋をして、結婚したい相手を思い浮かべようとすると、どうしてもアナベル様のお顔が真っ先に出てくるのだ。
普通は男性を思い浮かべるものなのだろうが、ずっと一緒にいるならば、私はアナベル様が良い。物語に登場する勇者の様に強く勇ましく、見目麗しく、地位があろうとも、アナベル様の魅力には叶わないのではないだろうかと思う。
――もしかして、私はアナベル様を愛しているのだろうか。
ここに来てようやく気が付いた。いつもアナベル様の事を真っ先に考えてしまうし、アナベル様と他の方が――特に王太子殿下が――仲睦まじくされているのを見る度に、胸に痛みが走り、アナベル様が近くにいると、それだけで体温が上昇する。こんなに触りたいと思うのも、触られたいと思うのも、アナベル様だけだ。それらの正体が、まさに愛によるものなのだとしたら――
「アナベル様のような方も、良いなと」私はおずおずと言った。
今まで殿方の話をしていた中に放り込まれた名前に、少しだけ呆れたような笑いが起きた。
「もう、チェルシー様ってば、今は理想の殿方のお話ですのよ?」ジェマ様がくすくすと笑い、その後でうんうんと頷いた。「ですが、わかりますわよ」
「そうですわね。アナベル様が殿方でしたら、わたくし絶対恋に落ちておりましたわ!」リリー様が力強く言った。
「わ、わたくし、アナベル様でしたら、女同士でも……」一人の子が顔を赤らめ、頬を抑えながら言った。
「まぁ!」場が俄かに色めき立った。
自覚してしまえば、ストンと腑に落ちる心地だった。私に恋なんてまだまだ無縁のものだと思っていたのに。無縁どころか、私はずっと恋をしていたのだ。
不思議なもので、知ってしまえば手を放せないものがある。以前はなくても生きてこられたはずだったのに。カフェコーナーの美味しいお菓子を知ってしまえば、もう一度、もう一度と再びそれを求めてしまうように。
この想いはアナベル様を困らせてしまうかもしれない。叶うはずも無い恋。それなのに、それを易々と捨ててしまう事も出来ない。きっとこの先も幾度と苦しい思いをするのだろう。
けれど、こんな気持ちを知らなければ良かったとは思えない。知れて良かった。自覚してもしなくても、ふわふわと、そわそわと落ち着かない気持ちだけど。心の底はどこか幸せな気持ちで満ちている。
いつか、想いを伝えられるだろうか。その時には終わってしまう恋かもしれない。
それまで、この想いを大切に胸にしまっておこう。
想いを自覚し始めてから、時折夜は切なくなる。
私はなんとなく寝付けなくなり、寮のテラスを歩いていた。
手を広げてみると、白く眩い光が手のひらを包んだ。
入学したばかりの頃は禄に使いこなせなかった魔法も、アナベル様や周りの方の助けもあり、最近はなんとか使いこなせるようになってきた。
聖女の力――人を癒し、国に豊穣をもたらす魔法の力。
最初はこんな力、無ければ良かったと呪ってさえいた。パパとママから引き離され、貴族の中に一人放り込まれたのも、全てこの力のせいだった。
けれど、今はこの力を忌まわしいものだとは思えなくなっていた。パパとママは大好きだし、今でも一緒に暮らしたいと思っている。しかし、私はこの力のお陰でアナベル様達に出会えたのだから。
平凡ながらも幸せ――そんな人生を送りたかったはずなのに、何もかもが変わってしまった。生活も、立場も、私の気持ちさえ。
片田舎でも、慎ましくパンを焼いて暮らしていく事も出来ない。お金持ちじゃあなくても、かっこよくなくても良いから、優しい男の人と結婚するものだと思っていた。けれど、好きになってしまったのは、私と同じ――女の子。
それも、ただの女の子ではない。高貴で、気品もあって、文武両道で、皆に慕われ、この国の王子様にさえ言い寄られている、なんて、私とは何もかもが違うまさに雲の上の人。
「どうかなされたのですか?」後ろから優しい声がかかる。
その不意の声に、私は驚いて振り向いた。「アナベル様?」
やはりアナベル様の声だった。就寝用のドレスに肩掛けを羽織って、優しげな笑みを浮かべて立っていた。
「窓から綺麗に光るものが見えましたので、きっとあなただと思いましたわ」アナベル様は苦笑いを浮かべて言った。「何かお悩みなのですか?」
「少し、両親の事を思い出しておりました」私は涙を拭うと、笑顔を作って言った
まさか、「あなたを好きになって悩んでいました」なんて、言える訳もない。曖昧で、如何にも、らしい言葉で誤魔化した。
「ご両親の事を大切にされているのですね」ふわり、と優しく微笑んでアナベル様は言った。
見惚れる様な笑みに少しの間固まっていると、アナベル様は私に向けて腕を伸ばした。頭を包み込むような柔らかな感触と、鼻をくすぐるような優しく甘い香りに、私は一瞬、芍薬の花に包まれたような錯覚を覚えた。アナベル様の胸元に引き寄せられたと気が付いたのは、直後に暖かな体温が私に伝わってからだった。
「幼い頃、泣いていたわたくしを、お母様はよくこうして慰めてくださいました」背を撫でられながら、その触れ方と同じく穏やかな声がかけられた。
泣いてまではいません――そう言って、言葉に出して否定するのは簡単だ。けれど、裏腹に身体は全く動こうとはしないし、私の心はこれを受け入れたがっている。
こうして優しくされる事に私は罪悪感を覚えないと言えば嘘になる。アナベル様は私の胸中を知らない。だから、異性間ではとても出来ないような触れ合いも――もちろんそこに下心など微塵もありはしないだろうけど――事も無げに出来、私を慰めてくれる。私の心の内が知られていたら、きっと出来ないような触れ合い。そんなつもりは無いけれど、優しさを利用しているようで、胸の奥が少しだけちりちりと痛む。けれど、この触れ合いを拒絶する事も出来ない。
「わたくしのお父様とお母様も、あなたのご両親に負けないくらいに自慢の両親なのですよ」頭の上からかかる、微笑を含んだ声。
きっとその通りなのだろう。アナベル様を見ていると、良いご両親の許で大切に育てられているのがよくわかる。その受けた愛情が慈しみや優しさとなって他者にも分け与えているのだ。
このまま、ずっと身体を委ねたくなる。甘えて、甘えすぎて、ただ情を弄ばれるような心地を抱いたまま、この優しさに依存したい。
けれど――「それは、どうでしょうか。私のパパとママはもっと素敵ですよ」私も笑顔を作って言った。
「まぁ」くすり、と楽しそうにアナベル様は言った。「そこまで言うのでしたら、実際に確かめてみませんと」
「はい」
二人で笑顔を見せあった。アナベル様は私を友人として受け入れてくれた。対等の立場として接してくれている。だから、今はこれで良いのだ。それだけで私は満たされている。
――今は。じゃあ、いずれはそれだけでは満たされなくなるのだろうか?
浮かんだ疑問を打ち消して、私は何も考えない事にした。今は。
「期末試験を終えると、夏季休暇に入りますわね。あなたもご実家に帰省なさるのですか?」
「はい。少しだけ帰ろうかなって」私は俯いて答えた。
かなりの生徒が楽しみにしている夏季休暇だが、私は寧ろ夏季休暇なんて無ければよいとさえ思っていた。
夏季休暇――つまり、そろそろこの学院に来て最初に一年が経とうとしている。思えばあっという間だった。一年を振り返れば、殆どがアナベル様との思い出ばかりだった。神様に一つお願いをするなら、これから先もそんな思い出が増えると嬉しい。
心配事は夏季休暇の長さについてだった。期末試験はいつものようにアナベル様達と勉強をしているから然して心配はない。しかし、この学院の夏季休暇は長期休暇の中で最も長い。ほとんどの生徒は実家に帰省するようだ。アナベル様もきっとそのつもりだろう。
かなりの期間、私はアナベル様に会えない。
憂鬱だ。こういう時、どうすれば良いのだろう。アナベル様と私は友人同士なのだから、遊びに誘えば良いのだろうか。けれどアナベル様の実家に遊びに行くのは少し勇気がいる気がする。それに、私の実家との距離も、決して近いとは言えない程離れている。
私があれこれ悩んでいると、アナベル様から声がかかった。「よろしければ、その時、あなたのご実家にお邪魔してもよろしいでしょうか。あの美味しいパンがどのようにして作られているのか、興味があります」
「は、はい! 是非!」思いがけない言葉に、私は心臓が弾む心地で答えた。
そう言えば、以前お茶会を開いた時、お店に来たいと言っていた。その時は社交辞令かとも思ったが、まだ覚えていてくれたのだ。嬉しさで、また温かい気持ちになった。
アナベル様は嬉しそうに笑った。「さぁ、もうお部屋に戻りましょうか」そして、私に手を差し出して言った。「まだ初夏とはいえ、夜は冷えます。風邪をひいてしまいますわ」
私はその手を取った。「ありがとうございます」
夜風で冷まされたはずの体温は、すっかり上がっていた。そして、アナベル様の冷たい手のひらに触れて、また更に上がってしまうのだろう。
12
試験を終え、夏季休暇に入ると、アナベル様は以前言っていた通りに私の実家に遊びに来ることになった。
学院から直接私の実家に向かい、その後でアナベル様は実家に帰るらしい、
二人で馬車に揺られながらの旅は決して快適なものでは無かった。それに道だって、短いと言えるような距離ではない。それでも、実家までのこの旅路は、以前一人で帰ってきた時よりも、ずっと短く感じた。
「アナベル・フリトンと申します。この度はお世話になります」
アナベル様の優雅な礼に、緊張している二人はさらに身体を強張らせたようだった。ぎこちない態度で、過剰な程に深く頭を下げようとした。手紙で「友達を連れて帰る」と伝えてはいたが、どうやらそれが貴族の令嬢だとは思わなかったようだ。
アナベル様は優しく笑ってそれを制すると、「そう畏まらないでください。私はチェルシー様の友人なのですから、どうかそのように接してくださいませ」
それで少しは緊張が解けたようだ。まだ少しぎこちないような気はするが、明らかにほっとしたような表情になっているのがわかる。とはいえ、それも仕方がない事で、片田舎のパン屋、当然貴族の方が来られるようなお店でもないため、二人にとっては目に入れることさえ初めてなのかもしれない。
アナベル様の居心地が悪くなければ良いのだが。しかし、先ほどからどうも、ママはアナベル様への関心を隠し切れないのか、ちらちらと数度伺うように見ては何かを話したげにしている様が見て取れた。
やがて意を決したか、ママは口を開いた。「娘からの手紙にはいつもアナベル様の事が書かれています」
「ちょっとママ!」
「まぁ。一体どのような悪口が書かれているのか、とても気になりますわ」アナベル様は冗談めかしたように言うと、ホホホ、と笑った。
「とんでもない! アナベル様にいつも良くしてもらっているとか、アナベル様は素敵な人とか、そんな事ばかりで。ちゃんと勉強をしているのか、心配になるくらいです」
和やかに話す二人だが、私の方は恥ずかしくてそれどころではなかった。
自分の送った手紙の内容を想起すると、確かに、最初の内は近況などを報告するような内容が多かったが、次第にアナベル様や、その周りの方々について認める事が多くなっていったかもしれない。
「最初、娘が貴族の学校で上手くやっていけるか心配でした」ママは優しく私を見つめた後、再びアナベル様に向かって頭を下げた。「改めて、お礼を言わせてください」
アナベル様はゆっくりと首を横に振った。「お礼を言うとするなら、わたくしの方なのです」珍しく少し恥ずかしがるような表情で続けた。「恥ずかしながら、わたくしはこれまで平民の方と関わる事が無く、よく知りもせず、偏見をもっておりました。ですから、チェルシー様に対しても、最初は心無い言葉を投げかけたりもしていました」
「そうなのですか?」ママは信じられないというふうに言った。
「心無い言葉っていうか、事実を言われただけだよ。それに、言われた以上に助けてもらったから」私はこそっとママに耳打ちをした。
アナベル様はそれを気にする様子もなく、目を瞑り、一呼吸おいてからまた続けた。「ですが、彼女と接していくうちに、それは愚かしいことだと気が付きました。最初は平民であるが故に、どこか危なっかしくて、目が離せないものだと思っておりました。ですが、その人柄が非常に好ましいものであると知り、私にはない要素をいくつも備えている様に、どうしても目で追ってしまい、構いたくなってしまうのは、彼女が平民であるからではなく、チェルシー様という個が人を惹きつけるからなのだと気付きました。血や身分など関係なく、その方そのものを見るべきだと。そうなって初めて、チェルシー様は見下すべ平民などではなく、尊敬すべき隣人だと気が付いたのです。無知は罪だというのなら、私は愚かな罪人でした。チェルシー様に出会わなければ、その罪にも気付けぬまま、のうのうと生きていく事になっていたでしょう。異なる価値観はいつも新しい発見をもたらしてくださいます。わたくしも、チェルシー様といることでそれまで知らなかった多くの事を知る事ができました。勿論、それはわたくしにとってだけではなく。彼女の存在は、学院の皆にとって良い影響となっていると思います」まるで、丁寧に、大切なものを挙げるような口調だった。
そのあまりに大袈裟な内容に、思わず顔が熱くなってしまう。いや、途中で顔を覆ってしまいたいくらいだった。しかし、それをさせなかったのは、アナベル様の語り口と表情があまりに真剣で、その私を語る姿にどうしようもなく惹かれてしまったのと、純粋にその内容が嬉しかったこと。
ママは目を潤ませてアナベル様の話に聞き入っていた。
「アナベル様、よろしければ、娘の普段の様子を教えてくれませんか? この子の手紙はアナベル様の事ばかりで、自分の事がちっとも書かれていないんです」
「ママ!? そんな事、アナベル様も迷惑ですよね?」
「あら。ふふふ、わたくしは構いませんわよ」
遠回しにやめて欲しいと伝えるも空しく、それからアナベル様は滔々と学院での私の様子を話し始めた。曰く、私は覚えが早く、優秀だとか、誰にでも優しく男女問わず人気があるだとか、私の話の筈がまるで別の誰かの話を聞いている心地だった。なんだか、アナベル様のフィルターが過分にかかっている気がする。自分の事を他人から聞くのがこんなに居た堪れないものだと、私は初めて知った。
ママはとても楽しそうにその話を聞いていて――自分で言うのも恥ずかしいが――娘の学院での様子を知れて嬉しいのだろうと伝わってくる。或いは安心だろうか。話しているアナベル様も心なしか声がいつもより弾んでいる気がして、まぁ良いだろうか、という気持ちになる。
話がひと段落すると、ママは立ち上がり、アナベル様に頭を下げた。「アナベル様、お話、ありがとうございました。本当はもっとお話をお聞きしたいのですけれど、私もお店の準備に行ってきますね。パパが寂しがってもいけないので」くすっと悪戯っぽく笑って、次は私に言った。「チェルシー、お店のほうは大丈夫だから、今日はゆっくりしてて頂戴」
そのまま、笑顔を見せると、お店の方へと向かっていった。
アナベル様は目を細めてそれを見送った。「素敵なご両親ですわね」
多幸感に身をくすぐられるような心地だった。アナベル様を両親に紹介したかったと同時に、私の家族も一度、アナベル様に見てもらいたかったのだ。今日はそれが叶い、本当に良かった。そして、素敵な両親だと言ってもらえた――たったそれだけで、何かとても誇らしい気持ちになれた。その言葉が何よりも嬉しくて、私は喜色を満面に浮かばせていた。
「はい! 自慢の家族です!」私はひときわ大きな声で言った。
ママが厨房の方に向かった後、アナベル様はそちらに興味がある様な素振りを見せていた。
「よろしければ、パンを作るところを見させていただきたいのですが」
「では、今から一緒に作ってみますか?」
「わたくしがしてもよろしいのでしょうか?」アナベル様は首を傾げた。「わたくし、料理なんてしたこと、ございませんわよ?」
「簡単なので大丈夫ですよ。私の真似をしてもらえれば大丈夫です」
その言葉に小さく頷いたのを確認すると、私は自分の部屋から二人分のエプロンを引っ張り出し、キッチンに向かった。パパとママは既にお店の方へ出ているらしく、姿は見えなかった。貸し切りで自由に使えるのは都合が良い。
折角なので、何種類か作ってみるつもりだ。一番基本的な山形パンの他には、お茶に欠かせないスコーン、それにシンプルなケーキを焼いてみるのも面白いだろう。どれも簡単で、初心者にも作りやすいものだ。
「まずは生地を作ります」
ボウルに材料を入れて混ぜ、アナベル様も同じように材料を一つ一つ、きっちりと、私が教えた分量をその数字通りにぴったり量って混ぜ合わせた。
こうして出来た生地を捏ねて、折り重ねてはまた捏ねて、それを何度か繰り返した。これは焼き上げるとスコーンになる。
「これはスコーンになるんです。こうして折り重ねた分だけ、あの特徴的な層になるんですね」
アナベル様の非常に興味深そうな視線がこちらに向いている事に気が付いた。私の言葉に対して、一言一句全てに頷いている。そうして、私がしたのと同じようにそれを実践している。
ここまで真剣になってもらえると、やはり嬉しいものがある。私の好きな事を同じように好きになってもらえる。それも、好きな人に。
心がくすぐられるのを感じながら、私は次に作るものを用意した。
「ケーキの要は生地です。甘いクリームやフルーツだって重要ですけど、やっぱりふんわりとした生地があってこそなんです。生地を混ぜるのには何よりも注意が必要です。偏らず、均等に、かといって混ぜすぎず――そうして初めて美味しいケーキになるんです」
私は手本を示すためにまず自分の生地を混ぜて見せた。アナベル様は頷きながら、それを真似して混ぜた。
「お上手です、アナベル様!」
ちょうどいい所で型に流し込み、これで予定していた生地は全て用意が完了し、後は焼き上がるのを待つだけとなった。
「不思議なものですわね。これがあのふっくらしたケーキになるだなんて」しげしげと自分の混ぜた生地を見ながら、アナベル様は言った。
「私もよくわからないんですが、焼くとふくらむみたいです」私は言いながら、キッチンストーブにケーキとパンの生地を入れて、石炭を燃やした。「でも、気になるからと言って、何度もオーブンを開けるのは厳禁です。温度が下がり、生地が沈んでしまいます。一度オーブンに入れたら、後は信じて待つのみです!」
力説する私に、アナベル様は口許に手を当て、くすりと笑みを零した。私は何か変な事を口走ってしまったかと不安になったが、アナベル様は私の瞳を見つめてそれを否定した。
「いえ、あまりに真剣に説かれるものですから。本当にお好きなのですね」優しい笑顔になって、目を閉じた。「今日は来て良かったですわ。あなたの格好の良い所が見られました」
「かっこいい」言われた言葉を反芻するように呟いた。アナベル様が、私に向けて。口の端が吊り上がるのを抑えられない。「かっこいい。私が、かっこいい」
私に最も縁遠い言葉だと思っていた。嬉しそうに何度も呟く私に対して、アナベル様は怪訝そうな視線を向けていた。
焼き上がりを待つ間――
「後、どれくらいなのですか?」アナベル様はそわそわと尋ねた。
先程から何度同じことを聞かれただろう。
一応、待つ間、ぼうっとしているわけにもいかず、厨房の様々な器具を紹介したり、お店の方にも顔を出してみたりもしたのだが、どうもアナベル様は待ちきれないらしく、落ち着かない様子だった。
「まだ、もう少し待っていてください。あの壁の時計の長針が半周するくらいです」
「そう」それだけ言って、アナベル様は目を伏せた。
――可愛い。
完璧で、己を律しきれていると思っていたアナベル様にこんな子供のような一面があるなんて。そわそわと何度もキッチンストーブに目を遣るアナベル様を見ながら、私は密かに癒されていた。
そして、何度目かの同じ質問を受け続けた頃。いよいよ焼き上がったパンとケーキを見て、アナベル様は更に目を輝かせていた。
どれも綺麗に焼けており、アナベル様が作った分もとても初めてとは思えない出来栄えになっていた。
「素晴らしいですわね。あの塊が、こんなに美味しそうなパンになるなんて」アナベル様が感嘆した声を上げて言った。
早速お茶を用意して、ティータイムを始めた。
アナベル様は上品な仕草で作ったパンを口に入れると、うっとりした様子で言った。「まぁ、とっても美味しいですわ!」
そのままスコーンやケーキも食べ、その度に同じように恍惚としており、初めて自分で作ったものは、大変満足できたらしい。
それを見ているだけで私も嬉しくなってしまう。
「アナベル様がお上手だったからですよ。とても初めてとは思えません。自分で作ったものは美味しく感じるというのもありますが」
「あなたがいてくれたから、ですわ。わたくし一人では、このようなもの、とてもではありませんが作れません」
夜になると、アナベル様は私の部屋で寝る事になった。最初はアナベル様をこのような狭い部屋で寝泊まりさせることに抵抗があったが、当然、来客用の部屋などは無いし、この辺りに貴族の令嬢が泊まれるような宿も無い。せめて一人で落ち着けるよう、私が別の部屋で寝る事も提案したが、「あなたさえよろしければ、一緒の部屋で過ごしたいのです」なんて言われてしまえば、それ以上断れるはずもなかった。所謂、殺し文句というものだ。
そして――今は、私と同じベッドの中、夜着に着替えたアナベル様の綺麗なお顔が眼前にあった。
どうしてこうなったのだろうか。果たして、理性は持つのだろうか。少しでも身を揺らせば容易に触れ合ってしまう肌が下心を煽ってくる。この自覚出来るほどに煩く脈打つ心臓の音が、アナベル様にまで伝わっていないだろうか。
元々、同じベッドで寝るなんて畏れ多い、私は床で寝ると、そう言って私は床で寝るつもりだった。しかし、アナベル様も、構わない、気を遣うなと言って譲らなかったので、結局押し切られる形で同衾することになってしまった。
一人用のベッドを二人で使うのは、非常に狭い。1フィートも無い程の距離――ランプを消して、僅かに差し込む月明かりだけの薄暗がりの中でも、その顔がハッキリと認識出来る程の距離。アナベル様もまだ寝るつもりは無いのか、目を開けてこちらを見つめている。
手を伸ばせば、その身体をすぐに抱き締める事だって出来る。少し顔を突き出せば、唇同士を重ね合わせる事も。指先でその肌の柔らかさを知る事だって、舌の先で味わう事だって――薄い衣服の下に手を這わせ、下腹部に触れる事も。
そんな想像を巡らせて、すぐにそれを打ち消した。そんな事、出来るはずがない。なんてはしたない、聖女としてあるまじき発想だ。けれど、そんな不埒な妄想を一切排するには、目の前の身体は煽情的すぎて。
とてもではないが、今日は寝られそうにもない。
「今日は本当に楽しかったですわ。わたくし、自分で何かを作ったのなんて初めてですもの」そんな私の心になど気付いてもいないのだろう、アナベル様は楽しそうに言った。「それに、こうして誰かと同じベッドで寝るというのも」
何処まで行っても無邪気な言葉に、僅かな罪悪感が芽生える。そして、それ以上に劣情が掻き立てられる。
――いけない。これ以上は、本当に理性が持たないかもしれない。
「せ、狭くてごめんなさい」私はなるべく意識しないように、視線をずらして言った。「あの、やっぱり私、床で寝ましょうか?」
「それはいけません。風邪をひいてしまいますわよ。それに、二人の方が暖かいですわ」
「ですけど――」私の体温は、それ以上に上昇していて、暑いくらいなのだ。床で頭を冷やすくらいが丁度良い。
私が予感していた通り、その日は殆ど眠る事が出来なかった。なんとか目を閉じて、頭の中で何匹の羊を思い浮かべても、隣でアナベル様が静かに寝息を立て始めると、そちらが気になってしまい結局はそれ一色になった。
寝顔まで美しいアナベル様。星のように光るブロンドの髪も、透き通るような長いまつ毛も、おろしたてのシーツよりもずっと白い肌も、眺めているだけで際限なく時間が過ぎていく。
そんな調子で夢にまでアナベル様が出てくるものだから、結局、寝たのか起きていたのかも曖昧なまま、気が付けば朝になっていた。
「この度は急な申し出におもてなしいただきありがとうございました」アナベル様は恭しく礼をした。
眠くて目を擦っている私とは対照的に、アナベル様の方はよく眠れたようで、すっきりした様子だった。
「とんでもございません。こちらこそ、娘があんなに楽しそうにしているところを見たのは久しぶりでした」パパが嬉しそうに言った。
「アナベル様、本当にありがとうございました。こんな店でよければ、いつでもいらしてください。いつでも家族総出で歓迎します」ママも深々とお辞儀をして言った。
パパもママも、最初の緊張が嘘のようにアナベル様と打ち解けていた。
しかし、これで帰ってしまうのだと思うと、寂しさが込み上げてくる。夏季休暇は長い。学院が再び始まるまで、ずっと会えないのだろうか。
私はアナベル様の目をじっと見つめて言った。「学院が休みでも、アナベル様と一緒に居られて私も嬉しかったです」そして、一呼吸置いてつけ足した。「――迷惑でなければ、また、会いたいです」
アナベル様は穏やかな笑みを湛えて、私に視線を返した。「もちろんですわ。今度はわたくしの実家にもいらしてくださいませ」そう言って、パパを見て、ママを見た。「お父様とお母様も、お忙しいようでなければ、是非」
パパとママは恐縮していたが、私はその言葉だけで非常に気持ちが軽くなった。
アナベル様の実家は、多分、とても緊張するだろう。けれど、こうしてまた次の約束を取り付けられたことが、それ以上に嬉しかった。
13
長かった夏季休暇も終わり、本日より新しい年度の授業が始まった。
最初はアナベル様に会えなくなるのでは、と憂鬱だったものだが、終わってみると割と頻繁に会うことが出来たし、他の方々もお茶会やパーティーに招待してくださって、寂しさとは無縁の休暇を送ることが出来た。
特に家族を連れてアナベル様の実家に遊びに行ったときは、本当に緊張したが、それ以上に楽しく実りある時間を過ごせた。
アナベル様のご家族は皆、素敵な方だった。平民の私たちにも温かく接してくれて、アナベル様の慈愛の原点を見た気がした。
久しぶりに学内のカフェに集まって"ケーキ同盟"の会合が開かれた。会合と言ってもただケーキを食べながらお話をするだけなのだが。
「わたくしたちも、そろそろ将来を考え始めねばいけませんわね」ミーシャ様がため息を吐きながら言った。
貴族の令嬢といえば、将来は他家に嫁いでいく人がほとんどだと思っていたが、実際は様々な道を行く人がいる。父の跡を継ぎ領主になる方や、この学院で学んだ魔法の知識を活かして学者や医者を目指す方や、珍しいが騎士になりたいといった方もいる。
アナベル様がお茶を飲んで一息吐いてから言った。「そうですわね。わたくしも、そろそろ先行きを決めませんと」
私は驚いてアナベル様の顔を見た。
てっきり、王太子殿下と結婚するものだと思っていたのに。
他の方も同じことを思っていたようで、驚いたような声を上げた。「王太子妃となられるのではないのですか?」
「あら。そんな予定はございませんわよ? それに、殿下の関心がわたくしにあるとも限りません。その御心は殿下のみが知ることですわ」
アナベル様はそんなことを言っていたが、この場にいる誰もが、殿下がアナベル様を憎からず思っていることなど、とっくに気付いているだろう。知っていてあえて惚けているのか、はたまた本当に気付いていないのか、判断がつかない。苦笑いを零して、おそらく皆、殿下に同情をした。
「チェルシー様は――やはり、聖女ですわよね」
今度は私のほうに話題が向き、私は一瞬返事に困った。
「それなのですが」私は少し息を吸ってから言った。「実は、まだ悩んでいます」
「やはり、ご実家を継ぎたいのですか?」アナベル様が言った。その表情には私を労わるような色が浮かんでいるのが見て取れた。
私は少し逡巡した後、ゆっくりと語った。「私はずっとパン屋になりたかったんです。パパとママの作るパンが大好きで、私もそんなパンが作りたくて――本当は、聖女になんてなりたくなかった」そこで一度間を置き、付け加えた。「だから、その道を断ったこの聖女の力を、最初は憎んでさえいました」
「まぁ」ミーシャ様が口許に手を当てて言った。「ですが、その通りですわよね。やりたかったことが急に出来なくなるのですもの。それも国王陛下のご意思ですもの、逆らえるはずなどありませんわ」
「はい。けれど、違っていたのです。本当は、皆様と――アナベル様と巡り会えた、神の祝福だったのです」
私の言葉にアナベル様がくつくつと笑って言った。「大袈裟ですわね。ですが、聖女の力が神の祝福だというのは、その通りだと思いますわ」
アナベル様と私は同じ事を言っているようで、少し違うかもしれない。私にとってはアナベル様と出会えた事こそが神の祝福なのだ。アナベル様が、私の祝福。
祝福をもたらしてくれた聖女という道も、アナベル様が好きだと言ってくれたパン屋の道も、どちらも捨てる事が出来ない。
「私、とっても傲慢な事を言うかもしれません」一度目を閉じて、心の中で深呼吸をして言った。「私――パン屋にも、聖女にも、両方なりたいんです」
初めて口に出して言ってしまった。言ってしまえば、もう後戻りは出来ない気がする。
しかし、他の方はどう思うだろう。甘いと思われはしないだろうか。聖女としての使命を疎かにするつもりか、と。
「少し、安心いたしました」アナベル様は穏やかな笑みを浮かべた。「あなたが聖女として働けば、国が豊かになる事は間違いありません。その分だけ、この国で暮らす人々の生活も安定することになるでしょう。ですが、そのためにあなた一人が犠牲になるというのも、また違う気がしていたのです」そして、両手で私の手を握って、祈るように言った。「あなたの決断に感謝いたします。わたくしも、あなたの為に出来る事がありましたら、何でもいたします」
そういう風に思われていたのが、何よりも嬉しかった。
私を肯定してくれる言葉。力強い言葉――
「もちろん、わたくしも応援いたしますわよ!」ミーシャ様が胸を張って言った。「困ったことがあれば何でも言ってくださいませ! 我が家は武門の家系です。荒事ならお任せくださいな!」
それを見て、リーナ様がくすりと笑った。「後ろ盾でも宣伝でも、必要なものがあればなんでもおっしゃってくださいませ」
その心強い申し出に私は胸が熱くなった。
自分でも突拍子の無い事を言っている自覚はある。それでも、こうして応援してもらえるというのは本当に嬉しい。
こうして皆様に助けていただけるなら、出来ないことなんてない気がしてくる。それくらい力強く、私の後を押してくれる言葉だった。
私はしっかりと頷いて答えた。
「はい! 皆様、ありがとうございます!」
「わたくしは、あなたが現状に驕る事無く、自己を高めることの出来る方だと知っております。きっと、あなたなら出来ると思いますわ」
「アナベル様にそう言われると、本当に出来そうな気がしてきます」
アナベル様は微笑んだ。「でまかせで言っているつもりはありませんわよ。わたくし、嘘は苦手ですので」からからと笑って言った。
なら、私は今以上に頑張らなければならない。アナベル様を嘘つきにするわけにはいかないから。
それからある日の事。私は新聞の一面を見て、目を丸くすることになる。
――”聖女のパン屋”ベイク・バイ・ベイカー
そんな謳い文句の下に、かなり精緻に描かれた私の実家のイラストが大きく載っていた。
ベイク・バイ・ベイカーは私の実家のパン屋の名前だ。見れば、「聖女を生んだパン屋。我が国が誇る聖女様は、この極上のパンを食べて育った」などと書かれている。
読み進めていくと、実物よりも何割かに増して精悍になったパパがパンを焼いている場面のイラストと、パンの紹介やインタビューまで載っている。
あんな田舎のパン屋が? 何かの間違いではないだろうか。
そう思って新聞をじいっと見つめていると、後ろから声がかかった。「ごきげんよう、チェルシー様」アナベル様だった。「どうなされましたの?」
アナベル様は私の持っていた新聞を覗き込むと、「まぁ」と嬉しそうな声を出していた。
「あら、もう載りましたのね」アナベル様と一緒に来たリーナ様も新聞を見て言った。「この新聞社には伝手があったものですから、面白いパン屋があるとお教えしましたのよ」
どうやら、リーナ様の計らいだったようだ。
うちのパン屋に少しでもお客さんが増えるのなら、それは願ってもいない事なので、私はリーナ様に感謝した。この記事は取っておいて、今度実家に帰った時にでもパパを揶揄おう。
そんな事を暢気に考えていて、この時、私はまだ新聞の宣伝効果の恐ろしさを甘く見ていた。
14
休息日、私はアナベル様と実家のパン屋へと向かっていた。
この前パパから届いた手紙に、お店がとても繁盛していると書かれていた。嬉しい事ではあるのだが、こんなにお客さんが来るという経験も無いため、非常に忙しいようだ。
新聞の記事になった事に加えて、近頃は皆様が社交の場などで、口コミによる宣伝もしてくれている。影響力のある貴族令嬢の口コミは馬鹿にならないもので、田舎のパン屋といえども、一度は行ってみよう、となるようだ。
その事をアナベル様に話した所、今度の休暇に一度帰って手伝ってはどうかと言われた。自分も手伝うから、一緒に行こうと。
実家に着くと、そこは中々の天手古舞になっていた。これ程忙しそうな光景は今まで見た事がない。特に、近隣の貴族の方からの注文が増えたらしく、貴族のお客様は一度の注文の量も多く、在庫が一気に減ってしまって大変らしい。
私が帰ってきた時はさらに運が悪い事に、パパは配達で不在の為、お店のほうはママが一人で対応していた。しかし、見るからに忙しそうで、手が回っていないのがわかる。
私は急いで着替えると、お店の方に向かった。
もし余裕があれば、またママやパパも交えてゆっくりとお茶をしたいと思っていたのだが、これではそれも難しそうだ。元々遊ぶつもりで帰ってきたわけでは無かったが、少し残念――そんな風に思っていると、ドレスから作業着とエプロンに着替えていたアナベル様がお店の方に来ていた。
いつの間にそんなものを用意していたのだろう。普段のドレス姿も素敵だが、こういうのも似合っている。この忙しさの最中にそんな不純な事を考えてしまった。
「わたくしもお手伝い致します」そう言うと、アナベル様は出来上がったパンを次々と運んでいった。
それから、暫くした後――
とりあえず忙しさのピークは過ぎ去ったようで、お店の方はかなり落ち着いていた。パパも配達から戻ってきて、ようやく一息つけるようになった。
アナベル様も流石に疲れたのだろう、椅子に腰かけて大きく息を吐いていた。普段、あまりこういった姿を見せないので、珍しい光景だった。忙しかったのもあるが、アナベル様は貴族のご令嬢で、こんな労働の経験があるとは思えない。そう、貴族の令嬢――
アナベル様に手伝ってもらうことに抵抗はあったが、こうなると断っても断り切れないのは今までの経験でわかっていた。なので私は厚意に甘えることにしたが、パパとママの方はもちろん慣れていないので、落ち着いてようやくアナベル様が貴族令嬢であることを思い出したのか、慌てた様子でアナベル様に頭を下げた。
「本当に、なんとお礼を言ったらよろしいのか」
アナベル様は首を振ってそれを制した。「こうなってしまったのも、わたくしたちの所為でもございますからね」
「とんでもございません! お嬢様方にはこれ以上ない程感謝しております!」パパはぶんぶんと大きく頭を振って言うと、笑顔で続けた。「商売な以上、忙しいに越したことはありませんから。嬉しい悲鳴というやつです」
「そう、ですか」アナベル様はそれでもまだ不安そうに言った。「ですが、これが毎日続けば厳しいのではありませんか?」
「いえいえ、この程度。今は珍しい忙しさに目を回していますが、じきに慣れると思います」パパは快活に笑って言った。
私とママも苦笑いでそれに同意した。少なくとも私の知る限りは、うちがこれほど繁盛する経験などないのだ。
夜になると、アナベル様とは相変わらず私の部屋で過ごす事になり、私は改めてアナベル様に頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました」
「市井の仕事を知る、よい経験になりましたわ」
「アナベル様がいなければ、どうなっていた事かわかりません。恥ずかしながら、うちがこんなに繁盛する事は初めてなので」
「何か、手を考えねばなりませんわね。ご両親はああ言っておりましたが、やはり少し心配ですわ」アナベル様は口許に手を遣り、悩む仕草を見せた。「せめて落ち着くまでの間だけでも、休学なさってお手伝いをなさっては?」
両親が心配でないと言われれば嘘になる。しかし、そうして実家に戻ったとして、今度は別の心配事に悩まされることになるのだろう。それは何も、学院から離れていた間の勉学が不安というだけではない。どれ程の期間になるかわからないが――或いは、ひと月にも満たないほどだったとしても――少しでも、アナベル様と離れ離れになってしまうというのは耐えがたいものがある。
王太子殿下か、それとも他の人と、私の知らない間に、より親密になっていたら?
アナベル様の事で、私が知らないことはたくさんある。けれど、それでも、私のいない所で、知らないアナベル様が増えていくのは厭だった。
悶々とした気持ちが、視線を徐々に床へと向かわせる。
「でも――」私は俯いたまま、アナベル様の方に視線を戻した。「アナベル様に、会えなくなってしまいます……」
アナベル様はくすりと笑った。「今生の別れとなるわけでもありませんのに、大袈裟ですわよ」
「ですが」そこまで言いかけて、口を噤んだ。
こんな事、言えるはずがない。
アナベル様は首を傾げた。「何故、そこまでわたくしに拘るのです?」
本当に何気ない問いだったのだろう。しかし、胸の内側が大きく跳ねた気がした。
内に秘めておくべきだったものが頭の中でちりちりと、主張するように疼いている。決して外には出すつもりは無かったのに。遮ろうとしても、溢れるものは止めようがなく言葉として形を作りたがっている。
「それは――」まだ誤魔化しを言える。けれど、私の口はそんな意思通りに動いてはくれなかった。「――あなたを、慕っているからです」
指先が震えているのを自覚する。言った。言ってしまった。
アナベル様を上手に見ることが出来ない。一体、どのような表情をしているのだろうか。気味悪がられて、もうこの友情は終わりだと言われたら?
歪む視界の端に映る顔は――「ありがとうございます」優しく微笑んでいた。「わたくしも、あなたの事は――その、好ましく思っておりますよ」
その答えに安堵すると同時に、少し拍子が抜ける思いだった。
おそらくだが、私の想いは通じていない。
しかし、違うと言って、その齟齬を正すのは簡単だ。しかし、それをしたところでどうなるのだろう。
私とアナベル様は何もかもが違う。それなのに、一番違っていなければならない所は同じだ。ただの平民の娘と貴族の令嬢、女同士。
初めから報われるはずの無い想いである事はわかっている。いや、それでいいのだろう。報われれば、アナベル様に不幸を強いる事になるのは間違いない。
友人になれた。友人として好ましく思われている。それだけで十分だ。
「アナベル様、一つだけお願いしてもよろしいですか?」
「はい。なんでしょう」
「手を握っても、よろしいでしょうか」
「手」アナベル様は自分の手を見た。見てから、「そうですわよね」と呟いて右手を出した。「どうぞ」
私は両手でアナベル様の手を取ると、そっと包み込むようにその手を握った。伝わって欲しいような、それとも伝わって欲しくないような、綯い交ぜになった想いを込めて。
心なしか、頬に赤みが差している気がする。もしかすると、少しは意識してくれたのだろうか。
Epilogue
あれから、アナベル様はパン作りがすっかりお気に入りになったようで、何度か実家の手伝いをしに来てくれている。料理をした事が無いと言っていたが、やはり成績優秀たる所以なのか、呑み込みが早く、教えた事をすぐに覚え実践して、パパも筋が良いと褒めていた。
友達も時間が空いた時などは手伝いに来てくれて、お店の方はかなり余裕が出来て、
しかし、近頃は逆に私の悩みが増えた。どうやって貴族の生まれの彼女とずっと傍にいられるか。彼女がどこかの貴族や王族に嫁いでいくのを、どうやって阻止するか。
特に、王太子殿下はアナベル様に気があるようで、いつ本格的な婚姻関係になるのか、常に心煩意乱な心地だ。アナベル様は模範的な貴族令嬢で、きっと王家からの婚約を拒否したりはしないだろう。例えアナベル様が殿下に特別な感情を持っていなかったとしても、それが国の為になるなら、と、自分を殺して嫁いでいくはずだ。
お願いだからアナベル様に求婚しないで――私は心の中で、何度もそう願った。
そんな私の願いが通じたか、はたまた殿下が物凄く奥手だったか、その時は未だ来ていなかった。
そして無事に学院を卒業した私は、アナベル様と二人でパン屋を営んでいる。両親のお店からのれん分けされるような形で自分のお店を出す事になったのだ。尤も、これは副業のようなもので、本業は聖女として国内のあちこちを飛び回っている。
忙しくないと言えば嘘になるけれど、元々パン屋を開くのが夢だった事もあってそれ程苦ではない。それに、アナベル様が支えてくれるのが何よりも助けになっている。
パン屋の方は、実家共々、聖女の作るパンとしてすっかり有名になった。学生時代の友人たちが様々な人脈を活用して宣伝してくれたお陰でもあり、客足は上々で、生活にはあまり苦労していない。
時々、聖女として人前に立つことや、社交界などに駆り出されることもあるが、その時はアナベル様も一緒に行ってくれるので、とても心強い。
その日は珍しく、お店のほうも客足が少なく、聖女としての仕事もなかったので、ゆったりと出来る日だった。
私とアナベル様は氷菓子をつつきながら、稀な暇を満喫していた。
「もう学院を卒業して1年が経ちますのね」アナベル様が窓から外を見ながら言った。近頃は日の入りもすっかり遅くなり、ランタン・クロックの針が10を指していても、まだ空は明るかった。
言われて、もうそんなに経っていた事に気が付く。本当に時間が過ぎるのは早い。つい先日までは寒さに凍えていたような気がするし、学園を卒業した事もまだ1ヶ月程も経っていないような感覚だ。
それだけ忙しかったということもあるのだろうが、きっとそれ以上に、アナベル様がずっと隣にいてくれたことの方が大きい。不安や大変な事も多かったが、振り返ってみるとやはり楽しかったのだ。
「早いものですね。特に今年は、あっという間でした」しみじみと私は言った。
アナベル様は氷菓子の最後の一口を食べ終えると、思い出したように言った。「仕事が忙しくて余裕もありませんが、そろそろ、機を見て結婚式を挙げませんと」
「へ?」思わず呆けた声を出してしまう。「誰のです?」
結婚式を挙げる様な心当たりはまるでなかった。学院の友達の式を手伝うとかそう言う話かとも思ったが、今の所周りで結婚しそうな子はいないはずだ。
「あなた、呆けていますの?」アナベル様は怪訝そうに私を見て言った。「あなたと、わたくしの、ですわよ」
「はい!?」完全に声が裏返ってしまった。
「わたくしも、我慢いたしましたのよ。本当は早くあなたと様々な事をしてみたいと思っていたのですが、まずは落ち着くまでは、と」
私はまだ理解できていなかった。いや、言っている内容は飲み込めた。しかし、どうしてそうなったのかは全く理解できない。
「ええと――アナベル様にとって、私は?」出来るだけ平常を装って言った。
しかし心の方は期待してしまっているのを隠せない。もしかして、自分の最も望む答えが返ってくるのではないかと。
「噛み合いませんわね。わたくしたちは恋人同士でしょう?」アナベル様は首を傾げてった。
まさに望んだ通りの答え。まるで、都合の良い夢を見ている心地だった。
とはいえ、まだどうしてそうなったのかは理解できていない。
「えっと、あの。いつの間にそんなことになったのですか?」私は逸る気持ちを抑えて言った。
「あの時、あなたはわたくしを慕っていると言ってくれたではありませんか」
あの時というのはまだ学院に通っていたときの事だろう。アナベル様が何度もうちに手伝いに来てくれて、遂に気持ちを抑えきれずに零してしまった言葉。
流されたか、伝わってすらいないものだと思っていたのに。
「え、でも返事はもらっていませんよね?」
「わたくしもあなたを好ましく思っていると返事をしたではありませんか」アナベル様は言った。とても冗談を言っているような雰囲気ではない。
「それ、そういう意味だったの!?」
わかりづらすぎるというか、あっさりしすぎているというか。まさかあの時からずっと、アナベル様の中では私と恋人同士になっているつもりだったのだろうか。思い返してみると、あの時からアナベル様との距離が縮まった気がする。
学院でも二人きりになる事が増えた気がするし、他の人には内緒でお茶会などもした記憶がある。思えば、どこかに遊びに行くときは必ず手を繋いでいた。
「他にどういう意味がありますの?」アナベル様はまた首を傾げた。
頭の中で一つずつ整理していく。実は私の想いはとっくに伝わっていて、アナベル様の中ではもうすでに交際していることになっているのもわかった。しかし、そもそも、女同士で結婚は出来るのだろうか。
法律は授業で少しだけ習った程度なのであまり詳しくはないが、アナベル様が出来ると言えば出来るのだろうか。
「あの、王太子殿下は」
「婚約を申し出られましたが、お断りいたしました」
「いつの間に……」
「態々伝える事でもないと思っていましたので。殿下も、こうなる事がわかっていた様子でしたし。わたくしとあなたの事、祝福されましたわよ」アナベル様は笑顔で言った。
そう言えば、以前公務でお会いした時、「おめでとう。お幸せに」と言われ、何の事かと思った記憶がある。パン屋を開店した事への少し遅い祝福だろうかとその時は納得したが、今思えばアナベル様との事だったのだろう。
物凄く力が抜けた気がする。私は芯を失った人形のようにテーブルの上に突っ伏した。
「大丈夫ですか? どうされたのです?」頭の上からアナベル様の心配する声がかかる。
私は頭だけ上げてアナベル様を見た。心配そうな視線が痛い。
「ごめんなさい、アナベル様。私、あの時、自分の気持ちが伝わっていないものだと思っておりまして、恋人同士という感覚ではありませんでした」
私は正直に伝える事にした。一応、アナベル様に告白してからの約3年間、一線は保って接してきたのだ。そこを勘違いされたまま、恋人同士なのに冷たいと思われていたら辛いものがある。
私の言葉にアナベル様はわかりやすく衝撃を受けた様子を見せた。「わたくしだけが勘違いしていたのですね。お恥ずかしい」
「寧ろ、3年間もよく勘違い出来ましたね。恋人らしい事なんて何もしていないのに」
「たまにデートに行ったではありませんか」
「何度か二人で遊びに行きましたね」私は思い出しながら、あれをデートと言って良いものかと思った。その大半が食材の買い出しだ。それに、何より――「ですが、その、キスとかも、してないし」
私の言葉にアナベル様は真面目な様子で答えた。「それは結婚した後にするものでしょう?」
アナベル様はある分野に関して、非常に無垢な所がある。或いは貴族の生まれ故、最初から恋愛を経た結婚などはとうに諦めているためそうなったのだろうか。
「アナベル様」名前を呼び、反応するよりも先にこちらに引き寄せて、その唇に自分の唇を重ね合わせた。「これくらいなら、皆、結婚前にもしています」
自制心が利きすぎるというのも、考えものだ。
もう少しアナベル様が自分の欲望に素直だったら、もっと早くこの表情を独り占めできたのに。これ以上ないくらいに赤くなった自分の頬を両手で押さえている彼女を見ていると、そう思えてならなかった。
オワリ
・聖タルラ魔法学院
もし魔法を学びたいと思うのであれば、この学校以上に適した場所はありません。
聖人の名前を冠したこの学校は、世界でも有数の魔法学校です。歴史と伝統を重んじる校風であり、形式ばった所と、特に原始魔法についての研究が盛んであることから、しばしば他校から「時代遅れ」だと揶揄されていますが、それでも聖タルラ魔法学院がこと魔法学においては最先端を行く事に変わりはありませんし、ほとんどの生徒もそれらに誇りを持ちながら過ごしています。
・アナベル・フリトン
フリトン家は国内有数の貴族の一つで、その末娘として生まれた彼女はその家の名に負けぬよう、弛まぬ努力で己を研鑽し続けてきました。
基本的に彼女は自我が強く、自分本位です。嘘が苦手で、思った事を何でもはっきりと言いますし、やりたいと思った事を我慢もしません。同時に、良き家族の慈しみと愛の中で育てられた彼女は、それを他者に分け与える事に躊躇がありません。例えそれが、見下しているものであっても。
・チェルシー・ベイカー
チェルシーは田舎の小さな村にあるパン屋「ベイク・バイ・ベイカー」の一人娘として生まれました。あまり裕福な暮らしではありませんが、優しい両親の許で、彼女は間違いなく幸福を感じていました。
実家で暮らしている頃は、パンを焼ければ良いと思っていたチェルシーですが、聖女と認定され、貴族の学院で過ごし、以前よりも少しだけ広い世界を知った彼女は、自分のやりたいことも変わっていきました。そして、彼女にはそれをやり遂げるだけの意思の強さもあります。
彼女は父親と母親を深く愛していますが、近頃はそれにアナベルも加わったようです。