楽しい時間
「アスパラガス、美味しそうにお食べになるんですね。アスパラって、ちょっと苦みがありませんか?」
フォークで刺したアスパラガスを口へと運ぶ。北川はその瑞々しさとドレッシングの酸味を感じながら、返答する。
「え? そうですか? 美味しいですよ。サラダ、好きだし」
「私はアスパラガス、ちょっと苦手で。野菜は、あまり……」
「野菜がお嫌いなんですね。アスパラガスの他にも嫌いな野菜ってあるんですか?」
「ピーマンと、ナスと、水菜と……」
「アイもナス嫌い!」
「アイちゃん私、情けないことにまだあるの。あとはシイタケ」
「シイタケ! 美味しいのにぃ」
笑いながら話す。次々に挙がっていく野菜の名前たち。意外にも夜爪には雑多な好き嫌いがあることを知った。
夜爪が無事に退院し、数週間後の日曜日。かねてから約束していた夜爪の家へ訪問する日と決まった。
マンションのエントランスに入ると、豪華なロビーがあり、受付にはホテルマンのような男性がひとり。ピンからキリまであるマンションの中でも、最上位の建て構え。それほど高層ではないが、高級マンションと言えるだろう。
(ホテルみたいだなあ)
エレベーターに乗り込むと、天井に備えつけのシャンデリアに、アイが目を輝かせた。
「パパ、すごいピカピカね」
「そうだなあ。眩しいくらいだ」
ピンポンとインターフォンを押すと、すぐにドアが開いた。
「お待ちしていました。アイちゃん、こんにちは。どうぞ」
「こんにちはぁ」
「お邪魔します」
「先日は本当にすみませんでした。せっかくお見舞いに来てくださったのに。北川さんがいらっしゃったら起こすようにと、武井さんにお願いしていたんですけど……起こしても起きなかっただなんて、私ってば本当に……」
なるほどそういうことになっているのかと、呆れて思った。
「……大丈夫ですよ。一日中、咳が出て眠れなかったそうですね。大変でしたね」
「あれからすぐ退院できましたし、本当にたいしたことはなかったんですが……」
「いえいえ肺炎を甘くみてはいけませんよ」
「そうですね……」
「マリちゃん、もう大丈夫なの?」
「もうすっかり治ったの。この通り元気よ」
両腕に力こぶを作ってみせた。
「片付いてませんが、どうぞ」
中は広々とし、しかもモデルルームかのように整然としている。シンプルで夜爪らしい部屋だ、北川はそう思って感心した。いや、多少は散らかってはいる。だがそのほとんどが、書類の山。対して、北川の家は、オモチャの山。やはり子どものいる家とは散らかり方が違うんだよなあ、妙なところで納得できた。
いつもよりラフな夜爪がそこに溶け込むようにして立っている。オフホワイトのぶかっとした軽いニットに、ブラックのロングスカート。ジャージとかスウェットなどは着ないのかもしれないが、気を抜いた姿にまたひとつ夜爪のことを知れたと思い、嬉しくなった。
約束していたクッキーを、夜爪とアイとで作り、夜爪が作ったパスタと市販のサラダをご馳走になった。
そして今は好き嫌いの話題で盛り上がっている。
幸せな時間。北川の心はそれだけで満たされた。
「じゃあ、北川さんは、好き嫌いはないんですか?」
北川が、嫌いなものがたくさんありますねえ、とからかい半分で言ったためか、夜爪は少しムクれた様子で、「誰にだってひとつやふたつありますよね」と言う。
そんな子どものような夜爪の様子が、隣でオレンジジュースを飲むアイと重なって、なんだか可愛いなあと思った。
恋心。自覚している。そんな相手に部屋へと招いてもらえた。そこに恋人の存在らしき痕跡は見つからない。しかも手作りの料理をご馳走してくれている。
あの秘書の武井とは、どんな関係なのだろう?
武井にも、料理を作って食べさせたりするのだろうか?
聞きたいことはたくさんあって、もっと色々な話題で盛り上がりたいし、もっと夜爪のことを知りたい。
嫌いなものだけでなく、好きなもの、趣味は、仕事は、友人や家族は……。泉のように欲が湧き出してきて、混乱すらしている。
(こんな気持ちは、久しぶりだな)
北川はなぜ、この人なんだろうと思った。ただ美人で気立ての良い、それなら大谷に勧められた、あの受付嬢でも良いはずだ。
発症するかどうか分からない病気によって、曖昧な人生を生きる彼女とではなくとも、恋愛をしようと思えば、この先どこかでは成立するだろう。いや、アイのためにしばらくは恋愛を拒否しようとしていたのだから、今回だってそうすべきなのだ。
けれど、この人のことをもっと知りたい、北川は強く思った。
「僕にだって嫌いなものくらいありますよ。けどね、ネギだけですよ」
「ネギってどんな料理にも結構な確率で入っていますから、よけて食べるのは大変ですね」
反撃しているのかどうなのかとは思うが、攻撃力はそう強くない。
北川は軽く笑って言った。
「全部よけなくても大丈夫ですよ。多少は食べられるし」
「わ、私も多少なら……」
口ごもりつつ、夜爪が持っていたフォークで、えいっとアスパラガスを刺す。意を決したようにひと呼吸置くと、ぱくっと食べた。
「え! ちょっと! 夜爪さん、無理しないで!」
口元に手をあてがい、もぐもぐと咀嚼する。眉間に皺。眉間に皺!
それを水で流し込んだ。
「……た、食べられました」
「マリちゃんすっごーい!」
「夜爪さん……」
くくくと笑いを堪えながら、北川は言った。
「そこまでして食べなくても……」
「マリちゃん、アスパラおいしかったあ?」
「ううん、ちょうまっずーい」
「まっずうぅぅいぃぃ」
夜爪の崩した表情が面白かったのか、アイも楽しそうに同調した。




