気になる存在
病院のエントランスを足早に抜ける。平日の朝。受付や会計はお年寄りや子ども連れの患者であふれていた。教えられた病棟に移り、エレベーターに乗る。
(それにしても夜爪さん、秘書がいるなんて、相当だなあ)
小さなアパレル会社を経営していると聞いていたが、想像よりは大きな会社なのかもしれない。あの弟の姉さんだもんなあ、ぶつぶつ呟きながら五階に到着するのを待った。
エレベーターを降り、ナースステーションへと向かった。名簿に名前を記入して、部屋へと向かう。ドアをノックすると、中から返事があった。男の声だ。
「こんにちは」
個室だが、声を抑えてしまう。それはベッドに横になった夜爪の頭が、ぴくりとも動かなかったからだ。ぐっすり眠っているのだろう。そう思った。
「わざわざお見舞いに来てくださり、ありがとうございます」
ベッドの横、パイプ椅子に座っていた男が読んでいた本を傍らに置き、そして立ち上がると北川の方へと歩み寄った。
促されて、個室の外へ。病室の前の廊下へと出た。
「夜爪は今、ぐっすり眠っています。せっかくお越しいただいて恐縮ですが、寝かせてやってくれませんか? 夜はあまり眠れないたちですから」
「……わかりました。ではこれをお渡しください」
ゼリーが入った紙袋を差し出す。「お心遣いをありがとうございます」と、その紙袋を受け取ると、男は踵を返して戻ろうとする。
「えっと武井さん? お電話いただいた秘書の方ですか?」
立ち止まり振り返り、北川を見る。が、その目は細められている。胸ポケットから革製の名刺入れを出し、1枚を取ると、北川へ差し出してくる。
武井 優大。『株式会社ディア』の秘書広報課に所属。
「うちの夜爪がいつもお世話になっております」
落ち着き払った電話の声と、その時のきびきびとした受け応えに、自分より歳上を想像していた。が、どうだ。まだ若い。二十代後半くらいか。夜爪とちょうど釣り合う歳だ。
清潔感があり、スーツは決まっているし、立ち居振る舞いも優雅だ。
だが、気になるのはこの敵意むき出しの眼差し。うちの夜爪と言ったのも、牽制の意が含まれているに違いない。
「夜爪さんのお加減はいかがでしょうか?」
北川が尋ねると、持った紙袋をがさと音をさせながら、んんんっと咳払い。
「軽い肺炎ですから。大丈夫です」
むっときた。これだけの情報で帰すつもりか、と。
「退院は何日ほどで?」
「医者は二、三日と言っています」
「こういうことはよくあるんですか?」
眉間に皺を寄せ、武井はその表情を曇らせた。
「個人情報ですから、私の口からは……申し上げられません」
そんなことあなたに関係あります? の、あからさまな態度に、腹が立った。
「確かに、俺は夜爪さんの身内でもなんでもないですけど、今は俺の大切なクライアントの一人です。娘も仲良くしていただいています。心配してはいけませんか?」
「ああ」
一呼吸置いて。
「そういえばバツイチ子持ちって言ってましたっけね」
「俺は夜爪さんを心配しているだけなんです」
「なぜです? ただの仕事上の付き合いですよね? 夜爪が個人的にエアリアルルームを購入するという話は聞いています。契約に関して言えば、引き渡しが終わればそれまでの関係ですよね? 夜爪は激務のなか、今回の依頼のためにどうにか時間を割いてはいますが、あまり振り回さないで欲しいです。ただでさえ寝不足気味なのに……これ以上は仕事や健康に影響が出ますから、これからはたいしたことのない用事で、いちいち呼び出さないでいただきたい」
夜爪が眠っているのをいいことに、これだけはと言いたいことを言って、病室の中へと入っていってしまった。ドアが閉まる瞬間、ベッドに横たえられた夜爪の黒髪がちらと見えた。
(くそっ! なんなんだ、あの武井ってやつは!)
夜爪を取られまいと必死だったのではないか。
そう勝手に解釈して、北川は渋々、エレベーターに乗り込んだ。




