空間に綴る
「えっっ! 夜爪さんが入院ですか?」
見覚えのない番号から着信があった。
電話口の男性が、早口で名乗ったとき、嫌な予感がした。
夜爪の秘書、武井からの電話だった。
『心配はいりません。少し風邪をこじらせまして、軽い肺炎に。それで、夜爪が北川様とのお約束を延期して欲しいと申しております。申し訳ありませんが、そのようにお願いできませんでしょうか?』
物腰の柔らかさがスマホを通じて伝わってくる。対して北川は相当に驚いたし焦りもあって、スマホを持つ手にじわりと汗をかいていた。
もうずっと昔のことではあったが、妻が事故に遭い病院に運ばれた日のことが、うっかりとフラッシュバックしそうになる。冷や汗ものだった。
「もちろん! もちろんです。えっと、それでどちらの病院に入院されているのでしょうか?」
『河山総合病院です』
「お見舞いに行っても?」
『面会時間内なら、構わないと思います』
「では、明日にでも……」
『そのように申し伝えます』
通話を切ってスマホをテーブルに置いた。夜爪の持つ持病と、なにか関係があるのだろうか。不安が募る。
「病状は? 大丈夫なんですか?」の問いに、武井は『大丈夫です。心配ありません』と、その先の要領を得ない。
自分の目で夜爪の顔色を見ないと、安心できないような気がした。
アイを迎えにいき、そして溜まっていた仕事を片付け、早めにベッドに潜り込む。眠れなかった。つい先日会ったときには、元気だったのに。
北川はあれから、夜爪の持病について、色々とネットで調べていた。
『膠原病』
聞き慣れない病名だ。
膠原病とは、皮膚、骨、筋肉、血管、内臓などの全身のさまざまな臓器に病変を引き起こす病気で、30種類以上の病名を持つ。原因不明の自己免疫性疾患の総称。
その中には重篤な結果に至るものも含まれていた。
日記を辿っていく。
『最初に気になったのは、左手の小指からだった。冬のある日。それは確かに寒い日だった。小指が真っ白に変色している。血が通っていないのが一目でわかった。すぐに湯で温めた』
大体の内容は頭に入っている。さらに記憶の中の日記を追っていく。
『小指だけだったものが、中指、そして薬指、右手へと。伝染でもしていくかのように一本一本、真白の指が増えていく。さすがにおかしいと思い病院へ行くと、膠原病の一種、レイノー症候群と伝えられた』
北川は、まぶたを閉じた。
『その後、筋力の緩慢な衰え、皮膚病変、口内の乾燥など、色々な症状にみまわれ、片っ端から病名がついていった。まだまだこれから先、他の病気がどれぐらいの確率で出てくるのか、わからないという。それは増えはするが減りはしないとのこと』
(いくつもの病気を抱えて今でさえ大変なのに、これからもまだ、いつ発症するかわからない病に怯えながら生活しなければならないなんて……)
『病気とともに生きていく』
確かに。病を発症する可能性が高い将来を見越すとしたならば、人との関わり合い方にも影響が出てきてしまうだろう。
夜爪はそこにはっきりと線を引いてしまった。
他人とはなるべく親密にならないように、と。
「いつ発症し、いつ死んでしまうかわからない私の人生に、他の方を巻き込んではいけないと思うのです」
その言葉は北川の胸を砂漠の砂のように干からびさせていった。納得はできる。気持ちもわかる。日記を手に取ったときに感じた、夜爪のことを難解だと思った第一印象。そこから理解しよう、理解したいと思う気持ちが、北川の足を前へ前へと運んでいる。
いつ死んでしまうかなんて誰にだってわからない。
そんな中、お互いに手を取り合って生きていく。
半身を失う地獄の苦しみは嫌というほど味わった。けれど、妻の死でいっとき手放したその理想は、今はもうこの胸の中に回帰していて、温かく結実している。
アイという何よりも愛しい存在を、この世に遺してくれた妻のおかげで。
契約を終え、購入したエアリアルルームの内覧の、あの日。
だだっ広い部屋に、夜爪と二人で立ったときのことだった。
「ここに日記を綴っていくんですね」
「イスやテーブルなんかは、本当に要らないんですか? 絵画、キッチンセット、植木、色々置こうと思えば置けますけど」
「不要です」
言い切った。
「ただ、暖房器具と照明を入れたいと思っています。冬なんかは特に、身体を冷やせませんので」
「構いませんよ。じゃあ電気ストーブとスタンドライトを入れましょう」
「よろしくお願いします」
話しながらカバンから数個持ってきたひらがな積み木を出した。
「どんな感じになるのかが想像できなかったので。とりあえずアイのひらがな積み木を少しだけ持ってきました。やってみます?」
「はい」
差し出すと、夜爪がそれを受け取り、そしてエアリアルルームのふちへと向かった。その場でしゃがみ込み、そして。
ことりと音をさせ、最初の1枚を置いた。
地上に立ちかえり理論的に考えれば、その一手は永遠に空間を浮遊することとなる。
空間に綴る。
「『ま』ですね」
「アイの宝箱から拝借してきました。見つかったらこっぴどく怒られそうですけど」
ふふっと笑った。
「きっと怒られますよ。アイちゃん、パパには塩対応ですもの」
(良かった。笑った)
けれど、次に続く言葉に胸が締めつけられた。
「……家族って良いですね」
今まで頭を占めていた結婚や恋人、弟の存在、そのもやもやはすべて、木っ端微塵に吹き飛んだ。
すべてを放棄し、手放してしまったような夜爪の雰囲気に、北川はなんと言っていいのかわからず、口を結ぶしかなかった。
翌日の朝、北川はアイを保育園へ送り届けると、郊外にある国立の病院まで車を飛ばした。途中、和菓子屋に寄ってゼリーを買う。夜爪が好きだと言っていたミカン味。その詰め合わせを購入した。
(大丈夫だろうか)
面会時間は10時から。まだ時間は早いが、とにかく少しでも早く、病院に着きたかった。夜爪の顔を見れば、ほっと安心することができるだろう。
それが、願いだった。




