サムズアップ
雨に降られた前回とは打って変わって、柔らかな春の日差しとともに、夜爪は紙袋を下げてやってきた。
その中から一つの箱を取り出す。机の上に置くと、夜爪は続けて言った。
「上手に出来ているかわかりませんけど、良かったらアイちゃんと食べてください」
言うと同時に、倉庫部屋のドアがガラッと開いて、アイがバタバタと飛び出してきた。
「ケーキだっ」
手を伸ばして箱を引き寄せる。
「こらっアイ! お客さまの前で失礼だぞ」
北川の叱責にも動じずに、アイは箱のふたを開けて中を覗き込んだ。
「チョコレートケーキだあ。おいしそうよ!」
「この前、アイちゃんとアイちゃんパパが作ってくれたケーキよりは、美味しくないかも」
「そんなことないよー。だって、すっごくいいにおいがするもん」
箱の中に顔を埋めている。そんなアイの姿を見て、夜爪が微笑んだ。
「アイちゃん。私、スイーツは初めて作ったの。美味しくなくても勘弁してね」
「ぜったいおいしいから大丈夫よ! パパ、食べたい! 早く食べたいよう」
北川はアイの頭に手を置いて言った。
「じゃあ、お茶淹れる。夜爪さんも一緒にどうぞ」
「ありがとうございます」
北川がキッチンに入り、お湯を沸かし始める。紅茶の茶葉も新調したし、ドリップのコーヒーも少し高級なものを買っておいた。その中から好みの飲み物をそれぞれ作ると、北川は夜爪とアイが切ったケーキを皿に乗せ、ダイニングテーブルへと運んだ。
「じゃあ遠慮なくいただきます」
「いたーだーきまーす」
「私もいただきます」
アイが準備したフォークで、チョコレートケーキを一欠片切り、口へと入れた。甘い香りが鼻へと抜ける。チョコの甘さが口の中で広がり、溶けていった。
「んーーーおいしいっっ」
アイが一番に声をあげた。
「うん。美味しいですよ、夜爪さん」
「そうですか? 良かった」
「料理上手ですね。先日いただいた鯵の南蛮漬けもすごく美味しかったし」
「料理上手かはわかりませんが、仕事で遅くなるとき以外は、自分で作りますので」
一人暮らしのニュアンスだ。そんなちっぽけなことにでも、敏感に反応してしまう。ただ独身だとしても恋人が居るかもしれない。今後のこともある。この流れで結婚や恋人の有無についてだけは、聞いておきたい。
北川が大きく息を吸い、さあ訊くぞというところで、邪魔が入った。
「ねえねえ、マリちゃん。クッキーも作れる?」
フォークを落としそうになった。
「アイ。マリちゃんだなんて、失礼じゃないかな」
「北川さん、大丈夫ですよ。アイちゃん、この前からそう呼んでくれてますから」
「え? そうだったんですか? アイめ、いつの間に……」
「仲良くしてもらえて嬉しいです。アイちゃん、私、クッキーは作ったことないかな」
「じゃあこんど一緒に作ろっ」
夜爪が食べ終わった皿に、フォークをことんと置いた。
「いいよ。じゃあ今度、良かったらうちで作らない?」
二人の会話を聞きながら、渋々飲んでいた紅茶をぶはっと吐き出しそうになった。
うち?
「うん! やったー! マリちゃんのおうちに行くー!」
座っているイスの上で、両足をぶんぶん揺する。喜んだときのアイの癖だ。仔犬のように駆け回るときもある。
「……お、お邪魔していいんですか?」
北川がおずおずと尋ねると、夜爪がこくんとあごを打った。
「はいどうぞ。片付いてない家ですけど」
「あ、ありがとうございます」
夜爪はアイに向かうと、「アイちゃん、それまでにクッキーの作り方を勉強しておくね」と言う。
(マジかー。俺もアイがいるとはいえ、独身ってことになるから、相手がいたら独身の男なんてほいほいと家にあげないよな……ってことは、結婚も恋人もいないってことだよな。グッジョブだ、アイ!)
夜爪が見てないのを確認、アイへとサムズアップする。アイはちょっとなに言ってるかわからないんですけどという困惑の表情で、「なに? パパなに?」と、それでもサムズアップを返してくる。その小さな手をそっと握って証拠隠滅を図ると、北川は夜爪へ向かって笑顔を返した。
「ではお言葉に甘えて」
次週の日曜日にと、約束を交わした。
チョコレートケーキを食べてから少しして、夜爪は帰っていったが、ダイニングテーブルを片付ける北川の動きはますます軽い。鼻歌を歌いながら皿を洗っていると、アイが「パパ歌ヘタだしキモい」と言い捨てて、二階の部屋へと駆け上がっていった。
最近のアイは覚えたての「キモい」をやたら連発する。保育園で流行っているという。だが、キモいと言われいつもならすぐに凹んでしまう北川だったが、今日は違う。
夜爪との会食の余韻を楽しむため、二杯目の紅茶を淹れる。その頃にはまた、鼻歌を歌っていた。




