宝物
その日曜日はなぜか雨だった。
「いやいや雨の日ぐらいあるだろ、ふつーに。でも365日のうち、こんな日にわざわざ降らんでも。久々の来客なのにツイてないなあ」
ブツブツ文句を言いつつ、泡立て器の先っぽに着いている、ふわふわなメレンゲをじっと見つめた。
「パパ、おしゃべりしないで、ちゃんとぐるぐるして!」
夜爪との約束通り、チョコレートケーキを作っている。もちろんアイと一緒にだ。北川は、へいへいと返事をしながら、泡立て器をメレンゲの中に突っ込んだ。
朝早くから、部屋を片付けたり掃除したりケーキを焼く準備をしたりで、大忙しだ。アイをうまく使って片付けをしたかったのだが、かえってぐちゃぐちゃになるというループに陥ったため、早々に諦めて自力でやることにした。
そうこうしているうちにピンポンと玄関でチャイムが鳴った。そのとき、北川はちょうど手が離せずにいた。チョコレートケーキの生地を型に流し込み始めていて、重いガラス製の耐熱ボウルを片手に奮闘、とても中断できる格好ではない。
北川は横で見ていたアイに玄関に出るように言った。
「ちょ、アイ、玄関出て。インターホンで、ちゃんと確認しろよ」
「わかったあ」
アイがパタパタと駆けていく。その後ろ姿を見て、北川は慌てて声を上げた。
「アイっ! まずはインターホンだっ」
玄関へと走っていく足をキュキュっと止め、インターホンへと手を伸ばし、ボタンを押す。
「…………」
「はいって言えよっ」
「はーい。あなたは誰ですかあ?」
さすが園児だ。応対が失礼極まりない。アイにも夜爪が来ると言ってあるのに、なぜ訊いた!
『こんにちは。夜爪です』
「ケーキの人ですかあ」
『そうですー』
「今日はアイがケーキを……」
「夜爪さん! 今開けます! ちょっと待っててください!」
「まっててください」
『はーい』
「今、パパはケーキを作ってます」
『はーい』
「チョコレートケーキ……」
延々続く会話に呆れながらも、型へと生地を流し込み終わると、カウンターを回って玄関へと急いだ。
「今、開けます!」
ドアを開ける。雨の中。春をそのまま連れてきたのではないかと思うほどの雰囲気、そこには目に明るいパステルカラーを身にまとった夜爪が立っていた。淡いオレンジ色のワンピース。腰には同系色のリボン。
(わ、かわ、いい、……)
「こんにちは。ご招待をありがとうございます」
すぼめた傘が、カチッと鳴った。正気に戻る。
「……お忙しいところ……ってかこんな雨の日にお誘いしてしまって。どうぞ中に入ってください。アイ!」
アイがてててと小走りしながら、北川の背中に隠れる。
「アイちゃん、こんにちは」
「こんにちはぁ」
夜爪がアイの目線まで腰を折り、そして持っていた紙袋を差し出した。
「今日はお招きをありがとう。とっても楽しみにしてきたの。それで、これはアイちゃんにプレゼント」
アイがおずおずと手を伸ばし受け取る。
「夜爪さん、かえって気を遣わせちゃってすみませんでした。アイ、良かったなあ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
アイが紙袋の中から引っ張り出したものは、ひとつのタッパーと小さな紙袋。
「鯵の南蛮漬けを作ったので、良かったら食べてください。お口に合うか、わかりませんが」
「嬉しいですよ。アイが魚、結構好きなんですけど、僕が肉派だもんだから、あんまり作ってあげられなくて。僕も南蛮漬け、大好きなんで」
(いい大人の男が大好きとか言っちまった)
羞恥が顔に出そうになり、慌てて「チョコレートケーキ、あとオーブンで焼くだけなんで。どうぞ座ってください」
ダイニングテーブルへと誘う。
アイからタッパーを受け取り、冷蔵庫へ。アイも子ども用のイスに腰掛けると、プレゼントの紙袋をガサガサと開け始めた。
「わおう! パンダマンだ!」
アイが手にして北川に見せてきたものは、パンダのイラストが描かれているタオルハンカチと、ビジューのついた小さな宝箱だ。
「パンダマン、大好きだもんなあ」
「お子さんに人気のアニメだと聞いて」
「パンダマンがキックして悪いヤツをやっつけるの。こんな感じ」
アイがイスから降り、そして北川に向かってキックを炸裂させた。
「痛い痛い、アイ、パパを悪者にするのはやめてくれっ」
「キックキックパンチパンチパンダマンパンチーーー!」
「痛ってえ」
その二人の姿を見て、夜爪が微笑んでいる。北川はその柔らかい表情を見て、どこかこそばゆい嬉しさを感じていた。
そそくさとオーブンの温度と時間を設定し、アイをイスへと落ち着かせる。
「アイ、こっちのも見せて」
もう一つのプレゼントを手に取り、ビジューのついた蓋をぱかっと開けた。オルゴールの音色。曲はミュージカル『キャッツ』の『メモリー』。ぽろんぽろんと奏でられる音色が、リビングに響く。
久々に聴いたオルゴールに、北川は優しい気持ちになった。アイも嬉しそうにオルゴールを見、夜爪も耳を傾けている。
「可愛い宝箱だね」
「うん!」
「アイちゃんくらいの歳の女の子って、なにをあげたら喜んでもらえるのか、わからなくて。ショップの店員さんにお訊きしたんです。そしたらちょうど同じくらいのお子さんがいらっしゃるそうで。パンダマンもその方に教えてもらったんです」
すると、アイがイスから降り、夜爪の横をするりと抜けて、キッチン横の倉庫部屋へと入っていった。この倉庫部屋はもともと、米や日用品などを置いてあったのだが、アイが遊びたいときにすぐにおもちゃが出せるようにと、北川が配置をし直していた。中からガチャガチャとなにやら音がする。
「アイ、急にどうしたんだ?」
「んー」
「なんか探してんのかあ?」
「んー」
「もうすぐケーキ焼けるぞ」
「んんー」
生返事しか返ってこない。夜爪と二人きり。言葉の節々にアイに早く戻ってきて欲しいという気持ちが滲み出ている。そのとき、北川は自分が今までになく緊張していることを知った。
北川は二人きりになってしまったところで、すかさず立ち上がると「コーヒーでも淹れますかね」と言って、キッチンへと戻った。時間を確認すると、あと15分ほどでチョコレートケーキが焼きあがる。
「アイー」
しつこく呼ぶと、バタンと勢いよくドアを開けてアイが出てきた。手にはひらがな積み木。
「アイちゃん、なにを持ってきたの?」
夜爪が優しげに問うと、アイはひらがな積み木をテーブルに置いて、そして言った。
「これがアイ」
先日、夜爪が仕事の依頼でこの家にやってきたとき、アイが『あり』を『あい』に書き換えたやつだ。
そして。
「これがマリちゃん」
夜爪が驚いた顔を見せた。
「私? そういえば私の名前、知ってたんだね?」
「うん。パパにきいたから」
「そうなんだ。それ、ちょっと見せてくれる?」
手渡された積み木には、『ま』。ひっくり返して見ると、鞠のイラスト。
「ふふ。ちょうど私の名前だわ。嬉しい」
「でね。これをね」
「うん?」
アイはその二つの積み木を、夜爪にもらったオルゴールの宝箱に重ねて入れた。
「できた」
夜爪はしばし沈黙していたが、「宝箱に入れてくれるのね」と呟くように言った。小さな声。弱々しく。
「うん! 宝物だもん!」
跳ねるような言葉に、夜爪が嬉しそうに笑った。北川はそんな二人の様子を見て、とても満足な気持ちになった。ただ。
「アイ、パパの積み木はいれてくれないのか?」
そう言うと、アイの「パパはダメ」との鉄槌が下ると同時に、オーブンがピピピッと鳴った。




