空っぽの心
横ですよすよと眠るアイの体温を感じながら、北川は頭の下に腕を差し入れ腕まくらにしたまま、天井を見つめていた。
このところアイの身長が日に日に伸びていて、シングルベッドに二人寝転ぶのは難しくなりつつある。ここはアイの成長を喜ぶ場面ではあるが、北川の頭の中は夜爪の日記の内容でいっぱいだった。
(直ぐに死に直結とかじゃないわけだけど、かえってそういう方が、将来の不安を煽るのかも知れないな)
『私の心に悲しみも苦しみもない。あるのはただ、ぽっかりと穴でも空いたような、空っぽな空間だけ……』
エアリアルルームを選んだ理由がそこにあった。
書き始めから数ページ目の場所だ。
『この日記ももちろん、こうして生きながらえることにはなんの意味もなく、そしてなんの意義もない』
北川はため息をついた。
◯月◯日
日記を綴る。
免疫系の持病を抱えてから、2年。この時点で、与えられた病名は3つ。
自分を守る機能であるはずの自己免疫が身体の健全なあちこちを攻撃し、それによって不具合が出る。手は寒冷により死人のように白くなり、肌は乾燥し、筋力は人より衰えるのが早い。
投薬による対処療法のみ。原因は不明。完治もしない。
病気の種類は増えはするが減りはしないとの、主治医の見解。発症の可能性が考えられる病名をひとつひとつと挙げてくれたが、その中には発症後直ぐに寝たきりになったり、急速に悪化して死に至るものもあるようだ。
ただ、運が良ければこのまま寿命を全うできるかも知れない。が、それはお医者さまでも神様でも分からない。
ごろんと寝返りを打った。
妻を突然失い、これまでアイを必死に育ててきた北川だったが、今までに自分の人生がどういうものかなどと、振り返ったり考えたりすることがなかった。いや、その余裕もなかったと言っていい。
だが、人はみな、死を目の前にするとその考えを改める。
死を迎えるまでになにをしたらいいのか、なにをすべきかを考え始めるのだ。
あの余命宣告された老人には、なにか吹っ切れたものを感じた。覚悟を決めた、そんな力強さがありその強さからくる穏やかさもあった。
けれど、エアリアルルームを訥々と語る彼女には、強さもなければ弱さもない。大人しい性質もあるだろうが、あれは単なる穏やかさなんかじゃない。
すべてを諦めてしまっている。生きることも死ぬことも、そして愛することもすべて。すべてを諦めてしまっているのだ。
夜爪の日記には、この人生にはなんの意味もなく、そしてなんの意義もないと繰り返し記してあった。それも頑なに。ただ、それが前向きなのか後ろ向きなのかは、他人が判断していいことじゃない。
エアリアルルームは、ただの空間だ。
だがそこに自分の内面にこんこんと湧き上がってくる情熱を注ぎ込むことによって、自分の人生を豊かにし幸福にし、そして。
「金じゃ買えないものや簡単には手に入らないものに変わっていくんだと思うけどなあ。確かに空間にただ文字なんかを綴っていったって、なんの意味も意義もないだろうけど……」
本当に空間に文字を綴っていくだけでいいのだろうか?
「いつ死ぬかわからないというのに、意味や意義のあるものを手に入れたとしても、それこそ無意味ではありませんか? 大切なものを作れば作るほど、お別れするときに自分が苦しむだけだと思いますから」
カフェでそう言い切った夜爪。
だから、購入するエアリアルルームにも意味や意義を持ってはいけない、と。単に文字を連ねるだけだ、と。
難解だ。難解すぎて思わず苦笑いを浮かべた。
(彼女はどうやら複雑な人のようだ)
最初は単純であったはずの依頼。それが夜爪という人間を知れば知るほど、頭を捻るような、難題へと発展していく。
日記を読んだあの日から。
薄くしか笑わないのは持病のせいか? それとも血の繋がらない弟のせいか?
繰り返し考えている。
北川は隣でぐっすりと眠っているアイの額に手を伸ばした。体温を感じる。他人の体温は、人の眠りを誘う。
夜爪には?
隣で眠る人はいないのだろうか?
北川は、アイの寝顔を当分の間見つめ、それから眼を閉じた。すうすうと穏やかな寝息がするりと耳へと入り込んできた。




