幸せではない
「ま、待ってください。だめですよ、これがっつり個人情報ですから!」
「私が了承していれば良いのではないでしょうか?」
「いやいやいや大切な日記ですよ? 読んでいいだなんて……ってか、それは本当にマズイと思います。と、とにかくなんか飲んで落ち着きましょう。夜爪さんはなににします?」
北川が話題を変えようと慌ててメニューを差し出す。と、夜爪は素直にそれを受け取り、ドリンクのページに視線を落とした。
出先のカフェ。夜爪との打ち合わせ。お互い日程を擦り合わせることができず、外で会おうということになった。夜爪が指定した店まで北川が足を伸ばした格好だ。
「遠くまでご足労をおかけしまして申し訳ございません」
待ち合わせはとあるカフェ。先に到着したのは北川だった。テーブルに座り、そわそわしながら待つこと数分。
遅れて夜爪が来た。エレガントで春らしい装いだ。オレンジ色のニットのカーディガンに白のブラウス。前回、前々回とスカートだったが今日はアイボリーのワイドパンツ。仕事場から直行とのことで、足元はパンプスだった。
「都合ってなかなか合わないものですね。忙しい中、こんな場所にまで出てきていただいて……」
「いえ、こっち方面に買い物もありましたので。ついでにと言ってはなんですけど」
窓際の席からは大通りを行き交う人々の姿が見える。みな、ショッピングバッグを抱えながら楽しそうに歩いていく。大型ショッピングモールや服飾雑貨店などが密集するショッピング街だ。
北川もアイへのプレゼントにと、春らしいワンピースを手に入れていたから、買い物ついでにという言葉もあながち嘘ではない。
夜爪はテーブルに着くと、休む間もなくカバンの中から、一冊のノートを出した。
「北川さん、これ。私が今、書いている日記です」
分厚いものだった。表紙には小花を散らした中に「Diary」の文字。
「数年前から書き始めました。どうぞ読んでみてください」
突然の提案に、北川は驚き焦ってしまった。まさか日記を読んでくれと言われるとは思いもしなかった。北川にとって日記というものは、完全に個人的なもので、ともすればマル秘のカテゴリの中に入るという認識だ。
「ちょ、ちょっと待ってください」
そして冒頭に戻る。
北川がコーヒーを、そして夜爪がカフェオレを注文しひと呼吸置いてから、北川が慎重に話し始めた。
「夜爪さん、聞いてください。あなたの日記を読ませていただかなくとも、エアリアルルームの契約はできますし、部屋をお渡ししてしまえば、それで契約完了ってわけですから。夜爪さんがあの部屋に何を綴ろうとも、僕には……その、関係ないというか……」
もちろん個人情報だ。そのことをことさら主張する。読むわけにはいかない。ただ、ひらがな積み木を用意する。それが仕事。
夜爪が運ばれてきたカフェオレにそっと口をつけ、そして落ち着き払った表情で、話し始めた。
「……すみません。お仕事としては面白くないものですよね」
「いえ、そういうことではなくて……」
「コーディネーターの腕を振るうことなくですもの。当たり前です」
図星だった。これっぽっちの仕事内容で、高額の依頼料を手にしてもいいのだろうかと躊躇するほどの。
「はあ、まあ」
曖昧なため息をコーヒーで流し込む。まだいい加減に熱い。胃の辺りがほわっと温かくなった。
「奇妙なことに付き合わせてしまい、申し訳ありません。ただ……」
「…………?」
「弟が、北川さんに依頼をしてから、とても幸せそうだったので。それでつい私も、」
コーヒーカップを手で包み込んだ。
「……私もそうなれたならと、安易に……」
幸せになりたいというなら、今は少なからず幸せでないのかもしれない。半分だけ目を伏せた、その憂いの顔に、北川の胸はざわりとしたのだった。




