第三話 ―過去の出来事―
俺は、オリエルに血を吸われその恍惚感と疲労感、空腹感から立ち尽くしていた。
「疲れたろう。奥の部屋で休んでいるといい。腹も減っていると思うし、少し早いが食事にしようかね」
ありがたかった。最初に入った部屋は奥の机にある椅子しか座るところが見当たらなかったからだ。全身に疲労感が伝わりすぐにでも座り込みたかった。
オリエルに案内されて、部屋の右側にあった扉から別に部屋に移動する。そこには炊事場とダイニングテーブルと背もたれが付いた椅子が二脚置いてあった。壁には食器棚が設置されており、隣には壁に据え付けられた戸棚にいくつかの食材などが置いてあった。
俺は部屋に入るなり倒れこむように椅子に座った。椅子は木製でクッションなどもついておらず尻が痛かったが、足に全体重を任せている時よりは何倍もマシだった。
「さて、いろいろ質問させてもらいたいことも多いけれど、それ以上に貴女の方が聞きたいことが多いのではないかしらね」
確かにその通りだ。知らないこと、疑問、謎、いろいろと話を聞きたいことがあった。
「いろいろ聞きたいことばかりですが、とりあえずオリエルさんについて教えていただけませんか?」
とりあえずの疑問だった。俺にコミュニケーション能力を付与してくれて、その対価で血を吸われた。あの時の快楽を忘れられなかった。
「オリエルで構わないよ。そういえば自己紹介がまだだったね。私はオリエル・アウル・エスティリス。ここオルメカの街で学者とは名ばかりの存在ではあるが、皆の相談などに乗っているダークエルフ・ヴァンパイアさね」
ダークエルフ・ヴァンパイア。いかにも異世界らしい響きだ。褐色肌に、尖った耳、先ほどの牙を見れば疑う余地はないだろう。しかし同時に一つ疑問と不安がよぎる。
「カナメ・アオバです。この度は言葉が通じるようにして頂いてありがとうございました。ところでダークエルフ・ヴァンパイアというのは血を吸われた相手もヴァンパイアにしてしまうんですか?」
「おや。なぜヴァンパイアの特性を知っているんだい?だが安心しておくれ。ヴァンパイアの眷属を作るのは容易じゃないんだ。血を吸われただけですぐにヴァンパイアにはならないから安心しなね」
それを聞いてほっとした。ヴァンパイアといえば元いた世界でも聞いたことがある。吸血鬼というやつだ。太陽やニンニク、十字架に弱いが強靭な肉体を持ち、血を吸った相手を吸血鬼にしてしまう怪物だ。もちろん、この世界のヴァンパイアにその特性が当てはまるとは限らないが。
「それを聞いて安心しました。ところで聞きたいんですが、街中を歩くと女性しか居ませんでしたがここには男はいなんですか?」
オリエルは部屋の一角で料理の準備をしている。着ていた透き通った羽衣を壁に掛けて、もともと壁に掛けてあったエプロンを着て、頭には頭巾をかぶっている。今までの妖艶な雰囲気から一変して一気に家庭的な雰囲気になった。
「男?そりゃあもうとっくに絶滅してしまったからいる訳ないじゃないか。あ、そういえば異世界から来た貴女は知らなくて当然だわね」
男が絶滅?穏やかな話ではなかった。
オリエルは野菜のようなものを切っていて、鍋が火にかけられている。湯気が立っているところを見ると水か何か入っているようだ。
「とっくに絶滅したとおっしゃいましたが、いつ頃絶滅したんですか?」
オリエルが小さい獣を捌いているようだった。手際がよく、骨と肉と分けられ骨は鍋の中に入れられた。
「そうだねぇ。もう100年以上前になるか。男が絶滅しちまったのは」
100年以上前に男が絶滅?じゃあオリエルやエミスはなぜ生きているのか。新たな疑問が生まれた。
「100年以上前に男が絶滅したというなら、オリエルやエミスも、今生きている人たちはどこから生まれたんですか?」
鍋から沸騰していた水と思われる透き通た液体が何らかの力を受けてか宙に浮き、オリエルが鍋の中から先ほどまで茹でていた骨をトングのようなもので取り出しているところだった。
「そりゃあ私はダークエルフだからね。エミスもエダエナだから100年という時間は長い時間だけど一生を終える時間じゃない」
エダエナ?また知らない単語が出てきた。一生を終える時間じゃないということは長寿なのだろうか。
「エミスもエダエナって言ってましたけど、エダエナって何なんですか?」
宙に浮いていた液体は鍋に戻り、そこへ切った野菜と細かく切られた肉が入れられて煮込まれている。
「エダエナってのは種族の名前さね。この世界にはエルフ族、ダークエルフ族、エダエナ族、イブリード族の種族が暮らしている。それこそ100年前には人間も住んでいたがね。人間は一生が短い。男を失った彼等は時の流れに埋もれて絶滅していったよ」
人間が絶滅していた。先ほどから突飛な話ばかり飛び出すので理解が追い付いていなかった。
「え!?今この世界に生き残っている人々は100歳をみんな超えているってこと!?」
思わず素の声で話をしてしまった。そして何より今まで出会ったエミス、オリエル、店主そして街ゆく人々が100歳を超えているという話が理解できなかった。
「そうさね。人間の一生は長くても70年だろうけれども、エルフ・ダークエルフ・エダエナ・イブリードは最低でも普通に暮らしていれば200年から300年は生きているからね」
鍋から美味しそうな香りが漂ってくる。オリエルは調味料を加えて味見をしているようだった。
「皆若くてお美しいのでとてもお歳を召されているとは思いもしませんでした」
―――お前ら全員ババアだったのか。と頭の片隅では考えたが、目の前にいるオリエルを見たときの容姿の美しさからそのセリフは出てこなかった。
「やはりカナメは人間なのだね。そうやって人間は容姿を気にしていたよ。確かに長寿の種族は生まれてから成長して成人を迎えると、そこから死ぬときまでほとんど容姿は変化しないからね」
料理が出来上がったのだろう。オリエルが食器棚から器を取り出して、鍋からスープをお玉で掬っている。
「なぜ男は絶滅してしまったんですか?伝染病でも流行ったとか?」
オリエルが器に盛ったスープを俺の目の前のテーブルに置いた。調理中も美味しそうな香りだったが、目の前で置いてある器から立ち上る香りはそれ以上に美味しそうに感じられた。
「男が絶滅したのは一人の魔女のせいさ。魔女の争乱と言ってね。嫉妬に狂った魔女が怒りに任せて伴侶を殺害し、さらに事もあろうか死神に取り付かれてしまってね。その怒りが増幅されて、世界中の男を消してしまったんだ」
魔女。死神。また変わったワードがでてきた。
「消してしまったというのはどういう事なんですか?」
オリエルがもう一つ食器棚から器を取り出してのスープを盛り付けると、俺が座っているテーブルの反対側正面に置いた。
「文字通りの意味さね。と言っても跡形もなく消えた訳じゃない。体がすべて砂になってしまったんだ。そしてその砂は魔女の強大な魔力によって、大陸毎に一ヶ所に集められたんだよ」
オリエルが木製のスプーンを食器棚から取り出して、俺に手渡した。
「さぁ、召し上がれ。異世界人の口に合うといいけれどね」
そう言ってオリエルは俺の向かい側に座った。
俺は手を合わせて軽く会釈をしながら言った。
「ご用意ありがとうございます。頂きます」
スープを見ると、肉と野菜のスープのようだ。とても美味しそうな香りが立ち込めている。
スプーンで肉をひとかけ掬い、口に運ぶ。肉は熱々だったが、火傷をするほどではなかった。野性味溢れる味ではあるが、思いのほか肉が柔らかく味が染みていた。
この肉の獣の骨から出汁を取ったのだろう。油が少し浮いているが、あっさりとしたスープだ。肉自体に味付けが施してあるのだろうか。腹が減っていたことも相まってスプーンが止まらない。
「よく食べるね。まだ有るからお腹が空いているなら食べるといい。それじゃあこちらからの質問に答えてもらおうかしらね」
俺はスープを頬張りながら、頷いて答えた。
「さっき貴女から血を頂いた時直ぐは気がつかなかったけど、この血の味には覚えがあった。もう200年以上も前の記憶だったからもう忘れかけてたわね」
なんと。オリエルの年齢が齢200を越えていることが判明した。パッと見は30代前半にしか見えない。20代といっても通じるぐらいだ。
「貴女、もしかして人間……でいいのかしらね」
言い終えてオリエルがスープを口に運ぶ。上品な所作だ。
「はい。僕は正真正銘人間です。僕が住んでいた世界は、人はすべて人間の種族だけでした」
厳密に言えば違うが、大きな差でもなかったので割愛して説明した。
「そうよね。異世界なのだもの。単一種族だけの世界があったって不思議じゃないわね」
そう言ってオリエルは微笑んだ。時おり見せる笑顔が実に可愛らしい。歳を感じさせないほどに。
「それで、もう一つ聞きたいことがあるの。さっき味わった血の味と、記憶の中の血の味。また貴女から聞いた人間だけの世界。この二つの情報からの推測だけど貴方もしかして男?」
ドキリとした。当たり前のことなのに、あえて男かどうか聞かれたからだ。むしろ今まで見ていてわからなかったのか。そんなことを考えていた。
「はい。僕は男です」
僕がそう答えると、オリエルが口元に手を当てて声を上げて笑った。
大層ツボに入ったようで笑いながら話をしていた。
「やっぱりねぇ。抱き着いた時から鼓動が早くなったからおかしいとは薄々思ってはいたのよ。血を吸ったら吸ったで魔力は上がるし、気は高ぶるし、身体は疼くしね」
嬉しそうに笑いながらそう語った。時折見せる笑顔も可愛かったが、大きく顔を崩して笑う姿も可愛かった。年齢が若返って見える。
「だから貴方に謝らなければならないことがあるのよね」
嫌な予感がした。同時に全身から汗が噴き出した。すでにスープは食べ終えてしまった。暖かいスープを食べて火照ったから汗をかいているのか、冷や汗なのかはわからない。
「さっき血を頂いたときに、試験管一個分の血を頂くつもりだったんだけど、そんな状況だから気分が昂ってしまってね。もっと沢山血を頂いてしまったの。大きな快楽感や恍惚感とともに、一気に疲れてしまったでしょう?」
オリエルは申し訳なさそうに顔を赤らめながらそう語った。
血を多く抜かれてしまったことに対する怒りは無かった。こうしてオリエルと会話ができているのもオリエルのおかげだからだ。それよりも血を抜かれている間の多幸感が忘れられない。
「でも安心して!命を脅かす量ではないからね。本当にごめんなさいね」
今日これまでの落ち着き払ったオリエルの印象からは想像ができない、どこか若々しい雰囲気だ。オリエルは椅子から立ち上がり深々と頭を下げてきた。
「そんな。頭を上げてください。むしろ感謝しています。なんなら血を抜かれている間の気持ちよさが忘れられなくて、また元気になったら少し位吸って頂きたいぐらいですよ」
事実だった。本当に少しだけならば毎週吸ってもらいたいほどだった。
「ダメよ。それだけは絶対にダメ。吸われ続ければ貴方はそれこそヴァンパイアの眷属になってしまう。それに貴方が感じている多幸感は一時的な物だからね。今から貴方を私のチャーム<魅惑>から解放してあげるわね」
そう言うとオリエルは椅子から立ち上がり、両手を合唱した状態から少し手を放して目を瞑っている。
次に何やら呪文のようなものを唱えると手と手の間に光が生まれた。
非常に明るいと感じるが、蛍光灯の光のように直視できた。
「今からこの魔法を貴方にかけるわ。それで私のチャーム<魅惑>は解除されるわ」
あの多幸感は、何者もあらがえないのではないかとすら思えるほど強烈な記憶だった。
そしてそれはチャーム<魅惑>というものの影響なのだという。正直口惜しかった。吸われ続ければヴァンパイアの眷属になってしまうと言われても尚、それでも吸って貰いたいと思ったからだ。僕が何か言い訳を考えているうちに、光が俺の胸に飛び込んできた。
光が飛び込んできても、当たったという感じはしなかった。暖かい風が吹き抜けてきたかのようだった。しかしそれと同時に、襲ってきたのは恐ろしいほどの虚脱感、脱力感、恐怖だった。震えが止まらなかった。先ほどまで美しいと、可愛いと思っていた目の前のオリエルが怖くて堪らない。
この場から逃げ出したかった。だが足が竦んで動かない。
「大丈夫。安心して。怖くない。怖くないわ」
目の前立っていたオリエルが俺の隣に来てくれて手を握ってくれた。
目の前のオリエルが恐ろしくて逃げ出したかったが、腰が抜けて立ち上がることができず逃げそびれてしまった。
怖くて堪らなかったが、不思議とオリエルの手から感じるぬくもりが落ち着いた。
「貴方が感じている恐怖はチャーム<魅惑>が解除されたことによる副作用なの。でも安心して。直ぐ良くなるわ」
そう言ってオリエルは俺を抱きしめてくれた。オリエルの感触、体温、匂い、言葉。そのすべてが俺の恐怖や、虚脱感、脱力感をいった負の感情をかき消してくれているように感じた。
「あ、ありがとうございます……すみません。もう少しこのままでいてくれますか?」
そう言って俺もオリエルを抱きしめた。心臓が徐々に高鳴ってくる。鼓動がオリエルにまで聞こえている気がした。
「ええ。もちろんよ。私の方こそごめんなさいね」
そう言ってしばらく二人で抱き合ったまま時が過ぎていった。
普段ならこんな美人な人に抱擁なんてされようものなら問答無用で反応していたに違いない。しかし魔法のせいなのかはわからないが、びっくりするくらい自分の息子は反応しなかった。初対面の人間にここまでするオリエルもどうかと思うが、自分の無体さを見られるのは恥ずかしさがある。逆に勃たなくてよかった……
「ありがとうございます。もう大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
抱き合ってから2分ほどたったころ、大分気分が落ち着いてきたのでそうオリエルに伝えた。先ほどまで感じていた恐怖や虚脱感、脱力感は薄くないっていた。そして何よりオリエルに対する恐怖は消え、肌や髪の美しさを改めて感じていた。
「いいえ。こうなってしまったのは私のせいだからね。それにまだ、貴方から頂きすぎた血の代償をお支払いしていないわね」
最初に出会ったときの印象のオリエルに戻っていた。先ほどまでは若々しく感じていたオリエルだったが、今は落ち着き払った大人の女性。という感じだ。若々しく見えたオリエルも好みではあるが、この落ち着き払ったすべてを見通すような目つきのオリエルも嫌いではない。
「いえ、言葉を聞ける・喋れる・読めるようにして頂いただけで充分です。また、オリエルさんは僕の血を多く吸いすぎたことを正直にお話して頂けました。心よりお礼を申し上げます」
そう言って俺はオリエルを体から離すように手で促して立ち上がると、改めてお辞儀をした。
「いいえ、そういう訳にはいかないわね。契約違反をしたのは私だからね」
どうもオリエルは僕の血を吸いすぎたことにかなり負い目を感じているようだった。僕はもう一度チャーム<魅惑>をかけてもらいたかったが、それを言うと怒られそうな気がしたのでその台詞を飲み込んだ。
「では、今度からオリエルとお呼びしてよろしいですか?気が遠くなるほどの歳の差があると認識しておりますが、親しみを込めて敢えて呼び捨てでお呼びしたいのですが」
それを聞いたオリエルは目を丸くしたかと思うと、またニコリとほほ笑んでくれた。
「好きに呼んでくれて構わないよ。なんならその堅苦しい敬語もやめてもらってもかまわないさね。」
この敬語は、社会に出て身についてしまったものだ。出会って1日程度のお付き合いのなかでは早々普段通りに喋れるものではない。
「ありがとう。オリエル。この敬語は徐々に取っていくよ」
敢えて無理して敬語を取って普通に話をしてみるが、やはり慣れない。ましてや相手は人生の大先輩にあたる。とても俺がため口で話をしていい相手とは思えなかった。
「さて、大分夜も更けてきた。今日はそろそろ寝るとしようかね」
そう言ってオリエルは俺を客間に案内してくれた。
ベッドが一つ置いてあり、その横にベッドサイドテーブルが置かれているだけの小さな部屋だったが、布団で寝られるのが有難かった。
「おやすみなさい」
そう挨拶してオリエルと別れると、俺は倒れこむように布団に寝転がった。
今日はとても長い1日だった。寝て起きたらまた自分の家で目が覚めるのではないか。逆にこれがすべて夢なのではないか。そんなことを考えていた。
(明日はとりあえず、これからの事をどうするか考えよう)
そんなことを頭の中でぼんやり考えながら眠りに落ちていった。