7.卒業パーティーⅣ
「大正解」
低く、体に響くような声は嬉しさを滲ませているようだった。
月の淡い光のみが室内を照らす。窓も扉も閉ざされているにもかかわらず、風が強く吹いた。
怯えたような息遣いが響き、パニックになった人々が出口へ走り出そうとする。
「そんなに慌ててどこへ行くんだ」
その声が合図だったかのように、周囲の貴族たち、騎士たちが力なく床に倒れ込んだ。
「何をした…!?」
唯一騎士の中で意識のあるヴィクターが震える声で問う。いつも自信に満ち溢れている瞳も、今は自信なさげに弱々しく揺らいでいた。
「騒がしかったから眠らせた。何か問題でも?」
スティーヴンは言葉を紡ぎながら、少しずつ姿かたちを変えていく。頭に角が二本生え、狼のような瞳が怪しく光る。短かった暗い色の髪もいつの間にか伸びている。
月光に反射した長い髪は非常に艶やかで蠱惑的だ。
シャーロットは唖然とその様子を見ながら、「魔王っぽい……」と場違いな感想を胸に抱いていた。
いつの間にか、スティーヴンの背後には二人の人物が控えていた。二人は黒を基調とした軍服のような正装を身に纏っており、颯爽たる風格を漂わせている。
片膝を立てて座っていた彼らはすっと顔を上げ、会場を見渡す。凛としていた表情は、一瞬にして心底げんなりした表情に変わる。
「……ちょっと、あの……冗談ですよね、魔王様……」
右目に大きな傷がある短髪の好青年が立ち上がり、困惑した声を上げる。それに続いてもう一人の容姿端麗な女性が落ち着いた様子で立ち上がった。
「魔王様。お気持ちは分かりますが、やりすぎです」
「彼女が魔道具で刺されたと聞いてもか」
二人が一斉にシャーロットを見た。二人とも眉間に深く皺を寄せている。
スティーヴンは二人の様子には構わず、振り返ってサミュエルに目を向けた。
「あ……あああ……」
すっかり怯えた様子のサミュエルをスティーヴンが見下ろす。サミュエルもなかなか長身だったはずだが、今はとても小さく見える。
スティーヴンはサミュエルの様子を弄ぶかのようにゆっくりと手を伸ばし、固まったまま動けないでいる彼の顔を片手で掴んだ。
「彼女が味わった痛みを、お前も味わうといい――」
まるで死刑宣告かのように重く不穏に響いた言葉に、サミュエルが瞳を零しそうなほど目を見開く。
その様子を見て、シャーロットは漸く我に返った。
「お待ちください!」
ジャスミンとフェリクスの制止を振り切り、シャーロットはスティーヴンの前に飛び出した。彼は目線だけをシャーロットに向ける。冷淡さを感じさせる鋭い眼光が刺さるも、怯まずに真っ直ぐ見据える。
「まだ情があるのか。嗚呼、それともこの騎士を痛めつけることを希望か」
びくりとヴィクターが肩を震わせ、縋るような視線をシャーロットに向けた。
情などすでにない。許すつもりも毛頭ない。ここまで愚かで非情な者がどうなろうと知ったことではない――が。
「わたくしはただ、シャーロット・フローリーは魔女ではなかったと皆に宣言し、私の養父と侍女に謝罪をしてくだされば満足なのです」
片膝をついて頭を下げる。
「どうか、御慈悲を」
このままでは、両国ともに最悪な事態になりかねない。それだけは避けたかった。
シャーロットは、この国を深く愛していたのだ。
この場に誰もいないのではないかと思うほどの静寂が続き、不安になってきたころ、深い溜息が頭上に落ちてきた。
「……顔を上げろ」
ゆっくりと顔を上げると、スティーヴンは既にサミュエルから手を放していた。渋い表情を浮かべつつ、指を一度ぱちんと鳴らすと眠っていた民たちが一斉に目を覚ました。
困惑と恐怖の表情を浮かべ、口々に不安を零すも、逃げ出したりする様子はない。
「静粛に」
そう言葉を発したのは、国王ハーラルだった。
会場は一瞬で静寂に包まれ、皆の視線が国王へ向けられる。
「シャーロット嬢。愚息が大変失礼なことをした。到底許されるものではないが、私共からも謝罪をさせてほしい。申し訳ない」
国王夫妻が深く頭を下げた。その異様な光景に肝が冷え、背中に冷や汗をかく。
「お、おやめください、わたくしに頭を下げるなど」
さすがのシャーロットも動揺を隠しきれず、慌てて顔を上げるよう伝えるが、夫妻は頭を下げたままだ。周囲の貴族や富豪たちも動揺し、狼狽えている。
当たり前だ。国王夫妻が侯爵令嬢に頭を下げるなど、有り得ないことなのだから。
助けを求めるようにフェリクスに目を向けるも、首を横に振るだけだった。
(大人しく謝罪を受け取れ、ということね。)
恐れ多く体が震えそうになるが、一つ息を吐いて心を落ち着かせる。
「……サミュエル殿下に、フェリクス侯爵と侍女ジャスミンへの謝罪、この度の発言の撤回を要求します。そして――ジャスミンに手を上げた者は今すぐ彼女に謝罪しなさい!」
先ほどジャスミンの頬を叩いた騎士を睨むと、瞳を恐怖で染め即座に謝罪を述べた。
「自分で決めて行った行動に責任を持てないのなら初めからするな!……二度と、ジャジーに近づかないで」
そう吐き捨ててジャスミンの腫れた頬に触れる。赤く腫れた頬は熱を帯び、とても痛々しい。
「……失礼」
ふわりと、スティーヴンがシャーロットの背後に回った。ジャスミンの頬に触れているシャーロットの手の上に大きな右手が重なった。
驚く間もなく、先程と同じ光に包まれた。一瞬の眩い光の後、そっと手を放すスティーヴンに習ってジャスミンの頬から手を離すと、すっかり腫れが引き、先程の怪我が嘘のように無くなっていた。
魔道具に触れた際にできた指先の傷まで、すっかり消えてなくなっている。
目を丸くしてジャスミンと顔を見合わせる。振り返ると想定していたよりも近い距離にスティーヴンは立っていた。非常に整った顔に狼狽えそうになったが、我に返って最敬礼をする。
「そのように畏まらなくていい」
(どうして、ここまで親切にしてくれるの?)
疑問が浮かんだが、今は質問するより先にやらなければならないことがある。
「サミュエル殿下。もう一度だけ言います。わたくしは、魔女ではありません」
シャーロットの凛とした声に、サミュエルは真っ青な顔を上げた。
――正気か?
と言葉が聞こえてきそうだったが、さすがに自分の置かれた立場を理解できているらしい。苦虫を嚙み潰したような表情で頭を下げた。
「……すまなかった。シャーロット・フローリーは魔女ではないとここに宣言する。フェリクス侯爵、侍女のジャスミン殿、すまなかった」
異様な静寂を破ったのは国王だった。
「スティーヴン王子。愚息と私の国の者が失礼な行いをしたこと、謝罪する」
「いいえ。私も秘密裏に学園に所属していたことをお詫びいたします」
(そういえば、なんで魔王様がこの国に?それに、何故わたくしを助けてくださったのかしら。)
疑問が次から次へと浮かぶのはシャーロットだけではない。この場にいた誰もがそう思っていた。
「事情を尋ねてもいいだろうか」
国王の言葉に、スティーヴンは眉一つ動かさずにあっさりと答えた。
「シャーロット・フローリーが魔女であるか否か、調査するためです」
「ーー!?」
驚きのあまり、スティーヴンを凝視してしまう。
「わ、わたくしのことをご存じでしたの?」
他国、しかもかなり遠方の国に自分の情報が伝わっているなど、驚かない方がおかしい。つい訝し気な声を上げてしまい、国王とスティーヴンの会話に口出ししてしまった無礼に気づくのに遅れた。
我に返って詫びようとする前に、彼は愉快そうに妖しい笑みを浮かべた。
「――ルーカス」
スティーヴンがシャーロットの影に向かって言葉を掛けると、彼女の影が蝋燭のように揺らぎ、そこから黒猫が飛び出した。間延びした鳴き声を上げ、ルーカスがスティーヴンの長い脚に擦り寄る。
「この子は私の使い魔だ」
その言葉に自分の耳を疑った。驚きすぎて声も出ないシャーロットを見て、スティーヴンは愉快そうに口角を上げた。
「二年ほど前に、怪我したこの子を治療しただろう?」
「は、い」
「魔物を治療するには魔力が必要だ。人並外れた、強力な魔力がな」
自分はもしかしなくとも、とんでもないことをしてしまったのではないかと、声も出せずに固まるしかない。
ルーカスとは出会ってもう十年になる。森の中で彷徨っていたシャーロットとジャスミンを救ってくれた命の恩人――人じゃないが――なのだが、二年ほど前に退魔師にやられたのか、それとも近くにあった聖水を飲んでしまったのか、原因は定かではないが、ルーカスが怪我をして学園内で倒れていたことがあった。
魔物の治療は非常に高度な魔術を用いるだけでなく、膨大な魔力を消費する。簡単に言えば、自身の命を削る行為である。
「躊躇もせずに治療を行った貴女の噂が魔物たちの間で広まり、ついには我国民の間にも広がった――『東の魔女』として。ここまで話題になってしまうと、魔王として調査せざるを得なくなった」
スティーヴンが国王へ目線を戻し、軽く頭を垂れた。
「理由がどうであれ、勝手に調査を行ったことをお詫びいたします」
丁寧なスティーヴンの謝罪の後、背後に控えている二人も丁寧に頭を垂れた。
(魔王様の使い魔とお友達だったなんて……。)
混乱するシャーロットのことは露知らず、ルーカスは呑気にスティーヴンの足元で欠伸をしている。
「彼女、シャーロット・フローリーは魔女ではないと宣言します」
魔王であるスティーヴンの言葉は誰よりも説得力があり、そして力強かった。
国王は深く頷いて肯定し、その様子を見たスティーヴンは満足したようで、再び指を一度ぱちんと鳴らした。
会場が一瞬で元の明るさに戻り、固まっていた貴族たちも体の自由を取り戻した。
「ルーカスを治療したから、わたくしを助けてくださったのですね」
漸く腑に落ちた。ほっと息を吐いて安堵したのも束の間、スティーヴンは「それは違う」と首を振る。
困惑の色を浮かべるシャーロットの手を取り、スティーヴンが膝をつく。
――手の甲にそっと唇が触れた。
「貴女に恋焦がれる一人の男として、守りたいと思ったんだ」
彼の熱烈な愛の言葉が、会場に響き渡った。