第八十二話:裏切者。
人魚泡海はただただ相手の隙を伺っていた。
自分が報告をしている間中ずっとデスクに両肘をついて手を組み、そこにアゴを乗せているどこかの指揮官ぶったこの男のスタイルが非常に鼻につく。
泡海はこの男が嫌いだった。
もともと給料のいいアルバイト感覚で始めた仕事だったが、守らねばならない規約は多いし罰則も多い。そしてこの支部で一番偉い目の前の男がどうにもこうにもねちっこくていけない。
全うな職場なら間違いなくパワハラかセクハラで左遷されているだろう。
さらに言うならばこの男には弱味を握られている。その証拠品さえこの手に戻ればこんな奴今すぐにでもボコボコにしてしまいたいくらいだった。
いや、してしまおう。これは確定事項だ。
ただ、それは今すぐという訳にはいかない。
ボコボコにしてから証拠品を探すという手もあるが…万が一にもここで本部に助けを呼ばれたり逃げ出されたりするといろいろ面倒な事になる。あれをどうにか処分してしまうまでは安心できない。
泡海は今の学校生活に満足していた。
出来る事ならば卒業まではこの状況を続けていきたい。そして願わくば教師になり今の学校に帰ってきたいとすら思っている。
何故かあの学校には美少女が集まる。制服が可愛いからだろうか?
どちらにせよあんないいスポットを易々と手放すつもりにはなれなかった。
彼女は真性の美少女フェチであるが故に、神聖なあの場所に居られなくなる事を恐れる。
それを回避するためならばどんな事にも手を染めるだろう。
たとえ目の前のこの男を殺害せねば戻れないという状況だったのならば迷わずにナイフを抜くだろう。迷わずに銃口をこめかみに突きつけるだろう。
彼女はそういう女だった。
「ふむ。なるほどなるほど。大体の経緯は解った。上ではコンサートも終盤のようだしそろそろ君も準備をしたまえ」
「はい。…それで、支部長。例の件ですが」
支部長は一瞬不思議そうに首をかしげるが、すぐに思い出したように「あぁ」と呟く。
「君のアレの件かね。あのデータはきちんと私の方で保管してある。この件が終わったらあのデータを君に渡そう。勿論バックアップなどは取っていないよ。正直そこまでするほどの物でもないからね」
「…解りました。宜しくお願いします」
つまり、今潜入しているうちの誰かが目的地にたどり着きさえすればこちらの勝ちである。
それぞれにきちんとSDカードがあったら腕輪と一緒に持ち出すように言ってある。
本来なら自らの手で確保しその場で粉々に打ち砕いてしまいたいところだがこの状況ではそれも難しい。
それに、急いで破壊して万が一大事なデータの方を壊してしまったらと思うと後でゆっくり確認してからの方が安心だ。
取り合えず誰かに持ち出してもらい、後ほど証拠データの方を破壊するという事になっている。
「ところで…君はいつまでこの茶番を続けるつもりかね」
頭の中で考えていた今後の予定が霧散した。
支部長は特に表情を変えずにこちらを静かに見つめている。
「い、いったい…どういう意味でしょうか?」
「それを私に言わせるのかね。まさか何も気付いていないとでも?」
そういうと支部長は自分のデスクの上にあるPCのモニターをこちらに向けた。
そこに写っていたのは…
ここに忍び込んでいる皆の姿だった。
「知らん、とは言わせないよ。ここに手引きできるのも見取り図を容易できるのも君だけだろう」
こいつ…ただの気持ち悪い糞親父だと思っていたのに意外とちゃんとしてる部分もあるじゃないか。
どうする…?恐らくとぼけても無駄だろう。
なら一度ここを離脱してみんなと合流…それか一目散に例のブツを奪いに走るか…。
「ちなみに、少しでもおかしな行動をしたらあのデータの行方は霧の中…ふふふ。さて、いばら君。来たまえ」
…やっぱりこいつアホだ。隠し場所なんてとっくに割れてるっていうのに。
ドアを開けて棘野いばらが支部長室に入ってくる。だが、どうも様子がおかしい。
「あ、人魚様…いや、人魚先輩…やっぱり、やっぱり私は…組織には逆らえないであります…」
…この女裏切る気か。
しかしいばらはもともと組織側からこちらに寝返った人間。それくらいコロコロ立場を変えてしまう人間ならもう一度敵に回る事もおかしな事ではないのかもしれない。
ただ問題は相手が二人に増えてしまったという事だ。