第八十一話:織姫咲耶、本気出す。
咲耶の目の前に広がったのは傷だらけの執事。そしてどこか傭兵のような姿をした外国人。
外国人の方も多少怪我をしているようだが執事の方が重症のように見えた。
「…これはこれは、お恥ずかしいところを…」
執事がこちらを振り向く事なく呟く。
「んー?こりゃあれか?決闘とかそういう奴か?」
「なんだいまた別のお譲ちゃんかい。執事ってのはそんなに若い女子と知り合う機会があるのか?退職したら俺も執事にでもなるか…?」
外人が何か言っているが咲耶は無視して執事に問う。
「おいじーさん。あんた強いよな?それでもそんな事になるくらいあいつ強いのか?っていうか動きが悪いな。毒でもくらったか」
「ええ。なかなか性質の悪いのをもらってしまいまして。体が震えてなかなか力がはいらないのですよ。正直呼吸も厳しい状態でして…」
そうは言うものの意外と喋れている。ならばさほど心配しなくて大丈夫だろう。
というか咲耶は保険医なので怪我の治療等は出来ても毒の対処など専門外なのでどちらにせよ何も出来ないのだが。
「…そっか。じゃあ戦うのは大変だな?あたしがもらってもいいな?」
多野中がやっと振り向いて焦る。
「い、いや、しかしそういう訳には」
「おいおい何ごちゃごちゃやってんだ?もしかしてお譲ちゃんが俺の相手してくれんのかよ。俺はいいぜ?ほらよ、まず俺からのプレゼントだ」
外人の男が何か小さなボールを投げてよこした。
「い、いけません!それに触れては…ッ!」
その言葉は確かに咲耶の耳に届いていたのだが、咲耶はお構いなしにそのボールのような物を掴み取った。
「なっ、咲耶殿!いけません早く病院に…」
「んー?あぁ、心配しなくても棘は刺さってねぇよ」
多野中と外国人は目を丸くして咲耶の掌を見る。
「し、しかし…そんな物を素手て掴んだら」
「大丈夫だって言ってんだろ。こんな棘じゃあたしの手の皮貫けねぇって」
咲耶は掌の上でころころと小さなボールを転がす。
「んな、アホな…」
「なんだ?この小細工が通じねぇのがそんなにショックだったのかよ。えーっと、外人」
「ジャバウォックだ。通じなかった事よりそんな皮膚した人間が居る事に驚いてるんだよ」
「ジャバ…何?風呂掃除のやつか?よく解らんから外人でいいよ。そんな事よりさっさと始めようぜ」
「このアマ…俺をとことん馬鹿にしやがって。いいぜ、この際楽には殺さねぇ。手足の自由を奪って少しずつ切り刻んでやるぜ」
咲耶はその猟奇的な挑発を聞いて満面の笑みを浮かべ、涎をたらす。
そんな様子を見て正直ジャバウォックは彼女の事を気に入ってしまっていた。こんな女と戦場を駆け回れたら自分の人生はもっと楽しい物になっていたのではないか。そんな考えが頭をよぎる。
「なぁ女。気が変わった。嬲り殺しは辞めだ。その代わり俺が勝ったら俺の物になれ」
「おいおいこんな時に愛の告白かよおもしれーな」
「どっちみちお前に断る権利は無い。力尽くで手に入れるぜ」
「生憎とあたしはショタコンなんだよ」
二人の戦いを止めに入ろうとしていた執事がその言葉に絶句する。
「ショタ…?why?」
「外人にゃ難しかったか?あたしに勝ったらその意味も教えてやんよ」
その言葉が終わった瞬間、ジャバウォックが腰からナイフを抜き、咲耶に向かって飛びかかった。
多野中は焦っていた。
まずい事になってしまった。ジャバウォックはかなり腕を上げていて、体が痺れた状態では到底勝つ事は出来ない。
だからといって一高校教師に奴の相手が務まる訳が無い。どうやら咲耶の皮膚はあの棘を通さないくらい強靭で、耐久力はあるのかも知れないがさすがに相手が悪い。素人がいくら頑張った所で所詮プロには勝て…
「…」
そこで多野中の思考は停止した。
言葉も出ないとはこの事だろうか。
ナイフを手に飛び掛った筈のジャバウォックだが、今は多野中のすぐ横の壁に頭から突き刺さっていた。
何が起きたか理解が追いつかない。彼はゆっくりと横で壁に突き刺さっている男に視線を向ける。
ジャバウォック本人も意識が付いていけてないらしく、ナイフを握った手がまだ獲物を求めて空を切っていた。
先程の光景を必死に脳内でリプレイしてみる。
ジャバウォックがナイフで切りかかり、咲耶が突然「ヒャハハハハハッ!!」と笑い声をあげたかと思うと彼のナイフを身を低くして潜り込むようにかわし、ほぼ真上に蹴り上げる。天井に激しく打ちつけられてうめき声をあげながら落下するジャバウォックの頭を、下で待ち構えていた咲耶が腕をぐるぐる回してからアッパー気味に殴り飛ばす。勢いよくその場で身体ごと宙を回転する彼の喉元を咲耶は思い切り鷲掴みにして満面の笑みで壁に向かってぶん投げた。
そうだ、確かそんな感じだった気がする。
あれは到底格闘技などではない。ただの、物凄く洗練された喧嘩だ。
「さ、咲耶殿…貴女は、いったい…」
多野中の声を咲耶は聞いていない。聞こえていないとも見える。
咲耶は「ヒヒッ」と気味の悪い笑い声をあげ、フラフラと左右に小刻みに揺れながら壁に突き刺さっている男に近づくと、足を掴んで引っこ抜く。
意識を失っているジャバウォックに数回ビンタをかまして声を上ずらせながら言う。。
「おい、起きろ」
咲耶の声にかろうじてジャバウォックが言葉を洩らす。
「…ぐっ…なんて、こった。完敗だ…好きにしろ」
彼は潔く負けを認める。
ジャバウォックは朦朧とする意識の中でも実力の差を感じ、これ以上やっても無意味だと判断した。
むしろ感動さえしていた。いつか誰かには負ける日が来ると思っていたが、まさかそれがこんな小国の、それもこんな少女だったとは。
これだけ清清しい気持ちになるのは久しぶりだった。完膚なきまでの敗北。
「おいおい、何一人でいい気持ちになってんだよぉ…」
「…はい?」
「もう一回やろう…?もっと、もっと気持ちよくさせてくれよ…さっきの本気の動き、たまんなかったぜ。でももっと本気出せるだろ?もっともっと沢山出してあたしを気持ちよくしてくれよ」
「え、ちょっと、…え?おい、冗談だろ?」
「冗談なんか言うかよ。こんな気持ちいい時間が一瞬で終わっちまったらお互い不完全燃焼だろぉ…?だから、な?もう一回…いや、二回…」
ジャバウォックがなんとも言えない顔で多野中を見つめる。
その口が小さく動くのを多野中は確かに見た。
『 タ ス ケ テ 』
多野中は、目を閉じ、ゆっくりと首を横に振る事しかできなかった。
そこから先は地獄絵図である。
如何せん麻痺してなかなか思うように体が動かない事もありその場からそっと離れる事もできない彼は、耳を塞ぎ目を閉じて、早くこの地獄が終わってほしいと祈った。
祈り続けた。