第七十六話:織姫咲耶という獣。
工場跡地特設ステージで、彦星アルタが観衆を前に熱唱している時、会場の隅に溜まっていたアルタファンのチンピラ達が少しずつ正気を取り戻し始めていた。
「あれ、俺達って他に何かやる事なかったっけ?」
「あぁ?んな事よりアルタちゃんだろおめーも声出せ声!いくぞー!」
「「「アルタちゃぁぁぁぁん!」」」
が、さほど使命感などないチンピラ達には普通にアルタのライブの方が重要だった。
織姫咲耶は出遅れていた。が、焦ってはいなかった。
「あいつらはまだ平気そうだな。さてっと、あたしもそろそろ行かないとなぁ」
少しばかり他の連中よりも出発が後だったせいでアルタの歌に飲まれていたのだ。
「しかし歌で人の精神に干渉するってのはすげーな。うっかり聞き入っちまった」
咲耶は会場で一番遠い場所にいたので自分を取り戻すのも早かったのだが、それと同じように別のチンピラグループも遠くにいた事で正気に戻っていた。
そして、その中にはただ単にアルタのライブがあるから、と連れて来られただけの者も少なからず混ざっていた。
「なぁ、今背の小さい女子が一人でトイレに入っていったぞ」
「まじで?兄貴達はアルタちゃんに夢中だけど…俺らは俺らで楽しんできちゃう?」
「え、何?やらかしにいくの?混ぜろよ!」
俺も俺も、という感じで計6人がアルタのライブから離脱した。
「えーっと、どこから入るんだったかな。確か一番奥の…」
「おじょーさん♪そんな所でなにやってんのー?俺らと良い事しよーぜ」
背後から聞こえてくる声を無視して咲耶は地下への入口を探す。
「ちょっと無視すんなって」
肩を掴まれた事に腹を立てながらも
「今おめーらに構ってる暇ねーんだけど?」
と、彼女にとってはとても優しい言葉を返したのだが、目先の欲に捕らわれた若者には届かない。
「お嬢ちゃんがそんな言葉使いするのはよくないなー。探し物かい?それなら俺達が探してやるよその服の中とかさ」
「あーはいはい。お嬢ちゃん呼ばわりはまぁ悪い気がしねぇ部分もあるからまぁ許してやっけどあたしの邪魔するようなら殺すぞ」
チンピラ達は口々に「おっかねー」とか言いながら笑う。その態度が尚更咲耶を苛立たせた。
「わかったわかった。お前ら相手にしてから探した方が早そうだわ」
「マジで?やったぜ。お嬢ちゃんめっちゃ可愛いしラッキーだわ。ちなみに何歳?中学生くらいとか…もしかして高校…」
「おう、高校教師だぜ」
その言葉にまた「冗談キツイわー」と言って爆笑。さらに苛々。
「で?いい事すんだろ?早くやろうぜ誰からにする?」
「俺!絶対俺からで!」
「あいよ」
「ずりーぞ一番は俺が…ってあれ?」
目の前で一番に良い事をされたチンピラが崩れ落ちる。
「…は?何?どうした?」
「良い事って言ったらよぉ?勿論喧嘩だよな。お前らもチンピラやってんなら一番テンション上がる良い事ってのは喧嘩だろ?そうだろ?なぁなぁ?」
一瞬チンピラ達の表情が固まり、一度息を飲み込むとそれぞれ険しい顔つきに変わる。
「おーいいぜそれだよそれ。殺意むき出しって感じでたまんねーな」
「あんた何もんだよ」
「だから高校教師だっつってんだろ!」
咲耶の回し蹴りでまた一人昏倒する。
狭いトイレ内で回し蹴りが出来たのも身長の小ささ故だが本人はそれをプラスと考えた事はなく、回し蹴りが出来ないなら他の攻撃方法をとればいいだけだと考える。
なので身長の事は咲耶にとって禁句なのだ。
「このチビ、なにしやがぷっ」
また一人鼻から血を吹いて崩れ落ちる。
「あと三人。誰からにする?」
いよいよまずい相手だと気付いたのかチンピラ達はナイフを取り出した。
「刃物か…まぁ悪かねぇけどよ。喧嘩に刃物持ち出す奴は自分が弱いって言ってんのと同じだぞ?それに刺す気があるなら刺されても文句ねぇよな?」
彼女はそう言うと素早く一番前にいる男の腕からナイフを蹴り飛ばし、壁に当たって跳ね返ってくるナイフをもう一度蹴る。
それは男の太ももに直撃して浅く刺さり、血が滲むのと共に悲鳴があがる。
「うるせぇよ。このくらいでぴーぴー泣くなガキが」
泣き叫ぶ男の首筋に手刀を入れ昏倒させる。
「あと二人」
「お、おい…こいつ…いや、この人…まさか、まさかアレなんじゃ…」
「アレってなんだよ!お前この女の事知って…ってアレか!まさか、お前…」
「「リトルデーモンか!?」」
「あぁ?懐かしい呼び名だなぁおい」
「マジかよ勝てるわけねぇよ」
「に、逃げ」
「逃がすと思ってんの?」
咲耶にとって一番大事な事は早く乙姫達の後を追って地下に行く事だったが、久しぶりに振るった暴力という甘美な快楽にもう少し浸っていたかった。
二人をすり抜け入口側に立ち、ヤケを起こしたチンピラ達をゆっくりたっぷりボコボコにする。
「…あぁ…さいっこー。久しぶりだったからお前らみたいな奴ら相手でも気持ちよくなっちまったぜ」
そこでやっと自分が時間を取りすぎていたと気付く。
「やべー。テンション上がって楽しみすぎた。早くいかないと…って結局どこだよ入口はよぉー!」
掃除用具入れに入るが開け方が分からない。
「あーもうめんどくせぇ!ごるぁ!」
思い切り壁に蹴りを入れると、ぼごっという音と共に壁が崩れ、向こう側が見えた。
「おっ、ここか!まってろよー」
長い長い階段を駆け下りながら咲耶は笑いが止まらなかった。
「ぐふふふ…奥にはもっともっと殺意剥き出しの奴らがいるんだろうなぁたまんねぇなぁもう我慢できねぇよ…早く、もう一発やりてぇなぁ…」
暴力という欲望を必死に我慢して生きてきた高校教師はもう存在しなかった。