十四 血 縁
ユニの判断は早かった。
「浜へ戻る!」
そう言うが早いか、ユニはフェイを抱えてライガの背に飛び乗る。
アスカもそのまま浜に向かって走り出し、戻ってきたオオカミたちもその後に続く。
囲まれたのであれば、相手の姿が見えない藪の中ではなおさら不利になる。
浜辺に戻ったユニは、盾を構えたアスカの後ろにフェイを押しやる。
その周囲にはオオカミたちが半球状の円陣を敷いている。
「アスカ、フェイを守って!」
それだけ言うと、ユニはオオカミたちの前に歩み出る。
両手を挙げ、敵意のないことを示しながら、姿の見えない相手に対して大声で呼びかけた。
「私の名はユニ・ドルイディア。王国の召喚士です。
あなたたちと戦う気はありません。
できれば話がしたい。姿を見せてくれませんか!」
しばらくの間、静寂があたりを支配する。
やがて、ガサガサと枝葉をかき分ける音がして、人影が茂みの中から現れた。
それは紛れもない、ライカンスロープだった。
筋骨隆々とした逞しい体躯の人間――だが、肩から上はオオカミのそれである。
剥き出しの腕や足は、剛毛に覆われている。
そして尻尾があった。
フェイのような小さな尻尾ではなく、堂々としたオオカミの尻尾だった。
「……帝国の兵士ではないのだな?」
彼が発した最初の言葉だった。少しくぐもった感じではあったが、はっきりと聞き取れる発音である。
王国も帝国も、ほぼ同じ言語を話す、もちろん方言のような差異はあるが、意思疎通に問題はない。
この獣人たちも大陸の共通言語を話していた。くぐもって聞こえるのは、喉の奥の方で発音しているためらしかった。
「ええ。私たちは王国の人間です」
ユニは獣人の質問に答える。
手は挙げたまま、あくまで敵意のないことを示している。
獣人は警戒の色を隠さない。
「ここが帝国領だということは知っているな?
王国の人間が入っていい場所でないこともだ!」
ユニは相手を刺激しないよう、できるだけ落ち着いてゆっくりと答える。
「それはもちろん知っています。
われわれは調査のためにこの島を訪れたのです。
重ねて言うが、敵意はありません」
「調査だと?
いや、それよりも……その方々は何なのだ?」
獣人の目線はライガたちオオカミに向けられていた。
どうやら侵入者への尋問よりも、そっちの方が重大事といった雰囲気だ。
ユニのオオカミたちは、警戒をしながらも尻尾を大きく振っている。フェイと初めて会った時と同じ反応だ。
一方の獣人もゆったりと尻尾を揺らしている。
どうやら互いに近縁のものとして認識しているようだった。
ユニは傍らに寄り添うライガの首を抱きながら答える。
「このオオカミの名はライガ。
私が異世界から召喚した幻獣です。
ほかのオオカミたちは、ライガが故郷から呼び寄せた群れの家族よ」
獣人に明らかな動揺が見て取れた。
それどころか、茂みの中から新たに三人の獣人が姿を見せた。
彼らは最初に現れた獣人のもとに歩み寄り、何事か話し合っている。
周囲に漂っていたあからさまな殺気が少し緩んだような気がした。
話し合いはすぐに終わり、最初の獣人がユニに向き直った。
「私はこの島の長、バーグルだ。
王国の召喚士ユニよ。
お前は調査と言ったが、何の調査のためにわれらの島に立ち入ったのか?」
どうやら話ができそうだ。ユニは内心胸をなでおろす。
「ひと月程前、王国領に帝国軍の兵士の死体が多数打ち上げられました。
川の流れから考えて、この島から流れ着いたものと私たちは判断したわ。
非武装地帯に指定された土地で、なぜ帝国軍が自国の領地を襲うのか、それを撃退したのは何者なのか、それを知るために私たちが派遣されたの。
――こちらの目的は状況の把握のみ。争いに介入するつもりはありません。
ただ、あなたたちが私たちに協力し、それと望むのであれば、力を貸すことに吝かではないわ」
バーグルと名乗る獣人は、ユニたちの方に近寄ってきた。
「帝国だろうが王国だろうが、わが地を汚す者は問答無用で打ち倒すのが決まりだ。
だが、お前に付き従う方々は、わが祖先に連なる存在らしい。徒や疎かにはできまい。
運がよかったな」
「ならば、私たちを受け入れてくれるの?」
「とりあえずは客人と捕虜のどっちでもない。
どうなるかは俺たちが見極める……ん?
何だその子どもは、妙な匂いがするな」
バーグルはフェイに気づいたようだった。
「危害は加えないでしょうね?」
ユニの念押しにバーグルは鼻を鳴らす。
「今言ったとおりだ。
それよりその子は……。
同胞ではないが、近い匂いがする。
もう少し近づけないか?」
ユニは危険はないと判断し、フェイをアスカの後ろから前に押し出した。
バーグルはしゃがみ込んでフェイの匂いを嗅ぐ。
フェイは緊張しているようだったが、恐れることなく立っていた。
バーグルは両膝を砂地につけたまま、フェイの肩に両手を置いた。
「そなた、両親の名は何と言う?」
彼女の顔を覗き込むオオカミの目は真剣そのものだった。
「あたいはフェイ。母ちゃんの名はマリア。人間だ。
父ちゃんはバイドラ。あんたらと同じ獣人」
フェイがぼそりと答えると、バーグルの表情が変わった。
「バイドラだと? それにマリア……。
そうか……。それでご両親は息災か?」
「二人とも死んじまったよ」
獣人の長は「ぐう……」という呻き声を発したまま、しばし言葉を失った。
そして、下を向いて顔を何度か横に振る。
「……バイドラは私の弟だ。
死んだとはにわかに信じられないが……。
フェイとやら。そなたは私の姪ということになる。
すまぬが顔を見せてくれないか」
フェイは素直に顔に巻きつけている布を解いた。
ここが自分の父の故郷であることは知っていたのだろう。
そうでなければこの落ち着きようは説明がつかない。
フェイの顔が現れると、バーグルは小さな溜め息をついた。
茶色い体毛に覆われているとはいえ、その顔は明らかに人間のものだったからだ。
「頼む。
私が憎いであろうが、どうか後生だ。
弟がどうして死んだのか、教えてはくれまいか」
フェイは小さくうなずき、ぼそぼそと話し始めた。
* *
バイドラとマリアがどのようにして出会い、恋に落ちたのか、フェイは知らなかった。
両親は何も語らなかったからだ。
ただ、獣人と人間の恋は、獣人の村の掟を破るものだったから、父が故郷から追放されたということだけは聞いていた。
両親が自由都市カシルに流れていったのはごく当然のことだった。
少なくとも建前上、そこでは人種によって差別されることはなかったからだ。
バイドラは獣人だけに人間よりもはるかに力があった。
港で荷の積み降ろしをする沖仲仕は彼に打ってつけの仕事だった。
肉体労働である沖仲仕は稼ぎがいい。しかも出来高払いだからバイドラは仲間の誰よりも稼いだ。
二人の暮らしには余裕があり、やがてマリアは妊娠し、フェイを産んだ。
両親の仲は良く、フェイを宝物のように可愛がった。
ところが、フェイが五歳の時、港で事故が起きた。荷崩れでバイドラがその下敷きになったのだ。
彼は一命を取り留めたが、腰の骨が砕け、医者の見立てでは二度と歩けないだろうということだった。
父親の治療費や薬代がかさみ、稼ぎ手のいなくなった一家は、あっという間に貯えを食い潰し、たちまち困窮した。
一家の生活を支えるため、母親は働きに出なければならなかった。
父親のことは、まだ幼いフェイが必死で面倒をみた。
母親は昼間は洗濯屋、夜は酒場の給仕をして一日中働いたが、高価な薬代を支払うにはとても足りなかった。
とうとう母親は、家族に黙って女郎屋に堕ちた。
金は稼げたが、その仕事は彼女の心も身体も蝕んでいった。
母親は塞ぎ込むようになり、みるみる痩せていった。
女郎屋の女が辿る運命は決まっていた。
一年も経たないうちに悪い病気をもらってしまうのだ。
弱った体に取りついた病気の進行は早かった。
母親はやせ衰え、血を吐くようになり、身体は醜く爛れた。
こうなるともう客もつかなくなる。
病人が二人になり、稼ぎがなくなると、行きつく先は見えていた。
フェイが六歳になるかならないかの頃、まず母が死んだ。
そして後を追うように父も死んだ。
フェイは港の浮浪児の仲間となり、一人で生きていくしかなくなったのだ。
* *
「……そうか」
獣人の長が発した言葉はそれだけだった。
「父ちゃんはあんたらのこと恨んでなんかいなかったさ。
だけど、母ちゃんが死んでからは、熱に浮かされながらずっと村に帰りたいって言ってた……」
ユニは言葉を挟みづらかったが、勇気を振り絞ってバーグルに問うた。
「私たちが口を出すようなことではないのでしょうが、この子があなたの姪であるのなら、引き取られてはどうでしょう。
フェイはカシルで盗みをしたり危険な仕事に首を突っ込んでいるようです。
生きていくためとはいえ、まだ九歳の子どもにそんな暮らしをさせるのは酷ではないですか?」
だが、返ってきた言葉は冷たいものだった。
「それはできん。
弟は村の掟を破って追放されたのだ。
その子を迎え入れることなどは、長として許すわけにはいかん。
どんなにこの子に恨まれようと、それだけはできんのだ」
「あはははは……」
突然フェイが笑い出したので、バーグルもユニもアスカも驚いた。
「いやー、何を言い出すかと思ったら、勘弁してくれよ。
あたいはこれまで人として――まぁ、かなり出来損ないだけどな――カシルで生きて来たんだ。
今さら獣人の村で暮らせっかよ。
だけどな……」
フェイの瞳がきらりと光る。
「少しは悪いと思っているんなら、あたいのことはいいから、この姉ちゃんたちを歓迎してくれないかい?」
バーグルも目を細めて笑い出す。
「ははは、そうか、そうだな。
わかった。お前たちは客人として迎えよう。
何せ、この方たちが――」
そう言ってバーグルはライガたちオオカミを指さした。
「実際驚いたぞ。
われらの伝承では、神々の一族として巨大なオオカミが異世界に住むと伝えられている。
それが目の前におられるのだ。
ついにわれらが祖神が現れる時が来たのかと思ったよ。
――この方々がお前たちを守っている時点で、われらの戦意は半ば潰えた。
それに私の姪までがいるのだ。どうして刃を向けていられよう。
これがただの王国の兵士だったら問答無用で殺していたところだがな……」
バーグルは踵を返した。
「ついてこい。村に案内しよう」