十二 ゴルディアス
翌日の午後、その日の講義を終えたユニは、教官室で翌日の準備をしていた。
もともとユニの担当は十年生だけという約束だったが、経験に裏打ちされた実践的な授業内容は生徒たちに好評で、上級生から自分たちにも講義をしてほしいという申し出があった。
その結果、十一、十二年生への講義も受け持つこととなり、彼女は予想以上に多忙となった。
どうにか準備を終えた時には、もう夕方となっていた。半分くらいの教官はすでに退室している。
ユニも机の上に散らばった書類をまとめ、自室に戻る用意を始めていると、事務官の女性が教官室に入ってきた。
その女性は真っ直ぐにユニの机に向かってくる。
はて、この人の名前は何と言ったっけ?
ユニの容量が少ない記憶分野で、歯車がむなしく空回りしていることも知らず、女性はユニに話しかけてきた。
「ユニ・ドルイディアさん。受付に面会の方が訪ねてきているそうです」
彼女はそこで手にしたメモにちらりと視線を落とす。
「ゴルディアス・ノートンとおっしゃる男性だそうです」
ゴルディアス? 知り合いにそんな人間がいただろうか……。ユニは不審に思って聞いてみる。
「どんな様子の方ですか?」
「私も受付の者から言付かっただけなのですが、黒髪で中年の男性だそうですよ。
……その、なんだかくたびれた感じの」
黒髪のくたびれた中年男? ユニは首をひねる。
そんな人、ゴーマ以外に心当たりがないけど……。
「……あ! ゴーマぁ?」
ユニが突然大声を出すものだから、事務官はビクッとして目を見開いている。
「あらやだ、ごめんなさい。
ほほほ……。わかりました、面談室に行けばよろしいんですね?」
「え、ええ。鍵は開けてありますから」
ユニは事務官に礼を言って、バタバタと書類を片付けると面談室に向かった。
面談室は受付の隣りにある部屋で、魔導院の部外者との面会に使われる簡素な部屋だ。
それなりの身分の来客は、別にある応接室に通されるから、ゴーマは経験豊富な受付嬢によって、その程度の人間と判断されたのだろう。
あれでも元は軍の准将だったんだけどな。
そう思うと少し気の毒にもなる。
ユニがノックして面談室に入ると、果たして椅子にかけて所在なさげにしているのはゴーマだった。
「誰かと思ったわよ!
あなたの本名がゴルディアスだなんて、あたし聞いたことあったっけ?
ずいぶん立派な名前なのね……ん? どうしたの?」
ゴーマは椅子から腰を浮かせたまま、ぽかんとした表情でユニを見つめている。
「あなた……、いや、お前、ユニなのか?」
今日のユニは淡いサーモンピンクのジャケットを身にまとっていた。下は膝丈の黒のタイトスカートで、細いユニの身体が一層引き締まって見える。
ボリューム感のあるジャケットの下にはサテン地のゆったりしたブラウスを合わせ、上品な真珠のネックレスをつけていた。
髪はシニヨンを作ってあげており、控えめながらきちんとした化粧もしている。
どこからどう見ても〝素敵な女教師〟である。
「馬子にも衣装と言うが……。
思いっきり化けたなぁ。見違えたぞ」
ゴーマは憎まれ口を叩きながらも、なかなかユニから目を離せないでいる。
彼は意志の力を総動員してその視線を無理やり引っ剥がし、咳払いをしながら椅子に座り直す。
ユニもその様子を面白そうに見ながら椅子にかける。
魔導院に来てもう半月が経ち、自分の格好にも違和感を感じなくなってきていたので、ゴーマの反応はちょっとした快感だった。
「あたしのことはいいわよ。
あんたの方こそ、えらいしょぼくれているけど、どうしたのよ?
受付が〝くたびれた中年男〟ってレッテル貼ってきたわよ。
あ、……ひょっとしてエルル?」
ふと思い当たったユニは表情を曇らせる。
「ああ、〝里帰り〟でね。もう五日になる」
「何度目だっけ?」
「これが五度目だ」
〝里帰り〟とは能力の切れかけた召喚士と幻獣の間に起きる現象で、互いの意志に関係なく幻獣が元の世界に帰ってしまうことだ。
能力が枯渇する約一年前から起こり始め、頻度や期間が次第に増加していく。
里帰りの間は召喚不能となり、それは互いに強く結びついている召喚士・幻獣双方に強いストレスを与え、精神的にも肉体的も消耗を強いられる辛い現象だった。
ゴーマの幻獣・火蜥蜴のエルルが初めて里帰りしたのは昨年の夏のことだ。それからもう半年近くが経っている。
エルルの不在はかなり長いものとなっているはずだった。
ゴーマは意外にも身だしなみに気を遣う方だった。いつも髭はきちんとあたり、髪も櫛が通っている。
衣服も比較的上等でセンスのよいものを身に着けることが多かった。
それがどうだ。
今のゴーマは無精髭が伸び、髪もぼさぼさで白いものが混じっている(このおっさん、白髪染めをしていたのか! とユニは初めて気づいた)。
着ている服も皺がより、襟元も垢じみている。
「それはお気の毒ね。
あたしもエルルに会えないのは寂しいわ。
で、今日は何の用件なの?」
ゴーマは懐から重そうな革袋を取り出し、ドンと机の上に置くと、それをユニの方へずいと押し出した。
口紐を解いて中を確かめると、かなりの量の銀貨と、それ以上の銅貨、そして十数枚の金貨が入っている。
「どうしたのこれ?」
「やっと去年の騒ぎの報酬が出たんだよ。
さっき会計課に寄ってお前の分も預かってきた。
暫定支給で受け取った分は差し引いてあるそうだ。
これにサインして会計課に回しとけ」
そう言って上着のポケットから、くしゃっとなった受領証を出して放り投げる。
ユニはそれを受け取り、皺を伸ばして持参していた書類入れに挟んだ。
「確かにありがたいわね。
もっともあたしは魔導院から週給で手当をもらう契約になっていたから、そう切羽詰まっていなかったけど」
「俺は切羽詰まっていたんだよ!
それで尻尾を振って受け取りに来たってわけだ。
――せっかく懐が暖まったんだ。エルルのことで参っていたってのもある。
久しぶりにお前を誘って飲みに行こうと思ったんだが……どうだ?」
ゴーマが下から見上げるような視線を送る。
ユニもそれを受けとめて、にやりと笑う。
「行かいでか!
ちょっと待ってて、コートと外出許可を取ってくる」
ぱたぱたと早足で駆けていくユニの足音を聞きながら、一人残されたゴーマはつぶやく。
「なんでぇ、ちょっと見た目がいい女になったと思ったら、中身はまるで変わってねーでやんの」
その顔には少し安心したような笑みが浮かんでいた。
* *
「ごっごっごっごっごっごっごっごっごっごっ………プッハアァー!」
ユニの白い喉が上下して、ビールが豪快に流れ落ちていく。
「ドンッ!」
厚手の陶器でできたビアマグをテーブルに叩きつけ、ユニはすかさず「お代わりー!」と叫ぶ。
身なりと化粧によって、かなりの美女に化けているためか、周囲のテーブルから遠慮のない視線が集まっている。
こういう時にゴーマが側にいてくれるのはありがたい。
ここは王都の城壁外に広がる新市街の繁華街。田舎風の料理を出す大衆向けの居酒屋である。
氷室亭ほどではないが、真冬ということもあってビールは申し分なく冷えていた。
赤々と燃える暖炉に暖められた店内で味わう冬のビールもおつなものである。
ほどなくテーブルには、追加のビールとともに料理も届いた。
蒸したてのジャガイモにたっぷりとバターが添えられ、魚の身と内臓を塩漬けにして発酵させた塩辛が乗せられている。
いかにも田舎料理らしい素朴な一品だったが、ホクホクのイモがバターによってコクが増し、さらに塩辛の強烈な塩分がアクセントとなって、実にビールと合った。
ユニはハフハフと火傷しそうなジャガイモを齧り、ビールを流し込む。
「相変わらずだなー」
ゴーマは呆れ顔で眺めていたが、それが妙に嬉しそうだった。
彼の前にも皿が置かれ、そこにはネギに竹串を刺して焼いたものが乗っている。
塩を振っただけのこれまた素朴な一品だが、太った焼きネギは齧ると中がとろりと甘く絶妙の味わいである。
「しかし、審問官の爺さんたちもお粗末だな。
ピクシー程度を見逃すんじゃ、二十四時間監視の意味がねえだろうに」
話は例の〝笑う人魂〟騒動である。
ユニはさっとゴーマの皿に手を伸ばしてネギ串を一本かっさらうと、審問官の弁護をする。
「ピクシーは透明化の能力を使うんだから仕方ないわよ。
それにどのみち外には出られないようになっていて……アチッ!」
どうやらネギの中身が思ったより熱かったらしい。
「魔導院には結界が張ってあるの。
それなりに強力なやつで、霊格の低い幻獣が突破することはあり得ないそうよ。
実際、今回のピクシーもひと月以上経つけど、未だに学院の中にいるようだし」
「……俺はお前の判断には賛成できんな」
ゴーマは少し真面目な顔になって言う。
「やはり審問官に報告すべきだ」
「それはそうなんだけど……。
でもねー、やっぱり殺されちゃうと思うとね……」
「ん?
そのピクシーをちゃんと、そのリデルだっけ?
生徒の管理下に置ければ、別に処分しなくてもいいんじゃないのか」
「そりゃそうかもしれないけど、召喚したわけじゃないから契約もできないし。
妖精族じゃ意思の疎通はできないでしょ?」
ゴーマは少し困ったような顔でユニを見た。
「……お前は頭がいいんだか悪いんだか、時々抜けてるよなぁ」
「ちょっ、どういう意味よ!」
「思考が硬直しているって意味だ」
ゴーマはにべもない。
「いいか、召喚術は、いや、召喚による契約は何のためにある?」
「それは……霊格の高い、高位の幻獣を従わせ、この世界に定着させるため……かしら」
「そうだ。
だったら霊格の低い、低位の幻獣を従わせるのに、契約までは必要ないってことだろう」
「理屈はそうだけど……」
「まぁ聞け。
お前の思考は召喚士の世界の中で堂々巡りをしているんだ。
お前、〝使い魔〟って聞いたことがあるか?」
「よくは知らないけど、魔導士が使う魔法のひとつでしょ」
「そうだ。
霊格の低い、低級の精霊なんかを使役する魔法だ。
帝国の魔導士の間じゃありふれた魔法だし、そんなに複雑な術式じゃない。
――魔法は術式を正しく展開できれば、基本的には誰にでも使える。人間は大なり小なり魔力を持っているからな。
もちろん、高度な術式ほど魔力を大量に必要とするが、使い魔を縛る術式はごく初歩的な魔術だ。
おそらく魔導院の図書館にも解説書が蔵書されているはずだぞ。
――それに、そもそも魔導院に集められる生徒は、潜在的に大きな魔力を持っているはずだろう。
そのリデルという生徒、十五歳だったら術式を使ってピクシーを使い魔にすることができるはずだ。
――使い魔として管理下に置けるのであれば、審問官だって無理やり殺そうとはしないだろう。
どうせ……」
先を続けようとしたが、ゴーマはそこで言葉を切った。
ユニが盛大に落ち込んでいたからだ。
「うわぁー……。その手があったかぁ……!
どうしよう、あたしリデルの前で偉そうなこと言って……。
バカじゃん、完全におバカさんじゃない!」
がんがんとユニはテーブルに自分の額を打ちつける。
周囲の客たちは、驚いてその様子を窺っている。
やがて、がばっと顔を上げると、ユニの額はみごとに赤くなっていた。
「でも、もう手遅れよね……」
涙目のユニに対し、ゴーマの声音は少し優しくなる。
「そうでもないさ。
リデルって娘は、そのピクシーと仲良くなりたいんだろう?
少なくとも使い魔にすれば、簡単な意志の疎通ができるはずだ。
それは、その娘にとっては大切なことなんじゃないのか?」
ユニはうなずいた。
「……そうね、そのとおりだわ。
わかった。
明日、審問官と相談してみる。
あの、……ありがとね。ゴーマ」