十七 呪詛返し
一同が赤城に戻った頃にはもう午前三時を回っていた。
リディアやアリストアは別だが、そのほかの者たちは臨時の仮眠室で泥のように眠りこけた。
どんなに疲労していたとしても、朝になれば起きなければならない。
皆、やるべきことが山のように残っているからだ。
朝になり、一足先に起きて顔を洗っているアスカに、ユニが声をかける。
「おはよう、アスカ。
身体は大丈夫?」
彼女は全身鎧を着込んだままなので、怪我をしているかどうかなど外見からはわからない。
ユニよりも頭一つ半は上にあるアスカの頭が傾いだ。
「うん、全身ガタガタだ。だが脇腹が特に酷くて昨夜から鈍痛が続いている。
吸血鬼に蹴られた衝撃が凄かったからな」
ユニの顔が曇る。
「それは大変ね。
あたしも自家製の湿布薬は持っているけど、一応第三軍の軍医に見せた方がいいわ。
そうね、あたしも付き添うから今すぐ行きましょう」
ユニは渋るアスカの手を引っぱり、近くにいた兵士に軍医の場所を尋ねた。
第三軍の軍医は五十歳を過ぎた中年の男で、彼の診察室はまだ朝の八時前だというのに混雑していた。
とはいえ、怪我人の治療でではない。
昨夜のナイラの襲撃で多くの警備兵が襲われたが、そのほとんどが即死しており奇跡的に息があった者も、全員朝までには亡くなっていた。
軍医はそれら死亡兵の検死で忙しかったのだ。
ユニがアスカの手を引いて診察室に入って軍医を呼ぶと、部屋を仕切っていたカーテンの隙間から、眼鏡をかけ、ごま塩のちょび髭を生やした軍医が顔を出した。
「何だ、怪我人か?」
「はい、昨日の戦いで脇腹を痛めたようなんです。
忙しいところ済みませんが、ちょっと見ていただけますか?」
ユニが恐る恐る申し出ると、軍医は意外に機嫌よく応じてくれた。
「ああ、大丈夫だ。
生きている患者を診るなら、死人の方は待たせておく」
彼はカーテンから姿を現し、診察机の椅子に腰かけてアスカに丸椅子に座るよう促した。
「おっと、その前にその鎧を脱いでくれ」
ユニが手伝ってアスカの鎧を脱がすと、彼女は薄手の長袖の綿シャツに綿タイツを着ていた。
もう季節は夏ではあるが、金属鎧と擦れるので肌を露出させられないのだ。
「それも脱いでもらうぞ」
軍医は当然のことという顔で事務的に命じる。
アスカも慣れているのだろう、特に恥ずかしがる様子もなく素直にシャツとタイツを脱ぐ。
「アスカ!
ちょっとそれ、大丈夫なの?」
ユニが驚きの声を上げた。
それもそのはず、アスカの筋肉質の身体は全身のいたるところにどす黒い痣ができている。
まともな肌色の部分の方が少ないくらいだった。
「だからちょっと痛むと言ったろう?」
アスカは平然とした顔で、コルセット代わりに乳房を押さえていた晒を解いている。
「こりゃまた、派手にやられたなぁ……。
あー、下履きは取らんでいい。ここに座りなさい」
軍医も呆れ顔である。
椅子に座ったアスカの上半身を、軍医は慎重な手つきで触っていく。
あっと言う間に彼の顔色が変わった。
「ちょっと待て! 君、そこのベッドに寝なさい」
アスカは言われたとおり、すぐ側にある診察用のベッドに移って仰向けに寝そべった。
彼女が指示どおり行動しているというのに、それを見た軍医は呆然としている。
「何なんだ、あんたは……なぜ普通に動いている?」
軍医は先ほどよりもさらに慎重な手つきでアスカの全身を触診した。
腕や足、指の一本一本にいたるまで、そっと動かして痛みがないかをアスカに質問する。
「あ、そこちょっと痛いかも……」
軍医が左手の中指を動かすと、アスカがぼそっとつぶやいた。
軍医は堪りかねて怒鳴った。
「痛いかも――だと?
当たり前だ! 中指から小指まで、見事に骨折しておるわ!」
ユニは驚いて叫んだ。
「えっ、先生、そんなに酷いんですか?」
軍医は振り返って怒鳴る。
「肋骨が四、五本折れている。鎖骨もだ。多分手首と足首も数か所骨折している。
靱帯損傷も数か所、それにこの分だと内臓も損傷しとるはずだ!」
そしてアスカに向き直り、さらに詰問する。
「おい、貴様!
今日便所には行ったか?」
「はぁ、おしっこはしましたが……」
「血尿だったんじゃないか?」
「そう言えば……紙に血がついてました。
でも生理が始まったのかと……」
「馬鹿もん!
貴様、何年女をやっておる?
血が出る穴が違うわ!」
軍医はもはや怒りでわなわな震えている。
あまりの怒鳴り声に、カーテンの向こうで検死をしていた衛生兵が顔を覗かせた。
「何を見ている、婦人の診察中だぞ!」
すかさず飛ぶ怒鳴り声に、衛生兵は慌てて首を引っ込める。そこへ追い打ちをかけるように軍医の命令が飛ぶ。
「ちょうどいい。
貴様、目をつぶったままこの部屋を出ろ!
そろそろ控室に日勤の衛生兵が出てくる頃だろう。
女の衛生兵を二人ばかり引っ張ってこい!」
怒鳴られた衛生兵は顔を手で覆って、あたふたと駆け出していった。
ユニはあまりのことに声が出せないでいたが、どうにかして口を挟んだ。
「あの、先生、アスカはどうなるんですか?」
軍医は少し落ち着いたのか、ぶすっとした表情で答えた。
「絶対安静じゃ! まったく。
当分は入院、まぁ桁違いに頑丈そうだから、二か月もあれば治るじゃろう」
そして呆れ果てたように溜め息をつく。
「何で平気な顔をして歩いてきたんだ、こいつは?
普通なら激痛で一センチだって身体を動かすことなんかできんぞ」
ベッドで大人しくしているアスカは困ったような顔でおずおずと尋ねた。
「先生、実はリディア様が秘蔵のエールで酒宴を開いてくださるとお約束されたのですが……出てはいけませんか?」
次の瞬間、診察室に響き渡った罵詈雑言の嵐は、長らく第三軍衛生兵たちの語り草となった。
* *
ナイラが斃れた頃、サキュラ国の首都カリバの王宮。その一室には深夜だというのに灯りがともっていた。
香が焚きしめられた薄暗い部屋の中央で、二人の男が額をつけるようにして水盤を覗き込んでいる。
水盤の底には複雑な地図が描かれており、それを満たす水の上には小さな青い泡がゆらゆらと揺れていた。
「情勢はどうだ?」
金糸の刺繍で飾られた豪華なガウンを纏った男が問う。
「いけませぬなぁ……。
ナイラめは城を逃げ出したようです」
答えるもう一人は、ボロ布に近い毛布のようなものを頭からかぶり、その輪郭は黒い霧のようにぼやけて表情すら窺えない。
「くそっ! 王国の奴ら、あの不死の化け物とどうやって戦っているのだ?」
不機嫌な言葉を吐き捨てているのはシャシム王である。
「先日の赤龍でも、滅んだのは眷属だけでナイラは無傷でしたからのう……。
奴らも魔人の心臓に近い、何か古きアイテムを持っているのかもしれませぬ」
「……むう。これはまずいことに……」
「どうした?」
呪術師は皺だらけの枯枝のような指で水盤を指し示した。
水の上をゆらゆらと漂っていた青い泡の色が、見る間に薄れていくのが王にもわかった。
「どういうことだ?」
「ナイラめの精気が薄れていきます。
何か致命傷を負ったのか……詳しくはわかりませぬが」
二人が息を詰めて見守る中、水泡はどんどん透明に近くなり、なおかつ小さくなっていった。
そして長い時間が経って、小さくなった泡はぱちんと割れて消えてしまった。
二人は水盤を覗き込んでいた姿勢から、後ろに身体をそらして大きな溜め息をついた。
「駄目だったか……」
豊かな髭で覆われた唇から小さな声が洩れた。
「失敗したものは仕方がない。
――で、魔人の心臓の回収は可能か?」
「それが……反応がありませぬ。
恐らくは敵の手に落ちたかと」
「それでは王国の奴らが魔人を復活させるやもしれないではないか!」
怒りに震える王の姿を、呪術師は冷ややかな目で見ていた。
「その心配はいりますまい。
魔人の心臓がこの世界に存在する限り、一度主人となったわしには感じ取ることができますわい。
それが消えたということは、もうあれはこの世のものではなくなったということ……。
――そんなことよりシャシム王、お覚悟召されよ」
呪術師の言葉は力なく、諦めたような口調だった。
「覚悟とは何をだ?」
その問いに、呪術師は顎で床の絨毯を指し示した。
意味がわからず、シャシム王がその先を見つめていると、豪華な絨毯の模様がゆらりと歪み始めた。
蜃気楼のようなゆらめきは暗い闇をまとって渦を巻き、土煙のようなものが舞い上がる。
そして、その中からゆっくりと灰色の人の形をしたものが浮かび上がってきた。
水から飛び出す妖精のように、その人影は床から這いだしてくる。
同時にとてつもない腐臭があたりを満たし、シャシムは思わず咳き込んだ。
現れたのは裸の女だった。
大柄な体躯、重く垂れさがった乳房、大きく張りのある腰から伸びる逞しく長い脚。
それは一か月以上前、この部屋で魔人の心臓を埋め込まれて吸血鬼となったナイラに違いない。ただ、青色だった身体は灰色に染まっている。
「何だ、どういうことだ?
ナイラは滅ぼされたのではなかったのか?」
叫び声を上げるシャシム王を無視して、灰色のナイラは呪術師の方に手を伸ばした。
そしてその胸倉を掴むと、ひょいと持ち上げる。
呪術師は苦しそうな声で王に呼びかける。
「これは、ナイラではありませぬ。
いわば闇に蠢く亡者の魂。
われらを迎えに来たのですな……」
「何だと……!」
後ずさる王に向かって、ナイラのもうひとつの腕がしゅるしゅると伸びた。
呪術師と同じようにシャシムの胸倉をがっちりと掴むと、伸びた腕が元に戻り、王もまた呪術師同様に宙に差し上げられた。
シャシム王は両手でナイラの腕を殴り、かきむしったが、ぼろぼろと乾いた粘土が剥がれるように土くれがこぼれただけで、腕はびくともしない。
「無駄なあがきはおよしなされ。
王よ〝人を呪わば穴二つ〟という言葉をご存知か?
魔人を操るような強力な呪術は、それが破れた時に呪詛返しを受けるのですよ。
これも運命、われらはもう退場するしかないのです」
「馬鹿を言うな!
そんなことを俺が認めると思うか!
くそっ、離せ化け物ーーっ!」
喚き暴れる王、そして観念したのかだらりと虚脱した呪術を両腕高く掲げたまま、灰色のナイラは腐臭を撒き散らしながらずぶずぶと床に沈んでいく。
ゆっくりと首のあたりまで沈んだあたりで、瞳孔が開いて視点が定まらなかったナイラの瞳に突然光が浮かんだ。
その目はぐるぐると動くと、頭上のシャシムと呪術師を睨みつけた。
そして無表情だった唇がゆがむと、凄絶な笑い声をあげ、二人とともに「どぼん」と一気に消え去ってしまった。
* *
女王ナイラが戦死したと伝えられたナフ国では、ナイラのすぐ下の弟であるサリド王子が王位に就いた。
彼はナイラが溺愛していた弟で、身体こそ弱かったが非常に優秀な青年だった。
サリドの王位継承後、ナフ国は内政、外交ともに安定して傾きかけていた国勢を大いに盛り返した。
軍の全権はナイラの異母妹で、長姉の再来と噂されるジャミラが握り、長年の懸案だった軍制改革を成し遂げた。
ナイラの戦死に遅れること一か月、シャシム王が消息を絶ったサキュラ国では王の病死が発表され、十五人の王子と彼らを押す各部族との間で内乱状態となって、国力を大きく減退させた。
一年に及ぶ内乱の末、王位に就いたセイフ王は、父王ほどの器がなかった。
内乱に乗じて侵攻したナフ国軍に国土の五分の一を占拠され、結局大オアシスを含む国境のサシャ地方の占有を認めることで講和した。
南方諸国と大公国の間で、魔人の真の姿が吸血鬼であることを知ったのは、ルカ大公ただ一人だった。
そのため魔人とは青い巨人であることが事実として人々の間に広まり、その伝承を伝えたサラーム教の権威を押し上げる結果となった。
一方、赤城市でも吸血鬼の正体が魔人であることは一握りの上層部だけが知る事実で、一般市民の間では伝説の悪鬼が襲った赤城市を、赤龍帝と赤龍ドレイク、そして国家召喚士の幻獣の助けを借りた謎の騎士が撃ち滅ぼした事件として、長く語り継がれる伝説となった。
肝心の騎士の正体であるアスカの姿を見たのは第三軍でも一握りの人間に過ぎず、しかも固く口止めされたので、アスカの名前が拡がることはなかった。
ましてや影で事件の解決を導いたオオカミつかいの二級召喚士のことなど、市民が知るよしもない。
事件の直後、ユニは再び黒城市を訪れ、黒蛇ウエマクと長い会談を行ったという。
その後の彼女は杳として消息が知れないままだった。