十四 急 襲
「部族長、〝鷹の目〟からの定時連絡です」
ナサル首長国連邦内の伝書は、鳩ではなくカラスが運んでくる。
それらはみな、呪術師が呪いをかけて訓練したもので、時には直接人間の言葉を発して命令を伝えることすらある。
正直気味のよいものではない。
イラーヒムは部下が跪いて差し出した紙片を受け取って開いた。
リスト王国の第三軍は依然隊商路を南下中。
速度に変化なし。現在地は南オアシスの北方八十キロ。
赤龍の存在は認められず。
それが紙片の全文だった。
南オアシスに展開しているサキュラ首長国の封鎖部隊、二千人を預かるイラーヒムにとって、一日二回もたらされるこの定時報告は命綱に近い。
呪術師の呪いによって、その目を乗っ取られたあまたの猛禽類が、上空から逐一敵の位置・動向を監視し、それをカラスが伝えにくる。
この情報が軍事的にどれほど重要なのか、イラーヒムはよく理解していた。
ナサル首長国連邦の兵士には階級がない。
あるのは族長という称号のみ。
軍は族長とそれに従う部族兵を基礎にしたピラミッド構造でできている。
連邦を構成する五つの首長国は、当然のことながら五大部族の集合体である。
しかし、それらの五大部族も、血縁で深い関係を持ち、複雑に絡み合った無数の部族に分かれている。
イラーヒムはミルド族の族長を束ねる部族長を務めていた。
ミルド族はサキュラの七大部族で二番目の地位を占める有力部族である。
「〝鷹の目〟は何と?」
小姓のアリが尋ねた。
アリは十六歳の利発な少年で、イラーヒムの優秀な副官であり、愛人でもある。
サラーム教では男色を禁じていない。
彼らの社会は宗教的な理由から女性を戦場へ近づけない。
女性兵士や将校が珍しくない王国や大公国とは対称的である。
したがって、例え首長であっても愛妾を伴うことは許されない。
そのため、ごく自然に性欲処理の捌け口として男色が容認されるようになっていた。
イラーヒムは優しい目をアリに向ける。
「何、順調だということだ。
敵はわれらがこのオアシスにいると信じ込んでいて、近づくまでは何の警戒もしていない。
少し教育してやろうではないか」
アリは嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「では、待ち伏せして奇襲ですね?
タミル渓谷あたりですか?」
「妥当なところだな。
だが、敵も馬鹿ではない。
当然あのような谷底を通る道では周囲の警戒を怠らないだろう。
さて、お前ならどうする?」
少年は即答した。
「崖の上から、あるいは前方から奇襲されることには当然用心するでしょう。
でも、自分たちが通り過ぎてきた後方はどうでしょうか?」
イラーヒムは驚きの目でアリを見た。
彼はアリの才能を愛で、薫陶を与えてきた。
アリは砂漠に水が染み込むようにイラーヒムの教えを吸収し、その才気は隠しようがなく、幕僚たちも進んで彼の意見を求めるようになってきた。
タミル渓谷は、ピラーキャニオンという塔のような奇岩が林立している高台を抜け、低地平原へと抜ける坂道を指す。
谷底を通る隊商路は狭く、両側は急傾斜の崖になっている。
それに比べると、ピラーキャニオンは道が平坦で幅も広い。
周囲の奇岩が怪物のように立ち並んでいる景勝地ではあるが、地形が複雑なため身を隠す場所に苦労をしない。
したがってやはり周囲の警戒を怠るようなことはないだろうが、無事に通り過ぎた後はどうだろう。
――アリはそう言いたいのだろう。
イラーヒムは答える代わりに、アリの柔らかな黒髪を撫でた。
「それにしても〝鷹の目〟とは凄いものですね。
なぜこれまでの戦いで使わなかったのでしょうか?」
少年の問い対し、部族長の顔には軽蔑の色が浮かぶ。
「呪術師どもは自分の手の内を明かすことを極端に嫌う。
うっかり秘儀を見せて、それを盗まれることを恐れるのだそうだ。
そんなくだらない理由で、死なずともよかった若者を大勢死なせたかと思うとヘドが出る――」
「それがなぜ、今回は大っぴらに使っているのでしょう?」
少年の疑問はもっともである。
「どうもな……」
イラーヒムは声を落とし、アリの耳元でささやいた。
「……わが国は何か大きな力を手に入れたらしい。
それで他の四か国に対して圧倒的に優位になったようだ。
それに比べれば、〝鷹の目〟など、どうでもよいということだろうな」
アリの顔がぱっと花が咲いたように明るくなる。
「それでは、ついに大公国を滅ぼしてサラームの教えを広めることができるのですね!」
「そうだな……そうあらねばならん」
イラーヒムはアリの頭を抱き寄せ、黒い巻き毛を撫でる。
この素直で利発な少年がいとおしくてたまらない。
ずっとそうしていたかったが、そうもいかない。
彼はアリに厳しい声で命じた。
「各族長に集合をかけよ。
サラームの敵に肩入れする王国の犬どもを滅ぼす!」
* *
イラーヒムの部隊は、隊商路を封鎖して大公国と王国の連絡を絶つように命じられていた。
しかし、シャシム王やその側近は、封鎖にあまり期待を寄せていなかった。
案の定、呪術師から「王国の召喚士が南部密林を突破した」との報告を受け取ることになり、それはすぐに封鎖部隊にも伝えられた。
王国に援軍要請が届いたのは痛いが、それならそれで仕方がない。
むしろ、これまでしばしば紛争に介入してきたリスト王国第三軍に痛打を加える好機だと首脳部は考えていた。
初めからそのつもりで、二千人という単なる隊商路の封鎖には過大な戦力を与えていたのもそのためだ。
上空から丸裸にされた軍隊をどう料理するか、封鎖軍に負わされた任務は重大であり、名誉でもある。
イラーヒムは大きなテント内で、各族長に状況を説明した。
「王国第三軍は現在北方八十キロの地点を南下中だ。
黙っていれば明後日には接敵する。
われわれは北上して、明日第三軍を奇襲する。
襲撃地点はここだ――」
彼が指し示した地点は、南のオアシスから約三十キロ北方だった。
ピラーキャニオン、そしてタミル渓谷の隘路を抜けると現れる、開けて見通しのよい低地地帯である。
「報告では奴らの隊列は伸びきっている。輜重隊が遅れているためだ。
恐らく十分な準備が整わないまま出発を強行したのだろう」
アリが地図上に敵を表すコマを置く。
「道幅が狭い難所を抜けたこの平地は、遅れている輜重隊を集結させるには絶好の地点だ。
俺が指揮官なら、ここで兵に十分な補給を受けさせたら、輜重隊を置き去りにして戦闘部隊だけで一気に南オアシスへと急襲をかけるだろう。
輜重隊は落伍した後続を吸収して、部隊を再編しなければどうにもならないからな。
――奴らは自分たちが空から見張られていることを知らないはずだ。
退屈な封鎖任務でのんびりしているわれわれを奇襲できると思っているだろう」
敵のコマはレーキ(熊手のような棒)で部族長が示した平地にいったん集められ、次に二手に分けられる。
「われわれは先回りして、ピラーキャニオンの奇岩の陰に隠れ、第三軍の主力をやり過ごす。
そして敵の戦闘部隊が出発した後、物資の集積地を後ろから襲い、焼き払う。
輜重隊を先発した戦闘部隊の方へと追い込み、それを追撃する形で突入するのだ。
――もし、戦闘部隊が先発しない場合でも問題はない。
輜重隊が入り混じっている状態なら、急襲すれば混乱は必至だ」
味方を表すコマが、ピラーキャニオンの両側に配置され、次いで王国軍のコマが集結している地点に押し出される。
両軍のコマが入り混じった状態で、先に分かれた王国のコマへと押しやられる。
「背後から襲われるだけでも配置転換で苦労する。
その上、敗走する味方の輜重隊が入り混じってさらなる混乱を生じさせる。
敵に幻獣がいたとしても、乱戦の中では十分な力を振るえないだろう」
幻獣対策は首長国連邦の大きな課題だった。
これまでも召喚士が操る幻獣のために、大きな痛手を蒙ってきたから当然である。
大公国との本格的な戦闘では、何か大きな切り札があってその心配がないようだが、イラーヒムの部隊にはそんな加護はない。
混乱に乗じて乱戦に持ち込む――それ以外には手がないだろうと彼は考えていた。
* *
翌日、イラーヒム率いる二千のミルド族部隊は、計画どおりの配置についていた。
上空からの情報は、敵が想定どおりに動いていることを知らせてくる。
数時間後、だらだらと縦に伸びた王国第三軍の兵士たちが現れ、周囲を警戒しながら通り過ぎていった。
イラーヒムたちは物音ひとつ立てずにそれをやり過ごした。
後は予定どおり、集結と補給が行われればよいのだが、そうならなかった場合でも背後から輜重隊を狙って襲撃することが決められている。
見つかる恐れのある斥候を出さなくても、上空から次々と情報が〝降ってくる〟のは実にありがたかった。
通常は本国部隊を通して情報が伝えられるのだが、この作戦中は直接逐次情報が手に入るよう、上層部が配慮してくれていた。
そのため、情報は文書ではなくカラスが伝える肉声でもたらされた。
カラスたちは上空を悠々と舞う猛禽類から情報を受け取ると舞い降りてきて、人語で簡単な状況を伝える。
たった今、降りてきたカラスはイラーヒムの肩に止まると「ガァガァ」と喚きたてた。
耳障りなしゃがれ声は聞き取りにくいが、発する言葉は単純だから内容はよくわかる。
テキ、トマッタ。
テキ、アツマル。
カラスが喚いたのはそれだけだったが、それで十分だった。
やはり敵はこの先の平地を物資の集積地にするつもりだ。
あとは補給を終えた戦闘部隊が先発するのを待つだけである。
* *
リスト王国第三軍の輜重部隊を率いるハルマン少佐は苛ついていた。
隊商路はその名のとおり、隊商が行き来するための道だ。ラクダが通れればそれでよいのである。
そこを荷馬車が通ることなど想定していない。
そのため、各地で車輪が埋まって立ち往生する部隊が続出した。
さらには岩だらけの道で車輪が外れる事故がたびたび起き、さらに予定を遅らせた。
すべては物資を満載した荷馬車の重量に起因することはわかっている。
しかし、物資を分散して運ぶような時間的余裕がなかったため、無理を承知で出発が強行されたのだ。
「クソッ! こうなることくらい始めからわかっていただろうに!」
少佐は行き場のない怒りの捌け口がどこかにないものか、周囲を見回したが、目に入るのは疲労困憊している部下の姿だけだった。
彼らは馬車がスタックするたびに、角材を車輪の下にねじ込み、人力で脱出させねばならなかった。
それでも動かない場合は、荷馬車の荷をリレー方式で地面に降ろし、馬車が脱出したらまた積み込まなければならない。
そんなことを延々と繰り返すのだ、疲れない方がどうかしている。
ハルマン少佐は怒りを飲み込んで部下に指示を出す。
とにかく、この開けた場所で態勢を立て直さないと戦争どころではなくなってしまう。
戦闘部隊にはありったけの食糧、水、予備の矢や武器を持たせて先にいかせる。
少しでも荷が軽くなれば、この先がいくらか楽になるからだ。
そしてここに物資の集結所を設営し、必要な分だけをピストン輸送すればよい。
南オアシスを封鎖しているという敵を排除したら、集積所を撤収してレリンに向かえばよいのだ。
集積所に定めた地点に到達してから三時間を経過しても、追いついた輜重隊は全体の半分以下だった。
ハルマン少佐と部下たちは気が狂わんばかりになって走り回り、口々に補給を求める兵たちを怒鳴り、時には殴り倒してどうにか戦闘部隊への補給を終えた。
補給を受けた兵たちは「手際が悪い」だとか「さんざん待たされてこれっぽっちか」などと悪態を突きながら隊伍を整え、順次出発していった。
ハルマン少佐が剣を抜かなかったのは、見上げた自制心だと言うほかない。
とにかく、後は落伍した部隊を吸収し、前線への補給線を構築しなければならない。
あちこちで座り込んでいる部下たちを休ませてやりたいが、仕事は山ほどあった。
早いとこ遅れた奴らが追い付いてくれればよいのだが……。
足りない人数でどう段取りをつけようか少佐が頭を悩ませていると、若い将校が大きな声を上げた。
「遅れた奴らが来たようだぞ!」
少佐は驚いて後方を振り返った。
確かに遠くに人影が見える。
じっと目を凝らしていると、人影はどんどん濃くなってくる。
かなりの人数のようだ。
「なんだ、やればできるじゃないか」
少佐は自分の部下たちを誇らしく思った。なんだかんだ言って、日ごろから鍛えてきたのは無駄ではなかったのだ。
人影はどんどん近くなってくる。
砂埃があがっているのを見ると、かなりの速度だ。
おや、荷馬車でそんな速度が出せるはずがない。
まさかあいつら、嫌になって荷物を捨ててきたんじゃあるまいな……。
次の瞬間、少佐の血圧が一気に上昇した。
身体じゅうに血液がめぐり、こめかみがズキズキと痛んだ。
彼は声を限りに叫んだ。
「敵襲ーーーーーーーーーーーーっ!」