七 危機一髪
三日目の朝、フェイとロゼッタは一枚ずつの干し肉を食べた。
前の晩、やはり一枚ずつを食べたので、もうこれ以上の食べ物はない。
水は、前日の泉で汲んでおいた竹筒(洞窟の中で使っていたもの)から、一口ずつ飲んで空となった。
お腹は空いていたが、フェイの表情は明るい。
どう考えても今日中には森を抜けるはずだからだ。
傷薬が効いたのか、シェンカの足の引きずり方も軽くなっているような気がする。
早朝の寒気の中、白い息を吐きながら一行は西へとひた歩く。
タブ大森林は、大部分が針葉樹林であるためもともと灌木が少なく、さらに冬季ということもあって邪魔な下草が枯れていて、意外と歩きやすい。
黙りがちになる歩みの中で、フェイは午前中のうちに森を抜けるはずだからと言ってロゼッタを元気づけた。
フェイの見立ては間違っていなかった。
彼女たちは実際、タブ大森林の西の端にいたのだ。
距離にして約五キロ、二時間も歩けば森を抜けられる位置だ。
森を出れば、すぐにカイラ村と北の枝郷群とを結ぶ街道に行き当たる。
その証拠なのか、針葉樹の大木が次第にまばらになり、葉をすっかり落とした広葉樹がちらほら混じるようになって、周囲も少し明るくなってきた。
『大丈夫、もう少しだ』
フェイは不安を押し殺し、自分の胸に言い聞かせる。
ロゼッタさんはアスカと一緒だ。大人だけど、自分が付いていてあげなくちゃいけない。
自分が不安になったら、誰がこの女の人を守るというのだ。
その時、突然ジェシカとシェンカが歩みを止めた。
頭を上げ、しきりに空気の臭いを嗅いでいる。
グルルルル……という低い唸り声が喉から洩れてきて、首筋の毛が逆立っている。
「ねえ、フェイちゃん。この子たちどうしたの?
何かあったのかしら……」
ロゼッタも異変に気がついた。
フェイが尋ねる。
「もしかして追手?」
ジェシカは首を振り、背中をもぞもぞと動かした。
「ロゼッタさん、ジェシカから降りて!」
フェイの声音にも緊張の色が走る。
ロゼッタは慌ててオオカミの背中から滑り降り、フェイのもとへ来てしゃがみ込んだ。
「一体なにがあったの?」
「――多分、オーク……」
その声にシェンカが振り返って首を縦に振った。
『ジェシカ姉ちゃん、どうする?
真っ直ぐこっちに向かってくるよ』
『まずいね。風下から近づかれたみたい』
オオカミ姉妹は牙を剥き、凄まじい威嚇の表情のまま姿勢を低くする。
普段の軽口は姿を消し、真剣そのものの会話が続く。
『あたしたちだけじゃオークは倒せないわ。
足止めするのが精いっぱいだと思う。
シェンカ、あんたはフェイとロゼッタを逃がして!』
ジェシカの指示にシェンカがフェイのもとに駆け寄り、彼女の袖を噛んで引っ張る。
「何? あたしたちに逃げろっていうの?」
シェンカはフェイの顔を見上げていたが、その頭を下に振った。
「でも、あんたたちが……。
――いえ、わかったわ。
今はあたしたちが足手まといだもんね。
ロゼッタさん、走って。逃げるわよ!」
フェイが躊躇したのは一瞬だけだった。
オオカミたちは簡単に逃げることができる。
戦って自分の身を守ることができる。
それができないのは、あたしたちだけだ。
フェイはロゼッタの手を取って、真っ直ぐ西に向け走り出した。
* *
そのオークは森の外れに潜んでいた。
数日前、近くの村に侵入し、牧場の柵を壊して羊を襲っていた。
そこにはたっぷりの肉を蓄えた獲物がごろごろしていた。
彼にしてみたら、信じられないような楽園だった。
だが、オークは用心深かった。
その村からは、多くの人間たちの臭いがした。
人間は弱い。
だが、奴らは集団になると、金属の刃物で武装して襲ってくることを彼は知っていたのだ。
オークは一頭の羊を仕留めると、すぐに森の中に隠れた。
また隙を見て忍び込み、こっそり羊を盗めばいいのだ。
それを続ければ、当分食い物には困らない。
彼はこの森の近くに小さな泉を見つけ、そこを水飲み場としていた。
そこへ水を飲みに行こうとしていたのだ。
その途中にある臭いに気づいた。
風上の方から漂ってくる臭い。
よく知らない獣の臭いが二つと、人間の臭いが二つ。
人間のうち一人は子どものような臭い、もう一人は濃密な雌のくさい臭いをぷんぷん振りまいている。
『ついている!』
オークはほくそえんだ。
女と子どもなら、そう警戒することもない。
ガキの肉は少ないが柔らかい。
女は食う前に犯して散々に楽しめる。
獣はよくわからないが、餌にはなるだろう。
オークは足音を立てないよう、慎重に風下から近づき、獲物との距離を詰めていった。
その距離が十メートルを切ったあたりで、突然獲物の様子に動きがあった。
さすがにこの距離ではオークの獣臭に気づかれてしまうのだろう。
女と子どもが逃げ出したようだ。
もうオークは己の存在を隠す必要がない。
彼は雄たけびを上げて走り出した。
枯れた茨の茂みを掻き分けて飛び出すと、オークは獲物の姿を視認した。
少し先の森の中を、女と子どもが走って逃げていく。
だが、その速度は遅い。特に女の方は笑えるくらいによたよたとしている。
あれなら、簡単に追いつける。
オークは満足して足を速めた。
その途端、両側から獣が襲い掛かってきた。
かなり大きなオオカミだったが、オークの体格に勝るものではない。
不意を突かれ、脚と腕に噛みつかれたが、オークは太い腕を振り回してオオカミを引き剥がすと、足元のオオカミには棍棒の一撃をお見舞いした。
オオカミは噛みついた脚を離し、素早く飛び退った。
さっきまでオオカミのいた場所に棍棒が振り下ろされ、不格好な窪みをつくる。
オークは冷静に牙を剥いて威嚇している二頭のオオカミを観察した。
自分の知っているオオカミよりは大きいが、二頭だけならそれほど脅威ではないだろう。
しかも、一頭は後ろ脚に包帯を巻いていて、ひきずっている。
脅威ではないが、すばしっこく、仕留めるのには骨が折れそうだった。
オークは二頭を無視して、人間の方に専念しようと決めた。
オオカミがかかってきたら、棍棒をお見舞いすればいい。そのうち当たるかもしれない。
オークは猛然と走り出した。
両側をオオカミが追ってきて、隙を見ては飛びかかろうとするが、そのたびに棍棒が振り回され、オオカミたちは成す術がない。
目の前の人間との距離がぐんぐん詰まる。
子どもが女の手を引っ張り、必死に逃げようとしているが、女の方はまともに走れず、ついには転んでしまった。
オークは長い舌で唇を舐めまわした。
* *
フェイは必死だった。
自分一人ならもっと速く走れるのだが、ロゼッタを置いていくわけにはいかない。
手を引き、励ますのだが、ロゼッタはスカートにヒールのある靴を履いている。
これで森の中を入れと言う方が酷だろう。
いつの間にかロゼッタの靴は脱げ、穴の開いたストッキングだけの裸足で走っていた。
それでもスカートが足にまとわりつき、コートが重く、うまく走ることができない。
とうとう彼女は木の根にしたたかに小指をぶつけ、転んでしまった。
足指の痛みに悶絶している彼女の前に、フェイが立ちはだかった。
どこで拾ったのか、手には折れた木の枝を持って構えている。
折れた枝先が尖っていて、武器になりそうではあるが、なんとも頼りないものだった。
その眼前に体長二メートル近いオークが見る間に迫ってくる。
右足に噛みついたジェシカを意に介さず、オオカミを引きずったまま速度を緩めない。
オークは顔に下卑た笑いを浮かべている。
ガキがお話にもならない棒を構えている。
とりあえず、このガキは棍棒で叩き潰してしまおう。
頭をかち割って、脳みそを啜るのも悪くない。
オークは歓喜の雄たけびあげて棍棒をふりかぶり、目の前の子どもに振り下ろそうとした。
振り下ろそうとしたのだが――なぜか動かない。
オークの頭が混乱する。
なぜだ? なぜ棍棒が動かない?
上を見上げたオークの視界いっぱいに、太陽を遮り、何か黒い翳が覆いかぶさっている。
なんだあの黒い塊は……?
角? ああ、牛の角だ。そうだ、あの耳の形も間違いない、あれは牛の頭だ。
だが、なんだってあんな高いところに牛の頭があるんだ?
そうか、あの牛頭が棍棒を掴んでいるから動かないのか……あれ、牛に手があったっけ?
頭の中を疑問符だらけにして、頭上を見上げているオークの顔が、突然何かに包み込まれた。
手? まるで巨人の手のようだ……。
それがオークの頭に浮かんだ最後の意識だった。
オークの頭を無造作に掴んだ手は、がっちりと指に力を込める。
そしてそのままぐるりと半周回すと、そのままズボッと抜き取った。
引き千切られたオークの首からは、骨だか管だがよくわからないものが、十センチほどの長さでぶらぶら下がっている。
体の方は、傷口からぴゅうぴゅう血液を間歇的に噴き出しながら、ゆっくりと倒れた。
オークの身体が地面に転がった後、そこに立っていたのは身長四メートルに達する怪物。
牛頭をもつ巨人、ミノタウロスだった。
オークが倒れたのと同時に、ライガたちオオカミの群れが飛び込んできた。
ライガの背からユニが怒鳴る。
「フェイ、ロゼッタ! 無事なの?」
ユニは一瞬の動作でライガから飛び降り、フェイたちの側に駆け寄った。
フェイは呆然として目の間のミノタウロスを見上げている。
ユニはその肩を掴んで乱暴に揺さぶった。
「しっかりしなさい! 怪我はないの?」
「あ、ユニ姉ちゃん。うん、大丈夫――」
ユニは彼女の答えの終わらぬうちに、容赦なくフェイの身体を持ち上げ、ひっくり返し、点検する。
どうやら無事らしいということを確認すると、フェイを放り出して今度はロゼッタに飛びかかった。
ロゼッタの方はフェイより酷いありさまだった。
全身泥まみれで、頬には擦り傷ができている。
裸足の足からは血が滲み、ボロボロのストッキングはただの布切れと化していた。
彼女もやはり呆然としていたが、ユニがぺちぺちと頬を叩くと、突然上半身をがばっと起こした。
「えっ、ミノス? ミノスなの!
じゃあアリストア様はどこ?」
彼女はなぜだか胸元をかき寄せ、キョロキョロと自分の上司を捜している。
ユニはミノスの姿を振り返る。
ミノタウロスがいるってことは、アリストアが近くに来ているってことだろう。
伝書鳩が王都に着いたのは昨日の午前中のはずだ。
――ということは、アリストアはまたアランのロック鳥を使って来たんだな。
まぁ、あの朴念仁としてはいい傾向だ。
オオカミたちは、オークとの戦いでボロボロになっている姉妹のもとに集まっていた。
その時、ミノタウロスが手にしていたオークの頭を投げ捨て、天に向けて咆哮した。
「ブモオォォォォォーーーーッ!」
オオカミたちはその声にハッとしたが、すぐさまライガが頭を高く上げ、遠吠えを上げた。
群れのオオカミたちも、すかさずその後に続く。
「ウオォォォォォォーーーーーン!」
ミノタウロスの咆哮とオオカミたちの遠吠えは、朗々と周囲に響き渡る。
それは、遠く森の外の街道上で警戒に当たっていたカイラ村の警備兵、ライアン中尉とクルト少尉、そしてアリストアのもとにも届く。
その意味するところは明白だった。
「我、ロゼッタを救出せり!」