あなたの側にいたいから3
淡々とした命令口調でも、言っていることは甘々だ。響也は帆花の性格を熟知していて、遠慮を見透かしては気負わずにいられるよう計らってくれる。
「優しいね、響ちゃんは。いつもそうやって私の心、軽くしてくれる」
「大げさだ」
「そんなことないよ。私、今まで何度も救われてる。本当に数え切れないくらい。響ちゃんは私にとってかけがえのない、大切な――……最高のお兄ちゃんだよ」
帆花は明るい笑顔を浮かべた。賞賛を受けた響也の目元が和らいで、その嬉しそうな横顔に胸がすっと冷えていく。澄んだ水を黒く濁すような罪悪感が募り、誰のものでもない恐ろしい声に"裏切り者"と詰られた気がした。
長年隠し続けている響也への想いは彼の信頼に背くものだ。真新しい生傷がジクジクと熱をもって痛むように良心を苛む。それでも響也の側にいたいから、嘘を貫く。妹でなければ側にいられる理由がない。
沈黙に身を委ね、瞼を閉じた。自らの鼓動に耳を傾け、意識を内側に集中させる。長く息を吸い、時間をかけてゆっくりと吐き出すことで幾分平静を取り戻せた。
響也の運転はスマートで、眠気を誘う。自宅まで二十分ほどで到着した。閑静な住宅街は薄暗く、ぽつぽつと並ぶ外灯の光が眩い。
降車するとひんやりした空気に包まれ、軽く身震いした。丁寧にドアを閉め、運転席側に回り込む。響也がウィンドウを開いた。
「一緒に帰れなくて悪い。しっかり戸締りしろよ」
「うん、わざわざ送ってくれてありがとう。今夜も遅くなるよね。朝ギリギリまで眠れるように、朝食は職場でつまめるようなものを用意しようか?」
「いや、明日も家で食べる。朝食くらいお前の顔を見て味わいたい」
"忙しくても一日一回は家族で食卓を共にする"、それは両親が作った神楽木家のルールだ。
二人が他界して以降も響也が律儀に守っているのは、広い食卓でひとり食事を摂るのが寂しいこと、そして帆花が決してそれを口にしないことを理解しているからだ。
疲れていても自身のことは二の次で、口を開けば帆花を思いやる。今も、まるで自分のわがままのように振る舞ってくれる響也が愛おしい。帆花は笑みを綻ばせた。
「分かった。じゃあ、響ちゃんの好きなメニューを揃えておくね」
「楽しみにしてる」
「ふふっ、期待してて。おやすみなさい」
響也と離れるのが名残惜しい。後ろ髪引かれる思いを断ち切って背を向けようとした、次の瞬間―――
「帆花」
呼び止められ、胸を撃ち抜かれた気がした。響也の眼差しが慈愛に満ちていて心が震える。手招きされて近付くと、響也は優しい笑みを浮かべた。
「俺が頑張れるのは帆花のおかげだ。お前の笑顔が俺の元気の源だ。それを忘れるなよ」
すっと伸ばされた大きな手が頬に触れる。指先は冷たいのに、肌の重なった場所は火花を散らしたように熱を持った。全身を温かい光に包まれるような心地がして、じわっと胸の奥から想いが溢れていく。
―――この人を幸せにしたい。
「ありがとう。私も同じ気持ちだよ」
笑顔を返し、響也の手に掌を重ねた。控えめに頬をすり寄せ、宝物のように包み込む。本音を言えばずっとこうしていたい。響也の瞳に映り、体温を感じて、よく通る涼やかな声を聴いていたい。だけどそれは叶わないから……
「引き留めちゃってごめんね。今度こそおやすみなさい」
響也の温もりを手放し、一歩後ろに下がった。「おやすみ」と応えた響也の柔らかな声音が体の芯まで染み渡る。
無事家の中に入るのを見届けるまで響也はこの場を離れない。帆花は駆け足で玄関へ向かい、途中、一度だけ振り向いた。
(大好きだよ)
秘めた想いを胸に小さく手を振り、家の中に入る。扉に背を預け、静粛性の高い車の微かなエンジン音が完全に遠のくまで耳を澄ませていた。
 




