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スイートホーム  作者: 水嶋陸


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譲れないもの4

 

 帰宅後、お気に入りのルームウェアに着替えた帆花はお茶の準備を始めた。


 温めたポットにドライハーブを入れ、沸騰したお湯を注ぎ、数分蒸らす。仕上げにポットのお湯を軽く揺らし、お茶の濃度を均一する。


 目の細かな茶漉しを使ってガラスのカップに注ぐと、林檎のように甘く爽やかな香りが広がった。心地良い香りに気分が安らぎ、小さな笑みが浮かぶ。


 (これで少しは癒されるといいな)


 ダブルデートは和やかに終わったが、浜辺で合流してからの響也はどこか上の空で口数が少なかった。激務の合間を縫っての小旅行だ。疲れが出てもおかしくない。


 白い湯気の立つカップをソーサーに載せ、トレイに移してリビングに運ぶ。


 響也は微睡むようにソファに腰掛けていた。瞼を閉じて足を組み、肘掛けに片肘をついて頬杖している。軽く握った拳で頰を支え、首を傾ける姿にドキッとした。


 首筋を走る太い血管。くっきり浮き出た鎖骨。呼吸に合わせて上下する、程よく鍛えられた胸。それぞれのパーツに宿る大人の男性の色気と、外では考えられない無防備さに胸がときめく。


 他人と接する響也は凛としていて隙がない。特に出勤前後に纏う空気は鋭く研ぎ澄まされている。


 そんな彼が自分の前でだけ、ふと垣間見せるのだ。屈強な戦士が全ての装備を脱ぎ捨て、休息するように。気の抜けた、ひどく魅力的な姿態を無自覚に。


 このまま見つめていたい願望を振り切るのは容易じゃなかった。なるべく音を立てないように注意を払い、ローテーブルにカップを載せる。


 「いい香りだ。清涼感があるな」


 気配を感じ取った響也が薄く瞼を開く。鑑賞タイムが終わってちょっと残念な気持ちを隠し、帆花は柔らかい笑み返した。


 「お疲れさま。今日はカモミールにペパーミントをブレンドしてみたの。カモミールだけでもリラックス効果があるけど、ペパーミントは鎮静作用があって、気分を穏やかにしてくれるんだって。消化も助けてくれるから、胃がすっきりして寝つきがよくなると思うよ」


 「へぇ、それはありがたい。さっそく飲ませてもらおう」

 

 組んだ足を楽にし、右腕を前に伸ばしてカップを持ち上げる。顔に近付け、温度を確認するように縁に唇をつけると、静かにお茶を含んで飲み下す。


 「美味い。爽やかな風味だな。今夜はよく眠れそうだ」 


 「ふふ、よかった。こんな小さなことでしか役に立てないけど、少しでも響ちゃんを元気にできたら嬉しい」


 「お前には十分元気をもらってるよ。少しどころか大いに」

 

 「いつもありがとな」と微笑み、空いた手で帆花の頭を撫でる。ぽんぽんと優しく触れた掌は、離れる前にぴたりと動きを止めた。


 「どうしたの?」


 不思議に思って尋ねると、響也は無言のまま眉を顰めた。頭に乗せられた手が顔の輪郭に沿って下りてきて、頬に触れる。


 「……目が赤い。瞼も少し腫れてる」


 親指の腹で下瞼を辿られ、鼓動が逸る。


 浜辺で泣いた後、化粧室の鏡で顔を確認した時はそれほど目の赤みや瞼の腫れは目立たなかった。念のため化粧直しをしたので、他の人であれば気付かない程度の変化だ。


 「気のせいじゃない? ちょっと疲れが出たのかも」

 

 明るく笑って肩をすくめ、「何か面白い番組やってるかな?」とテレビのリモコンに手を伸ばす。けれど電源を点ける前に、リモコンを掴む手の上にひとまわり大きな掌が重なった。


 「あいつに泣かされたのか?」

 

 理性で感情を抑え込んだような低い声が耳朶を打ち、息を呑む。静かな怒りのこもった口調に帆花を責める響きはなかったが、有耶無耶にはしないという強い意志を感じた。


 苦しげな双眸に射貫かれ、下手な言い訳で誤魔化すのは不誠実だと反省する。 


 「心配かけてごめんね。確かに泣いたけど、悲しい涙じゃないよ。むしろその逆。昴さんは私の悩みに気付いて、助言をくれたの。誰にも言えないことだったから、すごく気持ちが楽になって――張り詰めた糸が緩んだ感じかな。それで気が抜けちゃっただけ」


 「本当か?」


 「うん。いい大人が人前で泣くなんて恥ずかしかったけど、背中を押してもらえて励まされたよ。昴さんがいなければ今、こんな風に笑えなかった。心から感謝してる」


 晴れやかな笑顔を見せると、響也はようやく安堵の息を漏らして手を離す。


 「誤解して悪かった。あいつが無闇に人を傷付けるようなやつじゃないことは理解してる。ただ、少し思い当たる節があってな。過剰に神経質になってたみたいだ」


 「昴さんと何かあったの?」


 「いや……」


 歯切れ悪く首の後ろに手を当て、視線を逸らす。数秒の逡巡の後、葛藤を吐き出すように口を開いた。 


 「昴のおかげでお前の気持ちが楽になったなら、兄として感謝するべきだ。理屈ではそう思うが、割り切れない。……悔しいんだ。


 お前の一番の理解者で、誰より頼れる存在でありたいのに――昴が気付いたお前の悩みに気付けなかった。お前の近くにいながら、何見てたんだよって心底自分に腹が立つ」


 「そんな。響ちゃんは何も悪くないよ! 悩みのことだって、響ちゃんを頼らなかったのは事情があったからで――」


 「分かってる。それでも思っちまうんだ。どうして昴なんだ。……俺じゃだめなのか? って」

 

 ひどく切ない表情が胸を突き、息が詰まる。自信に溢れ、理性的で、どんな時も揺るぎない安心感を与えてくれる響也とは思えない不安な横顔が鼓動を乱す。


 膝の上で拳を握ると、響也はハッと我に返って首を横に振った。


 「ごめん。完全にただの八つ当たりだな。お前が苦しんでた時、力になれなかったからってついムキになった。他のことは冷静でいられるのに、お前が絡むと途端に熱くなる。大人げなくて自分で呆れる」


 溜め込んだ熱を外に逃がすように息を吐き、


 「変に気を遣うなよ。家族だからって俺に全て話す必要はないし、誰に何を相談するか決めるのはお前の自由だ。だからさっきのは過保護な兄貴の寝言だと思って聞き流してくれ」


 ふっと笑みを浮かべた響也は平静を取り戻していた。落ち着かない自分と比較して寂しくなる。


 響也の精神は成熟していて、多少心が乱れてもすぐに立て直し、気持ちを切り替えることができる。重ねた年月や人生経験の差だけでなく、彼自身が持って生まれた気質もあるのだろう。


 二人の間に横たわるあらゆる種類の隔たりを思い知らされるようで、胸が締め付けられた。


 「私が一番信頼してるのは……誰より側にいてほしいのは、響ちゃんだよ」


 ぽつりと本音が零れる。響也は少し目を(まる)くして、はにかみ、愛おしげな眼差しを返してくれる。言葉以上の意味があるなんて微塵も疑っていないのだ。


 とても近い場所にありながら交わることのない平行線。それが兄妹の距離。想いを告げれば、もう二度とこんな優しい笑顔を向けられることはないかもしれない。


 ――――怖い。長年の信頼を裏切る決定的な一言を伝えるのが怖くて仕方ない。


 けれど、おそらくこの機会を逃せば永遠に伝えられなくなる。確信めいた直感が閃き、ありったけの勇気を振り絞った。


 「あのね。響ちゃんに聞いてほしいことがあるの」


 口に出した途端、緊張が頂点に達してぶわっと全身の産毛が逆立つ。喉から飛び出そうなくらい心臓が激しく脈打ち、頭に血が昇って一瞬目眩がした。 


 「……っ、これから話すことはきっと響ちゃんを困らせて、嫌な思いをさせると思う。でも――どうしても今、聞いてほしい」


 指先が震える。恐怖を打ち消すようにぎゅっと自分の手を握った。尋常でない様子から、重大な告白があるのだと察した響也は真摯な面持ちで頷く。

 

 「お前の話ならどんな内容でも聞きたい。俺がどう感じるかとか余計なことは一切考えなくていいから、思っていることを素直に話してくれ」


 まっすぐな、力強い眼差しを受けて泣きそうになる。全てを惜しまず与えてくれた大切な人を傷付け、失望させる言葉を告げようとしている後ろめたさで簡単に決意が揺さぶられる。


 必死に迷いと戦っていると、頰にかかった長い髪をすっと耳の後ろに流された。 


 「もう忘れたのか?」


 愛情のこもった温かい声が鼓膜に染みる。 


 「言っただろ。何があっても絶対に背中を向けることはないって。安心しろ。世界中を敵に回しても、俺はお前の味方だ」

 

 闇を切り裂く、鮮烈な光が胸を貫く。絶えず差し伸べられてきた救いの手に心が震える。


 「……やっぱり響ちゃんはすごいね。言葉ひとつで私の不安を拭い去ってくれる。ほんとに……魔法使いみたい」

 

 恐れる必要はない。たとえこの想いが叶わなくとも、響也は受け止めてくれる。どこまでも誠実に向き合ってくれる。 


 ゆっくり息を吸って呼吸を整え、響也の隣に座った。もう、迷いはなかった。 

 

 「実はね、私、好きな人がいるの。……その人はいつも私の心に寄り添ってくれて、たくさんの喜びを与えてくれる。何かを返せなくても、隣にいるだけで心から幸せそうに笑ってくれる。


 その人に名前を呼ばれると胸が温かくなって、優しい手に触れられると恋しくて、離れがたくなる。大好きって気持ちが際限なく溢れてくる。毎日、自分でもびっくりするくらい想いが募っていくの」

 

 口を挟まず、真剣に耳を傾けてくれる響也の瞳に自分の姿が映っている。それだけで胸がいっぱいになり、瞼の裏が熱くなる。微かに声が震える。


 「私の気持ちを伝えたら、今の関係が壊れてしまうかもしれない。相手に嫌われるかもしれない。これまで築いてきた信頼を失って、側にいられなくなるかもしれない。


 ……そう思うと怖くて、どうしても言えなくて、想いを胸にしまってきた。だけどもう、自分の気持ちに嘘を吐けない」


 帆花は視線を逸らさず言葉を続けた。


 「――響ちゃんが好きなの。妹としてじゃなく、一人の女性として愛してる」


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