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スイートホーム  作者: 水嶋陸


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21/34

離れがたいのは


 夕暮れの薄陽が射し込むリビングは、時が止まったような静けさに満ちている。読書に耽っていた帆花は読みかけのページに栞を挟み、文庫本を閉じた。


 カップの底に残っていたハーブティーを飲み干し、窓の外に視線を移す。太陽の放つオレンジの光が、澄んだ水色の空を柔らかに染め上げていた。


 そろそろ夕飯の支度をしようと腰を浮かせた時、ローテーブルの上でスマホが鳴動した。手を伸ばして掴み取り、画面を確認する。


 響也から『今から帰る』とメッセージが入っていて、ほっと胸を撫で下ろす。今日は見合い相手と会っているので、帰りが遅くなるかもしれないと密かに気を揉んでいたのだ。

 

 『連絡ありがとう。気を付けて帰ってね』


 短く返信し、スマホを戻してキッチンに移動する。エプロンを身に付け手を洗い、調理に取りかかった。今夜はクラムチャウダーだ。


 やがてキッチン全体にほっこりといい香りが漂う頃、玄関の方から物音がした。食卓のセッティングを中断して様子を窺うと、リビングに続く扉が開き、響也がマフラーを外しながら姿を現した。


 「ただいま」


 「おかえりなさい! 外、寒かったでしょう。ちょうど夕飯が出来上がったところだよ。すぐ食べる? それとも後にする?」


 パタパタ駆け寄ると、響也は羽織っていたコートを脱ぎつつ僅かに思案する。

 

 「夕飯にはまだ少し早いな。後でもいいか?」


 「もちろん。じゃ、とりあえず温かいお茶を淹れるね。座ってて」


 「ありがとう。いつも悪いな」

 

 言ってウォークインクローゼットに行きかけて、「そうだ」と何かを思い出したように足を止める。小さな紙袋を差し出された帆花は首を傾げた。


 「これは?」


 「ちょっとした土産だ。忘れないうちに渡しとく」


 「今ここで開けてもいい?」

  

 首肯され中身を確認すると、入っていたのはシルバー製のキーホルダーだった。


 四つ葉のクローバーのチャームはころんとして愛らしく、葉っぱの一枚にハート型の水晶が嵌め込まれている。それにラウンドカットの小粒なエメラルドが寄り添っていて、動く度に揺れては繊細な輝きを放つ。


 「わぁ、綺麗なキーホルダー!」


 「たまたま立ち寄った雑貨店で見つけたんだ。気に入ったか?」


 「とっても! ありがとう。大切にするね」


 贈り物を胸に引き寄せ、ぎゅっと両手で包み込む。響也の切れ長の目が細まり、瞼に焼き付けるような眼差しに変わる。自然と頰が熱くなった。


 「わ、私の顔に何かついてる?」


 「――いや。ただ、その顔が見たかったんだ」


 染み入るような声色に鼓動が速まる。頬が茹で上がり、お茶を淹れる口実でキッチンに逃げ込んだ。しかし響也が追ってきて、両腕を組み壁に寄り掛かる。

 

 「実はお前に話したいことがあるんだ。夕飯の前にちょっといいか?」

 

 ドクッと心臓が跳ねた。


 (改まって何だろう?)


 見合いの件が脳裏をよぎり、急速に口の中が乾いていく。


 「……っ、分かった。先にリビングで待ってて。すぐ行くから」

 

 どうにか平静を装い、エプロンを外す。シュシュで束ねていた髪を解き、軽く手ぐしで整えた。


 お湯を沸かし、温めたティーカップに紅茶を注ぐとアールグレイの薫りが立ち上る。緊張を和らげようと深呼吸したが、カップをトレイに乗せる手は小刻みに震えていた。




 ソファの背にもたれ瞑目していた響也は、足音に気付いて瞼を開けた。目の前にそっとカップが置かれ、「ありがとう」と帆花に視線を移す。


 帆花は適度に距離を空けて隣に腰を沈めた。お互い無言で紅茶を口に運ぶ。どことなく流れる張り詰めた空気が、これから切り出される話題の重さを物語っていた。


 「仕事のことなんだが、近いうちニューヨーク本社に異動する」


 「えっ?」

 

 驚いて目を見張る。想像していた内容ではなかったが、響也の発言は衝撃的で、動揺を隠し切れず声が上擦ってしまった。


 「近いうちって、具体的にいつから赴任になるの?」


 「今年の四月だ。最短でも二、三年は戻れないと思う。長ければ五年はかかる」

 

 「そんなに……」


 思わず息を呑んだ。頭の中が真っ白になって呆然とする。二人の間に沈黙が降ったが、長くは続かなかった。

 

 「やっぱり俺が家を空けるのは不安か?」


 気遣わしげに訊かれ、我に返る。真摯な面持ちの響也と視線が交わった。心の奥まで見透かすような強い眼差しに射貫かれて、一瞬、泣き出したくなる。 


 行かないでと引き止めたい衝動に抗い、握り締めた拳の内側では痛いほど爪が食い込んでいた。けれど――……


 「大丈夫だよ」


 絞り出した声は思ったよりしっかりしていて、安堵する。響也は半信半疑といった表情で眉間にうっすら皺を寄せ、首を傾げた。


 「本当か? 一人暮らしが心細いなら社宅に入るか、しばらく伯父さんの家に世話になる選択肢もあるぞ。そうでなくても俺が留守の間は伯父さんか伯母さんに時々お前の様子を見に来てもらうよう頼んである」


 いつのまにそんな話になったのか。知らない間に根回しされていたようだ。


 響也は帆花が絡む話なら独断で決めたりせず、必ず意思を確認してくれる。事後報告で済まされる場合は、理由があるのだ。今回は帆花が遠慮するのを見越して手を打ったに違いない。


 「気持ちは嬉しいけど、過保護過ぎるよ。私、もう成人してるんだよ? 一人暮らしなんて普通は大学生くらいで経験するものでしょ。心配ないよ」


 茶化すような口調で答えると、響也の眉間の皺がみしっと深くなる。

 

 「周りがどうかは関係ない。お前が安心して暮らせるかどうかが重要だ」


 言い切る響也に迷いがなくて圧倒される。昔から、帆花が心穏やかに生活できるよう手を尽くしてくれた。どんな時も響也はぶれない。


 真面目に話しているのに、つい小さな笑みが漏れた。 


 「安定の響ちゃんだね」


 「なんだそれ。絶対褒めてないだろ」


 「そんなことないよ。さっきは驚いちゃっただけで、不安なわけじゃないから。心配しないで自分のことに集中して。――あ、そうだ」


 空気を変えるようにパンッと両手を合わせて顔色を明るくし、


 「栄転おめでとう! 本社なんてすごいね! さすが響ちゃん」


 パチパチと心から拍手を送った。今は複雑な感情の全てに蓋をして、響也の頑張りが認められた喜びを分かち合いたい。


 響也は物言いたげに口を開いたが、結局何も言わず首の後ろに手を回した。


 「困ったことがあれば一人で抱え込まずちゃんと相談しろよ。幸い伯父さんの家はそう遠くないし、いざとなれば駆けつけてもらえる距離だ。もちろん、俺もできる限りサポートする」


 「うん。ありがとう、心強いよ。忙しい合間を縫って伯父さん達にお願いしてくれたんだね。そういう話なら私も同席するべきだったのに、任せっきりで申し訳ないな」


 「気にするな。早めに話をつけておきたくて勝手にやったことだ。他にも色々話しておきたいことがあったし、長くかかりそうだったから声をかけなかった。ま、お前も近々伯父さん達に会う機会あるだろ。その時に一言添えれば十分だ」

 

 安心させるような笑みを浮かべ、ポンと頭を撫でられる。響也にとってはいつもの何気ない仕草だが、これをされるととても弱い。


 与えられた体温が離れていくのを名残惜しく感じながら、頭の中は冷静さを取り戻していた。見合いの件がどうしても気になる。思い切って尋ねてみようか。 


 「ところで、お見合いの件はどうするの? 赴任までもう三ヶ月しかないよ」


 「そうだな。あまり時間に余裕がないし、結論を先延ばしにしないつもりだが、その前にお前と三人で会う機会を設けたい。食事する程度だ。かまわないか?」


 正直なところ気が進まないが、断るのは不自然だ。「いつでも喜んで」と頷く。

  

 「でもいいの? デートなら私、お邪魔じゃない?」


 「バーカ。余計な気を回すな。仮にお前を邪魔者扱いするような相手なら、そもそも願い下げだ」

 

 当然のようにぴしゃりと言い放たれ、響也の中で高い優先順位を占めている喜びが胸を満たした。しかし、それは『家族』だからだ。


 どれだけ近くにいてもパートナーになりえない立場を改めて実感し、気持ちが沈む。心に落ちた影を気取られないよう、細心の注意を払って笑みを浮かべた。


 「これから今まで以上にバタバタするね。手伝えることがあれば遠慮なく言ってね」


 曇りのない清々しい笑顔を向けられ、ぴたっと響也の動きが止まる。


 「……快く送り出してくれるとは思ったが、あっさりしすぎじゃないか? 正直拍子抜けしたぞ」

 

 不満げにブスッとする響也は明らかに拗ねていた。珍しい態度に驚きつつ、愛しくて胸がキュンとする。座ったまま距離を詰め、下から顔を覗き込んだ。


 「なぁに? 響ちゃんは私が全然寂しがってないと思ってるの?」


 「違うのか?」


 「そんなわけないじゃない。この家に響ちゃんがいないのを想像しただけで寂しいよ。でも一緒に過ごしたたくさんの思い出が私の胸を温めてくれる。離れていても灯してくれた明かりは消えないの。だから大丈夫」

   

 すっと両手を伸ばして響也の頬を包み込み、顔を引き寄せ、額を合わせた。瞼を閉じて、根雪のように積もった想いを心の中でなぞる。一欠けらも取り零さないよう、丁寧に。


 「――大好きだよ。どこにいても響ちゃんの幸せを願ってる。元気でいてね。笑顔でいてね。もし泣きたくなったら電話して。笑わせてあげる」


 ひとつひとつ、光を灯すように言葉を紡ぐ。これは願掛けだ。響也と出会う人達が温かい心の持ち主でありますように。かけられる言葉が、触れる人の手が、優しさで溢れていますように。


 「元気が出る魔法。少しは効いた?」


 体を離すと同時にふわっと帆花の笑顔が綻ぶ。それは春の日差しを浴びて咲く花のようで、響也は光を仰いだように瞳を細めた。


 「効果抜群だ。一瞬で毒気を抜かれた。けど、今のはずるいな。反則だ」

 

 やんわり受けた抗議を、ふふっと笑って受け流す。テーブルの上に視線を移すと、響也のカップが空になっていた。


 お茶を淹れ直そうと手を伸ばした瞬間、手首を掴まれる。バクンと心臓が跳ねた。反射的に響也を見遣る。漆黒の双眸に囚われ、身動きが取れなくなる。


 数秒が、とても長く感じた。


 響也の空いた方の手がゆっくり頰に伸びてくる。壊れやすい宝物に触れるような手つきで包み込まれ、体が震える。愛おしげな眼差しは魂を焦がすような熱を帯びていた。


 「……時間が経つのは恐ろしく速いな。お前と二人になって七年が経った。その間に色んなことがあったが、たとえ時間が巻き戻っても、俺は何度でも同じ選択をする。


 お前の側で成長を見守り、しかるべき時が来たら笑って送り出す。たった今、お前が俺にしてくれたみたいに」


 言葉を切った響也は常になく苦しげで。何も言えずに、ただそっと頬に触れる手に自分の掌を重ねた。少しでも苦しみを和らげ、癒しを与えられるように願いを込めて。


 響也は微かに瞳を見開き、やがて固く結んでいた唇を開いた。


 「お前にはお前の生活が、未来がある。それを応援して見届けるのが俺の役割で、喜びだった。それなのに……」


 ぐっと手首を掴む手に力がこめられ、そして――


 「参ったな。……離れがたいのは俺の方だ」


 長く溜め込んだ想いを吐き出すような呟きが零れた。思いがけない真実に直面し、戸惑い、呆れるような――。それは初めて見る、自嘲を含んだ微笑だった。


 響也の弱り切った表情に心を揺さぶられる。二人を包む空気の密度が濃くなり、周りの空間から切り離されたような錯覚を覚えた。


 その時、スマホが鳴動した。帆花は夢から覚めたように現実に引き戻された。

 

 「着信だな。出なくていいのか?」

 

 落ち着いた声音で訊いた響也は、普段の調子を取り戻していた。話は終わったという空気を醸し出している。


 胸に引っ掛かるものがあったが、鳴り続ける呼び出し音に思考を遮られた。もどかしく感じながら画面を見ると、相手は昴だった。やましいことは何もないのに、気付けばさっとスマホを胸に押し当てていた。


 「ごめん。ちょっと電話してくるね」


 「ああ、ゆっくりでかまわないぞ。ここは俺が片付けておく」


 鷹揚に手を振る響也に礼を告げ、慌ててリビングを後にした。背中を見送る響也の眼差しが複雑な色をたたえていたことは、知る由もなかった。


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