訪問者3
「響也と出会わなければ、君を見つけられなかった。このご縁に僕は感謝してる。だけど今はそれが悔しい」
真摯な面持ちで見つめられ、息を呑む。普段の穏やかで、柔らかい雰囲気とかけ離れた昴に戸惑った。
彼の真意が掴めず答えに窮していると、バタン、と玄関の開く音がして飛び上がる。
「ただいま。悪いな、遅くなった」
「お、おかえりなさい!」
響也の帰宅に安堵し、胸を撫でおろす。あのまま昴と二人でいるのは少々気詰まりだった。
リビングに入ってきた響也のジャケットを受け取り、ハンガーにかけるためウォークインクローゼットへ向う。
急ぎ足でダイニングへ戻ると、響也が冷蔵庫から料理を補充していた。
「いいよ響ちゃん、私がやる。昴さんお待たせしちゃってるから座ってて」
「お前こそ来客の準備で忙しなかっただろ。いいから座ってろ。それに相手は昴だ。多少待たせたくらいで気を悪くしやしない」
「それはそうだけど……」
「ふふ、本当に君達は仲良しだね。微笑ましいよ」
背後から現れた昴の手が肩に乗り、その部分に全神経が集中した。うっかり掴んでいた皿を床に落としてしまい、割れた陶器の破片が足元に散らばる。帆花は慌ててしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい!」
「おい、素手で触るな!」
「――――つっ」
割れた破片を集めようとして、鋭い痛みが親指を走り抜けた。一拍置いて赤い線が浮き出る。玉のように血が滲むのを見て背筋が寒くなった瞬間、響也が手首を掴み、躊躇いもなく指先を口に含んだ。
「やめて、汚いよ」
空いた手で制止しようとして固まった。キッと睨み上げる響也の目に非難の色が浮かんでいて、とても逆らえる様子ではない。傷口を強く吸われて鼓動が速まる。体が熱を帯びていく。
「大丈夫? ここは僕が片付けるから、帆花ちゃんはリビングで響也に手当してもらいなよ」
頭上から降ってきた昴の声にハッとした。顔を見合わせるといつもの優しい微笑みが浮かんでいる。恥ずかしい場面を見られてしまった。頬が茹で上がるのを抑えられない。
「リビングの棚に救急箱がある。昴、お前が手当してやってくれ」
「僕? いいの?」
「いいも何も、お前にここの後始末を任せるわけにはいかないからな。ほら、さっさとあっち行け。二人とも片付けの邪魔だ」
「うー……響ちゃんのいじわる」
「まぁまぁ。帆花ちゃん、お言葉に甘えて僕らは退散しようか。立てる?」
昴に手を差し伸べられ一瞬躊躇うも、遠慮するのは不自然だ。素直に厚意を受け取り、礼を告げた。
リビングへ移動すると、棚から救急箱を出してソファに座る。横並びの状態で指を消毒し、絆創膏を貼ってもらった。
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
「どういたしまして。役得だったよ」
「えっ!?」
驚きの声を漏らす帆花に、昴は何も言わずにっこり笑った。
「君は響也のお姫様だね。見てて照れ臭いくらい過保護だ」
「すみません……」
「はは、なんで謝るの。むしろ苦労して大変でしょ。大学生になっても門限があるなんて珍しいよ。不満じゃないの?」
「いえ、心配してくれる家族がいてくれるのは幸せですよ。なるべく響ちゃんに心配かけないようにって気を付けてるんですけど、たまにこうして失敗しちゃうからそれが申し訳なくて」
「いい子だなぁ、帆花ちゃんは。謙虚な姿勢は好ましいけど、君の場合はたまにわがままを言うくらいでちょうどいいんじゃないかな。きっとその方が響也も喜ぶよ」
「つい最近同じことを響ちゃんに言われました。昴さんは何でもお見通しですね」
「よく見てるからね。色んなことに気付くよ。――例えば君の秘密とか」
昴がさらりと口にした『秘密』という言葉に胸がざわついた。ドクンと心臓が脈打ち、たちまち不安が渦巻いていく。
まさか響也への想いに気付かれている――?
「なんて、冗談だよ。僕はエスパーじゃないから心を読むなんて芸当は無理な話だ。さぁ、ダイニングへ戻ろう。そろそろ片付けが済んだ頃だよ」
「は、はい」
なんだ、冗談か。高まっていた緊張が解けて拍子抜けする。しかし昴は優れた洞察力の持ち主だ。疑念を抱かれるような行動は極力避けよう。
昴と共にキッチンへ顔を出すと、手際のいい響也は既に床を掃除し終えていた。ダイニングのテーブルには先ほど補充した料理が並べられており、着席するだけの状態になっている。
「わぁ、早業だね」
「大して散らかってなかったからな。帆花、気をつけろよ。嫁入り前の娘が傷を負うな」
「響ちゃん……いつにも増してお父さんみたい」
「うるせー。口答えする生意気な子にはお仕置きだ」
「いひゃいいひゃいほっへたひっはらないれー!」
両頬を引き延ばされ、べしべし響也の胸板を叩いた。顔がモモンガ状態の帆花にたまらず吹き出す昴。恨めし気な視線を送ると、涼しい笑顔でかわされてしまう。手強い。
「それじゃ改めて……乾杯!」
一段落し、夕食を再開した三人は楽しいひとときを過ごした。心地良い空気が流れ、お腹だけでなく心まで満たされていく。
こうして共に食卓を囲み、何気ない会話で盛り上がる時間は帆花にとっても大切なものだ。
「それじゃ私は先に寝ますね。昴さん、今日はありがとうございました。またいつでもいらして下さいね。帰りはお気をつけて。おやすみなさい」
「こちらこそ美味しい手料理をご馳走様。ゆっくり休んでね。おやすみ」
「俺には一言もなしか」
「おやすみ響ちゃん」
「忘れてた、みたいな顔すんじゃねーよ。まったく。おやすみ。部屋で夜更かしするなよ」
「はーい」
昴に会釈した帆花が自室に向かう後姿を見送る。響也には当たり前のことだが、昴は興味深そうに唇の端を上げた。生温かい視線を注がれ響也は眉を寄せる。
「なんだよ気色悪い」
「ひどい言い草だなぁ。人当たりがいいのは上辺だけだよね。関わるほど遠慮がなくなっていく感じにちょっと騙された気分」
「腹黒いのはお互い様だろ。相手に応じて態度を変えるのは普通だ」
「相手の度量を見極めて対応するんでしょ。僕の場合、懐が深いって評価してくれてるんだよね。嬉しいよ」
「そのニヤついた笑顔を今すぐやめろ。鳥肌が立つ」
わざとらしく響也が身震いし、昴は息を抜いて笑った。
「帆花ちゃんも来年から社会人か。時が経つのは早いね」
「そうだな。就職先によっては引っ越すことになるだろうな」
「驚いた。ずいぶん冷静だね。てっきり東京近辺で就職を勧めて実家通いさせるのかと思ってたよ」
「そんなの俺が左右するもんじゃないだろ。さっきみたいに危なっかしい面はあるが、帆花は大人だ。将来のことは自分で考えて決めればいい」
「なるほど。過保護だけどそういうところは信頼して尊重するんだ。いいね」
「俺はあいつの保護者だからな。選択肢を増やしても狭めるような真似はしない」
真摯な面持ちで答える響也の揺るぎない信念に胸を打たれ、昴は「君はそういう人だよね」と頷いた。
「帆花ちゃんが就職したらどうするつもり? ニューヨーク本社への異動の件、保留にしてるでしょ。個人的にはまたとないチャンスだと思うけど、やっぱり帆花ちゃんを置いて日本を離れるのは心配?」
「まあ全然心配がないと言えば嘘になる。だけど遅かれ早かれ帆花はこの家を出て行くし、それを理由に断るつもりはない。
本音は、この家を空けるのが嫌なんだ。あいつがいつでも安心して帰れる場所として守っていきたい。無条件で自分を受け入れてくれる場所があるってのは支えになるからな」
「うん。響也がずっとそうやってこの家を――帆花ちゃんを守ってきたから、彼女は心から笑える。僕が心配してるのは君の方だよ。
帆花ちゃんが家を出たら、君は何を糧に生きていくの? この家と、残された思い出にしがみつくのは寂しいよ」
滅多なことで動じない響也の瞳が微かに揺れる。昴は気まずそうに瞼を伏せた。
「ごめん、意地悪な言い方だった」
「いや、お前の言うとおりだ。自分でも何がしたいのか正直分からない。両親が他界してがむしゃらに働いてきたが、いざ守るべきものが手を離れた時、俺は何を望むのか。
ただ確かなのは、どこにいても帆花が幸せで笑っていられること、それを見守っていくことが一番なんだっていうのは分かってる」
昴は瞠目した。響也をつぶさに観察する。帆花のことを語る時、どれほど愛おしい顔をしているのか自覚がないらしい。自分の世界の中心は帆花だと、たった今宣言したようなものなのに。
「いい機会だから忠告しておくよ。響也は帆花ちゃんを大切にしてるし、一番の理解者だと思うけど、肝心な部分を見落としてる。君自身の中に眠る気持ちさえも。
家族だからって安心しきって何でも理解したつもりでいると、いずれ取り返しがつかないことになるから気を付けて」
「何の話だ」
「響也は帆花ちゃんに守られてるって話だよ。はぁ……ここまでくると気の毒になってきた」
訳知り顔で含みをもたせる昴に苛立ち、響也はテーブルに身を乗り出して鋭く睨みつけた。
「何だよ勿体ぶって。回りくどい言い方はやめてハッキリ言え」
「嫌だね。今のでも十分過ぎるヒントだよ。あとは自分の頭で考えて」
「むかつく奴だな」
「僕は君と違ってお人好しじゃないんでね。それじゃ、そろそろお暇するよ」
「おい、まだ話は――」
制止を聞かず、昴は席を立ち椅子にかけておいたコートを広げ袖を通す。響也は問い詰めたい衝動を抑え、浮かせた腰を椅子におろした。
こういう時、昴は頑として口を割らないので食い下がっても無駄だ。物言いたげな視線を向け無言で抗議すると、柔和な笑みで受け流された。
「今夜は招いてくれてありがとう。帆花ちゃんによろしくね」
相当飲んだ後だが、酒に強い昴は酔わない。軽い足取りで踵を返し、玄関へ向かう。
やがて扉が閉まる音を聞きながら、響也は意味深な発言の真意を探ろうと思考を滾らせていた。




