日常は既に終わっている
朝のホームルーム前。教師が来るまでの時間、教室は随時登校してくる生徒たちによって騒々しい。誰もが好き勝手に会話する。昨日のドラマが何だとか、朝の通学路でどうだとか、どれも益体のない話だ。
その会話の輪のどこにも入ることなく、吉野は頬杖をついて窓の外を眺めていた。
あの日と同じように。
昨日の戦闘の後、そこらに倒れ伏している敵は「ほっとけほっとけ」という真柴の言葉でその場に放置になり、同じく真柴の手によって結界を出た吉野は自室に入るなりそのまま倒れ込むようにして眠った。いろいろと、まだ訊きたいことは山積みだったのだが、如何せん体力の限界だったのだ。短時間のうちに、いろいろなことがあり過ぎた。
翌朝目覚めてみると、真柴の姿はなかった。けれどこちらの顔をじっと覗き込んでいるセネカとばっちり目が合って、折角事前に用意していた「夢オチカムバック」が封じられてしまったのは無念だった。
端正な顔立ちの少女を間近にして、起き抜けに血圧を急上昇させながらも「どうしてここにいるんだ」と吉野は問う。それに対し、セネカは何を当然のことをというような顔で小首を傾げながら「私はテッペーのホムンクルスだから」などと言う。
いや、そんなことを言われても。
「せ――セネカだけか。真柴さんは?」
部屋を一望しても、威風堂々たるあの長身は見当たらない。狭い部屋だ、見落とすはずもない。
「レーサは日の出の時間に出ていった」
「どこに行ったんだ」
「知らない」
セネカは首を横に振る。んむ、と吉野は真柴の自由過ぎる振る舞いに閉口するが、ちょうどそのタイミングで吉野のケータイが鳴った。
液晶を見るも、知らない番号だ。恐る恐る出てみる。
「――もしもし」
『おう、吉野少年。起きたようだな』
通話口から朗々と響いてくるのは誰あろう、真柴・鈴沙その人だった。響き過ぎる声に思わず耳を離しながら吉野は、あの、と返す。
「ちょ、あんたどこにいるんだ。どうしてこの子を置いていった」
『あん? 何を言ってる。セネカはお前のホムンクルスだろう。お前が世話しろ』
いや、セネカと同じようなことを言われても。世話って何。
『それで、私なんだがな。急用が出来た。もともとあまり一か所に長居できる身でもなくってな……やれやれ、指名手配の身というのはこういう感じなのか。面倒この上ないな』
「指名手配? そういえば最初に会ったときもそんなことを言ってたけど……」むしろ誇らしげに名乗りを上げられたんだけど。「誰に指名手配されてるんだ。警察?」
罪状は少女誘拐だろうか。ぼんやりこちらを見つめているセネカを横目にそんなことを思っていると、『何か失礼なことを考えているな』と通話口の向こうから剣呑な声がした。
『少女誘拐とかそんな罪を考えているだろう』
「そ、そんな滅相もない」思考を読めるというのか。
『私を指名手配しているのは、警察じゃない。協会だ』
すぱっと切り込むような口調で、真柴は言った。その声音には苦々しさも垣間見える。
「協会?」
『人形師や人形遣いを統括しようとしている魔術結社さ。悪の巨大組織と思ってくれて構わない。とにかく私は奴らに追われていて時間がなくてな――』悪の巨大組織、といういかにもなフレーズには真柴の私怨が含まれていそうな雰囲気だったが。『――と、たった今時間がなくなった。私はこれで切るぞ。何かあったら連絡する。次に会うのはいつになるか知らんが』
「え、ちょっと」
次々と一方的にまくしたてられて、吉野には口を挟む間がない。そのままの勢いで、真柴は会話を締めてしまう。
『それじゃあ、吉野少年。また会おう。セネカをよろしく――協会に気を付けろ。協会以外の人形遣いにも、な』
んじゃ。
そんな軽い単語をもって、通話が断ち切られた。最後に銃声のような音が連続して聞こえていたが、一体どこで何をしているのだろう。
「……なあ、セネカ。協会って知ってる?」
困り切った顔でケータイを畳んだ吉野は、ずっとこちらの顔を見ていたセネカに問う。
セネカは小首を傾げた。
「人形師や人形遣いを統括しようとしている世界組織。私とレーサを指名手配してる」
「何で指名手配してるんだ? 何か悪いことでもしたのか」
その問いにはセネカは、知らない、と首を振るのみだった。
いろいろと腑に落ちないことはあるものの、今日はまだ平日だ。学校はあるはず――昨日大破した学校が本当に無事なら、だが。とにかく支度して、家を出ようとしたところで次なる問題が発生した。
「……いや、セネカ。君は連れていけないよ」
制服の裾を摘まんで離さないまま、玄関口までついてきたセネカを見下ろす。
「学校に行くだけだからさ。大丈夫だって」
「でも、またいつ襲われるかわからない」
「それは……」そうかもしれないけど。
有事に備えるにしても、セネカを連れて歩くことはできない――セネカが高校の生徒ではないということもそうだが、その服装が目立ちすぎる。ゴスロリの少女なんて連れて歩いたら目立つことこの上ないし、単純に吉野が通報されるだけならまだしも(それも大問題だが)、返って襲撃者の目にもつきかねない、と思うのだ。
代わりの服なんて持っているわけもないし、だからセネカには留守番してもらう他ない。
というようなことを三十分ほど説き続けてようやく、セネカは吉野を手放してくれた。
「でも」とセネカは吉野を見上げながら言う。「何かあったら大変」
「まあ、そうだけど」
何かなくても大変になってしまいかねない問題だ。ここで妥協するわけにもいかない。昨今は世間の風当たりも強くなっている情勢である。
吉野の態度にセネカは無表情ではあったが、かなり不満そうな雰囲気がバリバリ出ていた。それを見ない振りをして、戸を開ける。説得に時間がかかり過ぎて遅刻しそうだ。
「待って」
外に出る寸前で、またセネカが声をかけてきた。今度は何だ、と見返すと、セネカは胸の前で拳を小さく握りながら言った。
「何かあったら、呼んで。絶対」
セネカは電話も持っていない。それでどう呼んだらいいのかもわからなかったが、このままでは遅刻してしまう。了解、と鷹揚に手を振って、ようやく登校してきたのだった。
登校してみると、学校は無事だった。どこも壊れることなく、一昨日までと変わらない冴えない姿で立っており、吉野と同じく登校していく生徒たちを呑み込んでいく。
教室に入ってみても顔ぶれは同じ。教室は無事で、誰ひとり欠けていることもない。
日常は、何事もないかのように続いていた。
何事もなかったかのように。
いや、正確に言えば先日のガルガリアとの戦いの直前、悲鳴を上げながら吉野が教室を飛び出していったところまでは全員の記憶に残っていて、その祭り上げと申し開きに東奔西走するハメになったのだが、その程度は全く可愛い話だ。何せ土下座で済むのだから。いやはや、どうしようもなかったとはいえ、突然気が触れたかのように鞄も置いてそのまま残りの授業も豪快にサボタージュしてしまったのだ。当分は凡庸な一生徒からエンターテイナーにジョブチェンジである。友人らにも散々物笑いの種にされた。
鞄を机の横にかけて、吉野は自分の席に着く。見渡してみても、やはりいつもの光景だ。頬杖をついて、窓の外へ視線を向けてみる。
校庭が見える。校門が見える。その向こう、晴れた青空の下に街並みが見える。全く変わらない、いつもの風景だ。
このまま黙っていれば、本当に何もなかったのではないかとすら思われる――
けれど、違う。
変わってしまっているはずなのだ。あの校門から、白の少女が入ってきた瞬間から。
それを思っても、高揚は感じられない――少年らしい冒険心は、湧き上がってこない。
まだ、何もわかっていないからだ。
知識としての情報は、全てではないにしろ真柴から教えてもらった。けれどそのどれに対しても、自分のこととしての実感が伴わない。
魔術? 魔法? ホムンクルス? 世界?
何ひとつとして、現実味がない。
勢い契約などしたものの、それが一体何なのかすらよく呑み込めていないのだ。吉野の中で何かが変わったということも、一切ない。これで帰宅してセネカがいなくなっていれば、何だやっぱり夢だったのかと安堵して、すぐに日常に埋没するに違いない。
小説を読んでいるかのような、映画を観ているかのような。そんな観客の立ち位置から、動けていない。
その程度の認識だから、危機感もない。危機感がないから、セネカも家に置いてくる。
ホムンクルス七式という、人形遣いの誰もが血眼になって求める人形の、その契約者となりながら――未だ吉野・徹平は、人形遣いではないのだ。
ぼんやりと思う。このまま、やっぱり何も起こらないのではないか。黙って静かに暮らしていれば、襲撃も何もなく、これまで通りに太平楽に過ごせるのではないか。そうしていればそのうち、セネカのことも真柴が引き取りに来てくれるだろう――が。
そうは問屋が卸さない。




