もう忘れて……先生も忘れるから
「おはよ~」「天塚先生、おはよ~」「先生、おはようございます」
「おはよう」「はい、おはよう」「おはよう。そこ、走ると危ないわよ」
週明けの月曜日。これから一週間始まるというのに天気は最悪の雨模様で、私の憂鬱な気分に拍車を掛けてくれる。しかし、学校では勿論そんな感情を表に出したりはしない。生徒達の前でそんな顔をしてちゃ、声を掛けにくいものね。
「おはようございます、先生」
下駄箱で内履き用の靴に履き替えていると、聞き覚えのある声に挨拶されて顔を上げた。そこには、屈託のない笑顔を浮かべた久慈君が立ってた。改めて彼の全身を眺めるのだが、やはりというかなんというか、男子用の制服が似合わないルックスだ。魔法少女の姿の方が違和感がないというのは、一種の病気か。それとも、魔法少女が転職なのか。
「あっ、おはよう。久慈君」
少しボーっと眺めてしまっていたらしい。訝しげな表情の久慈君に慌てて挨拶を返す。
「この間の休みはありがとね? 色々と助かっちゃった」
「いえ。もし、他にもなにかあれば聞いてください。ボクで出来る事なら、なんでも力になりますから」
ん? 今なんでも……なんて言葉が頭をよぎるが、純粋な善意を向けてくれる久慈君に対して無茶な要求を押し付けるのは、私の良心が痛む。私だって根は善人なのだ。小心者っていった方が正しいかもしれないけども。
「それと……動画、見ました。その……大変でしたね?」
「あぁ~。あれね。もう忘れて……先生も忘れるから」
今、私の瞳はハイライトを失っているだろう。死んだ魚のような瞳で虚空を見詰めている私に対して、久慈君がごめんなさいっ、と頭を下げて来る。いいの。久慈君はなにも悪くないの。悪いのは20半ばでもう賞味期限切れだとかぬかす、日本のロリコン文化なの。ファッキンジャップ!
「それに、久慈君が教えてくれた自己紹介動画? の投稿。あれのお陰で、先生の名前はなんとか定着しそうだし」
「お役に立てて良かったです」
「まぁ……あれでも色々と書かれたんだけどね」
あの動画を見てから、久慈君にアドバイスを仰ごうと連絡したら、早めに自分で自分の名前を広める為の動画を上げた方がいいとアドバイスをされた。詳しい理由を聞くと、名前を覚えて貰った方が魔力の増幅に影響しやすいとの事だ。
素直な私は、ごー君に他の魔法少女達の自己紹介動画を見せて貰って、それを参考にしてその日の内に動画をアップした。今朝、確認した段階での魔力は22,952。まだ、魔法少女になって3日目だと思えば、順調だと思うし、魔法生物を相手にするよりは安全だし、比較にならないくらいの上昇なのだが、この動画への反応がまた辛辣だった。
『アメジストw』『言いにくい』『ババアでいいだろ』『調子のんなババア』『アメジストたんのタイツprpr』『AVのインタビュー見てーだな』『草』『人妻アメジスト不倫旅行』『誰か比較動画あくしろや』『初体験はいつですか?』『雌の顔してる』『性の悦び知ってそう』『下の口にマグロぶち込むぞっ』『そんな年で魔法少女とか恥ずかしくないの?』『上から78・62・83』『スリーサイズ職人乙』『おつ』『数字がリアルで草』
などと、動画上で私は散々玩具にされて、私は枕を濡らした。この時ばかりはごー君も優しく、ずっと傍にいて頭を撫でてくれた。誰がババアで、誰が人妻よ。適当な事言いやがってっ! あ~……思い出したら帰りたくなってきたなぁ。本当、なんでこんな事になったんだろう?
「その、元気出してください。ボクは先生みたいな頼りになる大人の女性と、魔法少女が出来て嬉しいですし……それに、先生の事、とっても綺麗で、素敵だなって以前から尊敬しています」
久慈君なりに頑張って言葉にしてくれたのだろう。恥ずかし気に頬を染めながら、遠慮がちに見上げてくる彼の笑顔は、控えめに例えても天使だった。もう、この笑顔を眺めてると何か漲ってくるわねっ。私はまだ、舞えるっ!
「ありがとう、久慈君。先生、頑張るね? 頑張って久慈君の魔力を返せるようにするからっ」
「あっ、その。本当に魔力の事は大丈夫ですよ? それに、その……悪いですし」
「悪いって。元々、久慈君の大切な魔力を返さないなんて、先生の方が気が済まないわ」
何故か久慈君はこの魔力の返還という話題になると、歯切れが悪くなるような気がする。視線を反らすし、挙動も不審。なにか隠し事をしているような……あれ? そういえば……
「そういえば、魔力を返すってどうするの? コンソール画面にそういう項目があるのかしら?」
「ええっと。そうじゃなくてですね……それが、その……そういう画面は使わなくてですね。魔力の受け渡しは、1つしか方法がないんですよ」
「そうなんだ。それで? どうするの?」
「そ、その……受け渡ししたい人同士で唇を、重ねる必要が……ですね。あるんです」
「ほうほう、唇を重ねてね。そして次は? ……えっ!? 唇を重ねるってキスするって事っ!?」
「は……はい。そうです」
「ちょっ、ちょっと待ってくれる? つまり、先生が最初に久慈君から貰った魔力もそういう事?」
「そ、そういう事になっちゃいますね」
「そうなんだ。そう……なんだ……」
顔に血が集まって、熱を帯びて赤くなっていくのを感じる。そっか……私、こんな可愛い美少年と、キ……キスしちゃったのか。それで言い難そうにしてたのね? 今も久慈君は、少し気不味そうな顔をしているし。分かるわ。女性の唇を勝手に奪うなんて、余りしたくなったのよね? でも、それは久慈君が私の命を救う為にした事だし。ここは大人の女性として、余裕のある態度で示さなければ。
「あぁ~、あれよね? あれ。そう、き、気にしなくていいからっ。先生も、ぜ、全然気にしてないしっ?」
「大丈夫ですか? 先生。顔、真っ赤ですよ?」
「だ、大丈夫に決まってますっ。これでも、先生は大人なんですから。だから、キ、キスなんかで動揺したりしませんし? それに、今回の件は人命救助の為。つ、つまりマウストゥーマウスみたいなモノであって、ノーカン。ノーカンなのっ! 久慈君が気にするような事じゃないのよ? うんっ」
「ありがとうございます。そう言って頂けると、ボクも助かります」
私の大人らしい態度のお陰で、久慈君は大分落ち着きを取り戻したようだった。ふう……本当、歳を重ねるって大変だわ。
「先生の方こそ、なんかごめんなさいね? 久慈君の大切なファーストキスを奪ってしまうなんて……いえ、最近の若い子は余りそういうの気にしないのかしらね?」
「あっ、それは、大丈夫です。ボク、他の人と済ませていたので」
「あぁ……そうなんだ。ふーん……そっか。まぁ、そうよね。最近の子は、高校生にもなってキスの1つもしてないなんて、有り得ないわよね。あはははっ」
「それは人それぞれだと思いますけど……あ、ボクここまでなんで。魔力の返還の件は本当に大丈夫なんで、他になにかボクに力になれる事があれば、なんでも言ってください。それじゃ」
「あはははっ、またね」
乾いた笑いを零しながら、私は早足で階段を上っていく久慈君の背中を見送る。この時の私は、なんか色々な情報が一気に入り込んで来て様々な想像を掻き立て、頭の中で処理できなくなっていた。だから、ただ一言。油断しきっていて、何の気なしに口から零れ落ちてしまった心の内を誰にも聞かれなかった事は、本当に良かったと思う。
「そうか。ファーストキスだったのは私だけか……」
24歳にもなって、これはないわよねぇ~。




