神に祈るように
「今夜はいっぱいお喋りしたから疲れちゃった」そう言って彼女は笑った。
実際に彼女はよく話した。夕方、喫茶店でダージリンを飲みながら、帰りのバスに揺られながら、ステレオでビートルズを聴きながら、ベッドで僕に腕を絡ませながら、いろいろなことを話した。
先月より体重が2キログラム落ちたこと、勤め帰りに近所の少年に「ヘイ、ネーチャン」と声を掛けられたこと、コールドプレイの新譜が良かったこと、新しい化粧品を安価で手に入れたこと、高校のクラスメイトがニューヨークに旅立ったこと、フラワーロードで宗教勧誘に遭ったこと、隣町に綺麗な図書館が新設されたこと、借りてきた『フォレスト・ガンプ』がとても面白かったこと、通っている美容院の担当が失恋したこと、実家から送られたファーファが好い香りだったこと、駅でTVのコメディアンに似た人を見掛けたこと、コンサートで聴いたストラディバリウスの音色が美しかったこと、免許証の写真写りが気に入らないこと、性格は16種類のタイプに分類されること、宅配ピザがたった10分で来てくれたこと、着たい服があるから早く冬になってほしいこと、コンタクトレンズをワンデーにしてみたこと、今週のラッキーカラーはオフホワイトだったこと、ジムに行ってみたがまるで向いてなかったこと、妹が東京の大学に進学したいと言っていたこと、ラジオをつけっぱなしで寝てしまったこと、大人になってもブラックコーヒーが飲めずにいること、そろそろネイルサロンに行こうと思っていること、宝くじが当たったら車が欲しいこと、食後に炭酸飲料は考えられないこと、小さい頃はよく香りつきの消しゴムを集めていたこと、丘の上で猫と遊ぶ夢を見たこと、人に独り言を聞かれて恥ずかしかったこと、僕が標準語で話すのがおかしいこと、文通をするのに憧れたりしたこと、100歳まで生きていたいこと、今の暮らしに満足していること、僕のことが世界一好きだということ。
やがて彼女は話し疲れて眠ってしまった。彼女の寝顔はまるで天使のようだった。この世の全ての邪悪さを浄めるような、この世の全ての幸福を手繰り寄せるような。そんな寝顔だった。
今まで話していた相手が眠りに就いてしまった途端、僕は1人切りになってしまった。部屋で1人で過ごしている時よりもこの状況は僕を孤独にさせた。仕方がないから僕は冷蔵庫からスカイブルーを取り出した。ラッキーストライクに火をつけた。どちらもあまり美味いとは感じなかった。以前は暇さえあれば飲んでいた僕のフェイバリットなのに。それでもそれらは幾らか僕の気を紛らわせてくれた。彼女は煙草もアルコールもやらない。それは健康的だと思うが、ある意味で不健康なのかもしれない。でも、お互いそれについて意見することはない。人の嗜好のことで議論するのはこの世で最も無駄なことだからだ。
時計を見る。午前零時二十四分。どこかへ出掛けるのには遅過ぎるし、ベッドに入るには早過ぎると思った。何か音楽を掛けたいけれど、彼女を起こしてしまっては申し訳ない。安らかな睡眠を妨害されるのはこの世で最も憎むべきことだからだ。結局、僕はベッドの近くに置かれた小さな椅子に腰掛けて、静かに横たわる彼女を眺めていることにした。彼女の身体は右向きになっていて、閉じられた瞼は僕の方からよく見える。枕を抱き、両脚で蒲団を挟んでいた。ショートパンツから剥き出しになった脚は、豆電球のオレンジ色の光の下でもその白さを誇示している。顔に半分掛かった黒い髪も同様だった。Tシャツの中の身体は、文字通り身体が服を着ているようだった。この美しさの塊は殆んど奇跡に違いなかった。その奇跡を僕は手に入れたのだが、この手は未だそれに馴染んでいない様子だ。消灯直後の黒目の調節に時を要するように。とにかく、彼女は一点の陰りもない美しい女だった。
それでも僕の頭の中では、先程からなんとも言えない思いが膨らんでいた。或いはもっと前から。それは「俺はこの女を本当に愛しているのか」ということだった。その問いに答えられないでいるうちは、このどこか居心地の悪い感情は消えないのだ、と僕は思った。求めるべき答えは「愛している」か「愛していない」かの2つだけだ。中間はない。しかし、どれだけ自問自答を繰り返せば正解に辿り着くのか、僕には分からなかった。そのどちらにも全く理由らしきものが見当たらなかったからだ。もうこれ以上考えても意味がないと思った。午前一時三十七分。そろそろ休んだ方がいいだろう。彼女が僕の名前を呼ぶ声が聞こえたが、どうやら寝言だったらしい。どんな夢を見ているのやら。
彼女のように人を愛することができたらな、と僕は思う。神に祈るように。そうしたらもっと楽に生きられるかもしれない。彼女は気楽に生きられているのだろうか。もし彼女が苦しんだり、辛くなったりするならば、僕はできる限りのことをしてあげたい。それだけは確かな気持ちだ。