アイ、伝染す
一体どこまで逃げれば、この悪夢は終わりを迎えるのだろうか。
崩壊した街から逃れて郊外へと辿り着いたロバートと彼の恋人であるエマ。底知れぬ恐怖と先の見えない未来。それらが重なり合い、彼らの心中に拭いきれない不安を募らせた。
その場所は人の気配が無かった。がらんどうとした住宅の数々に、音が消失したかのような静寂の空間。
嫌な風が肌を撫で回す。ここで立ち止まるのは危険かもしれない。人がいないという状況が不穏な空気を醸し出している。しかしエマは先程から疲れた様子だ。あまり無理をさせては体力が底をついてしまう。
「仕方ない。ここで一旦休もうか。そのうち誰かに出くわすかもしれないし」
「そうね。実のところ、もう走るのが辛かったの。これで少しは、落ち着ける、かな……」
言い終わるな否や、エマがその場に倒れ込んだ。不意の出来事にロバートは驚愕する。
「エマ!」
彼はすぐさま駆け寄って、エマを抱き抱える。彼女の白い肌の上を汗が滑り落ちる。紅潮する頬に乱れる呼吸。服越しでも伝わる体温の上昇。その症状には見覚えがあった。
「まさか……! いや、そんなはずはない。だって、ヤツらとは接触してなかった!」
最悪の予想が思考を超えて肉声と化す。そして、それは確定した事実へと変わる。
先程まで荒々しかった呼吸が急に治まった。それに気づいた時にはすでに遅かった。
「────アアアァ!!」
弾丸の如く飛び出した腕。その爪の切っ先がロバートの頬をかすめた。
「うわっ!?」
ロバートは思わずエマを離し、逃げるように後方へ下がる。頬の傷から一筋の血が垂れ流れる。
一方のエマは、うつ伏せで倒れていた。獣のような唸り声を上げながら。さながら人間であることを忘れたかのように。
「ウウゥ……」
「嘘だよな……。そんな訳無いよな……?」
ロバートの心中を絶望が覆う。それはあまりにも残酷で不条理な現実だった。
どれだけ彼が目前の事柄を否定しようとしても、彼女はもう戻らない。
「ア、アァ……」
白く濁った目、脱力した両手、緩慢な体動、野生的な呻き声。それらは全て、ウィルス型兵器“ヴァンプ”に感染した者の兆候だった。その前触れとして、急激な体温の上昇と呼吸の乱れが生じる。一度感染してしまえば、人の血を求めて人を喰らう怪物になってしまう。魂を殺して人道から突き落とす、脅威の細菌。エマはその犠牲となってしまった。
この現実へと昇華した悪夢を、ロバートは受け入れざるを得なくなった。自分の愛する者はもう元に戻らない。ワクチンといった救済策は存在しないからだ。
となれば、ロバートは決断しなければならない。選択肢は二つ。この場から逃げ出して一人だけ生き延びるか。それとも────
「エマに喰い殺されるか……」
それでも良いかもしれない、とロバートは自棄に近い気持ちを抱く。
エマを置き去りにして逃げることなんてできるはずもない。たった一人で生き延びるぐらいなら、ここでエマの養分となった方がむしろ本望だ。
一歩、また一歩とエマが近づいてくる。ロバートは微動だにしない。彼の手足は震える一方で、涙が地に向かって流れ行く。だが、濡れた瞳の奥には覚悟の意が灯されている。
やがて、ロバートとエマは向かい合う。エマの手がゆっくりと確実にロバートの方へ伸びていく。己の欲求を満たすために。目前の男から血液を奪取するために。
ロバートは生への執着を断ち切ろうと目を閉じる。流れに身を委ね、エマのしなやかで白い指の接近を待つ。
刹那。
彼の脳裏にある言葉がよぎった。
『もしこの町を出られたら、さ。その時は一緒に暮らそうね。楽しいことも悲しいことも二人で乗り越えて、幸せを分かち合うの。約束だよ?』
それは、果たせなくなった二人の約束────
開かれる両目。相対する恋人の姿。それは、我を忘れて血を求める怪物の姿。
「クッ……! ウワァァァ!!」
ロバートはエマの細い腕を払いのけた。そのまま彼女を押し倒し、彼女の体に跨る。拘束を解かれる前に、ロバートは彼女の首を両手で締め上げる。柔らかな肉と筋張った脈の感触が伝わる。彼の凶行に抵抗しようと、エマは目前の腕を引き剥がしにかかる。
「アァ、アアアァァァアアア!!」
「ごめん。ごめん。本当にごめん……!」
それはただの見間違いだろうか。理性を失ったはずの彼女の瞳が、悲しそうに揺らいでいたように見えた────
攻防が続くこと数分。電源が切れたかのように、エマは静かに力尽きた。どんよりと重い空気が辺りを包む。
本当は殺したくなかった。エマのためなら、と心から死を受け入れようと努めていた。
しかし彼の決意を揺るがしたのは、彼女の生前の言葉だった。打開策など全く無い状況において、未来に希望を見出そうとした彼女。その光が途絶え、絶望の淵へと堕ちてしまった。あまりにも悲惨な顛末を前に、ロバートは我慢が利かなくなった。
飽くまで人間としての幸福を求めた彼女に、怪物としての余生を与えるのは酷い話だと思った。彼女の魂を解放するために、先程の凶行に至ったわけだ。
「俺が、この手で奪ったんだ。エマの命……。エマの未来を!」
押し寄せる罪悪感。どれだけ大義名分を掲げようとも、その十字架は一生ロバートを苦しめ続けるだろう。
ロバートは再度、息絶えたエマの顔を見る。苦痛に耐えた恋人の死に顔。目は白く見開かれ、口から唾液が溢れている。彼は手でその目を閉じさせ、唾液を拭き取る。今まで彼女を満足させられるようなことをしてあげられなかった彼の、せめてもの供養だった。
「許してくれなんて言わない。この罪は俺の生涯をかけて償っていくつもりだ。それでも、これだけは言わせてほしい────
愛してたよ、エマ」
そう告げて、ロバートはエマに接吻した。哀れで儚く、悲壮感漂う愛の証明。
なんと味気ないものだろうか。温もりの無い唇に触れたところで、得るものなど無い。そこに生まれたのは、止めどなく零れ落ちる涙だけだった。
静寂に包まれた孤独の地。そこでただ一人、愛の消失を悲しむ化物が静かに泣いていた。




