妖精、アンビリーリバボレ
仄かな蛍光の灯が俺の指針。
ローファーが鉄製の階段を踏みしめる度に音が反響する。一段一段、ガコーンと音を立てて、上がる。大きなビルの非常階段の棟の、物静かな中を行く。薄暗い中を行く。
気持ちはとても晴れやかだ。外が澱みのない青を空いっぱいに張り巡らせているのを知っているから。これから起こる未来のことを、知っているから。
首筋が少し汗ばむ。新調したYシャツの襟に肌が触れる。ビシッと、スーツを着込んで来た。クリーニングしたてのスーツ。もうスーツの皺をどうしても気にしてしまう自分を気にしなくてもいいんだ。
大股で進んで行く。二段飛ばしで上がっていってみる。息が切れる。体のあちこちから汗が出てくる。
三十二階まであるビル。何階まで来た? 数えていない。そんなことは陳腐。
ふと受け持っているクラスの生徒たちのことを思う。クラス全員の顔を思い浮かべてみようか。三十四人。その前にもう着いてしまう。俺はみんなの心に種を蒔く。先生でも、良識のある大人でもなくなる。それぞれがそれぞれのやり方で育てていくしかない。永遠に摘むことのできない、謎。
部屋は普通のままで、そのままの状態で来た。普通の、何かをやり残したような、生活感丸出しの状態。なんならいつもより少し乱雑なくらい。トースターのコンセントもひげ剃りの充電器のコンセントも付けっぱなし。ガスの元栓も開けたまま。
単調になっていた運動の最中、上を見上げる。奥行きがなくなってきた。ああ、てっぺんだ。
膝に手を当て前かがみになって、肩で息をする。これくらいの運動で、情けない。最上階に着いた。腰に両手を当て上体を起こす。
「はぁ、はあぁ・・」
満面の笑みが顔を支配する。どうやっても、自然と笑みになる。抗うことができない。面白くてしょうがない。脇腹が、痛い。久しぶりだ、この、水分を摂ったあとに急激に運動したりすると痛くなるやつ。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
笑顔でいて、それから、そのままで、顔面が引き攣る。固まったまま、唇の両端から息が漏れる。
あとはこの、目の前の、肌色をした重たそうな扉を開けて進めばいいだけ。これで、最終地点に行ける。未完成な人生という人生の完成を、成し遂げられる。
この国では、年間、三万人前後の人間が自殺をしている。その三万人全ての人間に、「理由」があるのだろうか。間違いなく、「理由」というものが、存在しているのだろうか。他の人間にとっては取るに足らない理由で、又は、抱え込んでしまったら誰もが自殺してしまいたくなる理由で、心弱き故、運がなかった故、三万人が三万人とも、それぞれの「理由」ありきで、自殺をしているのだろうか。
少なからず、本当に、ぼんやりと、ただ何となく人間も存在しているはず。暇だなぁ、どうしよう、何だろう、自殺でもしてみっか、と。俺のはどちらかというとこれに近い。直感で、今日、死ぬ。寿命を、決めてしまう。決めた。もう、俺、死ぬだろう、と。さあ行こう。理由がないのが俺の「理由」。
大きく深呼吸をする。今しがたのぼってきた階段を見下ろす。永遠に続くかのような角張った螺旋の連なり。「もう一度のぼって来て、それから」、などと神に言われたならば、俺はのぼらないだろう。きっちり、引き返す。また教壇に立ち、毎日をやり過ごし、生き続ける。
俺は今この瞬間も別に死にたくなんかはない。決して、ない。嫌だ。人生最高。大学を出て、教師になれた。生徒たちのことが可愛くて仕方ない。それなりに慕われてもいる。他の先生方とも、それなりにやれている。酒を飲んでふざけ合える友もいる。約二年間付き合っている彼女もいる。結婚してもいいと思っている。特に、体で、悪いところもない。健康そのもの。家族とも仲が良い。ほんのある時期、父と母の仲が険悪だったこともあったが、今はそれもない。家族三人、とても仲が良い。幼い頃から、思春期、大人になった今でも、自殺しなければならないような理由など全くもって皆無。
だが、だからこそ、今なんだ。今がまさに、死に相応しい時。俺の死。そう、理由が何だとか生からの逃亡だとかそういうことじゃない。俺は、このタイミングで、死んでみなければならないんだ。譲り得ない道筋。なみなみと注がれてあるシアワセの露を、溢れ零さずに、このまま、命のコップごと放り投げる。
わけのわからない身震いが全身を襲う。そして、勿体ぶってみる。扉の銀色の取っ手をそーっと掴み、目を閉じる。
ようやくだ。この時を迎えるために生きてきた気がする。自分の意思で自分の人生を締め括れてしまう最高に贅沢な瞬間。ずっと、直感で、知らない振り、気付いていない振りをして、心の淵に思い描いてきた。どんな表情で飛び降りてやろう。あたかも世界に絶望し切ったような面持ちで? ふふっ。主演男優賞もんだ。誰の視線も俺の姿を捉えてはいないだろうに。
これ以上進みたくないと思いながら扉を開ける。
この空間が地続きで外界に侵食し、辺りを取り囲んで形成しているのを知っていながら。全く別の同じ景観が現れるのを、知っていながら。
雲がない。細切れのものすら、ない。綺麗な青。和やかな空。
ビルの屋上。床がコンクリート造りの、広い敷地。ここが、最後の地。俺の最後の地。
歩を進める。非常口から出て左側の方に進む。自然と足がそっちに向かう。選ぶ。フェンスの前まで来る。手で、フェンスに触れる。思いのほかスベスベしている。高さ三メートルほどのフェンス。上部が内側に折れ曲がって斜めになってあるフェンス。ちょっと越えにくくしてあるフェンス。これを越えてから、別世界までは、また、三メートルほどの距離がある。もうすぐ俺を抱く、別世界までの、距離。両の足が床を離れ、空に踏み出した途端、全てが変わる。到達。永遠の未完。
辺りを見渡す。誰もいない。独り。
死にたい何らかの理由があるのに、その理由が明確にわからないまま自殺する人。理由がないのに、ないとはっきり断定できねまま、何だかあるような気がして自殺する人。死にたい理由があり、まさにその理由のため、はっきりと自覚して自殺する人。理由がないのに、寧ろ本当はこのまま元気に生き続けていたいのに、あるようなもっともらしい振りをして、し続けて、自らが暗示にかかり、絶望の感情が憑依してしまって、ある種周りの人たちを納得させた上で、"ああ、やっぱりしちゃったか"、と思わせて、自殺する人。
昔ある登山家が、あなたは何故危険を冒してまで山登りに挑戦するんですかと問われ、「そこに山があるから」と答えたという。全く同じ気分、観念だ。そこにセキュリティの緩いビルがあったから。そこに悠に乗り越えられるフェンスがあったから。今、ただ、目の前に死があったから。それだけ。
風が優しく体の方々を撫でていく。
この風にしばらく当たり、汗が引いてから飛び降りるのも悪くない。万一その間に警備員などが駆け付けようもんなら、反射的に飛び降りるが。ああ、それにしても、適温適所、かつ、適材適所。全身が、なんか、風になれそう。
フェンスの網目にしっかりと指をかける。つま先をかける。足幅が広く、網目が窮屈だ。登っていく。が、斜めになっている箇所に差しかかり、たじろぐ。もたつく。どうする? 登りにくい。が、そのまま行く。強行。斜めの所は自分の体重の負荷で腕が辛い。右手を伸ばしてフェンスのてっぺんにかける。すぐに左手もかけ、ぶら下がり、懸垂して、上体を全部フェンスの上に乗せる。キツい。足を上げて、フェンスのてっぺんを跨ぐ。体全体、登り切る。バランスを取りながら腰をかけ、一旦、落ち着く。フェンスの頭頂部にて、小休止。
「はぁ、はぁ、はぁ、は、ハハハッ」
死ぬのにもやはり苦労は付きもの。ははっ。最後の運動。慎重に、今度は下に降りて行く。途中でジャンプして、コンクリートの床に着地。ドンッと、鈍い音が鳴る。いよいよ到達。最後の、歓喜の場所。次の着地はもっと下。世界を変える着地。
何もなくなった。目の前に、今、遮るものが何もない。
久しぶりに、美しいと思う感情。犇めく建造物たち。初めて見る眺め。初めて見るものに、久しぶりに美しいと思う。
床の際まで寄り、眼下を覗く。途端、吸い込まれそうな感覚。退く。純粋に、怖いという感情。ハハハハハッ。これからダイブするというのに、陳腐だ。地上百メートル以上の位置。手を伸ばして掴めるものは、虚。
実を虚に棄て去らざるを得ない人間ばかりの中に、なるべく他人には迷惑をかけず、完全に、貫徹に、虚に実を見出だす人間がいたとしてもいいではないか。俺は、一体、どっちの人間なのか。どっちを、これから、やろうとしているのか。選択肢は、裏と表しかないのか。俺には勿体ないこの素晴らしい環境、と人生。死。
目を閉じて、深呼吸をする。ゆっくりと目を開き、再度にじり寄り、眼下を覗く。鞭の撓りのような、大きな膝の震え。
これから、死んだら、ひょっとしたら、死しても止まぬ目眩に襲われ続けることになるのかもしれない。さっき下界を覗いてから、平衡感覚が定まらないでいる様。ああぁ、素晴らしい。
割と余裕をもって、今度は、まじまじと下界を見つめる。落ち着いて、しっかりと安定して、思考ができるようになってきた。
うーん、どのくらいまでもがきながら落ちて、何メートルあたりのところで気を失うんだろう。いや、落下の最中に気を失うなんて、自殺を考えている人間の都合の良い迷信か。地上に激突するまで普通に意識はあり続け、もうどうしようもなく吸い寄せられてしまったのち、肉体が弾け散る感覚までを、しっかりと全部味わうことになるのだろう。落ちている途中で、きっと、多分、意識なんて失わない。落下というベクトルを纏った、風と俺との、百メートル競走。
死を得るために必要な経験、儀式。新世界、構築の痛み。
視線を上げ正面の空を向く。視界がまっさらな青を捉えたと思った瞬間、後ろから、何かが肩へ当たる。二度。
「うわぁああっ!」
叫んで、咄嗟に尻餅をつく。左側にへたり込む。腰砕け。右方向からの接触。全身を強烈なすくみが襲う。体の隅々まで一斉に立つ鳥肌。一瞬、もう、落ちてしまったかのような感覚。恐怖。
何だ!
わけもわからず、床にへたり込んだまま後ずさりし、何故だか今、この体が水分を欲していることに気付く。気付かされる。水が飲みたいという、欲望。
目の前に一人の男が立っている。緩い、砕けた表情をして。古くからの友人を、軽く背後からタッチして、驚かしてやったくらいの柔らかな雰囲気を纏って立っている。笑顔で立っている。
何こいつ、何だ?
「誰あんたぁ」
「妖精です」
男は間髪入れずにそう答える。答えて、歯を見せて、ニンマリしている。
男の風体は、一見、どこにでもいるような中年の男性。髪は七三分け。メガネをかけている。背が、低い。百五十センチちょっと、ぐらい。目尻に、薄く細かい皺がいくつかできている。その目尻の皺の一つから繋がって下に、少し長い皺の線もできている。真っ白なパーカーを着て、ベージュのチノパンを穿いている。全体を見て一言で言い表すならば、低身長の七三にメガネ、で、学校のクラスに一人くらいはいそうな、マジメ君キャラの男性といったところか。でも、背は低いが、体はガッチリしている。単に太っているのとは違う、なにか、運動部の経験があるような、筋肉質な感じ。あとは、なんか、歯が汚い。何だか変な濃い緑色のような、見たこともない染みのようなものが前歯の数本に不規則に沈着している。少量の色付きの水霧が降りかかって、歯に染みが付いてしまったかのような感じ。それは、見ていて、ちょっと不気味。あとは、頬骨あたりの肌に、ポツポツと赤ニキビができている。そんな感じ、なだけ。パッと見、多分これといって、そこまで変な感じもしない、普通の男。
「え何言ってんの・・、何をやってるんですか」
「何を、やっているんだろうねえ」
俺から視線を外し、遠くの方を見て、男は答える。笑顔が消えている。
地上の喧騒の微かな音が、風に吹かれて浮かんで届く。車の、クラクションのような音。いやきっと、車のクラクション。
男の姿を凝視したまま、ゆっくりと立ち上がる。
「朝目覚めたら今、ここでして。で、軽くさまよってて。いや、というより目覚めたと同時に多分こっちの世界に送られて来た状況でして。で、今はやっぱり、ふふっ、さまよってて」
そう言いながら軽く微笑み、辺りをキョロキョロし出す男。
深呼吸をする。動悸が激しい。ちくしょう。
「さまよってて?」
「うーん、何だかいつもよりうまく飛べなさそうだし、あ、やべっ、ここひょっとしたら人間界だって思って。何で送り込まれたかも、まだ、体も意識もこっちの世界に馴染んでなくて。もうちょっとで色々と思い出してくるとは思うんだけど。うん、そう、思ってて」
「思ってて?」
とりあえず何もかも言い切らせる方向にもっていってみよう。よくわかんないけど、理解はそれからだ。まだまだボロボロわけのわからない情報を口に出してくるかもしれないし。
「こりゃまいったなーって。昨夜ちょっと、弾け過ぎたかなーって」
横目で俺の方を見て、口を閉ざす男。
見つめ合う。沈黙。
終わりかよ! やっべぇ、ズッコケして、前のめりになった。さすがにお笑いズッコケの勢いで、間違えて踏み外して下に落ちたら、それはマジで洒落になんねえ。
「あの、いいんでそういうの」
「んぇぁ・・、そういうの?」
「うまく飛べないとか、人間界がどうとか。自殺止めるために変な話題振って、気を、紛らわせようとしてるんですよね」
「じ、ジサツぅ? えっ、ジサツって・・」
すっとんきょうな顔をする男。
風が、強く吹きつけてくる。
いざとなったらぶん殴ってこの男も一緒に突き落とそう。面倒だ。どうせ死ぬんだ。自殺と殺人を同時にしたって構わない。大差ない。大差ないというか、何も変わらない。
「俺です、俺がです。この状況見たまんまです。俺ね、今から死ぬんですよ。邪魔しないでどっか行っててもらえます?」
「ああっ! 死ぬ、自殺! 自分で自分を殺すってことか。すいませんわからなかった。いや妖精界には死ぬっていう概念自体がないんで、何のこと言ってんのかなーって。わかりましたわかりました。えっ! あなた、死んじゃうんですかぁ?」
「・・もう、決めてるんですよ。止めないで、ここからいなくなってもらえます? 最後、静かにしていてほしいんですよ」
「はぁー・・、いやっ、でも、妖精ですよ」
「聞きましたよ、はい。聞こえてますよ。だから何なんですか? 妖精だからって何? っていうか妖精じゃねーし。普通の・・、ただのオッサンじゃねーか」
「ふつう? 何が、どうやってれば、普通ですか? まあいいやぁ。ちょっと、ゆっくり話でもしましょうよ。どうやらお互い重要な場面でこうして出会ったみたいだし」
男からはふざけた感じがしない。何故かまともに見える。裏を突くならば、逆に、全てがふざけているとも取れるだろうか。全てが、わざとらしい?
「ゆっくりなんかしねーよ! どこの誰だか知らない人と話なんかしない。早くどっかに消えてくれ! 何だ? あんたは何しにこんな所に来たの?」
思わず声を荒げてしまう。
感情的になってしまっている。最後の、最後なんだ。落ち着いた気分で死に溶け込むんだ。落ち着いた気分で、だったのに。くそっ。
怒声に、男が、たじろいだようにしている。視線を、脇の下方に落として。
何だ? 何かをもどかしいと感じている? 動揺している? 動揺してもどかしいのは、こっちだよ! 何をしてくれてんだこいつ。さっきから一体何を言っているんだこいつ。一体誰なんだ、こいつ。挽回してやる。台無しになった気分、まだ何とか立て直せるはず。
ーー
あれぇ、怒っちゃったぁ。妖精が目の前に出て来てやってんのに、なんて人間だ。
今まで妖精として育てられてきて、妖精父にも妖精母にも、「あんたは本当に良い、妖精らしい、素敵な妖精ねえ」って言われてきたのに、何で妖精であることを全否定されなきゃならないんだ。ただ、妖精としての生を迎え、魂を受け継いで、過ごしてきているだけなのに。妖精であることは、罪なのか? 以前人間の前に現れた時は、こんな感じじゃなかった。たくさん喜んでくれて、楽しく妖精妖精できたのに。時間が経つのも忘れて、妖精妖精に没頭したなぁ。ああ、あの時は楽しかった。しかしまあ今度は、何でかなぁ。妖精を目の前にして死ぬとか言っちゃって。不思議だねえ、殺生だねえ。
ああ、まだ完全には、全然、妖精界の意識をこっちに持ってこれていない。何のために、これからどうするんだっけ。この人間のことをどうにかしなきゃならないんだろうな。何だったっけ? よし、まあ適当に、いっちょやってみっか。
ーー
「お兄ぃさぁーん、もっとぉーん、妖精妖精しましょーんっ」
「はあ? ・・何、なんて?」
え・・、口開いたかと思ったら、ヨーセイヨーセイ? 何それ? 怖い怖い怖い怖い。急にオカマキャラだし。ひょっとしてこいつ俺の自殺を止めに来たとかじゃなくて、ただ単に危ない奴なんじゃねーのか。
「いやすみません、順番を間違えました。こっちの、話です。あれひょっとしてまさか、お兄さん、ひょっとするとひょっとすると、妖精に会うの初めてですか?」
まだ言ってやがる。マジで危ねーわ。
「別にあなたがいなくなってくれなくても、いつでも飛び降りますよ」
「やっぱ初めてかぁー。そうかぁー! だよなぁー、そんな気がしたんだよなぁー。初めてだったら、こうなっちゃうよなぁー」
聞いちゃいねー。噛み合ってない。お互い言ってることを無視し合ってるし。ははっ。相手にしていられない。もう、死のう。
男から視線を外し、ビルの際へと歩み出す。ぐんぐん近づく、九十度の頂点、崖。
「落ちたって死ねませんよ!」
男が、後ろから、大声を上げる。
やはり、やはり・・。
全ては、詭弁。このメガネ君は俺の自殺を食い止めようとしているだけなんだ。それだけで、こんな、わけのわからないことを言ったり、演出したりして、ここ・・、んん? 待て・・、待てよ、待て待て待て待て待て待て待て待て!
振り返り、七三分けメガネ君を見る。
こいつ、いつからここにいた? 何の気配もなく背後から肩を叩かれて、見たら、いたけど、俺が地上を覗いていた時、何の音も聞こえてはこなかった。フェンスをよじ登ってくる音、床にドンッと着地する音、絶対に、絶対に、聞こえてくるはず。勘付くはず。何故、ノーノイズ? ノー気配? 周りには物陰も何もない。こことは反対側の方に、ボイラー設備かなんかよくわからないけど、ちょっとした置き箱部屋みたいなのがポツンとあるだけ。こっち側には、死角を作れるような物体は、何もない。ましてフェンスの外側のライン、空間には、遮っているものが何もない。どこかに身を隠して潜んでいるということは、あっ、フェンスから出た状態で、あっちの部屋の陰に隠れていて、ぐるっとこっちまで歩いて回って来たのか? 一体、何のために? こいつ、どっから、どこにいたんだ?
「落ちたって死ねませんよ」
「聞いたよ。どう考えても死ぬだろこの高さ。あんた、つーか、死ぬっていう概念がないって言ってたのに、頻繁に駆使するね言葉」
「え、ヒ・・、ヒン? くぅしぃ? クゥ、シィー? ・・よ、妖精です!」
「だから聞いたってそれもぉ! 何回おんなじこと言うんだ」
俺が見落としていたんだ。こいつの、人の、気配を。そうとしか考えられない。あっちの物陰から、ぐるっと回ってこっちまで来たんだ。いきなり空間の狭間からニュッと姿を現した? ここよりもさらに上空から飛んで来て現れた? ふんっ、バカげている。頭のおかしなオッサンが、危険な場所でうろついていて、寝そべったり、白昼夢を見たりしてたんだ。そして、今現在も白昼夢を見ているんだ。そうに決まってる。
男が、俺を、じーっと見ている。遠くの方を眺めるように、目を細めて、見ている。何? メガネの度、合ってないのか?
「マジでこんな所で・・、何? あんた、何をしている人なの?」
「うーん、はははっ。もっと、まぁ、楽しみましょうよ。楽しんでいきましょうよ」
「さっきから投げかけている質問が意味を成してないですねぇ。質問を無視するのはとりあえず止めましょうか。本当にいつ見投げしてもいいと思ってるんで、俺は」
沈黙。
なんか言えよ。何沈黙だよ、こいつ。よし、こっちからいく。
「お名前は?」
「説明不足でした。妖精に、妖精界に、名前という概念はないんです」
「それも止めましょうか。概念がないって言っている時点で、概念ありますから。名前という、ってな段階で、その概要を理解してから否定をしている、すなわち概念があるっていう証拠に他なりませんから。はいっ、ほらっ、名前を言ってくださいお兄さん!」
「失礼しました。正確には、私は、概念を得るという状態になっていなかった、過去にも、当てはまるということがなかった、とでも言いましょうか。すいません、うまく説明できずに。いかんせん、中卒の妖精なんで、私・・」
「・・立派に、理解されてるじゃないですか。お名前を、お願いします」
「意味はなんとなく聞いていたんで。人間界には、名前ってあるんだぞぉって。兄が教えてくれて。高卒の妖精なんで、兄は」
「・・・・お兄様は、お名前、何ておっしゃるんですか?」
「兄は、兄も、名前はないです。ギリ、ないです」
「じゃあお呼びになる時は何て呼んでるんですか?」
「妖精にぃ・・、って」
「ぶっ!」
思わず、吹き出してしまう。俺としたことが。大事に死に面そうとしているのに、何だこれ。こんな、予想外の展開。人生の最後に、一体何なんだ。神の意図がわからない。こんな不審なオッサンを目の前に顕現させる、神の意図が。こいつは、決して、妖精ではない。妖精など、この宇宙に存在しない。
「ようやく笑顔が見れた」
そう言って男は、また、ニンマリと笑う。
この発言の意味もわからない。わからないことに、ぞっとしてくる。
男のメガネが降り注ぐ淡い陽光を反射している。反射して、光って、俺の位置からだと、ちょうど今、男の目元がはっきりと見えない。近くで相対しているのに。これもこれで、ぞっとする。何故だかわからない、意味深に絶望の陰を含んだような、畏れ。そして同時に、どっかからやってきている、変な、微かな、心の弾み。
風が、様々な強さで通り過ぎている。穏やかだったり、急に吹き荒れたり。吹き荒れる時は、どの方向に流れていっているのかよくわからない。上下四方斜めに、行き場を失っている様。
少し、乗っかっていってやろうかなと、思う。今更だけど逆に俺も振り切れて、畏れの色なんて見せないで、あなたがここにいることくらい、最初から余裕で予見できてましたけど、何か? 的な態度で、いってみようかな、と何となく思う。
「じゃあ今ここで名前を決めましょうよ。ちょっと、話しよう。だから呼び名を決めよっ。どういうのが良い? 人生初の命名。あっ、人生って・・、"人"じゃあないのか」
「あっはっはっはっはっ! 別に、無理して合わせなくてもいいんですよ。はっはっ。初妖精なんで、そりゃあ誰でも戸惑います。構えず、楽にしてください」
「こんな、五、六歩あるいたら転落してしまうような所で楽になんてできないでしょ。さあ、名前、どんなのがいいです?」
「でも確かに、元々、変にややこしい話なんですよね。ただ、妖精が妖精であることを信じてもらうって。一見単純そうな話なんですけど。私なんかも、ようやく最近ですもん。違和感なく、あっ、私って妖精なんだなって思えるようになったの。自分で自分のことをそう思えるようになるのも、こんなに長く時間がかかるものなんですねえ」
「こんなに長くの、"こんなに"も、俺にはどれくらいの期間だかさっぱりですけどねえ。あなたも勿論ご存じの、みたいに言われても。さぁさぁさぁ、名前何にします?」
次答えなかったら、こいつ掴んで、一緒にダイブだ。
「うーん、そうですよねぇ・・。じゃあ私がここに現れた意味を遠回しに知ってもらうためにも、"番人"、ってのはどうでしょう?」
「何それ? 名前が、バンニン? 関所の番人とかの、番人ってこと?」
「そそっ、そうです! 番人・・、かっこよ、」
「あ妖精でいいや妖精でいいや! やっぱ妖精妖精。こんなに妖精っていう概念に取り憑かれてるんだもん、妖精がいい。妖精って、呼ぶね」
「ああー、やっぱ、良いですねぇ」
この七三メガネチビをケッチョンケッチョンに論破してスッキリしてから、そのあとで、飛び降りよう。別にやりたくなんてないけど、仕方ない。俺の人生最後の仕事だ。論破なんてする必要もなく男がボロを出しまくっているという説もあるけど、ここまで気分を台無しにされて、じゃあ、気が済まない。やってやる。
「妖精さん」
「はいっ?」
「妖精界から突然今日やって来たんですよね、気が付いたら」
「はぁい」
「何で日本語喋ってるんですか? 妖精が、この世界の、地球の、日本語?」
「いくつかの理由がありますが」
「全部並べてください。全ての理由を、きっちりと全部、おっしゃってください」
「まず、この人間界、地球と、妖精界は、表裏一体の関係にあります。表裏一体と言っても、今の、この地球の科学で行こうとすると、とてつもなく遠い。時間がかかります。時間がかかるというか、現実的に行くことはできない。私が今日この世界にポッと出された時に、まず、傍にすぐあなたの存在を感知して、あぁ、なんかここは、日本っぽいなぁと思って、その勘はまず、普通に当たります。勘が当たるというよりも、何て言うのかなぁ、正確に言い表すならば、私は妖精ですから、それくらいのことは自然とわかって、わかった上での流れで、現せられると言いましょうか。大方、きっと、そんな感じです。難なくあなたと会話できているでしょう? ねえ。ちなみに名前ももうわかっている、降りてきた状態ですよ。あなたの名前は、秋葉瞬さんです。私だっていくら中卒と言えど妖精の端くれ。これぐらいなら、何でも知り得ます。てへっ」
「は・・、どういうこと? つまりポッと出されたとこがアメリカだったら、自然と英語を喋ったりもしていると、そういうこと?」
「そうです! さすが、そうです! まさにそういうことだったりするんです。知識としてあって訳されてというより、まあ、それもあるっちゃあるんですけど、大方、自然と体にプログラミングされた状態で、使命と共に現れます。妖精にとっちゃ表裏一体の世界を行き来する時の通過儀礼、全自動式の、パスポート認証みたいなものです」
「・・うーん、なんか、最後のパスポート認証のくだりは例えとしてちょっと違う気がするけど・・。あれっ、いや・・、じゃあ今は基本日本語しか喋れないの?」
「中学レベルの英語なら、いけます。ちなみに妖精界で最もポピュラーな言語は日本語です。現代の地球じゃあ英語が地球語みたいになってますけど、妖精界じゃあ、日本語が妖精語です」
「ん何言ってるかわからない。こんがらがってきた。なんか矛盾してない? 妖精界からこっちに来る時にプログラミングされてこっちの世界の言葉が使えるようになるんだろ? それなのに、元々妖精界では日本語を使っている? どゆこと? おんなじ、ではないんだろう? オリジナルな妖精語っていう言語はないの?」
「えっ? えっえっえっ? 私も、えっ、わかんない・・。妖精語? 妖精語はー・・、えっ?」
「ははんっ! 妖精が妖精語の認識を、妖精界自体の意志疎通言語を捉えられていないんだったら、もう話になんないよ。何なの、どうなってんの言語?」
「えっ、ああっ! や、やばいっ! 急になんか震えが・・。震えが、止まらない!」
腕を胸の前でクロスさせ、自身の両肩を掴んで縮こまり、ガタガタし出す男。
「はっはっはっは! 今度は何? 震えが止まらない? 止まらないから震えなんだよ。表裏一体の関係にあるから言語の種類は全部同じだってこと? どうなの? ハッキリできるとこ、ハッキリしてよ」
「ええっ、わかんない。質問が、まだ・・、え、ごめんわかんない。何がわからないのかが、わからない。知りたくもない。えええっ、わかんない怖い」
「あっはっはっはっはっはっはっ! わかんないのと知りたくないっていうのには、だいぶ隔たりがあると思うけど。つまりあんた、妖精なんかじゃないんだよ。ただの人だぁ、ヒ・ト」
「そ、そうなのか? 妖精、妖精じゃないのかなぁ私。いやだって、てっきり・・。自覚、や、自負はあるんだけれども」
依然、震え続ける男。
あららららららら? あっさり揺らぎ始めやがった。こんな、自分で自分のこと半信半疑でいられる状態も、質問している側、見ている側としては、かなり怖いんだけどね。はっはっはっは。言っていること、おかしなことばかり。矛盾しっぱなし。でも、しかし・・。
真剣に困惑している男。
本気は本気で言ってんだよなーこの人。無駄に、真実味のある気迫。いい大人がこんなにバカげたことを真面目に喋っている時点で、本来、病院か警察署行きなんだけどなー。あろうことか目の前に、屋上に居ちゃってるんだよねー。
「夢でも見たんすよ、私は妖精だぁって、夢。まだ今からでもメジャーリーガーやロックスターにだったらなれる可能性はゼロじゃないかもだけど、妖精は、キツい。だって、現実にないもの、実体のないものなんだもん。ないものになろうなんてもう本人の努力次第で、とかっていう話じゃないじゃん。妖精って、妖精って、あんた・・」
「見たことがないものを妖精じゃないって判断することはできない。否定することは・・、できない!」
まだ言い返してくるか。
今や男は虚空に視線を漂わせ、ひとり言のように言葉を紡いでいる。
「ああ、なんかさっきもそんなこと言ってたね。でも同時に、それと全く同じ理由で、あんたが妖精だって断定することもできないんだよ。見たことがないんだもん、妖精なんて誰も。誰も見たことがないから、仮にあんたが本当に妖精だとしても、信じられない」
突然、頭を抱えて床に膝をつき、うずくまる男。
速くて大胆な動き、狭い場所だといちいち怖えーよ。何に苦しんでんだこいつ。嫌だけど、何とかして嫌だけど、マジで一緒にあの世に連れて行った方が人類のためかもしれない。
ちょっとして、何事もなかったように、すっくと立ち上がる男。うずくまった時に勢い余って頭に被さったパーカーのフードが、そのままになっている。
「どうすれば妖精だって信じてもらえますか?」
「その発言も俺にとったら疑問」
「どういう、ことですか?」
男の顔からはうずくまる前までの迷いの色がきれいに消えている。今は、不思議なくらい落ち着いている。震えの症状も、ない。
迷ったままでいろよ。
「あんたは間違いなく妖精なんだろ? 自分ではそう思ってるんだろ?」
「そう。これまでを必死で思い返して、意識が尚しっかりとリンクしてきました。導き出て来ました。私は、間違いなく妖精で、」
「だったらそれでいいじゃん! 自分さえわかってれば、それでいいじゃん。何で今から飛び降りようとしている人間にわざわざ信じ込ませなきゃならないわけ? あんたが俺を納得させたい理由って何よ?」
「飛び降りたって死ねませんよ」
「だから死ぬって! 間違いなく死ぬよ。万が一死ねなかったとしても、後日また改めて、どんな手段を用いても、きっと俺は死ぬ。もう決めたんだ」
「信じられないかもしれませんが、バカバカしいと感じるだけかも、ですが、飛び降りようとしても私と一緒に大空を舞って羽ばたくだけですよ。絶対に、死ねません。それこそが私がこの場所に姿を現した理由です」
「ふ・・、利害関係が一致したね」
余裕の笑みを浮かべてみせる。
男が、いい加減邪魔くさそうに、フードを頭から外す。
「どういう、ことです?」
「あんたは俺に妖精だと信じ込ませたい。この状況で俺を助けるために一緒に飛び降りて、もし二人、二人じゃないや、一人と一妖精が空を飛べて助かってしまうなら、俺はあんたを本物の妖精だと信じるよ。もう信じる。信じてあげるしかなくなる。だって、生身の人間には到底できない芸当だ。何者か、妖精だと嘯かれても、納得せざるを得ない。信じましょう。一方俺は、純粋に、頑ななまでに、今すぐ自分の人生を終わらせようと思っている。早くそうしたいのにあんたが現れた。面倒くさい。イラつく。そして俺はあんたの言っていることを現状信じていない。特に、これに関したら、ダイブしたら助かるわけがないと思っている。二人とも、いや間違えた、一人と、一妖精は、共に絶命すると思っている。信じて疑っていない。ね、一石二鳥じゃん。共に、死ぬか、助かるかしよう。一緒にダイブなんて嫌だと思ってたけど、それが一番てっとり早い。あんたが妖精じゃなかったら、俺は死ねる。あんたがもし本物の妖精なら、どうにか飛んでかして助かって、そして、俺はあんたを信じる。生きる。生きて、ようやくその時あんたを信じられる。さあ、どっちの思惑が現実のものとなるか白黒はっきりしよう。わかり易い。まさに、オールオアナッシング。ジャスタオーロァナッスェウェング(JUST・A・ALL・OR・NOTHING)!」
「とりあえず別の方法を考えましょう」
「はっはっはっはっはっ! やっぱ逃げやがった」
「いや、言っていることがよくわかんない。英語のとこしかわかんなかった」
「ははっ! 日本語が妖精語じゃねーのかよ。それに、理解してないのに別の方法を考えるって何だよ。おかしくない?」
「それは、理解ができていないからこそです」
「はっはっはっは。あんた、妖精でも何でもねーよ。ああ言えば、こう言う星人だよ」
「ジャスタオーロァナッスェウェング!」
「びっくりしたぁ・・、大声出すな。はは、何で真似した?」
「いやなんか、自分も音程、抑揚つけて・・、言ってみたくなったんです」
「あっはっはっはっはっはっはっはっ!」
何だか死ぬ前に疲れてきた。喉がカラカラ。陽も相変わらず明るい。いま何時だ? もうすぐ西日、いや、まだそんな時間じゃないか。まあ、ちょっと一息入れよう。
「おれ下に行ってジュース買ってくるよ」
「えっ? 死ぬの・・、飛び降りるのやめるんですか?」
「んなわけねーだろ。喉渇いたからジュース飲みたいだけ」
「絶対、また、この場所に戻って来てくれます?」
男は不安気にそう言う。
また、強い風が吹く。
心地良い。さっきかいた汗はとっくに引いている。そして、今、とにかく潤いたい。このままじゃあ死ねない。
「戻って来るよ、自殺するんだから。つーかあんたはどの立ち位置で戻って来てくれますなんて言ってんの? 俺のこと助けるんならこのまま戻らないことを祈るんじゃないの、普通」
「私は、この間に、ここに現れた意味をもっと深く、自分が妖精として存在している意味をもっともっと思い出し、考えておこうと思います」
「ん何言ってるかよくわかんないけど。あんた、何飲む?」
「ノム? ノォ、ノノ、ノムって・・」
「またこのパターン・・。ジュースぐらい、飲むぐらい絶対知ってんだろ! 奢るから」
「ああっ、多分・・、すいません。妖精には液体を栄養分として体内に取り入れるという概念がないもんでして」
「はんっ! 何が"概念"がだ。自分で詳しく説明しちゃってんじゃねーか。習慣がないとかの間違い、言葉違いじゃない? お茶でいいだろ行って来るよ」
フェンスをよじ登る。外側から戻る時はスムーズ。難なく、ドンッと着地する。しかし、まさかここを引き返すことになるなんて夢にも思わなかった。
非常階段の扉の前で立ち止まる。振り返る。男は、今は、フェンスの向こう側に一人でいる。こっちを見ていない。空を眺めている。
大丈夫かあいつ・・。まさにあいつこそ俺が戻って来た時にはここからいなくなっていてほしいんだけどな。いるよな、あいつ。きっと、いるよな。ひょっとしてあいつもただ単に自殺しに来ただけの奴で、俺がいて何となく邪魔だったから、一人になったら死のうとしてる奴、なんてことはないよな。あ、こっち見た。
また、男のメガネが反射して光っている。目元の感じが知りたいのに、見えない。頭の位置をずらして光の反射を外し、男の目を、顔の感じを、見る。
何の感情も表れていない。無だ。無表情で、こっちを見ている。見つめられている。マジで怖いんだけど。わからない。真顔で見つめられても、意味不明。微笑まれてもなんか怖いけど、この展開と状況での真顔はマックスで怖い。何故だか、とにかく怖い。近くにいると何でもない普通のオッサンなんだけど、離れて見るとなんか怖い。まあいいや、ここから見るそのツラ、飽きた。ジュース買ってこよう。なんなら早くそこから飛び降りろよ、妖精。ああしかし、階段の上り下りだりぃな。
扉を開け中に入る。多分、しっかりと、見つめられたまま。
扉を開け、外に出る。
相変わらず見晴らし良いなぁ。階段の往復で余計に疲れた。早く、死のう。
敷地の中心らへんまで歩き、立ち止まる。さっきまで自分がいた方を見る。誰もいない。妖精を名乗る男が、忽然と消えている。
そんな気もうっすらとはしてたんだけどな。どうすんだよこの、「良ーいお茶」。余っちまうじゃねえか。何なんだあのメガネ。清々するけど。そうだ、消えろ消えろ。お前みたいな不審人物と死ぬ間際に絡んだって、ロクなことねーんだ。何なんだよ、いきなり現れて、いきなり消えて。でも、この、展開は・・。
さっきまでいた方の反対側のフェンスぎりぎりの所まで歩き、フェンスに体を押し付けて、ボイラー室か何かの裏のスペースを確認する。隅々、目視する。
いない。誰もいない。辺りを、上下四方斜め、隈なく見渡す。いない。この屋上には俺ひとり。確かに、確かだ。
鳥肌が立つ。飲み物をスーツの上着ポケットに仕舞う。今度はまた反対側の、さっきまでいた方のフェンスの前まで歩く。掴んで、よじ登る。力を込めて、息を上げながら、フェンスの頂上まで登り切る。上から見渡す。誰もいない。気配もない。気配はないが、何かを感じて仕方がない感じが絶えずする。消えずに、消せずに、そう感じる。風が吹いている。
フェンスの外側に着地する。ドンッ、と。そして意味もなく降り立った場所で地団駄を踏む。すっと、前を向く。空中まで数メートル。再び同じ場所。俺の、最後の場所。わけあって見慣れてしまいそうな眺め。しかし、しかし・・。
人が二回もどうにかなっちまおうと、自殺しようとフェンスを越えてんのに、誰も気付かないもんかね。
ビルの縁までゆっくり歩み寄る。地上を覗く。行き交っている車が、丁度、俺の手の小指の先から第一関節くらいまでの大きさ。それくらいに見えている。この場所から見る道路や人や車は、模型のよう。小さく見え過ぎて、まるで本物じゃないみたい。
せめてビルに常駐している警備員とか誰かが、止めに来たりしないもんかね。管理体制よ。こんなデカい形したビルのくせに。
心地良い陽光と風。高所が故の恐怖心など、もうない。
世界が止まり、廻り続けている。何かが澱み、何かは流れ、誰かが死に、新たな生命が産声を上げる。芽吹く。変わらず、変化し続けている。
数歩、後退りする。頭を上げ、真っ直ぐ前を向く。
ふと、クラスの田中君のことが頭をよぎる。彼の、スマートにデブな、顔と体型。太すぎない、デブ。縦長な顔の、デブ。丁度良い、デブ。切れ長な、目。
田中君からは、いつも、何故か、粉っぽい匂いがする。服から発しているのか、体そのものから発しているのかわからないけど、いつもほんのりと甘ったるい、小麦粉のような匂いを携えている。でも、うちのクラスには、そのことを揶揄したりする生徒は誰もいない。きっと、みんな、心で思っているだけ。少なくとも俺の知る限りでは、そのことを指摘して言いふらしてる生徒など、誰もいない。
それほど気にならないから。大袈裟に指摘して言うほどのことでもないから。臭くて、不快な思いをしているわけではないから。マイナスな印象を与えているものでは、ないから。でもみんな、きっと、彼を思い出す度に感覚は甦るはず。記憶の中の、彼の匂い。鼻腔からくすぐり続ける、彼という存在。思い出。永遠の、今に発し得る、感覚。
いま彼は何をやっているんだろうなぁー。家でゴロゴロしているのだろうか。外に野球をしに行っているのだろうか。家族と買い物にでも行っているのだろうか。大穴で、宿題でもせっせとしているのだろうか。後日、俺の死をどう捉えるのだろうか。これから、一生、どんな人生を歩んでいくのだろうか。
ふんっ。自殺する人間が憂うようなことじゃない。土台、資格がない。資格がないなどという利権的な考えに及んでしまう時点で、故に、資格がない。
ゆっくりと・・、後ろを振り返る。
考えごとをしていても、風の声に心を委ねていても、絶えず気は張って、感知しようとしていた。なんにも、音も、気配も、なかった。
如実に、ありありと、虚空にデザインされた生彩。アート。
現れた。現れて、ある。男が、いる。視界に、風景に、張り付いて、いる。男がまたさっきと同じようにそこにいる。微笑んでいる。微笑んでいるというか、ちょっと、ちょっとというか、かなり、ドヤ顔。ドヤ顔で、視線を合わせくる。ふふっ。腹立つ。どうやって殺してやろう。殺してやろうというか、本当に人間じゃないのなら、死なないのかもしれない。俺は、生命として死に、彼は、妖精として、死なず?
瞬時、とてつもなく胸の鼓動が速まる。耳の奥でも、ドクドクと音が鳴っている。続けて、地上の騒音までも急にはっきりと耳に届きだす。
動悸が速まり、頭部の方の血流速度も上がり、それによって聴覚が鋭敏になって地上の音を拾いだしたんだ、と、体に起こった現象を心の中で冷静に解き明かす。
しかしマジで、ドヤ顔腹立つぅー。もう、肩を叩くまでもないですよねって顔か? わかってるんだろう、気付いてるんだろう、って顔かそれは? ふふっ、腹立つ。絶対に、俺からは口を利いてやるもんか。お前から喋れよ・・、妖精。
「妖精です」
「どこまでが本当でどこからが適当なんだよ。何でこんな地味なやり方するわけ? なんかあるだろう、もっと、派手なやり方。それこそ空を飛んでみたり宙に浮いてみたり」
「空を飛ぶも宙に浮くも同じカテゴリーです。似て・・、ほとんどおんなじようなこと並べちゃってますよ」
「はじめてツッコミやがった。ほらお茶」
ポケットからお茶を差し出す。ついでに俺が飲む用のナタデココジュースも取り出して、振る。果肉がスムーズに流れ出てくるように、めいっぱい振る。
生態が気になる。マジで何者だこいつ。一挙手一投足、ペットボトルを受け取ろうする手まで凝視してしまう。普通の、手だ。絶対、人間の手だ。顔を見る。人間の顔だ。全体、さっきと変わらず、白いパーカーにチノパン姿。
憎たらしい笑顔のまま、ペットボトルを素直に受け取る妖精。
「あれ・・、飲むっていう概念がなかったんだよねえ」
「いや、せっかくなんで、頂きます」
「答えになってねー」
「これって、どうやって飲む・・、開けるんですか?」
人間が、おかしな人間を演じているよう。やっぱり、常識から鑑みてしまうと、そう感じざるを得ない。
「はぁー。回して開けるんだよ」
ジェスチャーをしてみせる。
「あ思い出した思い出した! 理解した、降りてきた! だ、大丈夫です」
手首をやけにそば立たせた状態で五本全ての指を使って蓋を挟み、変に器用にくるくると回して開ける妖精。そして、飲み始める。
飲み始めると途端にものすごく慣れた感じに見える。全て虚構なのでは、と思える。訝しい。ああなんか、色々、バカらしい。
ナタデココジュースの蓋を開け、飲む。果肉の感触が、いい。甘い。さっき下で我慢できなくなってポカリスエットを飲んできたから、喉はほとんど渇いていない。だからこその、甘さ重視の、ナタデココ。
陽射しが眩しい。弾けて、景色に染み込んでいく前の、眩しさ。陽が、下降し始めてきている。
お互い、黙々と飲む。何故か話している時以外は、お互い今いる面の真正面の方向の空と相対して佇んでいる。二人はそれほど綺麗には向かい合わない。喋る時も、妖精は俺の方をキッカリと向いて喋るけど、俺はほとんど斜に構えて接している。
首を横に曲げ、妖精を見る。かじり付くようにして、お茶の成分が記載されてあるペットボトルのラベル部分を見ている。
うーん。いよいよ大丈夫か、この妖精もこの世界も。不思議不可思議摩訶不思議。イッツァ・ミラクルワールド。今ここで自殺することが実は本当に正解なことなんじゃないかという思いが、いよいよハッキリと芽生え始める。
ただ問題は、何一つ解決されてはいない。問題を解決せぬことが問題をやり込める最上の策なのか。このままだと、なーんか、そうなる。まさにいま俺はそうして、死んでみせようとしている。ジュースを飲んでスッキリとした状態で、横にこの不明瞭な妖精を野晒しにしたまま、つーか、"不明瞭な妖精"って・・。何の説明にもなっていない。野晒しにしたまま、急に、「あ」、とでも声を上げ、飛び降りたっていい。それで充分。それが、最高。元より、そのつもり。
「あ」
「ん?」
妖精が、俺の方を見る。
なにせ飛び降りたら、妖精に秘められた、新たなる別の能力を拝めることになるかもしれない。良いことずくめかよっ。すんなり死ねるか、死ねなくても、未体験ゾーンに突入できる。でも、本当に、妖精イコール空を飛べるもの? 現れた当初、調子が悪いとかどうこう言ってなかったっけ。まあいいや。思慮するの面倒くさい。俺は俺で最後に聞きたいこと適当に聞いて、真面目に聞いている振りをして、とんでもないタイミングで飛び降りてやるぞ。くっくっくっくっ。妖精すら想像し得ないような、えっ、今ぁ? 今ですか先生! ここで飛び降ります普通ぅ? ってなタイミングで。よしそうだ、もう、決めた!
「俺の質問にちゃんと答えてくれたら、納得のいく答えを言ってくれるなら死ぬのをやめる。というよりあんたの話だとあんたが俺を助けて・・、どのみち自然とそうなるのか。俺は死なない、生き続けるんだろう? 落ちても死なないって、空を舞うっていうのは何、ただの口からでまかせ? 本当にできるんならそろそろ根拠を示してくれ。そして、あともう一つ。あんたが俺をこの世に留まらせておきたい理由も教えてくれ。何で俺は他人のあんたに必死に止められて、いや間違えた、他妖精のあんたに止められてまで生き続けなきゃならないのか。頼むから、ちゃんと教えてくれ。あんたが胸の内にしまってあるものを、全部俺にぶつけてくれ。もう、あんたが何者であろうと俺は構わない。宇宙人だろうが地底人だろうが地上人だろうが妖精だろうが、トリケラトプスだろうが忍びであろうが未来人であろうが妖怪だろうが、大穴で、季節感のないサンタクロースだろうが誰であろうが、何だっていい。どちらかというなら、現時点での俺の真面目な推察は、もう実は俺は、片足をあの世の領域に踏み込ませてしまっている状態で、もう、俺が死を選ぶことに変わりはないから、普通の人間には見えない、あの世への案内人というか、一見人間の姿をした、霊魂的な存在のあんたが俺にだけ見えてしまっていて、実はこうして二人でやり取りしているようでも、実際は、あ間違えた、一人と一トリケラトプスでやり取りしているようでも、実際は、ここに今俺は一人でいて、空気に向かってああでもないこうでもない、俺はこう思っているのにお前のここがあり得ない、お前はこうしたいんだけど俺は全然同じ方向を向いてくれない、とか、俺が延々と何にもない空間に向かって一人芝居をしているんじゃないかとさえ、いや寧ろ、常識的な物事を考える範疇で言ったら、その可能性が最も高いんじゃないかとさえ思っているんだ。もう、回りくどかったり謎解きのようだったり、ギャラリーも誰もいないのに変に笑いを取ろうとした、敢えてマジな雰囲気の言動だったり表情だったり、そしてそれが全く面白くなく、オチとしても成立していなかったり、そういうのは、本当にいらない。あんた、いや妖精、妖精? 浮遊霊? 宙に浮いてもなく、地にしっかりと足を着けた状態でいる浮遊霊か妖精か、得体の知れないあんたぁ! あんたの口から、真実が聞きたい。俺がいま述べたことが合っているのか違うのか、全く予想できないあんたの知られざる秘密や思いがあるのか、さあ聞かせてくれ! トリケラ、」
「大ぁーい正ぇーぃ解ぁあーい・・、パチパチパチッ・・・・。え?」
「短く・・、まとめるなぁああああぁあああー!」
空高く叫び上げる。辺りに怒号が谺する。響き渡る。がすぐに大気に呑み込まれ、言葉は消える。
驚愕の色を浮かべる妖精。若干、後退っている。
「こんだけ喋ったんだぁ! 同じくらいで返してくるか、せめて、重々しく喋れぇ!」
「長すぎて何を答えればよかったのか・・。いやいや難しいところで、考え方としては正解っちゃあ正解で、間違いっちゃあ間違いです。あなたの思いや考えも、一つの実体、真実っちゃあ真実です。それはそれでどうやっても一つの形であり、存在し続けます。正しさも、間違ってあることすらも。あでも私は妖精です。これは、これもこれです。これも実は、真の実体として私の思いであるだけ。これはこれでしかないんです。あと本当に瞬さんが落ちても私は何とか必死で助けます。共に空を飛び、うーん、ただ・・」
「何言ってんだ信じられるかそんなのぉ! 死ぬのはいい! どうってことないそんなの。怖くも何ともない。ただ、ひょっとしたら空を飛べるのかもなぁなんてあやふやなままお前を信じて、少し希望しながら落ちてって、結局バシャーン、死、なんていうのは絶対に嫌だぁ! 信じさせるんなら百パーセント信じさせろぉ! 裏切るんなら、百パーセント騙したままで行えぇー! 俺はお前が現れるまで誰にも邪魔されずに、完結して死ねるはずだったんだ。それが何だ、妖精? 落ちても死なない? 空を飛ぶ? トリケラトプスぅ? 言っていることが無茶苦茶、難解、支離滅裂・・、何だコレぇぁッ!」
「わかりましたわかりました、一旦落ち着きましょう。吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐い、」
「うるせぇー! よ、宇宙人に・・、深呼吸なんて促されたくないんだよぉ!」
「よっ、妖精です」
「うるせぇー! 妖精に深呼吸の概念なんてあるかぁー!」
「かろうじてありました」
「うるせぇー! 証拠を見せろいい加減っ! 空を飛ぶ、飛べることになる羽の二枚でも三枚でも見せてみろぉ! 服を脱いで、見せろぉ! は・・、羽の膨らみ部分なんて全然見えねーし、思いっきり白のパーカー着てやがって。ちょっと前にグニクロで見たぞそれぇ、全くおんなじ白のやつぅ!」
「羽は体に付いてなくても飛べるシステムなんですよ。まあ飾りでは付いてたんですけど、だいぶ前に人間界に来た時に、赤い羽根募金に寄贈しました。あと、大手服飾メーカー"グニクロ"のトップ、経営陣たちは、実は全員妖精です。正確には、でしたかな? みんな妖精界出身のはずです。今は永久ピザ取ってるらしいんで、ずっと人間界で暮らしてるは暮らしているみたいですけど」
「うるせぇうるせぇうるせぇー! 何を、どこをどう信じてやればいいんだそんなことぉ! ちょっと前の俺を返せ・・、お前と出会う前の俺を返せぇー! だいたい永久"ピザ"って何だぁー!腹壊すわー!」
「ああ、もう、落ち着いてください。下からジュース持って来ましょうか?」
「うるせぇー! さっきもう飲んだぁー!」
「まだ私のお茶なら残ってますけど」
「うるせぇー! 元々俺のお茶だあっ!」
妖精の手からペットボトルを奪う。荒々しく。妖精の手と俺の手が初めてがっつり触れ合う。普通の、人間の手。人間の手だが、まるで長時間冷凍されていたかのように怖しく冷たい。キンッキンッ。故にお茶がとても冷えている。
こんなわけのわからないところに、人間じゃない者のリアリティなんていらないんだよ! 心の中で、叫ぶ。うるせぇー! あぁ、叫び過ぎた。喉が痛い。しかしこいつ、この冷たさで、体温で、よく普通に立っていられるよな。妖精、恐るべし・・。ああ喉渇いた、飲も。
「ゴキュッ、ゴキュッ・・」
喉を鳴らして、飲む。
お茶がありがたい。潤う。ふふっ。途中から惰性で叫んでたもんな。そりゃ喉も渇く。ああ、旨い。じんわりとまた汗ばんできている。俺の体、今、かなり臭いかも。
「はぁー」
あっという間に飲み切ってしまう。空き缶と空きペットボトルを、少し離れた所にそっと置く。俺の、遺書代わり。
「どうですか、だいぶ落ち着きましたでしょ」
「ふぅっ・・。いい加減もう、俺の前から消えてくんねえかな。充分だろう。充分俺、今で生きてることの苦しさ味わって、死んでも大丈夫だろう。自分の理解が及ばない様々なことで、これ以上苦しんでいたくない。面白いのかもしれないけど、それより、それ以上に、しんどいし苦しい。もう自殺してもそんなに罰は受けないだろう、あの世でも。あぁ・・、あれっ、妖せ・・」
完全に俺の姿と言葉を無視して、立ちすくんだまま下の方を向き、ブツクサと聞き取ることのできない独り言に勤しむ妖精。目は、虚ろに、宙の一点を見つめている。
またこの感じ? かなり危ない。今の今まで普通に会話してたのに、何だよ。絶対この妖精末っ子だわ。またまたまたまた自分だけの世界。いや寧ろ、この屋上の空間全体が、言っちゃえばこいつの独壇場、こいつのためだけにあるようなもんだよな。ここまで話の論点って、無視されて、霧がかかって、見えないままであり続けるものだっけ。俺、とにかくただ死にたいだけなのに。何でこいつが、妖精が現れたのか、知りたいだけなのに。
ーー
やっべぇ瞬さん、そろそろマジで飛ぶ気だ。そのつもりでいやがる。全然軌道を修正し得ない。死の感じ、雰囲気を、いつまでもどこまでもしとどに溢れさせやがる。このタイミングで死んでも、また転生して、魂の軌跡を再度歩み直さなきゃならないだけなのに。
私自身はこの世界にもうほとんど完璧なまでに馴染んじゃったから、難なく飛べるとは思う。だけど、飛びながら大の人間を抱えるなんていう腕力が私にはないから、結局共に落下しちゃうことになるかもっていう発想が瞬さんにはないのかなぁ? まあ、だって、死ぬつもりなんだもんなぁ。細かいことなんて思慮しないよなぁ。この展開のままじゃあ、ヤバい。何とか避けなければ。ここで瞬さんに死なれちゃったら、総体意識や予見世界はどうしたって変わっちゃってくるし、総意鎮魂たちに多大な影響を及ぼし、この世界、いや延いては宇宙全体が、悲しい思いをたくさんすることになる。やっべぇどうすればいい? 私、ただただ怒らせてばっかりだ。面倒くせぇな人間って。本当に、私は妖精で良かった。毎日毎日妖精妖精できるし。
この状況を、何とかする方法、うーん・・。
ーー
完全に心の中で自分と会話してやがる。何を、思い詰めている?
「おいっ、大丈夫か妖精。本当に妖精なんだとして、しても、お前大丈夫か? 妖精の中でもお前かなりヤバい方の妖精だろう。なあ? 狂ってる方の妖精だろう?」
ーー
ヤバいヤバいヤバいヤバいッ! それに気付かれてしまったら、マジでヤバいッ! ガチで、ガチにリアルな感じでヤバいよっ! それを接している一人間に見抜かれてしまったら、ナノラインジィンディングターボFが効かなくなってしまう。時空そのものに、取り返しのつかない歪みと亀裂を生じさせてしまう。もしそうなったら、妖精閻魔大王に、永久生きくすぐり地獄の刑に処せられてしまう。家族妖精たちにも迷惑をかけることになる。マズい! もう一か八かだ。時間が、きっとない。瞬さんの好きそうな話題やシチュエーションから適当に切り込んで、説明説得チャージをターボ満タンGに、強引にでもさせる、するしかない。絶対に、成す!
ーー
ゆっくりと、顔を上げ、視線を合わせてくる妖精。
「あなたがこのまま死んでしまったあとの世界の未来って、興味ありますか? 知りたいですか?」
「やっと口を利きやがった。別に、どうでもいいねえ。そんなことが気になるようだったら最初から死のうなんて思わないだろう」
「でしょうねえ。でも、知ってください。今から教えます」
「必要ないねえ。だいたいが信用できない。何だか危なっかしくて嘘臭さが拭えてない。俺の質問に誠実に答えているように見えない、よ・・、忍びの言うことなんて、もうどうだっていい。とりあえず邪魔なんだよ。前を向いて数秒経ったあと振り返るから、そうしたら、いなくなっていてくれよ。消えていてくれよ、なあ!」
「質問の答えでもあるんです! あなたがもしここで死ぬこと、生き続けることでの未来が、を、あなたが知ることは大切なことなんです! このやり取りのために、今まで一見不要に見えていた変てこなやり取りが、茶番が、必要だった理由でもあるんです! 私は、私というか、私たちは・・、何にも間違っていない! ここまで、私たちは・・、今宵僕たちは、何にも間違っていない!」
感情的になりやがった。建前的なそれではなく、ようやく俺の質問に妖精が真剣になったか? 本当の、真剣。かなり謎な設定と状況ではあるけどな。何でこうなったんだっけ? セリフの最後の方はちょっとふざけてたけど。宵じゃねーし。でも、これで、妖精が妖精たる所以を拝見することができるかもしれない。面白くなかったらぶん殴って、そこで、飛ぼう。
「いいかい、言うよ」
「早く言えよ」
深く息を吸い込んで、吐き出す妖精。
やばい。つっけんどんにしてはいるけど、笑いがこみ上げてくる。楽しみでしょうがない。絶対こいつまた、わけのわからないことを言うに決まっているのに、何故だろう、楽しみで、今、楽しくってしょうがない。こんな気持ちになることも、こいつが言っている未来の予測の出来事の一環なのか? いやまさか。俺の断固たる決意そのものには何ら変更はない。支障なし。今日、もうすぐ、死ぬ。それだけ。でも今は正直楽しい。このアホ、七三、何て言うんだろう? ツラよ。ああ、高揚感・・。
「私がいない状態で、あなたが今ここで地上にダイブして、道路の上にバッシャーンと飛散して死んでしまったら、あなたの受け持っているクラスの生徒さんの内の三人が、将来、あなたと同じように自分で自分の命を殺めるという人生を歩むことになります。それでも、いい? 教師として、男として人間として、それが、それでも、本当にいいんですか? 見過ごしてしまえるものなんですか? 私は・・、問いたいっ」
うーん。まずまずの展開。でも、この妖精メガネ、やっぱどこか芝居がかっている。わざとくせえ。それがイラつく。最後の、「問いたいっ」って、変に力を込めて、語尾を敢えて声を荒げず、消え入る言い方をして、涙をこらえている人がやるような感じで言いやがった。表情は相変わらずマジなんだけど、絶対どっか、ふざけちゃってんだよなー。こいつの顔面、思いっきり殴ったらどうなるんだろう? 妖精も人間と同じように、血が出たり皮膚が腫れたりすんのかなあ?
「まあ現状お前が見張ってるんだからいいんじゃねーか? 一緒に空を飛んで、助かるんだろ? どうせ本当は飛べないくせに。この、エセ妖精」
「うまくいかなくて、助からないことがひょっとしたらあるかもしれません。だから・・、ダイブしないことに越したことはない」
「うまくいかなくて? とりあえずお前がここで一人で、いや一妖精で飛んで見せてくれよ。それなら、えっ、それすらできないの?」
ーー
それは、それもマズイっ! それだけはできないことになっている。妖精シュール規約法違反になる。第二千八十二条項目、何人も、何妖精も、人間の前で個々に己の能力を見せびらかすためだけに空を飛翔してはならない。その場で宙に浮いて見せることも、厳禁。違反した場合、発覚してから二週間以内に斬首の刑に処す。だから・・、できない。
ーー
「いきなり何の気配もなくあなたの後ろに現れた。何故か、あなたの名前を知っている。職業も。あなたがここに来ることを前もってわかって、わかった上で、私は送られて現れ出た。これで充分でしょう? まだ何かを望む、知りたい、信じたい? あなただって本当はもうわかっているじゃないですか。自分が本当に知りたくて欲していることはそういう風なことじゃないと。あなたの人生が、」
「いや、いやいやいやいや! やっぱりお前は妖精なんかじゃない。何だ、一体何なんだ。俺の幻覚・・」
「妖精です! 真実の、いや、妖精を超えた、妖精です! 刻一刻と、妖精です。標準値の、最も人間にイメージされ易い姿の、ザ・妖精です。昨日も一昨日も妖精です。時間の尺度で言っちゃうなら、三千年後も私は何らかの形で妖精です。やっちゃえやっちゃえ妖精妖精ぇーい! 寝ても覚めても、あら妖精。あらあらあらあらしとどに妖精ぇーい!」
胸の前で両手をぐるぐると回転させ、必死に、ふざけて、身振り手振りと叫び語る妖精。
テンションよ。なんだどうした? 余裕があるんだかないんだか。でも確実に、何かに焦ってはきている・・、のか? いや、やっぱりどうしたってふざけている。もうどうしようもないだろこれは。
「言えば言うほど存在価値がなくなっていっているような、よ、何だお前は・・。まだ実は普通の人間でしたって可能性も充分に残ってるからな。俺のことを下調べしておいて、手を冷やしておいて、あ、それともお前やっぱり霊か? この場所に取り憑いている浮遊霊なんだろ? そうなんだろ、おいっ!」
「浮遊霊なら最初から楽に浮かんで見せているはず。だって、ふ・ゆ・う、なんだもん。妖精妖精、あら妖精」
だんだん日本舞踊みたいな動きになってきたな。移動したりして、明らかに舞い始めやがった。さすがは日本語が世界語の妖精様。そろそろ・・、潮時か?
「別に全部どうでもいいんだけど、最後の最後に聞いておくわ。将来、俺のクラスの誰が三人死ぬわけ? ん、わかってんだろ」
「高山さんと村上さんと、一ノ瀬さんっていう生徒の三人。あらあら妖精、あらんら、妖精」
少しひんやりとした風が吹く。陽射しは、温いまま。スーツの表面を妖しく撫でて、風は過ぎる。生まれてからずっとこの場所にいたような、変な感覚を覚える。ゆっくりとでも、陽は確実に沈んで行っている。相変わらず、明るいは明るいままの陽。
何故ここには二人しかいない? いや、一人と、一匹。
妖精はいよいよ全力で、きっと質の高いであろう日本舞踊を、淡々と踊っている。
そういえばこのビルの下の階のテナントに、日本舞踊の教室組み込まれてなかったっけ? どうでもいいけど。本当にどうでもよくなってきたからこそ、どうにかしたくなってきた。高山と村上と一ノ瀬が自殺ぅ? ・・・・あり得ない。
「どうやってその三人なんだ? お前はどうやってその当てにならない未来を知った?」
「念じれば、いや、念じるまでもなく脳裏に浮かび、いや、脳裏に浮かぶまでもなく、情報として勝手に私の核にストックされてありました。まあもちろん知り得る時は念じて思って脳裏に浮かぶ、は通っていく道筋なんですけど・・。妖精界と表裏一体にあるこの世界を良くしようと、黙っていても、妖精界の総意として、あなたと未来の世界を救うべく、私は今日ここにポッと出されて、来ました。最初はただ迷子になっただけかと思いましたが、ハハッ。今ではほとんど、全てを悟っています。ああ、ショックのようですね。あらっ、ほいっ、ほれっ、よっ。やはり、教え子の未来のことは心配でしょう。その三人は、何です・・、特に強い思い入れでも?」
「・・お前の言うことを信用しているわけじゃない。ただもし本当にそうなるんだとしたら、ちょっと、意外だっただけ。別に、特にそんな・・。何であんな出来の良い、人気者の三人が・・」
世の中おかしなことだらけ。でもおかしなことがあるから、人としての正常な感性や、普遍的な倫理観は成り立つ。結果やっぱり、全てに感謝。ああ、とりあえずこいつの踊り何とかなんねーかな。扇を手に持ってないだけで、きっとこれ完全なる日本舞踊。何してんのこいつ? 大きく動いて床のない位置まで足やって、落ちてってくんねーかな。それにしても、不思議だ。
高山はスポーツ万能で成績優秀、クラスの実行委員も務める人望のある男子生徒。村上は超がつく美少年で人柄も優しく、男女問わず好かれている人気者。一ノ瀬もまさに、才色兼備の美少女。クラスのマドンナ的存在であり、同時に、天真爛漫な性格も相まって、良きムードメーカーでもある。この、三人が? 嘘くさい。正直、とてつもなく嘘くさい未来。話。
「あなたの、幻想に囚われた、虚しき想念により、それに基づく、死により、あっ、よっ、つまずくはずのなかった、生彩な命の輝きが、ほれっ、よっ、今、まさに、これから、失われようとしている。ほれっ、ぴしゅっ」
お前がつまずいて今死ねよ。「ぴしゅっ」、じゃねーんだよ。何の効果音だそれ。
「関係ないねえ。何の関係も、ないねえ。だいたい俺がここで自殺するのとその三人が将来どうこうなるっていうのは、全く直接的な因果関係も何もないだろうがぁ! 適当なことばっか抜かしやがって。そうだ、全部、適当なことだ。何が妖精だ。どっからどう見たってただのオッサンじゃねーか! 日本舞踊が踊れる」
ーー
ふっふっふっふっ。明らかな動揺。そして、数分前までは、このようなことで動揺する心の持ち主ではなかったはず。ふっふっふっふっふっ。見たか! これぞ妖精秘奥義、「他人を思いやるの舞、2012REMIX・バースデーバージョン」だ! ふっふっふっふっ瞬さんよぉ、さぞや度肝を抜かれていることだろう。こんな妖艶な踊り、人間界にいたんじゃあ見たこともないだろうなぁ。半年先まで夢に出てきて、どうにかなっちまうぜぇ。チャイルドだろう? 最初から、これ踊っときゃあ良かったんだよ。私ってバカだぁ、あはははははははっ。さあ踏みとどまれ。自殺なんてことを考えるのはよして、運命の本流の行き先に、日常に帰って行くんだぁ! それっ、よっ、はっ、ほっ、ほーうっ。
ーー
「長所は、日本舞踊が踊れるだけの、ただの、オッサンだろうがぁ。もう、もう、もう、いい加減にしろ。いい加減にしねーと、突き落とされて俺と一緒に死ぬことになるぞ、よ・・、人間!」
ーー
あ? 踏みとどまるどころか激昂マックスなんだけど。それに、ニホンブヨウって何? やばっ、近づいて・・。
ーー
「痛いっ! やめっ、よしてぇ!」
妖精に襲いかかる。
左手で襟元を、右手で肩を掴んで、思いっきり揺さぶる。パーカーも、その下にある肉体の厚み、感触も、全て、人類のそれ。人間のそれ。
全ておかしい。何故に俺はこんな感情的? こいつは確かにわけわかんないけど、俺は一体、何に腹を立てているんだ? 不確かなまま、完結されないまま自分の人生を自らの手で完結させるというのが、俺の望み、未来だったはず。今日おこなって、最後のはず。別にこんな変てこなオッサン一人、妖精一匹、トリケラトプス一体、好きだな俺、トリケラトプス・・、日本舞踊の一講師、放っておいて死んで何の問題もないはず。痛くも痒くもない。なかった、はず。最後に臨む雰囲気を壊されたから? いや、雰囲気や場の空気を読むことなんて、生きていく上で最もくだらない配慮と踏んで、今まで生きてきたじゃないか。何を今更・・。
ぼーっとしたまま腕を振り続ける。押したり、引っ張ったりして、威嚇し続ける。
「いや、暴力反対! 妖精反対! まち、間違えた、妖精嫌い、反対!」
手を振りほどく妖精。
踵を返し、空へ、何もない空間へと向かう。
飛び降りる。最後の最後に信じられないくらい不思議な、キングオブ意味不明な男に出会えた。それで、それも、充分にシアワセ。
右足が、空へ半歩踏み出した。
後ろから、スーツを鷲掴まれながらの胴タックルをされ、強引に引き戻される。共に、ビルの縁ギリギリ、空との境界に、倒れ込む。左足が床から空にはみ出している。妖精は俺の腰回りを抱きかかえ、くっついたままでいる。両足が、急な動きのせいか恐怖からなのか何なのか、強く痺れている。その痺れから連なって起こった激しい動悸が、上半身の方にのぼってくる。俺は肘をつくのをやめ、パッタリと、両腕を広げ、仰向けになる。左手も、ビルからはみ出る。
「はぁ、はぁ」
「はぁ、はぁ」
手に入れたなら、手に入れているのかもしれない。もう、自分で、自分が、制圧される、無を。それが生だ。無で、生で、儚くて、命の煌めきだ。故に、有だ。無で、有だ。
「本当に死のうとする奴があるかぁ!」
そりゃするだろう。だからここでお互い、やり取りしていたんだろうよ。
「人間のくせに、空なんて飛べないくせに」
妖精は俺の腰回りをしっかりと掴んでいる。離れない妖精。くっついている妖精を、見る。視線が、合う。
「本当に、それは自己か? 世界と認め合える、究極の、完成された自己か? まだ誰かを哀れんでいないか? 自分で自分にだけ誇って、甘え込んでいる心はないか? 無意識に比較して、創造し続けていないか? そうやって、毎日を、思いを、全て・・。妖精だって苦しんで、汚れて、存在肯定をし続けている。それでもアホみたいに理想を掲げ続け、不変の、幸せの核を、別世界に、大切に思いを込めて送り続けている。人間は、人間が、試されている。他でもない人間自身が、いつまでも、人間を試してしまっている。これはもう、回避。ピースを、欠片を、うやむやにするな。欠片は、その、人類の総意の断片は、輝く断片のままであり続けろ。懸命に、疑問を、手付かずのままにしてある総意に、未来に、送り続けろ」
しばしの沈黙が流れる。音という概念が、この世界から姿を隠す。
「はぁ・・。何言ってんだお前。またこれ、同じこと言えって言われて、言える?」
「はぁ・・。言えない。何言ってるか、自分でももうよくわからない」
「あっはっはっはっはっ! なんか、悟ってるんじゃなかったのかよ。つーか重い! いつまで乗っかってんだ。わかったからわかったから。もし死ぬならお前のことを一割でも二割でも納得させてからにするから。とりあえず、どいてよ 」
「うん」
憑き物が落ちた子供のような顔をして立ち上がる妖精。触れ合った手や顔は、相変わらず氷のように冷たい。
何だそのツラ。今に始まったことじゃねーけど、感情がわかんねーわ。でも何故か、今では、だからこそ親近感が湧く。
俺も立つ。また、隣り合う。もう数メートル先が床のない場所のような気がしない。
「あなたに、とっておきの見せたいものがあるんです。まだ死なれちゃ困る」
まだって。それ見た後ならどうしてくれても構わないみたいな言い方。もうやりたい放題言いたい放題好きにしてくれ。ん、あれ、そうか・・。
まだ最悪な選択肢も、この妖精さんは、敢えて残しておいてくれているんだ。ありがとう。あんた、素晴らしい人物、いや、妖物さんだ。本当に、感謝、ってなるかバカヤロー。
「ちょっと、待っていてくれるって、誓える? 私がここから少しの間席を外しても、飛び降りたりしないで、私が戻って来るまで待っていられますか?」
「ふんっ」
今度は何、待っていてくれ? 何だか色々と疲れる。
「未来がイメージできるんだろ? 俺が待っているかどうかもわかるんじゃないの?」
「・・はい、見え、見えました」
「何?」
「九割、いや百パー待ってる」
「だったらさっさとどっか行って来いよ。何だこの無駄なやり取り」
「いやあ一応、建て前っていうのがあるじゃないですか。へへっ」
「意味ねーだろ二人きりで。へへっ、じゃないよう。全部さらけ出して死ぬか生きるか嘘か誠かってやってんのに、必要ないよ建て前なんて」
ーー
よしっ。だいぶ思考を浸食し始めてきている。これでいい。あと、もうちょっとだろう。ウケケケケケケケッ。さすが、妖精界の中の、妖精の中の妖精、私。
ーー
「いやこういうことが必要なのはあなたが最もわかっているはず。無駄なことと捉えがちな出来事に、やり取りに、毎日の中に、人生を本当の意味で豊かにさせる大切なもの、感情が宿っているのは、もうお気付きでしょう?」
ああ言えばこう言う。
「うーん・・、これは、そういうことでもない気がする。今のやり取りはそういうこととは違うもののような気がする。観点が、種類が違う。あれ、っていうかついさっきも似たような会話俺たちしてなかったっけ? あぁもうどうでもいいや。行くなら早くどっか行って来いよ」
「行って来ます」
フェンスをよじ登っていく妖精。器用。動きは、普通の人間のそれ。
妖精が初めてフェンスの内側に行こうとしている。初めて、ここ以外の場所。相変わらず謎だらけ。実際にこの目で何もない空間からヌッと現れたとこを見たわけじゃないからあれだけど、本物の妖精ならわざわざ登らずに、透明になってフェンスをすり抜けるぐらいの芸当をしてみろよ。普通に登って行きやがる。
「何するんだ? ・・どこ行くの?」
不敵な笑みを残し、スタスタ歩いて、非常階段の扉の中にゆっくり入っていく妖精。
「妖精のくせに、一丁前にシカトしてんじゃねーよ」
声は夕陽の明るみを帯びた空に届かず近くですぐ消える。
俺も、今のは全力で言ってねーな。何となく、建て前で、あいつに伝えるためとかじゃなく、独り言で、言ったな。楽しみは楽しみかもしんないけど、もう、本当にわけがわからない。感情がぐちゃぐちゃ。何でグニクロ仕上がりのあんな謎な妖精と、ここまで語り合わなきゃならないのか。死ぬなら、あれ、今なのか。奴が戻って来るまでのあいだ。まず、何しに行ったんだ? あいつ、下まで行って何してくるんだ? ただのお色直しか? だいたい、またもや今更だけど、妖精て!
扉が開き、姿を現す妖精。黒の手持ちバッグのような物を右の脇下に挟んで抱えている。
下まで降りて持ってきた物ではない。それならば、あまりにも戻ってくるまでが早過ぎる。どこにあんな物を? 近くの階に、置いていた? 中身は?
「いやいやいやいや、妖精界は今どしゃ降り! いやあ、近くに置かれてて本当に良かったぁ」
全力のくだけた明るい雰囲気で喋る妖精。笑顔。くしゃっとした笑顔を向けながら、こっちへ歩いて来る。テンションよ。
「何それ?」
何も答えない妖精。フェンスの傍まで来る。聞こえていない、わけはない。
「上から放り投げるんで、しっかりキャッチしてくださいね」
「だから中身は何だって」
「あっはっはっはっはっ! だから、アレですよアレぇ! あれっ、ほれっ、それっ、やっ、ほいよっ・・、やっほいっ!」
束の間、奇妙に、器用に、バッグを抱えたまま踊り出す妖精。今度は日本舞踊ではなくタコ踊り。
「何してんのお前。さっきからテンションがわかんねーわ」
「うぅーん、好きなくせにぃ! この中には広大な、大抵のものが、揃って入っています。現象、すら、未来の時節や、岐路、すら、入れて持ち運べるんで」
また始まった。抽象的な言葉並べりゃ何とかなる、誤魔化し切れる、追及されずに済む、即ち、妖精っぽくなると思ってやがる。こちとらこれでも小学校教師だぞ、舐めんな。ぶん殴って前歯折ってやろうか。見えてる口の中のやつって、歯だよな? 実は歯に見えているそれは超合金よりも硬い素材で出来ていて、殴ったら俺の手の骨が砕け散るなんてことはないよな。いやわからない。怖ぇー、怖ぇーよ妖精、ってなるかぁ!
「うんわかった。とりあえずもういちいちツッコむの面倒。投げて、でお前もこっち来いよ」
「あれっ・・、なんか怒ってます? 私なんか、落ち度ありました?」
「ぶっ!」
ふんっ。吹いちゃった。
「怒ってはないよ。怒ってはないけど、落ち度のこと言っちゃうなら全部だけどね。妖精さん、あなたという存在、全部。いいから投げてこっち来い。早く来ねーとぶん殴って前歯折るぞ」
「怒ってるじゃないですかぁ! やだぁあーん、男子怖いぃー。暴力反対。ワタシ、ソッチ、イカナイ。クニ、ニ、カエルゥ」
「じゃあ死ぃーのおっと」
背中を向け、ビルの縁へと歩む。でもすぐに顔だけフェンスの方を振り返る。
「んっ、それぇっ!」
このタイミングで、妖精がバッグを投げてよこす。空を舞う黒い物体に、一瞬、陽の光が遮られて見える。フェンス越しに。
「危っなっ!」
床に落ちてしまいそうなギリギリのとこでキャッチする。何が入っているかわからないバッグ。無性に、無駄に、重い。
何だ中身? ガチャガチャガチャガチャ。持った感触、揺さぶって鳴っている音の感触としては、日用雑貨品が分別なくゴチャ混ぜになって入っている様。鉛筆やらシャーペンやらケータイの充電器やらドライバーやら折り畳み式の鏡やら、サプリメント薬の入れ物やら下着やら持ち運び可能なゲーム機やら本やらなんかのスプレー缶やら腕時計やら、電卓やらひげ剃り器やらタオルやらゴルフボールやらフリスビー、など、全く統率感のないそれらのものが詰められている様。感覚、想像。
妖精がフェンスをよじ登って越えて来る。再び、傍らに、目の前に、妖精。妖精は軽く息が上がっている。きっと人間の汗の匂い、もしている。加齢臭を帯びた、オッサンの匂い。それでももう妖精だと思う。まだ他の存在だとする、考えていく過程が、設定が、さすがに面倒くさい。たとえ本当は妖精じゃなかったとしても、もうこいつは、妖精だ。寧ろ、妖精じゃなきゃ駄目だ。
「お待たせしました。ん、で、何でしたっけ?」
「そりゃあねーだろ。さすがにこの中身に触れていこうや」
ぞんざいに、二人の距離の中間地点の足元に、バッグを放り落とす。ドタンッ、と。
「あぁああっ! 大切に扱ってください! 大切に扱わなくても現状大丈夫なようにしてあるし、また、大丈夫なものばかりですけど、ですけど、大切に扱ってください。こういうのは、どれだけ真心というものを共有し合えるかに懸かってるんですから」
「わりぃわりぃ。で、中身は」
「知ってるくせにぃ」
「知らねーよ! 断じて知らねー。俺をお前サイドな感じにするんじゃねえ」
「ぅんーん、好きなくせにぃ」
「知らねーのに好きもクソもねーだろ。その好きなくせにぃっていうのやめろ腹立つから。色んなものがたくさん入ってる・・、全部ここにバァーって出しちゃっていい?」
「駄目っ、駄目です駄目です! 絶対にそれは駄目です! 本当は良いんだけど、何の問題もないんだけど、絶対に駄目です。こんなかにはねぇ瞬さん、あなたのお子さんが入っているんですよ。あなたの未来に会うべくお子さんへの道標、その確認過程、承認、が・・」
どの辺の空を飛んでいるんだろう。遠くでカラスの鳴く声が聞こえる。地球の空を確かに羽ばたいて存在するカラス。ひょっとしたら割と近くを飛んでいるのかもしれない。人は、生身では空を飛べない。カラスは、飛べる。カラスは、生身で空を飛べる。かわいらしい顔をしているカラス。この、広大だけど宇宙の切れ端でしかない、空と、溶け合える、カラス。永遠を再現し続ける空に、自由に円弧を描き出せるカラス。
まだ明るいまま、空の底が群青を帯びてきている。
焦らなくてもいいはず。理由なんて最初から今まで何にも存在していないのに、俺は何に焦り始めていたのか。何だ、何だこの気持ち・・。
「おいおいおいおい、これはまたぶっ込んで来たねぇ。どこからどうツッコんでいいのやら。うーん・・、ふっ、グニクロの件とかからまたトークし直してみるか?」
「いや、いいです。嫌だ。それはやめときます。こっちまでケガしてもあれなんで。瞬さん彼女さんいらっしゃるでしょう? その女性との、子供です。今から一年後くらいに身籠るはずです。予見です。そしてもう、実は、赤ん坊がいるってことを調べられるんですよ。あらぁ、不思議ですねぇ。面白いですねぇ」
妖精はバッグを持って背中を向け、そのまましゃがみ、バッグのジッパーを開け、ガチャガチャ中身を物色し始める。
何故中身が見えないように背中を向ける?
「この・・、妖精界で市販されている、妊娠検査器具で・・」
後ろ姿だけど、マジで探し物をしている仔細な所作のそれぞれが、腹立つ。俺の視点からだと絶妙にバッグの中の有り様を窺い知ることができない。もうちょっと近づいて上から覗けば・・。いや、めちゃくちゃ本当は、中にどんな物たちが入っているのか、見てみたいは見てみたいけど、もう、敢えて見ない。このまま、知らないままでいい。妖精様の好きなようにしてくれ。だけどその分、俺は絶対に今日、とまだどこか頑なに思うところもある。だいたいグニクロの話だって発端はこいつだからな。何が嫌です、だ。こっちまでケガしてもあれなんで、って。俺だけが一人でバカでいて、スベっているみたいな言い方しやがって。間違いなくこの地球界で今スベっているのは、お前だ、妖精。郷に入れば郷に従え、なんだよ。こんなに郷に入れば郷に従わない妖精初めて見た。というより、妖精そのものが初めてだけど。そもそも俺らのやり取り、ウケるとかスベるの範疇か? もしこの状況で俺がスベっているという判定が下るなら、全部だ。これまでの人類の歴史やお前の妖精人生、延いては俺の人生、全てがスベっているということになる。俺は、最初から、まともなんだ。今でも、必死に、まともを保とうとしているんだ。それなのに何だ。ノンギャラリーの当事者二人きりで、延々とふざけることをやめようとしない。未来の子供の存在を確認する妊娠検査器具? 妖精界の市販? 中卒の妖精? 兄は高卒? 突然真顔の、日本舞踊? 本当にもう、冗談は顔とメガネだけにしてくれ。
「そのメガネってさぁ、度、入ってんの?」
「あれぇおかしいな、確かに入ってあるはずなんだけど・・」
「・・何の話? ・・・・度?」
「度? 度は、入ってますよ。ここ人間界の定義上では伊達メガネですけど、妖精界に行って見ると、もう見える見える。見なくてもいいものまで見える。すぅっごいでしょーんっ」
「聞いた俺がバカだった。ついでにもう一つ聞くけど、それ、器具、あったとして、誰が使うの? 俺男なんですけど」
妖精が振り返り、不思議そうに俺を見つめる。
「はい、男性が使うものですよ。人間界で言うところの、男性が使うものです。男が・・、産みますよねえ? あれ?」
「うん」
もういいわ面倒くせえ。これ以上聞くの、怖い。肯定して流す。
「口から、産みますよねえ?」
「うん。どうあったぁ? ないのぉ?」
また、探し始める妖精。
「いやあ、何しろ私もあまり縁がない代物でして、なかなか見分けが・・、見つけられない。物あり過ぎだなぁこんなか」
妖精の悪戦苦闘が続く。
はぁー、何だかその検査器具だか何やら、見つかってほしい気持ち五十パーセント、このまま見つからないでほしい気持ち五十パーセント、きれいに半々だな。あれっ? 子供が遊ぶオモチャみたいなのが出てきた。あれは・・。
左手に二つ、ピンク色と黄緑色をしたシャボン玉を作って飛ばす器具のような物を持ち、そのまま尚も懸命に探し続ける妖精。
象さんを型どったピンク色の泡入れ容器と、息を吹き込んでシャボン玉を飛ばす黄緑色の器具。確か、シャボン玉のやつだよな、あれ。かわいい。他にどんな物が入ってるんだあのバッグ。にしても、時間かかるなぁ。見つかるんなら早く見つからないかなぁ。何の待ち時間なんだこれ。俺は、俺に、俺が・・、何を待っているんだ?
「あったぁ!」
「ありましたかそいつは良かった」
「更に紙袋の中に仕舞われていて、気付きにくかった」
「更にがよくわかんないけど、良かった」
立ってこちらを振り向く妖精。白を基調としたピンク色のリボンの絵柄が入った紙袋から、全長を現す器具。見せて、誇らしそうにする妖精。
あまり、というか、直に見たことはなかったけど、普通の、地球にありそうな、妊娠検査器具・・。よくわからないけど。
手に持ったまま、顔面に近づけてくる妖精。
「ほら、まず先端のキャップを外して、銀色の部分にしっかりと当てる。ちょっとしたら胴体の表示部分にある二つの窓枠に、この、終了と判定って窓枠に、縦の棒線、各々赤い線が入ってきますから。つまり赤い棒線が計二つ出てきたら、OK。万事OK」
「うん、俺いま意味がわからない状態の頂点にいるんだけど。まず、当てるって何を銀の部分に当てるの?」
「やだーん! ・・それを私の口から言わすのかね」
「あいにく二人しかいねーからな。つーかキャラがわかんない。前半オネェで、後半どっかの村の村長みたいだったぞ」
「おしっこおしっこ。おしっこを当てて」
「ここでぇ?」
「やだーん! ・・できるでしょ。もはや怖じ気づく何ものもあるまい。逆に、爽快だぞぉ。君の汚物が放物線を描いて地上に降り注いでいく様を見るのは。あぁ、誰かに、見られているかもって」
「飲むっていう概念がなかったくせに・・、妖精もおしっこから判定するのかよ、ふんっ。何だか、色々と話が変わってきたじゃねーか。まあ、どうせやるんなら堂々と空に向け、儀式かなんかのようにやれってか」
「うん」
うんじゃねーよバカ。どうやらお前のバカが、俺の思考まで、本格的に浸食し始めてきちゃってんだよ。うんじゃねーよ。可愛く言うな。
「ちょっと、何の意味があるの? 誰も身籠っていない・・、土台おれ、男だし。地球じゃ女性が股から子供を産むんだよバカ妖精。男の尿なんて、意味ねーだろ」
「うーん、まあ・・、そうなんでしょうねえ」
沈黙。妖精の表情は、またも真剣。立ち尽くし、見つめ合う。永遠のように長く感じる数秒。俺の日曜日を返してくれ。
「人間界と妖精界は表裏一体。今は、たとえ、光が差していなくても、それがあなたの分身を思わない理由にはならない。愛さない理由には、ならない。仮にたとえ巡り会えなかったとしても、思いは思いで、有り続ける。生き続ける。私は妖精ですが、瞬さん、人間の思いを、その、魂の天啓を、軽く見てはいけません。人間を、舐めちゃあいけません。あなただってとっくに気付いている。あなたの胸に宿ってある、確かでも不確かでもない軌跡、奇跡に。あなたは、どこにいたって、いつの時だって、必ず導かれる。さあ瞬さん・・、やりましょう」
「はっ・・、はあぁー」
大きなため息が出る。立ったまま両手を膝に付き、うなだれる。
目眩がしてきた。体が火照っている。スーツなんか着てくるんじゃなかった。しかしまあ、新手の宗教詐欺だなこりゃ。人の心や思いなんていうのは、案外にみな盲目極まりないものなのかもしれない。でも・・。
妊娠検査器具も、は、信用していない。くそっ、何だ、どうすりゃいい? 仮に妖精のこの話が真実なんだとしたら、妊娠検査器具じゃなくて、妊娠発動機具だろそれの名称。まあ名称は、どうでもいい。何より、俺は、俺自身の未来を信じてなんていない。いな、かった。これまで。こいつが目の前に現れたからどうだとか、話が嘘くさ過ぎるからどうだとか、そういう次元ではない。元々、俺は、俺を、信用してはいなかった。でも・・。
やるかぁ。こいつと出会ったのが、ツキだぁ。どこまでもどこまでも、遊んでみっかぁ。へへへっ。
「どうですか? へへっ。やるしかないでしょう? 段々、もう、やりたいでしょう?」
「まあこれで本当に赤い棒線とやらが出てきたら、この器具は地球のものだけど壊れてしまっているものか、それか、本当に妖精界で使われているやつか、その二択に絞られることにはなるだろうな。俺男だし。男の尿になんて普通は、絶対、妊娠検査器具は反応するものじゃないだろうしな。もし反応したとしても、絶対に陰性」
「あっはっはっはっはっ。そんな、野暮なこと、今さら言い連ねなくても大丈夫ですよ。あっはっはっはっはっ」
「野暮? 酷い言われ様だな。基本俺は最初から何も間違っていることを言ってるつもりはないんだけどな」
「正しさに宿る愛。間違いで気付く、気付かされる愛・・、救われる愛。あっはっはっはっはっはっはっはっ」
さっきから何がおもしれーんだこのハゲ。あっはっはじゃねーよ。
そっと目の前に器具を翳す妖精。受け取る。妖精は、何故か、自信に満ちた笑みをしている。いよいよである。
普通だけどなー。何がどう違うんだろ。馴染みのあるとこで言ったら、体温計みたいだ。人類が使うべく方の本来の妊娠検査器具すら直接は見たことがない。初めて手にする、もの。初体験。
妖精と相対するのをやめ、真正面の、外方向を向く。体ごと向き、空と相対する。が、頭だけ動かしてまたすぐ妖精の姿をチラと見る。妖精と目がバッチシ合う。陽が眩しいのか、妖精は目を細めて俺を見ている。
夕焼けに照った、妖精の顔。普通の、オッサンの顔。子供の運動会に来てくたくたになり、早く家に帰って笑点と野球を見ながらビールで一杯やりたいっていうような、オッサンの焼けた顔。妖精、少し、日焼けする。ヤフーのトップニュースもんだ、こりゃ。
「どうですやりましょう。舞台は・・、整ってます?」
「え、どう・・、それは俺に聞かないでくれ。俺は多分、やらされている側だから」
「瞬さん、あなたは開拓者だ」
「あらららら、これはまた抽象的なことを。開拓どうこうで物事を語るなら、間違いなくあんなだと思うけどな。妖精、あんただよ。あんたには敵いませんよ」
「そうですか?」
「そうでしょう。俺は開拓もなんもしてないよ。言われるままにこれから、だいぶ上空だけど公衆の面前で放尿して、怪しげな器械に当てようってだけの男ですから。これを開拓って言っちゃったら、喜ぶのは露出狂の人だけだよ」
「あっはっはっはっは。まあ、どうでもいいですよ。それより瞬さん、あなた、オチンチンは大きいですか?」
キャップを外してそれを妖精に向かって思いっきり投げ付ける。左斜め方向を向き、角度をつけ、妖精からは体の正面が見えないようにする。ズボンのベルトを外す。また顔だけ妖精の方向を向く。
「絶対にお前は陰部を見るんじゃねーぞ! 言うことは聞くけど、腹立つから、絶対にお前はこっちを見るんじゃねーぞぉ! もし見やがったらそん時は本気で俺ら二人、どうにかなっちまうからなぁ! 完全に完璧なる、普通のサイズだよ俺のはぁ! オチンチン!」
ズボンとパンツを下ろす。大空に、さらけ出す。
夕焼けの空。体が朱く染まる。この屋上が世界の全て。何故誰も俺たちを見つけない。即ち俺らがトップ・オブ・ザ・ワールド。器具を、陰部の下に翳す。
下界の奴らよ、好きなだけ見ろ。見えるか? そこからだと、そこからだとというか・・、小さくて見えないか?
誰も空を抱かない。いだけない。空に、焦がれない。気にすると言えば、晴れか雨が降っているか、だけ。
中々おしっこが出ない。下半身がスースーしている、だけ。俺という名の雨、虹、が、注がれない。妖精とのやり取りで、またも体の水分がカラッカラ。そりゃあ出ない。尿プレイ。尿試験。膝を少しクッと曲げ、手を下腹部にあてがい、王道の立ちションポーズ。
こうしていて不思議と何の恥ずかしさも悔恨もない。あると言えば、やや離れて脇にいる妖精が、これ以上近づいてきたら怒るぞという思いだけ。
「結果判定が出たらそれだけは見せてください。あと、器具は回収して行きます。義務なんで。あなたのモノになんて元々なんの興味もありません。興味がないって言い切っちゃうと嘘になるとこはありますけど、人間が抱くような興味ではないのです。妖精界には、人間界のようなハッキリとした、どちらか常に一辺倒だけというような性の区別がありません。交わるのは、思いだけ。まあそれ故の現象も日々起きたりしますけど・・。昨日と今日とで、妖精父と妖精母の生態が入れ替わっていたり、妖精兄がずっと、半年間ぐらい、妖精妹として過ごしていたりとか。あはっ、あははははははっ!」
「うるせー! 集中してんだ黙っとけ! どれもこれも腑に落ちねー。何だよ昨日と今日とで父と母が入れ替わってるって。人間界で考えたら、かなりの地獄だぞそれ。毎日がファンタジー過ぎる」
「あらぁ、これはこれで、結構楽しいもんですよ。ふっふっふっふっふ」
「・・老後の、エンジョイライフです、みたいなノリで言うんじゃねー」
じんわり、こそばゆさが、短い、いや、長い尿道を昇ってくる。昇って、空中から、地上に、落下したがっている。誇らしさ故の、落下。瞬時、全身に身震いが走る。
「あ、ああぁ・・」
多分ほんの少量しか出ないぞこれ。こんなんで、器具、反応するのか? あれっ、というかマズい!
慌ててビルのギリギリ際らへんに立つ。体勢的に下界は覗くことのできない、ギリギリ。ビルの縁を、黄色で汚したくはない。そしてどうせせっかくだから、無理矢理にでも、放物線とやらを生み出してみたい。
放物線、放物線・・。足が硬直し、すくむ。が、怖いという感情はない。なかなか勢い良くおしっこが出ない。あっ・・、ううっ・・。
「はあぁー」
やっとこさ湧き出て、水の本格的な流れが生まれる。はじまる。様々な余計なことを考えつつ、手元を見る。器具の銀色部分にしっかり当てないと意味がない。本題。放水のベクトルに器具を入り込ませ、照射位置を調節する。雫の連なりが、先端の銀色の金具の部分を掠めて、落ちて行く。短い、放物線。器具に当たって折れ曲がって尚、落ちる放物線。その後ビルの縁の奥にどう落ちて行っているかはわからない。そこまでは、視界が届かない。ビルの縁、頂角の向こうに消えていく黄色い虹。俺の虹。俺の空。妖精。誰の妖精? 俺の、妖精? 妖精の・・、俺?
「出てるんですかぁ! 今、出ていますかぁ? 出続けていますかぁ!」
「うるせー妖精・・。ん、もうちょっと・・」
「当てないと、意味ないですからね。意味ないですからね当てないと」
体を揺らしておしっこを切る。パンツとズボンを上げる。検査器具をマジマジと見る。
銀色に、黄色が溜まっていて、それから、ゆっくり、吸い込まれて行く。数滴のドラマ。全体的に器具が濡れている感じがする。湿っぽい。
「ほら、もう知らねーよ」
妖精に差し出す。
「あなたが持ってちゃんと見ていてください。生命誕生の瞬間ですよ! よそ見とか、ないですよ!」
突如怒ったようにして声を荒ぶる妖精。
テンションよ。愛よ。深すぎるが故の、謎すぎる、愛よ。テンション・ラブよ。何に怒られてんだ俺?
視線を器具に戻す。赤棒が走るはずの判定の窓枠。検査終了の窓枠。ご丁寧に、日本語の、漢字で、そう記して、説明している器具。"判定"、"終了"、と。見つめる、俺。受け入れたまま行く、俺。今や、完全に妖精にかぶれた小学校教師の、俺。
「なんにも起きねーぞこれ。まあなんか起こる方が俺の観念からだとおかしいんだけど。なっ、妖精」
気付けば、十年来の友達に対してするように、笑顔で妖精に話し掛けてしまっている俺。
「突然ですが瞬さんは、神の存在を信じていますか?」
「本当に突然だな。どうした急に。クスリでも切れたのか? よもや妖精からその質問をされるとは思わなかったよ」
「と、言いますと?」
「いやあ、単純に、ただのイメージだけど、妖精の方がそういうものを身近に感じている気がしていたというか、何というか」
「いますかね、それとも、いませんかね?」
妖精の顔と器具の結果の部分を交互に見比べる。妖精の顔からはハッキリとした感情が読み取れない。改まるは改まっていて、若干、戸惑いを含んでいるような、ムスッとしているような顔。ははっ、怖えーよ妖精。
「人の心の中に、常に曖昧模糊というか、そんな感じにボワッとしてあって、決して実体の明らかにならない部分も含めて、それが、そういうところが、神の存在意義だったりするんじゃない?超存在的な、存在。ほら、姿形が見えない方が、畏れや敬いの気持ちに際限がないというか、リミットレスになって、虚しいっちゃあ虚しいかもしれないけど、ずっと思い続けていられる、みたいな。神はいるよ。うん。でもそれはやっぱり、触れられたり解き明かせたりするものじゃあなくて、総体的な魂の流れの、規則性みたいなもの、というか、んー・・、何だろうな。神は、生命の奔流や還元だったりする。因果応報、だったりも。悪いことをしたら必ず何かしらの報いがあって、良いことをしたらたとえ見返りなんかなかったとしても、心持ちが清らかでいられる、とかね。人によっては、神は、宗教の教理そのものだったりする。その宗教の種類によっては、ろくでもない風習や教えによって人類の共栄の足を引っ張って、最悪残酷な形で世界に伝布されちゃっていたりもするけど・・。また人によっては、神は、大好きな趣味のことや、それに纏わる全てのものだったり、愛する家族、誰か、そのものだったり。簡潔に言うと、神とは、個々の生命に宿る意志の総体、自然の理、経過、存在そのものの、恩恵としての結果、規律、受け止めるべくしてある、万里宇宙の不変なる無常、定義し尽くせぬ、空間、時・・。だから神は、どこにでもいる。どこにでも溢れている。人の目からは隠れて、溢れて存在している。そして実は、神は、"絶対"ではない。意外と、あけすけに、"絶対"ではない。不絶対も取り込んだ絶対であるからこそ、一見、っていうか人間なんかには、絶対に"絶対"なんかには見えない。思えない。余裕で、不絶対に見える。当たり前だ。神の平等さ加減を甘く見てはいけない。余裕で神は、不絶対にすら命の息吹きを与える。だから残酷なことをも、バンバンこの世に成させる。様々な理のサイコロを、無限大数にあるサイコロを、毎瞬毎瞬、バンバン振り続けて全てを成立させている。偶発的に、さぁやりまっせーと腕まくりをして、サイコロを振って、そして見事に、物事を偶発させている。それも、いやそれこそが、"神"。人間の観点から成す倫理的な意味での不条理もバンバン施すし、そして実は、神は、できないことがとても多い。超存在的な存在であることと引き換えに、できないことがたくさんある。だって、実体がないんだもん。そりゃあできることだって、限られてきてしまう。正確に言えば、実体がないという実体を得ている、物事や現象や空想の極致にあるもの、点、門なんだもん。門って、なーんもしなさそうじゃん。ははっ。というより、何もしないでデンッとそこにあることこそが、門、って感じだよね。だから神には、きっと、人間が必要。そう思いたい。そう思うことこそが・・、うん。もちろん神には人間にできない色んなことがたくさんできもする。いや、できるというか、そうだなぁ、何て言うんだろう。神は、結果成し得てしまうというか、そう、たくさん、」
「りょっかぁあーい!」
突然、遮るように叫ぶ妖精。
「ビックリしたぁー! ・・うるせぇよ!」
「了解です了解です! 瞬さんの考えはよーくわかりました、了解です。的を得ていると思いますよ。世界の真理を、よく捉えていると思います。決して、間違いじゃないと思う。了解です。いやあ、三セリフ、三文書くらいで返してくるかと思いきや、長い長い! もうちょっとでここにテントでも張って、一夜を越すための準備を始めるとこでした。よもやさっきまでどうにかなってしまおうとしていた人間が、まさかここまで神について熱く語ってくるとは。長い長い。最悪、机と椅子と黒板消しと黒板消しクリーナーくらいは、本当に必要な勢いでしたよ」
「・・肝心の黒板そのものとチョークが抜けてる・・。そんなに揃えなきゃならないならテント張って一夜を越せよ。俺は何を、ツッコんでんだ? いいか、ついでに言っとくけどなぁ、テント張るだけじゃあ優雅に夜は越せないからなぁ! 寝袋がないと、夜はまだ寒いし、寝付きがめちゃくちゃ悪くて、ここの床だって硬いし、全然思うように眠れねーからなぁ! テント張ってあるだけじゃあ、駄目なんだよ」
「さっきから何を言ってるんですか?」
「うるせえ。お前にだけは言われたくない。絶対的に、それは、お前にだけは言われたくない。元はと言えばお前が突然マジ面こいて、神はいるかとかいないかとか俺に聞いてくるからこうなるんだろうがぁ」
「どうです、そろそろ判定結果出ました?」
「あ」
"終了"の枠に赤い棒線が出ている。が、"判定"の枠には何も表示されていない。
「どうなのこれ? いちおう反応したはしたみたいなんだけど」
器具を差し出す。受け取る妖精。
「うーん・・・・、ためらっちゃってるのかなぁ赤ちゃん」
今度はベテラン助産師みたいなこと言いやがった。ひょっとして資格持ってんのか、資格マニアか、こいつ。ああ、確かに、そのうち、「妖精には誰でもなれますよー。五年間専門学校で勉強して、妖精国家試験通れば誰でもなれますよー」とか言いそうだなぁ。
強めの鼻息をふんっと吹いて、器具を返してよこす妖精。
「その、銀色の部分を私に向けて、翳してください」
「ぅえぁ? ・・・・こう?」
「違う! 器具の胴体の、正面全体を向けて」
「どっちやねん! ・・どうやねん!」
「表の面を、全部私に向けて、そう! そのまま、動かないで。永遠に、動かないつもりで」
「それは嫌だよ! 何だよ永遠に動かないつもりでって・・、どゆこと?」
「つもり、でいいんで。心でそう思ってるだけでいいんで。大丈夫、本当に永遠に動かなくなるものなんてないんですから」
「・・ならそんなこと言うなよ」
「いいから、そのまま・・」
器具を右手に持って、表の面、先端の銀色の部分も結果表示の枠の部分も見える方の面を、妖精に向ける。俺からは器具の裏側が見える。器具越しに、妖精の顔も見える。大袈裟な、真顔。目がナチュラルにイッちゃってる。相変わらず謎すぎる真顔。絶対お前心の中ではふざけてんだろって感じざるを得ない、真顔。
妖精が、器具に向かって手を翳す。
ひょっとしたらこれは今日一番に面白いところかもしれない。何してんの? 念か? 念を込めて器具に送っている最中なのか? ツラよ。別に全然お前のことを妖精なんて信じたわけでも、人間ではない超存在だと本当に心から思ったわけでもないからな。ただ、何となく、二人で、こうして、楽しく、過ごしてしまっているだけだからな。勘違いするなよ。この距離感、あやふやなままの方が、お前もボケやすいだろうなぁ、あわよくば俺も被せボケみたいになって、前人未到に面白いかもなぁと思って、このままの状態なだけだからな、勘違いするなよ。うわぁ、めっちゃ勘違いしてる。アホくさー、おもしろーい。こんなのしばらく見させられたら、器具の判定どうこうより、俺の精神が先に持たないかもしれん。こりゃ本当に永遠に動かないつもりでいないと、小笑いして動いてしまう。でもそう考えると、やっぱりこいつ、動きそうになってしまう俺のことを予言してる。未来を、的中させている。さすが、よ・・。
「マジョリカパンデリカパンデリカマジョリカァー!」
「・・ぇうぁ? ・・何て?」
「カァッ!」
カァッじゃねーよ。余韻とかいいんだよ。スベるはもうスベってんだから。足掻くな。
翳した手を震わせ、眉間に皺を寄せての、摩訶不思議な妖精の雄叫び。
何それ? 呪文? 何? 思いっきり地球の言葉だよな。多分、英語? そこはさすがにオリジナルな妖精語とかじゃなきゃ駄目なんじゃねーの。あ、妖精語って日本語なんだっけか。あれっ、じゃあ日本語で唱えろよ。せめて、お経みたいなやつで。
妖精が、数歩小さく寄って来て手を伸ばし、俺から器具を取る。
やんわりとした笑顔な、妖精。器具を自分の顔に近づけて、静かに見つめる。そしてそのあと、その優しい笑顔のまま、俺の方を見る。視線が、通ずる。
「紛れもない、あなたの分身の、血を分けた、文字通り、あなたの喜びも悲しみも、憤りも虚無感も、情熱も滑脱さも、運命的な阻害の数々も、優しさも、愛も、全てを共に分け隔てていく、あなたより未来の道標の、あなたの・・、誕生です!」
風が吹く。生暖かい風。傾いた陽。全てがオレンジに抱かれている。
気付けばまた喉がカラカラだ。スーツなんか着て来るんじゃなかった。屋上になんて、来るんじゃなかった。嘘。来てよかった。今、ただただ、普通に、素晴らしく、何の気なしに、奇跡的に、幸せだ。幸せに包まれて、幸せに浮かんでいる。
誇らしく器具の表の面を俺に向けて見せる妖精。
"判定"
「l」
印が付いている。立っている。先程まで表示されていなかった"判定"の枠に、印が付いている。
妖精の言葉と呪文らしき絶叫と器具の不思議な性能をそのまま信じると、未来に、俺の子供がいることになるらしい。現実には全く存在していない、誰も身ごもっていない、俺の子供。限りなく妖精という概念に取り憑かれた、何となく総合的に判断して妖精っぽい、目の前の男が言うには。
「陽性!」
誇らしげに言う、妖精。口角が、見たことがないような角度で上がっている。ギリ人類レベルの、口角の上がり具合。
「・・陽性」
何にも言うことがなくなって、復唱するしかなくなる。
「ふっ・・、陽性」
尚、誇らしそうに言う妖精。鼻息が笑っている。
「アンビリー、バブル・・」
言うことがなく、ベタな返しの言葉を言うしかなくなる。
沈黙。
暖かい。ずっと暗闇がおとずれなければいい。ずっとこの暖かさの中で過ごせるなら、きっと人間は、いつまでも、悲しみと愛を片時も離さないままでいられる。
「何それ?」
妖精が、バカにしたように微笑み、そう言う。
「何が?」
「今、何て言いました?」
「何が? 今? ・・アンビリーバブル?」
「そうそれ。どうゆうことですか?」
「アンビリーバブル、英語で、信じられないってことでしょ。何だか起こっていることが色々わけわかんなくて、自然と、言ったけど」
「うふふふふふふっ。ふふんっ」
妖精が呆れたようにして立ったまま前にうなだれる。そしてすぐに、顔を上げる。
「それ、アンビリーリバボレでしょ。英語間違えてますよ。聞いたことないアンビリーバブルなんて。ふふふふふふふふっ」
は?
「いや、地球上の、この世界の英語ではアンビリーバブルで合ってるよ。信じられないって意味の英語は、間違いなくそれで合ってるよ。そっちの、妖精界の英語と違ってるだけだろ。なんも変なこと言ってねーぞ俺は」
俺がそう言うと、
「へぇー、そうだったんだぁ。それでかぁ、へぇー。はっはーん、微妙に、やっぱり違うんだなぁ。共通、だと思って認識、いや・・、ははーん」
と、しこたま驚く妖精。
「アンビリーバブル、アンビリーリバボレ、ははー、なるほどねぇなるほどねぇ。ははーん・・、ははーっ」
いつまで関心して言ってやがんだ。腕組みして。全てを悟ってんじゃなかったのかよ。もう、さっさとどっかに帰れ。そして、きっと、そこじゃねーわ! 引っ掛かって不思議に思わなきゃならないとこ、そこじゃねーわ! 俺はもう途中から面倒くさかったり嘘くさかったりで色々とやり過ごしてきたけど、きっと妖精と人間の違うとこちゃんと一つずつ理解し合うんなら、そんな言葉の語尾らへんの違いなんて今更どーだっていい! やり過ごせよ! 俺のことバカにしたようにしてやがんの。不思議がるとこ、関心を示すとこ、感動するとこ、そこじゃねーわ! こいつに毒されちまってる俺も俺だけどな。何だよ、「妖精界の英語」って。何それ。自分で何気に喋っていて、すんげーバカくせー。
「これからどうします?」
そう言って背中を向けてしゃがんで、バッグの中に器具を仕舞い込もうとする妖精。元の紙袋に入れてからバッグの奥に戻そうとしているのか、何だかまた、ガチャガチャやり始める。
「知らねーよ帰るよ。俺の日曜日を、返せ」
思わずそう、口を突いて出る。
「はっはっはっはっは、そうでしたか。なら代わりに、私の背中の羽も返してくださいよ。物々交、」
「知らねーよ! もっと、最上級に知らねーよそれは! 俺と会った時もう付いてなかっただろ。赤い羽募金団体にあげたんだろ? 俺に返せって、見たこともねーわお前の羽なんて」
「はっはっはっはっ。お上手ですね」
「何がだよ! 返しの一発目のセリフ意味わかんねー。ネジでも取れたのか? ・・そしてそれを今、代えのネジを必死に探してんのか?」
バッグのジッパーを閉じ、立ち上がる妖精。そのまま振り返り、向かい合う。
「さて、本当にこれからどうします?」
「いやいやいやいや・・、ジム終わりの会社の同僚、みたいなノリで言われても。何? まだ二人でなんかしなきゃいけないイベントでもあるわけ? 二人行動? や間違えた、一人と一妖精行動? 悪いけど俺はもう帰る。さよなら。そこそこ楽しかったよ。お前は・・、これからどうするの?」
「うーんどうしよう・・。帰って、笑点でも見な、」
「俺は生きるよ! 俺"も"、生きるかな? きっと多分、とりあえず、生きれるところまでは生きてみようと思う。全て神の手の平の上の出来事なのかもしれないけど、それでも、誰かの心と、共に生きて、羽ばたいて、生き抗ってみようと思う。これからは無意識の内に、未完遂のままの愛の姿を、愛の名を、その未完遂のまま完遂するために、敢えて恥を忍んででも、生きていきたいと思う」
「熱いですねぇ、熱い! スーツ着て来て良かったですねぇ。相変わらずお熱い! さすがです。"シュウゾウ"、って、今度から呼ばせてもらってもいいですか?」
「・・お前、どっちだ? 人間なのか、妖精なのか・・。人間だとしたら、ただの、日本人だろお前。系統はモロに、何の疑いもなく日本人顔だしな」
「どちらでも構いません。人間でも妖精でも。瞬さんが人間だと思うならきっと私は人間だし、妖精だと思うなら、きっと私は妖精です。いつの日も・・。それで、いいんです」
踵を返す。歩みながら顔だけ妖精の方を向き、僅かに手を上げて合図して、微笑んでみせる。
「じゃあな、長生きしろよ。あれ、妖精はずっと生きるんだっけ?」
「なんかさっきから、うまくまとめようまとめようとしてますよね。なに勝手に終わらせようとしてるんですか?」
「ぶっ!」
吹き出してしまう。歩みを止める。でも、もう、目前にはフェンス。割とマジで切なそうな表情で俺を見つめている妖精。何が、名残惜しい?
「えっ、ダメ?」
「帰しませんよぉう!」
ゲイ疑惑再浮上。ああ、いや・・、妖精にはハッキリとした性別も何もないんだっけか。肝心なもの持ってねーなぁ妖精。
「何で?」
「もうひと盛り上がり欲しくないっすか、瞬さん」
「ふっふっふっふっふ・・、はぁ・・、はっはっはっはっはっはっは」
呆れ笑いをしてしまう。ほぼ息だけで、笑う。息を吐きながら、それを引き摺って起こす、笑い。
「お前どっから湧いてくるんだその自信。で、シュウゾウって呼ばねーのな。フリが効いてんのに、普通に今まで通り呼んでくるのな」
「いやあ、それは、ちゃんと許可を頂くことができなかったんで。呼んでいい?」
「ダメ」
「あーっ、ふふふっ、酷い!」
何これ?
妖精は普通に笑っている。オッサンの笑顔。
お腹が空いて、ぐーっと音が鳴る。長く鳴る。
「せっかくなんでやっぱり飛んでみませんか?」
ーー
あたたかい。
太陽からも、こっちからも、お互い、近づいていっているような。ずっと、もうすぐ陽が暮れることはわかってるんだけど、終わらないような。いつまでも、本気で、遊んでいられるような。
間違いなく風が吹いて、喉が渇いて、陽が落ちていき、お腹が空いて、遠くの海で波が揺れ、表情が変わり、萎んでは咲き誇り、季節を辿る。誰かを、何かを、思う。理を超えた理の上で、思われる。時を止め、動かし、時を超える。現象を、超えていく。
いつからこうしてるんだっけ? 目の前の存在が誰であるかわからない以上に、今ここにこうしている、自分という存在が何なのかわからない。
どうしてここに来た? どうやってここまで来たんだっけ? 昨日何食べた? 怒ってるの? 喜んでるの? 何が、誰が大切なんだっけ? 何をしようとしてたんだっけ? やりたいことは?やりたくないことは? やらなければならないことは? 何が嫌い? 何が怖い? 誰が憎い? ・・憎い? 誰が好き? 誰を、何を愛している? 愛? 愛・・・・、愛している?
「あっはっはっはっはっ。まだ言うか。いいよ、遠慮しとく。いつかやるかどうかなんてわからないけど、楽しみに取っておくという方向で、方向性で。あっはっはっはっはっ。それよりも妖精界のことをもっと聞きたい。せっかくだから聞かせてくれ。空は、どんな色? 仕事は? テレビ番組とか、どんなのがある?建造物は? お祭りとかあるの? 平均気温はどれくらい? どんな物を食べるの? 自然は? 海とか山とかってある? 妖精界に有名人っているの? 偉業、偉大な功績を残した妖精とか、スタースポーツ選手妖精とか、カリスマ音楽家妖精とかって、いるの? 何でお前の歯、そんなに汚いの? 妖精界ってどれくらいの広さなの? 地球の大きさと同じくらい? そもそも妖精って、人間って、何? 色んなこと、今、暗くなるまででいい、伝えられる、理解できると思える範囲内でいい、言って聞かせてくれ。教えてくれ、頼む、な? 知りてぇー。せっかくだからもうちょっとここで話そうよ」
ーー