兄と妹
フェリスは素早く立ち上がった。
聞いたことのない、若い男の声だ。
だが、このタイミング、この現れ方ならば、正体の予測はつく。
「はい、はい! 今、行きますから。大声を出さないで!」
言いながら台所を出て、小走りに玄関へと向かう。
――その瞬間、
「どわぁっ!?」
フェリスは、いきなり駆け込んできた背の高い男と、真正面からぶつかった。
普通の娘ならば、その場に尻餅をついて泣き出しかねない衝撃だ。
「い……痛ったあ~!」
激突の直前、後ろに飛び退って勢いを殺したのは、戦士の反射のなせるわざ。
それでも、思わず涙目になって鼻の頭と口を押さえるフェリスだった。
無理もない。それほどの勢いで激突したのである。
「き、君は?」
間近に、茶色の髪の若者の顔があった。
反射的に、フェリスを抱きとめるように両肩に手をかけている。
茶色の目が、驚きに見開かれていた。
「あ……あたしは、フェリスデール・レイド。ティンドロック卿に泊めていただいてる者です……」
「申し訳ない! お怪我は――」
言いかけたところで、はっと何かを思い出したように、フェリスの肩を掴む若者の手に力がこもった。
思わず声を上げそうになるほどの強さで、指が食い込む。
「あの、それより、妹は!? ティアが、こちらにお邪魔していると――」
言い募ろうとした若者のことばが、そこで不意に途切れた。
フェリスの肩から、手が離れる。
若者の視線を追ってフェリスが振り向くと、台所の入り口から、イーサンがゆっくりと姿をあらわしたところだった。
「……どうして、お前がここにいる」
若者の視線が氷のようになり、口調も別人のように冷え切った。
「道場に俺がいて、悪いかよ」
イーサンが、ふてぶてしい口調で言い返す。
一瞬にして、火花の散る男二人のあいだに挟まれてしまったフェリスは、動くに動けず、きょろきょろと視線を動かすばかりだ。
見ると、若者の後ろに、ようやく追いついてきたらしいオルトたちの姿が見えたが――
彼らもやはり、割って入る度胸はないようだった。
フェリスは仕方なく、若者のほうを観察することにした。
ラインス・クレッサ――
状況から考えて、彼に間違いない。
帝都警備隊員であり、このユーザ剣術道場の卒業生。
ティアの兄。
そして……殺されたクリル・クレッサの息子。
父を失った衝撃が大きな爪痕を残しているのだろう、目の下に、くっきりと隈が浮いている。
ほんの今朝方の悲劇だ。無理もない。
それでも職務を放棄する気はないらしく、帝都警備隊の紋章が入った革鎧に身をかため、帯剣していた。
(この人……)
その姿を見て、フェリスは、即座に判断を下した。
(かなりの使い手だ)
重心の取り方が、素人ではない。
立ち姿を一目見ただけで、フェリスにはそれが分かった。
「妹は?」
「上だ」
ラインスとイーサンが、押し殺したことばを交わす。
短いやりとりの中にも、無数の敵意の糸が張り詰めている。
さあ、どうなる、と、フェリスは油断なく身構えた。
万が一、この場で殴り合いでも始まったら、身を挺して制止するつもりだ。
ややあって、ラインスは、さっと踵を返した。
階段に向かうつもりだ。
オルトやガリスたちが、慌てて廊下の脇に飛びのき、先輩のために道を開ける。
「待てよ!」
イーサンの荒い声が響き、ラインスの足がぴたりと止まった。
「てめえ、何してんだ? 俺が、医者を呼びに行ったんだぞ。
こんなときに……ティアちゃんを、放ったらかしにしやがって……」
「何だと?」
振り向いたラインスの眼光の凄まじさに、さしものフェリスが、息を呑んだ。
「貴様……もう一度、言ってみろ」
「何だ、おい? それで、俺がびびるとでも思ってんのかよ?」
よせ、とオルトたちが必死で手信号を送っているが、目にも入らないのか、それとも無視しているのか。
イーサンは、牙を剥くように、ラインスに食ってかかった。
「何度でも言ってやるぜ。……てめえ、何してやがんだ!?
親父さんが死んだのに、ティアちゃんを放って、警備隊の仕事か!?
てめえ……それでも、兄貴かよ!」
ラインスの目の色が変わった。
「黙れ! 貴様に何が分かる――!?」
繰り出された拳は、見えぬほどの速さ。
イーサンもまた、だんと踏み出しながら、加減のない蹴りを放って――
「!!」
オルトたちが、息を呑んだ。
驚きのあまり、声を出すことすらできなかったのだ。
「ばっか野郎……!」
歯を食いしばった、唸るような声。
ラインスの疾風のような拳を、そして、イーサンの雷光のような蹴りを――
男たちのあいだに飛び込んだフェリスが、それぞれ腕一本ずつで、食い止めたのだ。
煮固めた革の手甲をつけているとはいえ、受けた衝撃は並大抵のものではないはずだった。
その証拠に、表情は苦痛をこらえて大きく歪んでいる。
だが、
「こんなところで争って、何になる!? ――ガキか、貴様らはっ!?
こんな情けない姿を、あの子に見せるつもりか!?」
どすのきいた声には、髪ひと筋ほどの揺るぎもない。
口調が、完全に男のものになっていた。
底光りするみどりの目が、ぎろり、と二人を射抜く。
刃物のような、凄絶な眼光。
辺境警備隊の隊長――《皆殺しのフェリスデール》と恐れられる娘の顔。
イーサンとラインスも、これにはさすがに気圧されたらしく、完全に動きが止まっている。
そのときだ。
「……どわっ!?」
出し抜けに、イーサンの悲鳴が上がった。
同時、彼の大柄な体が吹っ飛び、真横の壁に激突する。
鈍い音とともに、苦鳴があがった。
何だ、とフェリスが目を見張った瞬間――
その鼻先を、銀光がかすめ過ぎた。
「!」
細い銀色の杖が、真っ向から、ラインスの喉元に突きつけられている。
「……下がれ。……こいつに、手を出すことは……俺が、許さん」
「グ」
信じられない、といった調子で、フェリスは叫んだ。
「グウィン!?」
「フェリス。結果が、出たぞ。これは……」
黒衣の魔術師は、そこまで言うと、不意に体をよろめかせた。
杖にすがったが支えきれずに、がくりとその場に膝を折る。
改めて見れば、グウィンの顔面は蒼白だった。
額には、脂汗がにじんでいる。
高度な魔術は、大きな恩恵をもたらすかわりに、代償として、術者の体力を容赦なく削り取るのだ。
「ちょっ……グウィン!? 大丈夫っ!?」
「ああ、少し、眩暈がするだけだ――」
「あ、そう? じゃあ良かった! ねっ、それで、結果は!?」
薄情と言おうか切り替えが早いと言おうか、勢い込んで尋ねたフェリスに、思わずぐったりと脱力するグウィンだ。
「あの、これは……いったい、どういう」
ラインスは、状況が飲み込めていない。
イーサンはといえば、グウィンに吹き飛ばされた――おそらく、小規模な衝撃波によって――際に、したたかに頭をぶつけたらしく、いまだ床にうずくまったままだ。
そこへ、
「おいっ、さっきから、何の騒ぎだっ!?」
特徴的な足音と共に、ガストンが二階から駆け下りてくる。
フェリスは、ようやく、ほうっと息を吐いた。
* * *
「結論から言おう。
この毛からは《黒の呪い》に特有の《光子》の痕跡は、感じられなかった」
「それじゃ……」
フェリスは、隣に立ったガストンと目を見合わせた。
場所は、いまだ廊下だ。
だが、二階に所を移している。
グウィンとフェリス、そしてガストンが集まっているのは、ティアがいる部屋の入り口のすぐ前だった。
今、部屋の中には、ティアとキャッサ、医師、そしてラインスがいる。
下で、壁に頭をぶつけて呻いていたイーサンはといえば、
「わしの親友の一人娘に蹴りを入れるとは何事だ!?」
と、ガストンの鉄拳を脳天に食らって完全に沈没したところを、とりあえずオルトたちに預けてきた。
気の毒といえば気の毒だが、病人のそばで、またもや揉め事を起こされたのではかなわない。
「つまり、これは《呪われし者》の遺物ではない、ということだ」
こめかみを押さえながら、グウィンが言った。
さりげなく片手を壁につき、体を支えているところを見ると、まだ眩暈がおさまりきらないらしい。
「確か……なんだよね?」
「むろん、確かだ。今回は、特に念入りに調べたのだからな。
《呪われし者》を見極める俺の実力は、おまえが、一番よく知っているはずだ」
「そうだね……」
辺境警備隊の任務では、グウィンの魔術によって、何度も《呪われし者》の擬態を見破ってきたのだ。
「そう、なんだ。とりあえず、良かったよ、うん」
「おお。わしも、胸を撫で下ろしたぞ」
ガストンが、実際に厚い胸板を撫で下ろす仕草をしながら呟く。
殺人事件の真相そのものは、いまだに不明だが、とりあえず、帝国全土がひっくり返るような一大事にだけは発展せずに済みそうだ。
「いったぁー……ここんとこ、絶対、腫れちゃってるよぉ」
《黒の呪い》は関係ないと分かって、緊張が緩んだせいか、急に腕がずきずきと痛みはじめる。
革の手甲ごしに手首のあたりを撫でながら、フェリスはぼやいた。
「手加減なかったもんね! さすがのあたしも、もうちょっと気が抜けてたらブッ飛んでたかも」
「すまん、フェリスちゃん。あの馬鹿者は、後で、もう一発殴っておくからな」
「あ、いえ、閣下! 大丈夫ですから」
まさしく岩のような量感をもった拳を固めるガストンに、慌てて、ばたばたと手を振る。
それに……どちらかといえば、イーサンの蹴りよりも、ラインスの拳の打撃のほうが重かったのだ。
(イーサンは、命中の直前、力を抜いてた。でも、ラインスさんは、全力で拳を振り切ってきた……)
自制も効かないほどに、怒り狂っていたということか。
それだけ、彼は、ティアのことを大切に思っているのだ。
(兄、妹……きょうだい、か)
一人娘として育ったフェリスには、想像するしかない感覚だ。
そのとき、ぎいと扉の開く音がした。
小太りの医師が、にこにこしながら出てくる。
相変わらず、汗びっしょりだ。
どうやら、もともと汗をかきやすいたちらしい。
「安心してください! 薬が効きましたよ。ティア・クレッサさんの容態は、すっかり落ち着きました!」
「ほんとっ?」
フェリスは、ぱっと顔を輝かせた。
「ええ。早く知らせていただいたおかげで、大事に至らずに済んだのです。呼びに来てくださった若い方に、お礼を言わなくてはなりませんね」
「ふむ、どうやらこれは、げんこつを引っ込めておくしかなさそうだな」
満足げなガストンの呟きの意味が、分かったのかどうか。
医師は、にこやかに頭を下げると、汗をふきふき立ち去っていった。
そこへ、またもや扉が開き、今度は、ラインスが出てくる。
彼の顔つきの変化に、フェリスは驚いた。
怒りと焦燥に気も狂わんばかりになっていた先ほどの様子が嘘のように、今のラインスは、穏やかな表情を浮かべている。
ラインスは、まっすぐにフェリスに歩み寄ると、
「先ほどは、本当に、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。
「お詫びのしようもない。かっとなって、女性に手を上げてしまうなど――帝都警備隊員として、完全に失格です」
「いやいや、いいんですよ!」
フェリスは笑顔で、ラインスの拳を受けたほうの手を大きく振ってみせた。
「別に、あたしを狙って殴ろうとしたんじゃないし。
それに、平気です、このくらい。もっとひどい有様になったことだって、何度もありますから!」
「確かにな。何しろこいつは、崖から転げ落ちても、吹っ飛ばされて板塀を突き破っても、全身血まみれになるほどの手傷を負っても、平然と戦い続ける奴だ――」
「うるさい!」
げん! とグウィンの足を蹴飛ばすフェリスを、ラインスは、戸惑うように見つめた。
普段、触れたら壊れそうにはかなげなティアを見慣れているためか、フェリスの強靭さを理解しかねるといった様子だ。
――もっとも、フェリスの場合、他のどんな娘と比べたとしても、断じて「普通」であるとは言われまい。
「昔からです。妹のこととなると、すぐ、頭に血が昇ってしまって」
ラインスは呟くように言い、今しがた自分が出てきた部屋の扉を振り返った。
「馬鹿だな、あいつ……出歩けるような状態じゃないのに」
その眼差しと口調は、あまりにも優しく、フェリスは漠然としたあこがれを感じた。
誰かのことを大切に思い、案じる心。
もちろん、父であるマクセスや、グウィン、辺境警備隊の仲間たちのことは、かけがえのない大切な人々だと思っている。
彼らもきっと、フェリスに対して、そう思ってくれているだろう。
だが、それをあからさまには表現しないのが、リューネ市民の気風だ。
肉体と精神の強さを尊ぶリューネの人々にとって、誰かを心配するということは、その者の強さを疑うということに他ならないのだ。
そういうときは、わざと気にもかけないふりをしたり、憎まれ口を叩いたりすることが、半ば礼儀のようになっている。
さきほどのグウィンのことばが、いい例だ。
(でも、こういうのも、たまには、悪くはないかもね……)
「そうだ」
不意に、ラインスが顔つきを改めた。
表情が変わったというほどの変化ではなく、おそらくは本人が意識してのことですらだろうが――父を失い、妹を案じる兄の顔から、帝都警備隊の男としての顔へと。
「教えていただけませんか。そもそも、妹は何をしに、この道場まで?」