紫のケモノ
「……ごめんなさい。勝手なことをしちゃって」
その場に集まった全員に向かって、フェリスは、神妙な表情で頭を下げた。
ガストンの屋敷の、居間である。
さほど広いわけではないこの部屋に、今、ガストン夫妻をはじめ、戻ってきたフェリスと門下生たち、そしてグウィンが集まっていた。
「まったくだ」
椅子にかけたグウィンが、苦り切った表情で言う。
その顔つきは、単に読書の時間を邪魔されたから、というだけではない。
「軽はずみにもほどがある。
今、下手に動けば、おまえ自身が怪しまれかねないんだぞ。
しかも、彼らまで巻き込むとは……」
「うん……ほんとに、考えなしだったわ。ごめんなさい。
みんなも、ほんとにごめんね」
フェリスは、素直に頭を下げた。
普段の彼女ならば、こんなふうにグウィンに説教されて、おとなしく謝ることなどありえない。
そうくどくど言わなくたって分かってるっ! くらいは確実に言い返しているところだ。
――しかし、今はさすがに、そんな気分にはなれない。
「まあ、まあ、いいじゃないか!
時には暴走するくらい元気なほうが、若者らしくていいというもんだ」
ガストンがことさらに軽い口調でとりなしたが、その言葉すらも、この場の沈鬱な雰囲気に呑まれて、そらぞらしく響く。
『犯人が出た』
その言葉を聞いたとき、フェリスはとっさに、連続殺人犯が姿を現し、逃げているのだと思い込んだ。
そこで、イーサンたちと共に、急いで現場に駆けつけたわけだ。
だが実際には、犯人は姿すら目撃されておらず、ただ、四番目の犠牲者の遺体が発見されただけだったのだ。
フェリスたちが到着したときには、すでに現場付近は捜査のために封鎖され、遺体は運び出された後だった。
そして、集まっていた野次馬たちから、殺された人物の名を聞いたとき、誰もが自分の耳を疑った。
「まさか……ラインスの親父さんが、殺されちまうとはなぁ……」
一転して沈んだ口調で、ガストンが唸る。
ラインスが門下生であった関係上、ガストン自身も、ラインスの父親であるクリルとは面識があったのだ。
「これからは、警備隊の巡視もますますきつくなるだろう。
今までは、出場者しか殺されない、という暗黙の了解があったからな。
帝都警備隊も、その線に絞って動いていたんだ。
だが、その暗黙の了解が、今回のことで崩れた。
もう、誰が殺されてもおかしくないってことになる」
「それにしても、どうして、クレッサさんが?
とても誠実で、立派な方でいらしたのに」
両手をしきりに揉み合わせながら、キャッサが呟く。
重苦しい沈黙が落ちた。
その場の誰もが、クリル・クレッサの息子、ラインスが御前試合への出場者であることを思い出していた。
犯人は、息子に脅しをかけるために、その父を殺したというのか?
だとすれば、これほど卑劣で、非道な犯罪があるだろうか。
フェリスがそっと横目で様子をうかがうと、イーサンは、蒼ざめた顔でじっと床をにらみつけていた。
殺されたクリルは、イーサンにとって、先輩でありライバルであるラインスの父であると同時に、想い人ティアの父親なのだ。
彼は今、どんな気持ちでいるのだろう、とフェリスは考えた。
衝撃、怒り……ティアを支えたいのに、それができない無力感。
ラインスに対する、複雑な思い。
それらが一度に渦巻いて、彼の胸を焼け付かせているのではないだろうか――
「あっ。ねえ、ひょっとしたら」
イーサンの物思いを中断させるように、フェリスは、ひとつの推理を口にした。
「クレッサさんには、怪しい奴の目星がついてたんじゃないかな?
だって、クレッサさんは、ラインスさんと同じ、帝都警備隊の人だったんでしょ。
なら、犯人を追ってるうちに、偶然、犯行の現場に出くわして……
犯人は、顔を見られて、口封じのためにクレッサさんを殺したのかもしれない!」
「それならば、もうひとり殺されたか、殺されかけた奴がいるということになる。そいつは一体、どこにいるんだ?」
グウィンの指摘は、どこまでも冷静だ。
「あ、そうか……」
もとより、思い付きで口にした推理である。
とっさに、それより先へ発展させることができない。
場が、再び重苦しい沈黙に支配され――
まったく唐突にそれを打ち破ったのは、呼び鈴が鳴り響く音だった。
屋敷の玄関先に、誰かが来ているのだ。
「どなたかしら?」
不審そうに呟いて、キャッサが席を立とうとする。
ガストンが華美な生活を嫌い、戦場において最低限の従卒以外は側に置かなかったというのは有名な話だ。
この屋敷には、使用人はひとりもおらず、キャッサがみずから家事のすべてを切り回している。
貴族の生活としては異例中の異例だが、キャッサ本人は、そんな暮らしを心から楽しんでいるようだった。
「いや、わしが出よう」
ガストンが、義足を鳴らして立ち上がった。
彼が夫人に笑顔を見せながら、腰に差した短剣の柄をさりげなく確かめるのを、フェリスは見逃さなかった。
物騒な時期だ。
この屋敷には、御前試合の出場者であるフェリスもいる。
招かれざる客、という可能性も、ないわけではないのだ。
ガストンが居間を出て行き、戻ってくるまでのしばらくの間、先程とはまた違った、わずかな緊張感を含んだ沈黙が降りた。
* * *
その者は、苛立っていた。
まったく、余計なことをしでかしてくれたものだ――
いや、大丈夫。
この程度のことで狂うような、脆い計画ではない。
そう、この計画は、完璧だ。
このたびの事件に関わった人間たちはことごとく、こちらが投げかける糸に絡め取られ、その計画を成就させるための駒として動かざるを得なくなるのだ――
「踊れ、踊れ」
くふふふふ、と、その者は笑った。
操り人形たちは踊る。
糸を手繰る者の存在も知らず。
自分たちのすぐ側に、奈落の暗闇が口を開けていることも知らずに、懸命になって。
* * *
やがて、ガストンが戻ってくる足音が聞こえてきた。
義足が床を打つ独特の音で、すぐに判る。
「……誰だろ?」
フェリスは、眉を寄せて小さく呟いた。
《辺境》の戦士として鍛え上げられた彼女の聴覚は、ガストンのものとは違う、もう一人分の足音を聞きとっていたのだ。
その足音はずいぶんと軽く、女性か、それとも子どものもののようだが――
「ティアちゃん!?」
戸口に、ガストンと、もうひとりが姿を現した瞬間。
がたんと椅子を蹴倒さんばかりの勢いで、イーサンが立ち上がった。
「ティアちゃんじゃねえか! どうして――」
道場の若者たちも、驚いた様子で、その娘を見つめている。
「ティアちゃん、って」
反射的に腰を浮かせかかった体勢で、思わずフェリスは呟いた。
(そうか。この子が)
茶色の髪を肩まで伸ばした、小柄な娘だ。
歳は、フェリスと同じくらいか、やや下といった印象である。
だが、伸びやかな長身に引き締まった体格という、いかにも戦士らしいフェリスの身体つきと比べて、ティアの身体は、あまりにも華奢だった。
巨漢のガストンと並んで立つと、その印象がいっそう強まる。
走ってでもきたのか、ティアは、はあはあと息を切らしていた。
だが、それにしては、妙に顔色が悪い。
――悪すぎる。まるで、紙の色だ。
彼女は、一同に向かって何かを言おうと口を開き、そのまま、ふらっ、と横手に倒れかかった。
「おい!?」
誰よりも早く、イーサンが、その身体を支えようと駆け寄る。
だが、彼女はびくっと身をすくませて、同時に駆け寄っていたキャッサのほうにすがった。
イーサンは、傷ついたように手を引っ込め、そのままゆっくりと引き下がる。
どうやらこれは、完全にイーサンの片恋のようだ。
かわいそうだけど、まったく脈がなさそうね……と、深刻な状況を忘れて、フェリスは思わず胸中で祈りの仕草をする。
「まあ、まあ、ティアさん。ひどくお疲れなのね。
どうぞこちらにお座りになって――あら、あら、まあ!」
ティアの肩を抱いたキャッサの眉が、ぐっと寄った。
「なんてことでしょう。ひどい熱!」
「何だってっ!?」
吠えるように声をあげたのは、イーサンだ。
「やべぇよ! それ、発作が出てるんじゃねえか!?」
「発作? ちょっと、発作って、どういうことっ?」
間髪を入れずに問いかけたフェリスに、イーサンは、両手を揉みしぼりながら言った。
「ティアちゃん、昔から、体が弱くてよ……
ちょっと無理すると、すぐに、すげぇ熱が出ちまうんだよ!
やべぇよ……前なんか、ほんとに死にそうになっちまったこともあるんだ!」
「そりゃ、いかん! ううむ、こりゃ、いかん」
戦場において、自軍に数倍する敵を前にしても泰然としていたといわれるガストンが、ばたばたと慌てた。
自身が生来頑健で、病などとは無縁であったがゆえに、こわれもののような少女をどのように扱えばよいのか分かりかねているのだ。
「閣下、とりあえず毛布です! それから、何か水気のものを!」
「おお!」
フェリスの的確な指示に、ガストンは大きく頷いた。
「誰か、予備の寝室から、毛布を取ってこい!」
ガストンの指示と同時に、イーサンがものすごい速さで部屋を飛び出していく。
「キャッサ、お嬢さんを、そっちの長椅子に寝かせてくれんか」
「ええ……」
夫人が、ひなを翼でつつむ雌鶏のように、いたわりに満ちたしぐさでティアを長椅子へと導いた。
グウィンが差し出したクッションをフェリスがすかさず受け取り、ティアの身体の下に差し入れる。
「フェリスさん、わたくし、水差しなどを用意してまいりますわ。
そのあいだ、ティアさんを看てさしあげてくださる?」
「はっ!」
反射的に答えて、ぐっと拳を掲げる敬礼をした。
年長の女性に対して失礼だったか、と一瞬焦ったが、キャッサは気にしたふうもなくうなずくと、ぱたぱたと走って部屋を出てゆく。
ティアは、ぐったりとクッションに身を預け、目を閉じたままで浅い呼吸を繰り返していた。
「ねえ、グウィン、どう?」
フェリスは、ティアの額にはりついた前髪をそっとのけてやりながら、気遣わしげに囁いた。
グウィンはすでに少女のかたわらに膝をつき、冷静に容体を確かめている。
辺境警備隊では、その薬草学と医学の知識によって、衛生兵としても活躍していたグウィンだ。
彼は、難しい顔をして首を振った。
「たしかにイーサンの言う通り、流行性の病ではなく、体質的なものらしい。
俺にもいくらか薬の手持ちはあるが、こちらの勝手な判断で投薬することは危険だ。
かかりつけの医師を呼ぶくらいしか、手のほどこしようがないな……」
「――なあ、おい! どうなってんだよ!?」
毛布を抱えてばたばたと戻ってきたイーサンが吠えるように叫び、全員に「しーっ!」と制止される。
彼は、ティアの辛そうな様子を見て、ぐっと叫びを飲み込んだ。
フェリスに毛布を渡しながら、抑えた口調で言い募る。
「だってよ……こんなんで、俺らを訪ねてくるなんて無茶だ!
いったい、なんで――」
「さっき、ちらっと聞いたところでは、何か、わしらに大切な話があるということだったんだが」
彼女をここまで案内してきたガストンも、首をひねるばかりである。
「ん?」
毛布をかけてやろうとしたとき、フェリスはあることを目に留め、指差して声をあげた。
「ねえ。その手……何か、持ってる?」
ティアの右手が、胸の前で、ぎゅっと握りしめられているのだ。
と、まるでフェリスの問いかけに反応したように、少女のまぶたがぴくりと震えた。
やがて、そのまぶたが薄く開き、うるんだ薄茶色の目がフェリスの顔を見つめる。
「誰、ですか?」
「えっ? ……ああ!」
一瞬、驚いたものの、フェリスは、すぐに笑顔を浮かべた。
彼女一流の、相手を安心させるような、満面の明るい笑みだ。
「初めまして。あたしは、フェリスっていうの。フェリスデール・レイド。
あたしの父が、ティンドロック卿――こちらのガストンさんの、親友でね。
そのご縁で、今、ここに泊めていただいてるの。
絶対、怪しいものじゃないから、安心して!」
フェリスの発言を裏付けるように、横から、ガストンとイーサンが深くうなずく。
ティアはそれを見て安心したのか、ほんの少しだけ微笑むような表情を見せた。
「これ……」
握りしめていた手を差し出し、指を開いて、呟く。
「手がかり、です」
「手がかり?」
全員が、異口同音に呟いた。
一斉に身を乗り出して、少女の手のひらを見る。
なんだ、何もないじゃない、と、フェリスは一瞬思った。
だが、よく見れば、少女の白い手のひらの真ん中に、一筋の、ごく細いものが載っている。
「何? ……毛? 動物の毛かな?」
「紫色に、見えるが」
グウィンが呟く。
「これ……父さんの右手の、小指の……爪のあいだに、挟まってたんです」
ティアが言った。
その声は、か細く震え、ひゅうひゅうという息の音が混じって聞き取りにくい。
「絶対、犯人のものだわ。
そういう手がかりから、事件が、解決することがよくあるって……
父さんが、前に教えてくれました……」
「それは、確かに、有力な手がかりになるかもしれん」
ガストンが、少女のことばをさえぎった。
「だがな、ティアちゃん。ひとつ教えてくれんか?
こんな大事なものを、そんな身体で、どうしてわしらのところに持ってきた?
ほんとうなら、警備隊に提出しなきゃならんものだろう。
兄貴――ラインスは、このことを知っとるのか?」
「あたし……警備隊の人たちが、信用できないんです」
ティアは、かぶりを振りながらそう言い切り、その場の全員が一瞬、押し黙った。
「ああ……」
ややあって、再び、ガストンが口を開く。
「確かに、気持ちは、よくわかる。父上のことは、たいへん気の毒だった。
犯人の逮捕が遅れとるのも、また事実だ。
だがな、ティアちゃん。兄貴や、警備隊の連中だって、今も必死に――」
「そうじゃ、ないんです」
苦しげに片手を振り、ティアは、ガストンを見つめた。
「父さんも、お兄ちゃんも、ほとんど寝ないでお仕事してました……
他の人たちも、みんな、そうだって。
それなのに……みんなが、そんなにいっしょうけんめい捜査してるのに、犯人が捕まらないなんて、おかしいわ。
だから、あたし、思ったんです。
ひょっとしたら……警備隊のなかに、犯人に情報を流してる人が、いるのかもしれないって……」
一同は、ふたたび顔を見合わせた。
警備隊の中に、犯人に内通している者がいる?
確かに、絶対にありえない、とは言い切れない話だ。
だが――
「そういう……証拠があるの? 何か、見たとか、聞いたとか……」
フェリスは、疑っていると思われないよう、慎重な口調でたずねた。
いくら可能性があっても、確たる証拠がなければ、単なる思い込みの域を出ない。
ティアは顔をしかめて、首を横に振った。
「そういうのは、ありません……
でも、ここまで犯人が捕まらないんだから、もう、情報が漏れてるとしか思えないでしょ……?
だから、このことは、警備隊の人たちには、秘密にしておきたいんです。
お兄ちゃんに、知らせたら、そんなことあるはずないって、怒られるから、内緒で……」
「そこで、わしらに、か。……しかし、なぜ、わしらに?」
「お兄ちゃんから……この道場のお話、よく、聞いてたからです」
熱のために潤んだ目で、ティアは一同を眺めわたした。
若者たちの何人かが、どぎまぎと目を伏せる。
「道場の門下生は、いい奴らばかりだ……警備隊に入るために、がんばって訓練してる者も、いっぱいいる……お兄ちゃん、いつも、そう言ってます。
だから、お願いです、力を貸してください。
父さんに、あんなことしたやつを、絶対に、捕まえて――」
そこまで言って、急にティアは言葉を途切れさせた。
胸を押さえ、激しく咳き込みはじめる。
喉が傷ついてしまいそうな苦しげな咳に、イーサンが、居ても立ってもいられないという様子で両手をわななかせた。
「おい、魔術師! 何とかしてくれよ!」
「残念ながら、俺は、治癒魔術の使い手ではない。
薬草の持ち合わせならあるが、素人判断での投薬は危険だ。
しかし、確かに、このまま放置しておくのも危ない――」
辺境警備隊で幾多の病人、怪我人を診てきただけに、グウィンの判断は冷静で、迷いがない。
グウィンは、ガストンを見て、軽く頭を下げた。
それだけでグウィンの意図を悟り、ガストンがイーサンのほうを向く。
「おい、イーサン! この子のかかりつけ医の居所に、心当たりはあるか?
あるなら、すぐにこの屋敷に呼んでくるんだ!」
「分かりました、師匠!」
「よし。オルト、ガリス、ノースト!」
「はいっ!」
「おまえらは、ひとっ走りして、この子の兄貴――ラインスを呼んでこい!
任務中かも知れんが、この際かまわん。緊急事態だと言って、引っ張ってこい!」
「分かりました!」
若者たちが、どたどたと先を争うようにして部屋から飛び出してゆく。
彼らと入れ替わりに、キャッサが戻ってきた。
水差しや、体をふくための布など、看病に必要と思われるものを腕いっぱいに抱えている。
話しぶりや外見だけならば深窓の姫君といった印象のキャッサだが、さすがはガストンの夫人だけあって、いざというときの行動は本当にてきぱきとしたものだ。
「わたくし、ティアさんの汗を拭ってさしあげたいのです。
衣服の乱れることもあるでしょうから、殿方は、ご遠慮いただいてもよろしいかしら?」
「うむ。それなら、おまえがしばらく、ティアちゃんについててやってくれるか? 何かあったら、すぐに呼んでくれ」
「ええ、分かりましたわ」
力強くうなずいたキャッサのことばを受けて、ガストン、そしてグウィンが部屋から出ていく。
フェリスは、一瞬、迷ったが、グウィンに続いて部屋を出ることにした。
――どうしても、確かめておきたいことがあったのだ。
できるだけ静かに扉を閉めると同時、小走りに、グウィンの側に寄る。
「ねえ、グウィン。その毛のことだけど」
「ああ」
どうやら、グウィンもまったく同じことを考えていたらしい。
彼は、中庭に面した窓に歩み寄り、ティアから預かったままだった毛を日光にかざした。
「この、色は……」
「すごく、鮮やかな紫。染めたものには、見えないわよね……」
「なんだ、どうした、二人とも?」
怪訝そうにのぞきこんでくるガストンのことはさておいて、グウィンとフェリスは、顔を見合わせた。
まるで獣の爪跡のような傷痕。
剣術に長じた男たちをも一撃で倒す、高い戦闘能力。
そして、この、あざやかな紫色の毛――
人間に名を知られていない獣の仕業、とも考えられるが、ここまで狡猾に姿を隠し、四件もの殺人をおかしてのけたとなると、野生の獣などではなく、知性を持つ存在の所業であるとしか考えられない。
ここまで来ると、《辺境》から来たフェリスとグウィンには、もはや、ただひとつの可能性しか考えられなかった。
「紫の、ケモノ……
ねえ、これって、やっぱり《黒の呪い》なんじゃないの!?」
「だが、もしも《呪われし者》の仕業であるとすれば」
さすがに、グウィンの表情もこわばっている。
「《アレッサの結界》の効力が、弱まっているということになる……」
一瞬、しんとした。
ややあって、フェリスが、さすがに焦った口調で言う。
「でも……《アレッサの結界》って、これまで三百年以上、ずっと効き続けてたものなんでしょ!? あんたがそう言ってたんじゃないの。
虫除けかなんかじゃあるまいし、そう簡単に効き目が切れちゃうなんてことがあるわけ?」
「確かに《アレッサの結界》は、地形そのものを利用した、非常に大規模なものだ。
天変地異で地形が大きく変わりでもしない限り、そう簡単に効果が失われることなど、ありえないはずなのだが……」
「おいおいおい、二人とも!」
さすがに聞き捨てならなかったのか、二人の会話に、ガストンが割り込んでくる。
「さっきから聞いとれば、何を物騒なことを言っとるんだ?
《アレッサの結界》は、皇帝陛下がじきじきに総長をつとめておられる、央の帝国魔術学院が管理しとるんだぞ。
何人もの優れた魔術師たちが、ほんのわずかなほころびも見逃さぬよう、日々、厳重に監視しとるんだ。
その《結界》が揺らぐなどということが、あるはずがないだろう?」
「でも、閣下。もしかすると、何か、事故でもあったのかもしれませんよ?
それで、みんなに知らせたらパニックになっちゃうからって、わざと情報が抑えられてるのかも」
フェリスは、不穏極まりない予測を、さらりと口にした。
『恐怖や不安から、いくら目を逸らしても、身を守る役には立たん。それが、どれほど不都合なものであろうとも、現実を見据えて、打開策を探るしかない』
常にこういう姿勢でなくては、《辺境》暮らしはつとまらない。
父である将軍、マクセスの教えだ。
もちろん、フェリス本人の性格によるところも大きいが。
「ううむ……」
さしものガストンが、顔をしかめて黙り込んだ。
無理もない。
ガストンをはじめ、帝都で生まれ育った人々にとって、《アレッサの結界》の効力は、太陽が東から西に動くのと同じように普遍的なものなのだ。
だからこそ、それが揺らいでいるかもしれない、という事態を、そう簡単に受け入れることはできないのだろう。
「確かめればいい」
不意に、グウィンが、静かに言った。
「はぁ? 確かめる、って……できるの? そんなこと」
思わず、あからさまに疑いの口調で聞き返すフェリスだ。
「もちろん、簡単ではないが……できんこともない。
《黒の呪い》に関わったものは、必ず、特有の痕跡をとどめる。
ごく微細な《光子》の揺れを見極めて、その痕跡を見分けるのだ。
特有の痕跡があれば、この毛は《呪われし者》の遺物。
痕跡がなければ、そうではない、ということが分かる」
この世界は、極小の光の粒――《光子》というものが集まって構成されている、というのが、最新の魔術研究の理論だ。
そして、魔術師は、極度に集中することにより《光子》の状態を《視る》ことができるのである。
「だが、本体ならともかく、毛が一本では、さすがに心もとないな。
静かな場所で《ヒュームの霊薬》の力を借りる必要があるだろう。
音と光の刺激が、なるべく少ない場所が望ましいのだが……」
「それなら、この屋敷の地下室を使え!」
ガストンが、吹っ切れたような表情で口を開いた。
「証拠もない状態であれこれ憶測しても、始まらん。
こうなったら、とことんまで事をはっきりさせるしかなさそうだ。
もしも、本当に《アレッサの結界》が弱まっているのだとしたら、一大事だからな。
まさかご存じないとも思えんが、万が一のことを考えて、皇帝陛下に御報告申し上げる必要も出てくる。
――おい、その術に、何か必要なものはあるのか? 何でも用意するぞ」
「いえ、霊薬は、調合済みのものを持参しておりますので」
魔術師は、難しい魔術を行う際、より深く、安定した集中を得るために、精神に働きかける薬品の助けを借りることがあった。
開発者の名をとって《ヒュームの霊薬》と呼ばれるその薬品は、数種類の薬草などを混ぜ合わせて作られる。
そして、すぐれた効果を発揮する薬品の例にもれず、これにも副作用があった。
深い精神統一を可能とする代わりに、反射神経や五感をいちじるしく鈍らせるのだ。
それゆえに、戦いの中で用いるには不向きだが、今回のような場合には打ってつけだった。
「でも、大丈夫なの? グウィン」
フェリスは、顔をしかめた。
「あんた、あれ、あんまり体質に合わないんじゃなかった?」
使用する者の体質によっては、効果が切れた後に吐き気や頭痛に襲われたり、ひどい倦怠感にとらわれることもあるという。
グウィンの場合は、頭痛が来るらしい。
彼は、何を言っている、と言わんばかりの横目で、ちらりとフェリスを見た。
「そんな瑣末事を気にかけている場合ではないだろう。
……事が明らかにならんうちは、おまえも、試合に集中できんだろうしな」
ことばの後半は、視線を外し、呟くような口調になる。
「え?」
フェリスは思わず、間の抜けた声をあげた。
(それじゃ……グウィンが突然、こんなこと言い出したのって……
あたしのためでもある、ってこと?)
「善は急げだ。魔術師、すぐにやってくれるか?」
「ええ」
「よし! 地下室はこっちだ」
俄然、張り切った様子でガストンが先頭に立ち、グウィンがそれに続く。
フェリスは、まだちょっと信じられないといった表情で、グウィンの背中を追った。