女神たち
しゅんしゅんと、やかんの口から、湯気の吹き出す音が響いている。
「お姉さま……」
金の髪の娘と、黒髪の魔術師が去った《黒檀の間》で、素焼きのカップを両手で包みこみながら、ディアナが口を開いた。
「ようやく《翼持つ女神》が戻りましたわね。これほどの時をかけて、お姉さまの悲願が、やっと……」
「五百年」
その眼差しに、どこか懐かしそうな色を浮かべて、ルーシャが答える。
「わたくしは、さほど長い時だとは感じなかった。あっという間だったわ。
それに、これで終わりではない。彼女は、まだ――」
「わたくしと同じ、不完全な複製」
ディアナは、自分とまったく同じ《姉》の顔を見つめて、呟くように言った。
「わたくしたちには《核》は備わっていないもの。
お姉さまほどの力をもってしても、あれを複製することだけは、どうしてもできなかった……」
「不完全だなんて言い方はよしてちょうだい、ディアナ。このわたくしが、あなたがたの存在に、どれほど支えられていることか。
あの子が言ったこと、わたくしにはよく分かるわ。
どれほどの力があろうと、たった一人では、長く戦い抜くことはできない。
その心を支える存在がなくては、戦う気力を保ち続けることはできないから……」
「けれど、今のままの状態を続けるのは、危険ではないかしら?
わたくしと同じで、あの子には、完璧な再生能力は備わっていない。それでも、オプスよりもずっと傷の治りは良いようですけれど。
それに、あの子は《封印》の影響で、まだ《光子》を視ることさえもできないでしょう?
あの夜にひとつ解除されたけれど、他の《封印》を解かないままで大丈夫なのかしら?
ああ……でも、今、あの子に真実を話すのは――」
「真実を明かすときは、いつか必ず来るでしょう」
ルーシャは、不安そうな《妹》に向かって微笑んでみせた。
「でも、今ではない。
あの魔術師は、わたくしのことに気付いていました。
それでも、気付いた上で、今はまだ、あの子には伏せるという選択をしたでしょう?」
* * *
『陛下』
と、皇帝に呼び出され、これまでの事情をすべて明かされたグウィンは、話を聞き終えてすぐに、かたい表情で言った。
フェリスが《黒檀の間》に呼ばれる、数日前のことだった。
『おそれながら……ひとつ、伺ってもよろしいか』
『ええ、何なりと』
『では、陛下。あなたさまは……ヒト、で、あらせられますか?』
ルーシャは、何の反応も見せなかった。
ただ、灰色のドレスに合わせた銀色の髪をくるくるともてあそびながら、青い目でグウィンを見返していた。
対する若い魔術師のこめかみには、びっしりと脂汗が浮いていた。
その瞬間のグウィンの顔を、もしもフェリスが見たとしたら、驚愕せずにはいられなかっただろう。
その顔に浮かんでいたのは、恐れ。
――畏怖。
『あの、夜……あの戦いのとき、陛下の魔術を拝見いたしました。
あの領域に達するには、百年、いや千年に一人という天才的な素養と、凄まじい訓練が必要になる。
帝国魔術学院の魔術師たちは、幼い頃から日々《光子》を制御する訓練に明け暮れて、ようやく魔術をものにするのです。
陛下の魔術は、そういうものでは、なかった。
あのように複雑で完全な《光子》の配列を……まるで、呼吸をするように、易々と……』
つう、と、グウィンの頬を汗が伝い、顎の先から黒いローブに落ちて、吸い込まれる。
『そう……わたくしは、央の学院で魔術の修錬を積んだのですよ、魔術師』
『威力が段違いだ、と申し上げている。
あの時、陛下はキリエに対し、できるならばやってみるがいい、と仰せになった。帝都の街を、破壊できるものならば、やってみせよと――
実際にそれができる相手に対して、わざと挑発をするのは、自分に、相手の手を確実に防ぐだけの力があると分かっているときだけだ』
話しているうちに、当初はありありと感じられた気後れが、徐々に影をひそめてきた。
グウィンの顔は、まだ蒼ざめてはいたが、ルーシャを見据える視線に力がこもっている。
『《魔性》の本気の攻撃を受け止められると確信できる者など、今のこの世界には、いないはずだ。そんなものは……ヒトに可能な技では、ない。
陛下……貴方様もまた……キリエと同じ……』
『ほほほほ』
ルーシャは片手で口元を隠し、おかしくてたまらないというように笑った。
『では、あなた、グウィン・ホーク。
もしも、わたくしが、あなたが考えている通りの存在であったならば――
あなたは、一体、どうするつもりなのかしら?』
『もしも、陛下が、あの娘に害をなすつもりなのであれば』
グウィンの声が、微かに震えたが、視線は揺らがなかった。
『まずは、俺が陛下の相手になる。……無論、敵うはずもないが』
『まあ。では、あなたは名誉に殉じる勇敢な騎士というわけかしら?』
『俺が死ねば、あいつは、必ずその理由を探ろうとするだろう。
陛下が何を企んでおられるにせよ、それを知らずに、ただ利用されるようなことにはならないはずだ……』
ルーシャの目の奥に、炎が燃え上がったような気がした。
だが、その光は、すぐに消えた。
『……五百年……』
ルーシャは、時の流れをあらわそうとするかのように、漠然と宙に手を振った。
『本当に、あっという間でしたけれど、そのあいだのオプスたちの成長には、目を見張らされるものがありました。
当時は弱々しいものでしかなかったオプスたちの魔術も、飛躍的に進歩しましたし……あなたのような、頼もしい存在もあらわれてきた。嬉しく思いますよ』
語り始めたルーシャを、グウィンは、金色の鋭い視線でじっと見つめている。
何を明かし、何を隠すか。
どこまでを語り、どこからを伏せるか。
ルーシャは、ゆっくりと続けた。
『そう……わたくしもまた、オルタス。
あなたたちが《魔性》と呼び習わす存在。
皇女ルーシャ・ウィル・リオネスが十歳のときに、わたくしが、彼女と入れかわったのです』
『入れかわった……? では、本物の皇女は』
『暗殺……などということを考えているのでしょう、あなたは?
そんなこと、しませんわ。
彼女は、今、央の帝国魔術学院にいます。
ルーシャは……皇女ルーシャは、時が来ればわたくしと入れかわるよう、幼い頃から教えられて育ったのです。
そう――建国帝以来、リオネス帝国の代々の皇帝たちは、みな、わたくしのことを知っていたのですよ』
こともなげに言い、ルーシャは、ことばを失っているグウィンに向かって微笑んだ。
『さすがのあなたも、驚いたようですね。
わたくしは、帝国の建国以来二百二十年のあいだ、オルタスたちの手から、陰ながら、オプスの世界を守り続けてきたのです。
帝国が誕生する以前には、レティカ王国の貴族として。
ごくわずかな者にしか、自分の存在を明かさず、密かにね』
『オプスの世界を、守る……』
グウィンの唇から、小さな呟きが漏れた。
『なぜ……あなたは……オルタスでありながら、オプスを守るというのか?
俺が、フェリスにあなたのことを話さず、この招きを受けたのは、その可能性があったからだ。
あなたはフェリスを守り、同じオルタスであるキリエを滅ぼした。
あなたがフェリスの味方であるというのならば、敵対する意志はない。
だが……一体、なぜ?』
『オルタスが皆、一枚岩であると思うのは、大きな間違いです』
グウィンの口調が和らぐのに合わせ、ルーシャも、対等の者に話すような口ぶりになった。
『オプスたちを滅ぼそうとする一派と、守ろうとする一派。
そう……あなたたちは、こんな神話を伝えているでしょう?
五百年前の戦で、十二柱の神々が降臨し、人間たちを守って《魔性》と戦ったのだと……』
ルーシャは、美しく結い上げられた銀の髪の鬘に手をかけると、無造作にそれを脱いだ。
ばさりと、豊かに波打つ髪が広がる。
人々は染めた鬘の色だと思っている――深い、青色の髪が。
『わたくしが、その十二人のオルタスのうちのひとりです』
グウィンの表情は、もはや、目覚めながら夢の世界に迷い込んだ者のようだった。
『十二人のオルタス……十二柱の神々……
《青き御髪の女神》――まさか――』
『あの大戦で、多くの仲間が、友が、滅んでゆきました。
しかし、五百年のときを経てもなお、敵はまだ存在します。
魔術師グウィン・ホーク、わたくしは、新たな同志を求めているのですよ。
オルタスのみならず、オプスたちの中からも』
ドレスの裾を払って立ち上がり、ルーシャが、まっすぐにグウィンの顔を見据える。
『だから……あの剣を、フェリスに……?』
『《青き御髪の女神》が、ここにこうしている以上……《翼持つ女神》もまた、存在したのですよ。
でも、彼女は、五百年前の戦いで滅びてしまった……
当時、最強のオルタスであった《魔王》と刺し違えて、この世界を守ることと引き換えに。
彼女が携えたエルベリオンを担うにふさわしい者を、わたくしは、ずっと探し続けてきたのです。
わたくしは今、この星に存在するオルタスの中で、最も古き命を持つ者……』
『それで、分かりました』
グウィンは深く頷いた。
『陛下が、キリエを前にしながら、まったく臆しておられなかった――むしろ、余裕さえ見せておられたわけが。
陛下は、ご自身で、あの者は己の敵ではないと分かっておられたのですな』
『その通りです。……さあ、これで、すべて話してしまいましたね。
魔術師グウィン・ホーク、あらためて、フェリスデール・レイドと共に、わたくしの同志となってくれませんか?』
『その前に……おそれながら、もうひとつだけ伺っておきたい』
グウィンの表情に、慎重に隠そうとしながらも隠しきれぬ、ひとつの感情の色が透けていた。
『キリエと同じ、オルタスで、あの者よりも遥かに強大な力をお持ちの陛下が、これまでキリエの偽装にまんまと騙され続けていたなどとは、とても信じられません。
陛下は――知って、おられたのでしょう? はじめから……
あの者の陰謀のことも……《紫のケモノ》の、真の正体も……
この一件に関わって、俺たちが惑わされ続けたすべての謎の答えを、陛下は、最初から、知っておられたのでは?』
ルーシャは、透き通るような微笑を浮かべた。
『もしも、そうだとしたら……あなたは真実をフェリスさんに話し、わたくしに弓を引くのかしら?』
『……いいえ』
答えは、すぐにあった。
その金の目は、怒りに底光りしているようだったが、声は静かだった。
『今、それを話せば……あいつは、陛下と、自分自身を決して許さないでしょう。あいつは、陛下に挑み、そして……』
『――必要だったのです』
そう言ったルーシャの声に、はじめて、わずかな痛みがまじったような気がした。
『すべて、エルベリオンの新たなる担い手が誕生するためには、必要なことだったのです』
グウィンは小さくかぶりを振った。
『陛下にとっては、そうであったのかもしれません。
あいつは、そうは考えない。――俺も』
そう呟き、グウィンは、決然とルーシャの目を見た。
『だが、俺はあいつと共に、陛下に与することとしましょう。
……いずれ、あいつに真実を話すときが来るのかもしれない。
だが、それは、今ではない。
真実を明かすことが、かえって、あいつが迷いなく道を進んでゆく妨げになるのならば――ふさわしい時が訪れるまで、今のことは、胸の内に留めておきましょう』
* * *
「よい若者だわ。とても頭がよかった」
黒衣の魔術師とのやりとりを思い出すように、ルーシャは、ディアナに向かって呟いた。
「でも……わたくしのことには気付きながら、その一歩先の真実には、思い至らなかったようね。……あるいは、気付いていないふりをしていたのかしら……」
ルーシャは、手にしていた素焼きのカップをテーブルに置き、ドレスのすそを払って立ち上がった。
ディアナは《姉》の意思に気付き、ルーシャに倣って立ち上がり、軽く背筋を伸ばした。
ルーシャの口が大きく開き、オプスの聴覚には捉えることのできない音声で呪を紡ぐと、《黒檀の間》のあらゆる調度類が一瞬で消え去った。
――いや、そうではない。
彼女ら自身が、瞬時にして、別の空間に転移していたのだ。
どこか地下の玄室を思わせる、ほぼ円形と見える広大な空間の中央に、彼女たちは立っていた。
幾何学的な配置で円柱が立ち並び、辺りは炎によるものではない、青みがかった硬質な光に照らされている。
氷青色の床は完璧な平面であるかに見えたが、注意深い観察者にならば、その広大な全面に、文字と式と図形からなるおそろしく細密な魔術の陣形が描かれていることが見て取れるだろう。
この時代に生まれたオプスの魔術師の中で、最高の能力を持つ者であっても、この広大な陣形のうちの、ルーシャのドレスの裾に隠れるだけの部分を解析するのに、一生を費やしてもまだ足りぬ。
その紋様を何の躊躇いもなく踏んで、ルーシャは、円柱のひとつに歩み寄っていった。
「……とうとう、戻りましたよ。あなたの《妹》……
あなたの剣と、意思を継ぐ少女が……」
床と同じ氷青色の円柱は、ちょうど背丈にあたる高さの辺りまでだけ、極めて透明度の高い硝子のような素材になっていた。
まるで、氷の中に花を閉じ込めた飾り物のように――
透明な円柱の中に、一本の腕だけが浮かんでいる。
何かを掴もうとするかのように、あるいは、激しく何かを訴えるかのように曲げられた五本の指。
肘より下は、風に吹き飛ばされる寸前の粉のようにぼやけ、消失していた。
「フェリスデール……」
ルーシャは慈しむように、労わるように、円柱の表面に手のひらを当てた。
「あの子もまた、あなたと同じように、オプスたちを大切に思うようになったわ。
あなたの細胞から培養されて、オプスたちの中で育ち、あなたと同じように、オプスを愛するようになった……
あの子もまた、いずれ《翼持つ女神》と呼ばれるようになるでしょう。
そして、五百年前にあなたが守り抜いた世界を守ってゆくでしょう……
オプスとオルタスが、共に生きる世界を……」
「――真実を知っても?」
ぽつりと、背後からディアナが口にした言葉を最後に、沈黙がおりた。
広大な青い玄室に、青い髪の姉妹は、いつまでも佇み続けていた――




