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ソードべアラー

「馬あッ鹿、もおおおおおおおぉんッ!」  


 ズドオッ! と、重く湿った音を立て――  

 真横から振り抜かれた巨大な戦斧が《紫のケモノ》の胴体を両断する!  

 真っ二つに分かたれて、どさりと緋色の絨毯の上に落ちたケモノの身体は、


「むうっ!?」  


 上半身のほうが、なおも動きを止めず、鉤爪を床に突き立て、そこを支点にもう一方の腕を振り回した。


「往生際が、悪いわああぁぁッ!」  


 足元を薙ぎ笑った鉤爪を、年齢を一切感じさせぬ身ごなしで跳んでかわした男は、空中で鮮やかに戦斧を回転させ、全体重を乗せた一撃をケモノの肩口に叩き込む。

 血しぶきが飛び散り、恐ろしい絶叫が響き渡った。


「今じゃあ! とどめをッ!」


『非情なる運命よ――』


《光子》が動き、大気がざわめく。


『その鉄槌を下せ!』


 超高密度の空気の塊が炸裂し、ケモノの上半身のことごとくを微細な肉片に変えて跳び散らせた。

 さすがに、もはや再生する気配はない。


「うおおおおぉ! またもや、馬鹿者がぁ!」  


 魔術の直撃よりも一瞬早く戦斧を抜いて跳び退っていた男が、唾を飛ばさんばかりに喚いた。


「貴様! 加減というものを知らぬかっ!? 見よ! 光輝あるマーズヴェルタ城の、壁にも床にも大穴が! 貴様も、ひとかどの魔術師ならば、もうちょっとこう、繊細に、技の威力を加減せいっ!」


「そう仰られましても」


 男――ドナーソン将軍に怒鳴りつけられ、グウィンは、無愛想に唸った。


「『あのケモノと同じようなものが現れた場合には、容赦なく魔術を叩きつけて、再生する余地なく全身を粉々にしろ』と言われておりますので」


「むうう! 何ちゅう、大雑把な! ……まあ、あのマクセスの娘らしいといえば、らしいがのう!」


 大柄な全身に返り血を浴びた壮絶な姿でぼやくドナーソン将軍を、グウィンは、やや呆れたような目つきで眺めていた。

 これまで、ことばを交わすどころか満足に顔も合わせたことがなかった相手だが、想像していた数倍、いや、数十倍やかましいおっさんである。


 ――この夜中に、彼らが完全武装で城にいた理由はただひとつ。

 フェリスからすべての事情を聞いたルーシャが、戦闘に備えるよう、秘密裏に命令を下していたからだ。

 彼らの他にも、同じ命を受けたルーシャ子飼いの兵士たちや魔術師たちが、今、城内の至るところで戦っている。

 城のみならず、市街地にひそんで備えるよう命じられていた部隊もあった。

 おそらくは彼らもまた、この瞬間に、激しい戦闘を繰り広げていることだろう。


「おーいっ、そこ! ドナーソンだな!?」


「……むうっ!? ガストンかっ!」


 顔面を朱に染めた敵の血を素手で擦り落としつつ、ドナーソンが廊下の奥を振り返った。

 特徴的な足音が聞こえてきたと思うと、廊下の角を曲がって、兵士たちを率いたティンドロック卿ガストン・ユーザが姿をあらわす。

 こちらは、身の丈ほどもありそうな大剣を肩に担いでいた。


「おう、ドナーソン、それに魔術師! ……って……ずいぶん、派手にやっとるなあ」


「わしのせいではないわ! この男がやったんじゃ!」


「俺が得意とする攻撃は、超高圧の空気の塊を炸裂させるというものですからな。このような壁に囲まれた場所で、加減なしに使えば、壁に大穴が開くのも当然のことわり


「開き直るなあああ!」


 平然と頷くグウィンに、詰め寄るドナーソン。

 ガストンは大笑して旧友に歩み寄り、その肩をどかっと叩いた。


「かたい、かたい! ……ま、今に始まったことではないがな。おまえのほうこそ、これまで無実の罪で疑われておった鬱憤、思い切り暴れて晴らしてやればよかろうが?」


「鬱憤など、とんでもないわい!」


 ドナーソンが、ふんと鼻を鳴らす。


「わしに関する妙な噂が流れ始めてすぐに、ありがたくも陛下が、内密のつなぎをつけて下さってのう。わしの潔白は、必ずや明らかにする。信じて心静かに待て、と――

 陛下の御言葉を疑う理由など、わしには何もない。あとはもう、安らかなもんじゃ。投獄されておる間も、毎日、獄中で肉体の鍛錬に勤しんでおったわ!」


「道理で……」


 げんなりと呟くグウィン。

 獄中にあった人物というのは、普通はもう少し、肉体的にも精神的にも衰えを見せるものである。

 皇帝への絶対的な忠誠、信頼が、老将軍を支えていたということか。


(理解は、できる)


 おそらくドナーソンにとって、皇帝ルーシャは、ガイガロス砦の兵士たちにとってのフェリスと同じような存在なのだ。

 この人のもとで戦えば、勝てる。

 信じて、ついていけば、生き延びられる。

 そう確信させる実力を持つからこその人望だ。


 今も、ルーシャは自ら武装し、城内の別の場所で戦いの陣頭指揮を取っているはずだった。

 ヒトならざるモノとの戦いに慣れているグウィン、歴戦の勇士であるドナーソンやガストンらとは違い、城詰めの兵士たちは、人外との戦闘には慣れていない。

 彼らの揺らぐ心を支えるため、皇帝自らが戦いの場に立ち、士気を鼓舞しようというのだった。

 本人に、魔術師としての圧倒的な実力がなければ、絶対に不可能な作戦だ。


「ああ! うるわしきマーズヴェルタ城のこのような有様、皇帝陛下に、なんと申し開きをすればよいやら……」


「なあに!」


 一転して苦悩に浸る様子のドナーソン将軍の背中を、ガストンが遠慮なしにどかどかと叩きまくる。


「その皇帝陛下から、お墨付きが出とるんだ。遠慮せず、思い切り暴れればよい!」


『いかなる損害も顧みることなく、あらゆる方法をとり、全力をもって敵を撃滅せよ』というのが、ルーシャの命令だった。


「いや、いかなる損害も顧みるなというのは、多分、味方の犠牲をも乗り越えて、という意味で……壁はちょっと……せめて、この魔術師が、もう少しまともに威力の調節を……」


「こんな場所で、下手に威力を弱めた術など使えば、逆に危険です。

 衝撃は壁を突き抜けて外に逃がされることなく、空間に沿って拡散する。

 将軍や俺自身を含め、廊下に立っている者すべてがなぎ倒される結果となりますが、それでもよろしいか」


「……ぬうう」


 あっさりと論破されて唸るドナーソンを尻目に、ガストンは、グウィンに向かってにやりと笑いかけた。


「おい、魔術師。おまえ、もっと慎重派かと思っておったが……案外、大胆なところもあるじゃないか?」


「伊達に《荒くれグウィン》などと呼ばれてはいませんよ」


 真顔で、冗談とも本気ともつかぬ台詞を吐き、


「こちらは、これでひと段落、といったところでしょうか? ならば、そろそろ、あいつのところへ向かいたいのですが……」


「おお、そうだな! ――おい、ドナーソン! 次は庭だっ!」


「ええい、仕方ないのうッ! 望むところじゃッ!」



      ※      ※      ※



『ゆけ、光よっ!』


 出し抜けに、知らない声が響いた。

 同時、闇を引き裂いて、金色の光の帯が一体のケモノの腹を貫通する!

 そのケモノは小さく身体を震わせ、しかし、さしたる痛痒もないかのように大きく身を起こし、怒りの咆哮をあげた。

 だが。


『斬り裂け!』


 再度、同じ声が響いた瞬間、ケモノの腹を貫いた光が、花が開くように無数に分裂し、ケモノの全身を細切れに引き裂く!

 肉が焼け焦げる、嫌な臭いがたちこめた。

 一瞬で無数の肉片と化したケモノは、どさどさどさっ、と地面に落ちてわだかまり、ひとかたまりの灰と化してゆく。


『爆散せよっ!!』


 別の声とともに、もう一体が炎に包まれ、大爆発を起こした。


「な……」


「――御無事ですか!」


「あっ! あなたはっ!」


 駆けつけてきた相手の顔を見て、フェリスは思わず指を差し、声をあげる。


「あのとき、門にいた……グウィンの後輩の魔術師さん!」


「どうも!」


 金の縁取りを施した漆黒のローブ。

 マーズヴェルタ城を守備する《星の剣》出身の魔術師たちが、戦いの場に駆け付けてきたのだ。  

 その先頭に立ち、軽い調子で片手を挙げてきた彼の様子は、まるで休日の市場で顔見知りに出会ったとでもいうようなものだった。


「なぜだ……」  


 キリエは、思わずそう声に出していた。  

 彼は、ケモノの戦闘力を過大評価してはいなかった。  

 ただのオプス相手の肉弾戦でならば、圧倒的な効果を発揮するケモノだが、魔術師が相手となると少々分が悪い。  

 だからこそ、突然、多数を出現させ、オプスたちを混乱状態に陥れておいて一気に圧倒するという戦法をとったのだ。  

 なのに――なぜ、こいつらは、ここまで平然としている?


「おー……」


 のんびりした、とさえ言っていい感嘆の声が、キリエの耳に届いた。

 城からの激しい爆発音は、なおも続いている。

 怒鳴り声、断末魔、空気を震わせる爆音――

 それらを聞きながら、フェリスは、にっこりと笑みを浮かべた。

 その表情から、先ほどまでのような硬さは完全に消えている。


「グウィンたちも、お城の中でがんばってるみたいね!」


「ええ……壁は、ちょっと、あれですけれど……まあ、後で何とかすることにしましょう」


 大きく頷きつつ、冗談なのか本気なのか分からない調子で、ルーシャ。


「何だと」


 キリエの表情からは、余裕が消えていた。

 突如としてあらわれた、大量のケモノの襲来に、オプスたちは為す術もなく引き裂かれ、己の無力を嘆きながら死んでゆく。

 ――そのはず、だった。

 だが、現状は。


「残念だったわね、キリエ。おまえは、あたしたちを甘く見過ぎてた!

 ラインスさんが、ああして《紫のケモノ》にされてしまった以上、不幸にして、その術は、もはや完成しているということ。

 ならば、他にも同じような者が――つまり、ケモノに変えられてしまった人たちがいるかもしれない。そう考えて、手を打っておくのは当然のこと。

 敵が打ってくる最悪の手を読んで、それに備えるのが、戦士としての心構えってものよ!」


 叫び、フェリスは、ずいっと一歩、前に進み出る。


「勝負よ、キリエ!」


「馬鹿め」


 キリエの表情が、嘲笑に変わった。

 それを合図としたように、黒衣の魔術師たちが、とっくに集中を完了していた魔術を一斉に撃ち放つ!  

 一瞬、辺りが真昼のように明るくなり、これまでで最大級の爆音が一帯を揺るがした。  

 周囲の木々が、爆心地を中心に一定の方向へとなぎ倒され、枝葉がちぎれ飛んで宙に舞う。

 オオオォォォン……と、彼方へ遠ざかるように、爆音の余韻が消え――


「むうっ……!?」  


 魔術師たちが、息を呑む。

 キリエは、何ごともなかったかのように、そこに佇んでいた。

 優雅な衣服に、焦げ跡のひとつすらついていない。

 身動きも、声さえも発さずに、彼は《光子》を編み上げて防御障壁を張り、魔術師たちの渾身の攻撃を防いだのだ。


「ああ……安心したよ」


 軽く笑って、キリエは両腕を開いた。


「やはり、この程度か。ケモノが、思ったよりも使えなかったのは残念だったが――これならば、たやすいな。お前たち全員を、私ひとりで葬り去るのは……」


「いや、違うわ」  


 かっと目を見開き、身じろぎもせずにキリエの様子を見つめていたフェリスが、そう言い放つ。


「全員の相手する必要なんかないわよ。あんたは、このあたしと戦って、やられることになってるんだから!」


「馬鹿めが! 武器も持たず、何を言っている!」  


 キリエは今度こそ、天を仰いで哄笑した。


「いや、訂正しよう。どんな武器を手にしたところで、オプスには、私を傷つけることなどできぬ。

 この都のオプスども全員に先駆けて、そろそろ……消えてもらおう!」


 その瞬間。

 この場に立つ全員がこれまでに経験したことがないほどの、凄まじい圧力――

《光子》の激流が起こった。

 魔術師たちが、それを浴びただけでよろめいて膝をつき、そうでない者も、物理的な颶風としてそれを感じ、たたらを踏むほどの――


『滅せよ!!』  


 一瞬にして空中に凝集した、巨大な光の球が、フェリスたちが立っていた場所を直撃する!

 凄まじいエネルギーが《三の庭》の地面を一瞬にして灼熱のガラス質に変え、逃げ遅れたケモノたちが声すら発さずに燃え尽き、消滅した。  

 余波を浴びた大噴水の水は一瞬にして蒸発し、神々の石像が溶け、崩れてゆく。


「はっははははははは! 口ほどにもな――ッ……!?」


 キリエは、不意に口をつぐんだ。

 すべてが圧倒的な光の中に消えゆく中で――

 今――何か――

 自身が生み出した光球のそれとは違う、星のまたたきのような、奇妙な輝きを感じて、キリエが顔をしかめたときだ。


「《魔性》を倒すには……」  


 声が、聞こえた。  

 オプスの娘の声が。


「体内のどこかにある《核》を破壊すればいいんですよね?」


(何だと……)


 なぜだ。

 なぜ、まだ、存在している。

 なぜ。

 オプスが、我らオルタスの、肉体の構造を知っている――?


「ええ。他の部位と違って《核》は再生しませんから。《核》さえ破壊すれば、彼らは滅びるのですよ」


「よーし……」


 圧倒的な破壊を生んだ光球が、消える。

 その向こうから、まるで水の泡のようにも見える、虹色の膜と――

 それに守られるように立った、人間たちの姿があらわれた。


「不死でないなら、あたしの敵じゃないわ。――陛下、あれを!」


「ええ。受け取りなさい!」


 あの攻撃を、オプスが、防ぎ切った?

 キリエが呆然とした一瞬に、ルーシャが魔術を使った。

 その術は、単に手を触れずに物体を移動させるだけのもので、キリエは一瞬、ルーシャが移動させた『それ』が何なのか理解することができなかった。


『それ』は、つい先ほどまで大噴水があった、いまやマグマだまりと化した地面の上に、溶け崩れることもなく存在していたのだ。

 細長く、輝きを帯びた『それ』は、矢のように一直線に飛び――

 同時、虹色の膜が消え去って、『それ』はフェリスが伸ばした右手の中に、まるで自ら飛び込むようにしておさまった。


 キリエは、目を見開いた。

 熱による影響をいささかも受けていない様子の『それ』。

『それ』を、彼は、かつて、一度だけ見たことがあった――


「フェリスさん、剣の名を!」


「はいっ!」


 まるで純粋な水晶からなるように、透き通った刀身。

 そこには、無数の古代の文字が刻まれている。  

 護拳は翼をかたどって銀色に輝き、その中央には、星のように光る一粒の石が――


「目覚めよ……エルベリオン!」


 真っ白な光が、炸裂した。


   封印、解除。


 光の中で、男のものとも女のものともつかない声が響くのをフェリスは聞いた。

 いや、聞いたというよりも、そういう『意味』が脳裏に閃いたと言ったほうが近い。

 白い光は、キリエが生み出した光球のそれとは違い、まったく熱をともなわない純粋な輝きだった。

 それは、一瞬で収束し――透き通った刀身と護拳、そして、担い手たる娘の身体を、護るようにふわりと包み込む。


「……嘘だ……」


 キリエは、我知らず、後退っていた。  

 レティカ王国の時代から、今にいたるまで、王家と皇帝家に、代々伝えられてきた《剣》。

 ――あれは、偽物だった、はずだ。

 仮面舞踏会で、ルーシャが手にしていた《翼持つ女神の剣エルベリオン》。

 あれは、上等の水晶と白銀とで飾られた、よくできた作り物だったのに――


「大噴水の石像が持つ剣の中に、本物の剣を封印するなんて……どうしてまた、そんな、海賊のお宝みたいなことを?」


「さあ……そのほうが、劇的だと、当時の皇帝が考えたのではないかしら?」


 この状況にあってなお、おそろしくのんびりした会話を交わす、フェリスとルーシャだ。


「ところが、封印をあまりにも念入りにしてくれたもので、取り出そうにも取り出せない状態になっていたのですよ。

 封印を打ち破るには、今のような高エネルギーを一気にぶつける必要があったのですけれど、そうすると《三の庭》が消し飛んでしまって大騒ぎになりますでしょう?

 この機会にようやく取り出すことができて、本当によかったわ」


「あの石像の中に……封印、だと……? そんな、まさか……」


 キリエの表情は、今や、誰の目にも明らかに引きつっていた。

 たったひとりで街を滅ぼし、森を焼き、湖を干上がらせることもできるはずのオルタスが、怯えている。


「あなたも、これをその目で見たことがあったのですか?」


 ルーシャが、にっこりと笑って告げる。


「ならば、長々しい説明は必要ないでしょう。翼持つ女神が携えた剣、エルベリオン――」


 それは、大多数の人間たちにとっては遠い昔に伝承の彼方へと失われた名であり、オルタスにとっては、恐るべき記憶とともに心に焼き付いた名であった。

 五百年前、《魔性》の首領を討ち果たし、《大戦》を終わらせた剣――


「さあ、フェリスさん」


 ルーシャが軽く背中を叩いて、促した。

 すっ――と、流れるように、フェリスが剣を構える。

 魔術師たちが、一斉に呪文を唱え始めた。  



         ※      ※      ※



 それは、とても不思議な感覚だった。

 その剣――エルベリオンの柄を握ったとき、フェリスは、一瞬にして全身に光が満ちたような気がした。

 まるで熱を持たぬ炎か、輝く気体を飲み込んだような気分だ。

 体重がなくなったかのように、身体が軽い。

 だが、酒を飲んだときのようにふわふわしているわけではなく、意識はどこまでも澄み切っていた。

 集中が、これまでになく高まっている。

 周囲のものの動きが、目を向けなくとも、はっきりと感じ取れた。

 人々の動きだけでなく、その瞳の細かい動き、服の裾がはためく様子、遠くで舞う火の粉ひとつひとつの軌跡――

 爆音が聞こえてくる正確な方向、距離、渦を巻いて吹く風の動きも、何もかも――  


 研ぎ澄まされた知覚が伝えてくる、膨大な量の情報。

 その奔流を、フェリスは驚くほど冷静に受け止めていた。  

 やがて、寄せては返すさざ波のように微かな刺激が、意識に届き始める。  

 遠くから大勢の人間が一斉に囁きかけてくるかのような不思議な感覚は、フェリスに何かを教えようとしているようだった。  

 その感覚は、今、自分が握りしめているエルベリオンから伝わってきていた。

 刀身を、わずかに傾け、軽く膝を沈める――


「何故だ……その剣は……」


 キリエが呻いて、さらに後退る。

 その目は大きく見開かれ、フェリスを見つめていた。


おまえ・・・は……何者だ!?」


「五百年の時を経て、再びエルベリオンを担う者」


 答えたのは、ルーシャだった。


「かつて《魔王》を倒した、《翼持つ女神》の再来です」


「《魔王》を倒した……女神、だと!? 馬鹿な! あれは――」


 フェリスが、動いた。

 同時、魔術師たちが、術を発動させる。

 硬いものが砕け散るような、ばきばきという凄まじい音響がとどろいた。

 一面が溶けたガラス質の海と化していた大地に、魔術師たちが冷却の魔術をかけ、再び硬い地面を生みだしたのだ。

 ぎざぎざに砕け、刃物を植え並べたようになった大地の上を、フェリスが走る!

 果たして足が地面に接しているのか、疑いたくなるほどの速度。

 エルベリオンのきらめく刃の、残像すらも虚空に残し――



         ※      ※      ※



「あれは……!」


 グウィンたちが、庭へと走り出てきたのは、ちょうどその瞬間だった。


「おおっ、陛下、こちらに……!?」


 ドナーソンが、ルーシャの姿を目にして、驚いたように声をあげる。

 一方、グウィンは、別の人物の姿だけを見ていた。

 輝きに包まれた人影が、疾風の速度で地を走り――



         ※      ※      ※



(嘘だ!)


 フェリスのはじめの一撃が、自分の肉体を浅く斬り裂いたとき、キリエはあまりの衝撃に目を見開いた。

 オルタスの肉体は、オプスのように痛みを感じることがない。

 痛覚を持たないのではなく、その閾値がオプスよりも遥かに高いのだ。

 彼が感じた衝撃は、苦痛によるものではない。

 驚愕だ。

 オプスの・・・・速度ではない・・・・・・

 オプスに、こんな動きが可能なはずがない――


「言ったでしょう。人間種族は、進歩しているのだ、と」


 ルーシャの満足げな呟きが、その耳に届いたかどうか。  

 輝きをまとった金の髪の娘は、凄まじい速度でエルベリオンを振るい、突き、躊躇なくキリエに肉薄してくる。  


 御前試合で相まみえたとき、キリエは無論、本気を出してはいなかった。  

 疑いの目を自分から逸らすため、初めから、ある程度のところで負けるつもりだったのだ。  

 力を抜き過ぎて、逆に怪しまれることがないように苦心したが、その点でも、フェリスはうってつけの相手だった。  

 オプスにしては抜きんでた身体能力を持っていると仮面舞踏会の夜に知り、さらには出場者であることを知って、この者にならば、試合で倒されても不自然には見えないと確信した。  

 だが……まさか、本当に――  


 フェリスの姿が一瞬、視界の右下に消えた、と思った刹那、エルベリオンの切っ先が神速で跳ね上がってきた。  

 キリエは反射的に両手を鋭い《剣》に変化させ、斬り上げてくる切っ先を受けた。

 二振りの《剣》は、フェリスの一撃をがっちりと絡め取り――


「滅びろ!」  


 キリエの、胸の辺りの衣服が、ぐにゅりと蠢いた。

 その瞬間、服の布地を突き破り、目の前にいるフェリスの心臓目がけて《槍》がほとばしる!  

 周囲の誰も、警告を発する暇さえなかった。

 肉体の形状を自在に変化させるオルタスにとっては、もともとない場所に《腕》を生みだし、それを武器化することも可能なのだ。


「フェリ……!」  


 グウィンが辛うじて叫び、駆け出すよりも、前に。  

 ぱぁんと地を蹴り、フェリスが跳び上がった。

 二振りの《剣》で受けられたエルベリオンを支点に、両脚を振り上げ、全身を反回転させて持ち上げたのだ。

 キリエの《槍》が、フェリスの頭の下を空しく行きすぎる。

 フェリスの喉から、怪鳥のように甲高い気合がほとばしった。

 足場もない空中に逆さになりながら、フェリスはエルベリオンを振るって一撃で《剣》を折り砕き、返す刀で《槍》をも両断し――

 地面に降り立つと、獣のようにやわらかく受け身を取り、瞬時に転がって間合いを取り直した。


 すべてが、わずか一呼吸するほどのあいだの出来事。

 誰も、言葉がなかった。

 周囲では、ケモノたちと魔術師たちによる戦いが続いていたが、目の前に敵がいない者は、皆、フェリスとキリエの戦いに魅入られたように立ち尽くしていた。


「あんまり人間様を舐めてもらっちゃ困るわよ、《魔性》さん」


 フェリスが、にいっと笑った。

 キリエは、唖然としている。

 砕かれた《剣》と《槍》とは、すでに再生しはじめていたが、再度、攻撃をかけるのをためらっているのがありありと分かった。


「いや、あたしも、あんまり調子に乗っちゃ駄目だね。この剣のおかげだわ……」


 刀身を見下ろし、フェリスが低く呟く。

 キリエと、そして魔術師たちの目には、エルベリオンを構えたフェリスの身体が、まるで強固な鎧に守られているかのように《光子》の輝きに包まれているのがはっきりと見えた。  

 エルベリオンの刀身そのものも、《光子》を認識できる者にとっては、まるで小さな太陽のように輝いている。  

 その光は、今もなお、どんどん強まっていた。  


 やがて、それが正視できぬほどのまばゆい光となったとき、キリエは一声、高く叫んだ。  

 瞬きひとつのあいだに、その身体が宙に舞い上がり、上昇してゆく。


「逃げる気か!?」


 ガストンが叫び――


「動くな!」


 上空から、絶叫のような警告が響いた。


「貴様らが動けば――街を破壊する!」


 全員の動きが、止まった。

 キリエは《三の庭》を焼き尽くした先ほどの光球を、帝都の街並みに向けて放つと言っているのだ。  

 一撃で市街地を消滅させる、とまではいかなくとも、甚大な被害が出ることは疑いの余地がない。



        ※      ※      ※



「グウィン」


 不意に、囁くように呼びかけられ、グウィンは反射的にそちらを見そうになったが、危うく堪えた。

 動作によって、上空のキリエに意図を悟られてはならない。


「あんた、飛行の魔術を使えるでしょ?」


 フェリスの声だ。


「ああ」


 キリエを見上げたまま、唇をほとんど動かさずに答える。



        ※      ※      ※



「キリエ!」  


 ルーシャが、叫んだ。

 幼子を励ます母のような、満面の笑みで。


「よろしいでしょう。やってごらんなさいな!」  


「何だと……!?」



        ※      ※      ※



「その術、あたしにかけることもできる?」


 それだけで、グウィンは彼女の意図を悟った。


「可能だが、ものの役に立つほどはもたんぞ。あの高度までとなると――」  


 自分自身を飛ばすのとは、わけが違う。  

 相手の体重、武装の重さに加えて、移動の距離と、要求される速度、制御の正確さ。  

 全力を振り絞っても、おそらくは数秒――


「三十秒!」


 横から加わってきた声がある。

《星の剣》出身の魔術師たちだ。


「我らが加勢します、先輩……!」


「先輩言うな」


「いいわ。やって、今すぐに!」



        ※      ※      ※

 


 キリエは、笑みを浮かべる青い髪のオプスを見下ろし、一瞬ためらった。  

 皇帝ルーシャ・ウィル・リオネス。

 これまで殺さず利用してきたのは、隠れ蓑としての利用価値があったからと――

 オプスでありながら、その力に、どこか、底知れぬものがあるように思えたからだ。

 オプスが、オルタスに及ぶことはおろか、オルタスをわずかにでも脅かす可能性など、万にひとつもない。  

 それが当然だ。  

 だが……理屈では、そう思っても、どこか――


「さあ、おやりなさい。できるものなら!」


「ほざけ、オプスごときが――!」


 怒声に込めた意志がそのまま《光子》を動かす力となり、その手の先に、光の球が膨れ上がる。

 その余波が起こした風が地上へと吹き下ろし、ルーシャの笑顔を取り巻く、オプスにはありえない青い髪の鬘を、ごうっと渦巻かせた。

 青い、髪――


 ふと、キリエの脳裏に、オプスたちが語り伝える神々の名がよみがえった。

《翼持つ女神》。

 そして《青き御髪の女神》。


「……え」  


 そう声を漏らした瞬間、キリエの眼前に、金の髪の娘の姿が出現した。



        ※      ※      ※

 


 ――三十、二十九…… 

 グウィンたちの魔術が自分の身体をふわりと持ち上げ、足が大地から離れようとするのを感じた瞬間、フェリスはその力に呼応するように、ぐうっと身体をたわめた。


「おぉおおおおりゃあっ!」  


 地面を蹴りつけ跳躍する自分自身の力と、垂直方向へと向かう魔術の力がひとつになる。

 その瞬間、ゴウッ! と耳元で風が鳴り、景色が流れ――  

 フェリスは、何もない空中にすっくと立ち、キリエと間近に向かい合った。  

 これにはさすがに恐怖を覚えたか、凄まじく顔を引きつらせたキリエの視線が動き、フェリスをとらえる。  

 ――二十五、二十四……  

 同時、フェリスがふるったエルベリオンが、キリエの腕もろとも光球を断ち割った!  

 凝集していた力が弾け、爆散する。  

 地上に迫る衝撃波を、ルーシャの手から音もなく広がった虹色の膜がやわらかく受け止めた。



(フェリス!)  


 衝撃は、キリエの最も間近にいたフェリスにも襲い掛かっている。  

 地上のグウィンと魔術師たちは、空中のフェリスと結びついて彼女を飛行させている《光子》の帯が、凄まじい力でぐうんと引っ張られるのを感じた。  

 このまま、制御を諦めてしまえば、フェリスは墜落する。

 あの高さから地面に叩きつけられればまず即死、エルベリオンによる何らかの加護があったとしても、無傷では済むまい。

 ――二十、十九……


(離さん! 決して!)  


 きつく食い縛った歯が噛み破ったのか、固く結ばれたグウィンの唇の端から、つうっと血が流れ落ちた。


(フェリス、今だ! 行け、行け、行け!)



 夜空と、地面とが交互に、それぞれ少なくとも五回以上は見えた。  

 風に翻弄される木の葉のように吹き飛ばされたフェリスは、不意に力強い手に掴まれ、ぐうんと引き戻されるような感覚をおぼえた。  

 爆風の衝撃と、魔術の力が拮抗する。

 その一瞬、身体が空中に静止し――


「……っらぁあああああァ!」  


 フェリスの身体は、再び、キリエに向かって一直線に突っ込んでいった!

 いつも以上に研ぎ澄まされた感覚と意識とが、瞬間的に上下を判別し、自分と敵の位置関係を認識し、それが肉体を完璧に制御する。

 エルベリオンを鏃とした一本の矢のように、キリエを狙った。


 キリエが吠え、その手が、足が、鋭い《槍》に形を変える。  

 ――十五、十四……  

 脇腹と背中からも、噴出するような勢いで、数十本の《槍》が出現した。  

 ざあっ! となだれかかる、無数の切っ先――  


 虚空を蹴りつけ、フェリスは、とんぼを切った。

 何もない空中で、自在に跳び、襲い掛かる《槍》のことごとくを斬り飛ばす!

 エルベリオンの残像が、空に光の尾を引いた。  

 虚空を舞い、戦うフェリスの姿は、地上の者たちの目に、暗い舞台でたったひとり照明を受け、輝きをまとう熟練の踊り手のように映った。  

 ――十、九……


「シャアァッ!」  


 最後の《槍》を失ったキリエが怒り狂って突き出した腕を、エルベリオンが斬り飛ばす。  

 返す刀でフェリスが振るった一撃は、キリエの右肩から左脇腹までをざっくりと両断した。  

 その下半身が、塵と化して崩れてゆく。

 しかし、上体はそのままに、再生した《槍》が執拗にフェリスを狙った。


こっち・・・かあッ!」  


 竜巻のごとく旋回したフェリスが、その勢いのままに《槍》もろとも、キリエの首を刎ね飛ばし――  


(残るは)  


 首より下はたちまち塵と化し、頭部だけが冗談のように宙に浮いたキリエの姿を、フェリスは、恐ろしく冷ややかな眼差しでひたりと見据えた。  

 砕くべき《核》を探し出すには、相手の肉体のどの部分から再生が始まるのかを見定める必要があった。  

 

「ゴアアアァァァァッ!」


 絶叫を放つキリエの首の下から、ずるりっ、と新たな二本の腕が滑り出て、そこから胴、そして脚――

 おぞましく、浅ましい姿。

 ――四、三……


「あたしたちの世界から――」  


 エルベリオンを振りかぶり、


「永久に、消え失せろおおおおッ!」  


 真っ向から、キリエの顔面を両断する!  

 二つに割れた顔が、絶叫しようとするかのように大きく口を開き――

 整った顔面が、鼻筋で縦ふたつにずれ、その内側から、小さく、星のような輝きが零れ――  

 その輝きが砕け散り、消えた。  

 同時、キリエの肉体全てが一瞬にして黒い塵と化し、風の中に四散してゆく。


「オオオオオオオォ!」  


 エルベリオンを突き上げ、虚空で雄叫びを放ったフェリスは、不意に、がくんと身体が重くなるのを感じた。  

 グウィンと魔術師たちの、力の限界が訪れたのだ。  

 落ちる――


(悔いはない)


 自分は《魔性オルタス》を討ち取った。  

 知る限り、これまで人間の誰も為しえなかったことを、エルベリオンの力を借りてとはいえ、この手でやり遂げたのだ。  

 ぐらり、と回転した夜空に輝く星々が、奇妙にくっきりと見え、フェリスは、ああ、ツェルマート村で見上げた星空に似ている、と思った。


(父さん、みんな……グウィン)


 墜落、激突まで、一秒もない。

 フェリスは目を閉じ、意識を手放して、自分自身の最期を見ないようにした。




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