最後の一手
涼やかな夜風が、木々の梢を穏やかにかき鳴らしている。
それよりも大きく耳に届くのは、どうどうと落ちる水の音だ。
マーズヴェルタ城の《三の庭》、その大噴水のそばに、フェリスはひとりで立っていた。
見上げているのは、あの夜と同じ《翼持つ女神》の石像だ。
女神は、降り注ぐ水をその剣で切り裂き、まっすぐに立っている。
フェリスが皇帝から《翼持つ女神の剣》を授けられる式典は、明日だ。
娘の身でありながら、幾多の男の戦士たちを退け、恐ろしい怪物をも倒して優勝したフェリスの栄誉を讃える式典は、これまでになく盛大なものになるだろうと帝都の人々は噂しあっている。
それが真実であることを示すように、夜空をついてそびえるマーズヴェルタ城の窓からは、今も煌々とあかりが漏れていた。
明日の式典のための入念な準備が続けられているのだろう。
だが、今、無言で女神の石像を見つめるフェリスの姿は、明日、盛大な式典の主役となる英雄には似つかわしくないものだった。
着馴れた様子の、男物の衣服。
くすんだ黄金色の鎧。
御前試合のときと、ほとんど同じ服装だ。
あのときとの違いといえば、兜をかぶっていないことと、長剣を帯びていないことくらいだった。
不意に、フェリスは振り向き、闇の奥の一点を見つめた。
彼女がここに来たのは、明日の式典を迎える前にどうしても会っておくべき人物と落ち合うためだった。
その人物が、急ぎ足でやってくる。
「……待たせてしまいましたね」
キリエだった。
試合でフェリスの打撃を受け、骨が砕けた左手首は、添木をあてて固定されている。
それ以外は、貴族らしく、くつろぎを感じさせながらも洗練された服装だった。
「いいえ。あたしも、ついさっき来たところですから」
特に謝罪もなく、フェリスはあっさりと言った。
何年も辺境警備隊の兵士をやっていると、自分に関しても、他人に関しても、怪我というものに対してひどく鈍感になる。
不完全ながらも武装している彼女を、キリエは驚いた顔つきで眺めていたが、すぐにフェリスの目を見つめ、訊ねてきた。
「手紙を受け取ってすぐ、こちらに来ました。私に、話とは? 明日は大切な日だというのに、それでも今、会って話したいことがあるとは、余程の用件なのですね?」
「そう……本当に、余程の用件なんです。どうしてもお話ししておきたいことがあって」
「何です?」
「今回の事件の、真相について」
フェリスのことばに、キリエは一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。
「真相、ですか? しかし《紫のケモノ》の事件は、他ならぬ貴方自身が解決なさったではありませんか。御前試合の場で、見事、ケモノを討ち果たして。
それに、あの場に《紫のケモノ》が現れたことで、ドナーソン将軍の無実も明らかになったわけですし……」
数万の観客の目の前で、貴族審問院の「誤審」がはっきりしたのだ。
フェリスが屋敷に閉じこもっていた六日間のあいだに、審問長官がじきじきに異例の「謝罪」をし、責任をとって職を辞するという事態にまでなっていたらしい。
釈放され、名誉を回復したドナーソン将軍も、明日の式典に参列することになっているという。
「ええ、ドナーソン将軍のことは、本当に良かったわ。
でも、今回の事件には、まだ、はっきりしていないことが多すぎる。
このままじゃ、あたしは、すっきりした気持ちで《翼持つ女神の剣》を受け取ることはできない」
「まさか……明日の式典に出ない、などと仰るつもりではないでしょうね?」
キリエは目を丸くし、グウィンとまったく同じことを言った。
「それはいけませんよ、フェリスさん。あなたは今や、帝国が誇る英雄なのです。あなたを待つ人々のためにも、式典には必ず出席なさらなければ――」
「そもそも《紫のケモノ》って、一体、何だったのかしら?」
フェリスは、キリエのことばをまるで無視するように、不意にそう言った。
キリエに話しかけているというよりは、自分自身の考えを整理するために、思考の内容を口に出しているといった調子だ。
「悪しき魔術の産物? ……いいえ、そうじゃない。
魔術なら、グウィンや皇帝陛下の魔術師たちが《光子》の動きでそうと見破ったはずよ」
「では……《呪われし者》だと? いえ、しかし、そんなことはあり得ない! この都は《アレッサの結界》に守られているのですから」
「そうです。《呪われし者》でも、ない」
混乱したように声を高くするキリエとは対照的に、フェリスの声は低く、静かだ。
フェリスは、御前試合の後でグウィンが口にしていたことばを、そのままキリエに伝えた。
『あの《光子》の状態は、確かに、異常な活性を示してはいたが……《呪われし者》に特有の反応ではなかった。
かといって、あの男は魔術師でもない。これも《光子》を視れば分かることだ。
では……あの変身は、何だ? 魔術だとしても、あんな術は、北の学院にいたときにも見たことがない。幻術ではなく、本当に肉体が変質するなどというのはな。
それに、奴は、再生能力さえも備えていた。まるで《大戦》時代の《魔性》の伝承のように……』
「では」
キリエの声には、もはや、非難めいた響きさえ生まれている。
「やはり、あの者が《魔性》だったと?
お言葉ですが、フェリスさん。あなた自身が、以前に仰っていたではありませんか。《魔性》の力は、あんなものではないはずだと。
たったひとりで街を滅ぼし、森を焼き、湖を干上がらせる――《魔性》は、人間を超えた存在なのです。
あなたに負けた私がこのような言い方をするのも失礼ですが、いくら何でも、人間の女性一人と斬り合って《魔性》が敗れるなどということは、有り得ないと思いますよ」
「そうですよね」
フェリスは、あっさりと頷いた。
「ラインスさんは《魔性》なんかじゃない。人間でした。
彼は、御前試合の場で、あたしに『この力を手に入れた』と言ったんです。
生まれながらの《魔性》なら、そんなこと言うはずがないでしょう?」
キリエの眉根が、ぐっと寄った。
「それは、つまり――」
「何者かが、彼に、あの力を与えたんです。
《紫のケモノ》に変じる能力。
失われた肉体を、あるていどまでは再生する能力。
人間を超えた、膂力と速度……」
「変身、再生……」
呟いて、キリエは、わけがわからなくなってきた、という顔をする。
「ことばだけ聞けば《魔性》の簡易版といった感じですが……しかし、魔術でもなく《黒の呪い》でもない、とすると」
「疑問点はふたつ」
フェリスは、顔の横に二本の指を立て、一本ずつ折り曲げながら、ゆっくりと言った。
「ひとつ。ラインスさんを紫のケモノに変えた、魔術でも《黒の呪い》でもない方法とは、いったい何なのか?
もうひとつ。それを行った人物、すなわち黒幕は、いったい誰なのか?
一番目の疑問を解決する方法は、今となっては簡単です。
二番目の疑問を、解決すること。
つまり、黒幕を見つけてブッ倒し、真実を白状させればいいってわけです」
「え……? あの、結局、話が、はじめに戻っていませんか?」
がくりと、小さく前のめりになるような動作を見せて、キリエ。
真剣に聞いていただけに、フェリスが重々しく導いてみせた、言わずもがなの結論に、思わず力が抜けたといったところだ。
「ですから、フェリスさん。その黒幕は、明日の式典を無事に終えてから――」
「キリエ。あたしは、こう言ったのよ。
一番目の疑問を解決するのは『簡単』だって。
……つまり、二番目の疑問は、もう、解決しているってこと」
えっ、という形に、キリエが口を開けた。
「黒幕が誰なのか、分かったというのですか?」
「ええ」
頷くフェリスの口調は、あくまでも気楽だ。
キリエの目に、真剣そのものの光が宿る。
「誰なんです、それは?」
「今、あたしの、目の前にいます」
一瞬、しいんとなった。
完全な無音ではない。
夜風が吹き抜ける音。
木々の梢が揺れ、葉がこすれあう音。
どうどうと流れ落ちては砕ける、噴水の水音。
「……フェリスさん」
ややあって、キリエの口から洩れたのは、しぼり出すような呼びかけだった。
「いかに、あなたであっても、それは……それは、許せぬ侮辱です。
この私が、今回の事件の黒幕だったと仰るのですか?」
フェリスを見据え、押し殺した口調でそこまで言ったキリエは、不意に、表情を変えた。
肩をすくめ、笑みを浮かべる。
「それとも、これは冗談なのでしょうか? それならば、そうと仰ってください」
「いやあ……思い返せば、おかしなことはあったのよね。前にも言ったと思うけど」
フェリスもまた、キリエを真似るように肩をすくめ、笑みを浮かべた。
先程と同じ、キリエと話しているようでいて彼のことばに答えているわけではない、ひとりごとのような口ぶりだ。
「それまでは、まったく姿も見せなかったケモノが、どうしてあの夜に限って、警戒の厳しいマーズヴェルタ城に姿を現したのかしら?」
「それは……出場者であるフェリスさんや、私を狙って……」
「あのとき、あたしは、まだ出場者だと名乗っていなかったわ」
「ああ……確かに、そうでしたね。ですから、私を狙って――
そして、わざと人々に姿を見せつけ、ドナーソン将軍に罪を着せる。
これは、あなた自身が仰っていたことではありませんか!」
キリエの言う通り、これは、貴族審問院に呼び出された日に、フェリスとキリエとルーシャ、三人で話し合ったことだ。
あの時、すでに、ここまでの結論は出ていた。
奇しくも同じ頃、帝都警備隊のフィネガン、アルシャも、まったく同じ考えにたどり着いていた――
「そうね」
フェリスは、頷きながら、なぜ気付かなかったのだろう、と不思議に感じていた。
こんなに簡単なことだったのに。
なぜ、あの時は、あと一歩先にあった真実に、気付くことができなかったのだろう――
「それじゃ、なぜ、ケモノは……ラインスさんは、仮面舞踏会の夜の、あの時、この場所に、あなたがやってくると分かったのかしら?」
キリエは一瞬、沈黙した後、何か言おうとするように口を開く。
それよりも早く、フェリスは先を続けた。
「いくら身体能力に優れたケモノであっても、警戒厳重な城の敷地内を、何のあてもなくうろうろするのは危険が大きすぎるわ。
ケモノは、あの時、この場所にあなたが来ることを、あらかじめ知っていたのよ。
他に、それを知っていた者……ラインスさんに、それを教えた者。
それは、あなた自身の他にはいないわ」
「何を、言い出すのです!? そんな、ただの偶然で、私を黒幕と決めつけるなんて――」
キリエは、必死の形相で言い募った。
(なんて、芝居のうまい奴だろう)
フェリスは、心の中でそう思った。
騙されていたことに対する怒りは、なかった。
敵を欺くこともまた、戦いの一手だ。
敵の一枚上を行ったものが勝つ。
これまでは、見抜けなかった。
だが、今はもう違う――
「偶然じゃないわ」
もはや、フェリスの感情は凪のように静まっていた。
ひとたび敵と思い定めれば、それまでにどんな関わりのあった相手であろうと躊躇なく倒す。
それが、幼い頃から叩き込まれてきた、辺境の戦士としての心構えだ。
「単なる決めつけじゃなく……知ってるのよ、あたしは。あれが、偶然じゃなかったってことを。
ラインスさん本人が、手紙に、真相を書き残していたんだから!」
「手紙……?」
フェリスは、ゆっくりと横に歩き出しながら、鎧の隙間に手を差し入れた。
キリエが身構えたが、フェリスが取り出したものは武器ではなく、きつく筒状に丸められた何枚かの紙片だ。
「この手紙は、帝都警備隊本部の池の底から見つかった。
ラインスさんは、もう引き返せないところまで来ていたけど、最後の良心まで捨ててしまうことはできなかったのよ。
この手紙に、事の顛末がすべて書き残されていたわ。
ラインスさんと接触するとき、あなたはいつも覆面をしていたらしいけど、仮面舞踏会の夜に、声が同じだったから分かったと書いてあった。
彼は、こうも書いているわ。
あの夜、城へ行き、あの時間に《三の庭》の噴水の側で、男女のうちの女のほうをまず襲えと命令されたって――」
言いながら、フェリスはキリエを中心に、ゆっくりと半円を描くように移動している。
手紙を片手に掲げ、ひらつかせながら言った。
「そうよ。噴水を見に行こうって、この場所を指定したのは、確かにあなたのほうだった。
まったく、まんまと乗せられたわ! 寸前で殺気に気付いてなければ、あたしは、死なない程度に背後からばっさりやられてたってわけ。
よりによって、このあたしを選んだのが、あなたの最大の失敗だったけどね」
フェリスは、うっすらと笑った。
並の神経を持つ者ならば、その表情を目にしたが最後、蒼ざめて硬直するしかなかっただろう。
《皆殺し》のフェリスデールと呼ばれた戦士の顔が、笑っている。
「やられたあたしは、悲鳴をあげる。人が駆け付ける。そして、あなたは、あたしを守る芝居をして、ちょっと手傷を負わされる。
すべて、ラインスさんとの打ち合わせの通りにね。
人が集まってきて、ケモノは逃げ、ドナーソン将軍の屋敷へ。
あなたは、襲われながらも生き残った被害者として、疑われることはなくなる――」
「いい加減にしろぉっ!」
出し抜けに、キリエが喚いた。
三問芝居の山場で、警備隊に追い詰められた犯人のように、目を見開いて腕を振り回す。
もはや、優雅な青年貴族のおもかげは消し飛んでいた。
「でたらめだ! 何もかも、でたらめだ! 何の証拠もない! 全部、空想、妄想、でっち上げじゃないか!」
フェリスは、目を細め、冷徹に相手の様子を観察し続けていた。
そうだ……証拠だ。
あとひとつ、決定的な証拠を掴む必要がある。
「見苦しいわよ、キリエ。証拠ならあるわ。この手紙こそが、何よりの証拠よ」
「手紙だと!? 何が証拠だ! そんなもの、でっち上げに決まっている――!」
吠えて、キリエが掴みかかってくる。
フェリスに砕かれた左手首は胸の前に引きつけたままで、動きがぎこちない。
怒りに我を忘れているのか、それにも構わず、素人のような動作でやみくもに手を伸ばしてきた。
(この期に及んで、見事な芝居ね――)
フェリスの手が、神速の動きを見せた。
手紙はキリエに奪われるに任せたまま、もう一方の手が、腰の短剣を抜き放つ。
仮面舞踏会の夜、キリエが目にした短剣の刃は、もう一度、彼の目の前で鮮やかに閃き、しゅうっとキリエの腕を斬り裂いた――
その、品の良い衣の袖だけを。
「キリエ」
慌てて後ずさり、奪い取った紙片を手に息を荒らげているキリエを、フェリスは、静かに見つめた。
これで、終わりだ。
自分が、最後の一手をさした。
そして――ここから、真の戦いが始まる。
「あなたのお芝居も、変身能力も、完璧だったわ。
今でさえ……人間にしか見えないもの。
でも、とうとう、化けの皮が剥がれるときが来たようね」
黙ってフェリスの顔を睨みつけたまま、キリエは、何も動きを見せなかった。
おそらく、フェリスが何を言っているのか、理解できなかったのだろう。
ひゅうっと夜風が吹き、紙片を握りしめているキリエの腕から吹流しのように垂れ下がった、切り裂かれた服の袖をはためかせた。
フェリスは、ゆっくりと手を挙げ、その腕を指差して言った。
「あなたたちと違って、人間は、怪我をすると傷痕が残るものなの。
あの深さの傷なら、当分のあいだ、完全には消えないはずよ。
それなのに……あの夜、ケモノの爪に引っ掻かれた腕、ずいぶん、きれいに治ってらっしゃるのね?」




