二つの道の交わる時
それから六日間というもの、フェリスは、ほとんど寝室から出なかった。
ベッドでごろごろしているか、さもなければ窓辺に座って、ぼんやり外を眺めているかだ。
日課の素振りも、打ち込みの型も、廊下へ出て申し訳程度にやっただけで、すぐに部屋に引っ込んでしまう。
そしてまた窓のそばに座り、ぼうっと外を見つめるのだ。
「フェリスちゃんは……大丈夫なのかな?」
「ご安心を」
自身の心痛はさておき、フェリスの様子が気にかかって仕方がない様子のガストンに、グウィンは、手にした書物から目も上げずに言った。
この六日間、彼は、ガストンの書斎を借りて読書ばかりしている。
「これまでにもあったことです。……ごく稀に、ですが。
食事はとっているし、眠ってもいるようだ。あいつは、時が経てば必ず立ち直ってくる。もうしばらくは、そっとしておくのが良いでしょう」
「そうか?」
懸念の去らない様子のガストンをよそに、グウィンは平然と頁をめくり続けた。
一方、キャッサはすっかりにこやかさを取り戻し、ひな鳥に餌を運ぶ母鳥のように、せっせとフェリスの寝室に食事を運び込んでいる。
「フェリスさん、入らせていただきますわ。お昼に召しあがるもの、ここに置いておきますから」
「ありがとうございます……朝ごはん、ごちそうさまでした」
「晩は、肉料理にしましょうね。お好きでしょう、お肉? ちょっと市場まで出かけて、上等なのを買ってきますわ。……大丈夫。主人に荷物持ちをお願いしますから」
そう言いながら、キャッサは盆を持ちあげて出ていく。
試合のことを訊ねようともせず、フェリスが心配だとも言わない。
フェリスは、ありがたさを噛みしめながら、黙ってパンをかじった。
――彼女は、信じてくれているのだ。
フェリスが、必ず再び立ち上がることを。
居心地のいい部屋の窓辺で、ただひとり、パンを噛みしめる。
泥のように深く眠るごとに、食べ物を噛みしめて飲み下すごとに、ふつふつと力がよみがえってくるのを感じた。
試合の直後は、まるで湿ったぼろ布でも詰め込まれているみたいに頭が回らなかったが、肉体の疲れが癒えるにつれ、心も強くなり、研ぎ澄まされてくるように思えた。
じっと動かず窓辺に座っている時間は、無為などではない。
それは、戦士の休息。
再び剣を抜くための、つかの間の憩いだ。
六日のあいだ、フェリスは窓辺に座り続け、自分自身の行動を何度も何度も思い返しては、それと向き合い、考え続けた。
自分自身の心につかえているものが何なのかを。
どうすれば、それを打ち破ることができるのかを。
そして、七日目の朝が来た。
洗ったようにまばゆい朝の光がレースのカーテンごしに射し込んできたとき、フェリスはすでにベッドの上に身を起こし、東の空に太陽が昇るのを見ていた。
――と、そこへ、
「起きているか、フェリス」
突然、ごんごんとノックの音が聞こえた、と思うが早いか、返事もしないうちに扉が開いてグウィンが顔を出す。
「入るぞ」
「入ってから言うなぁぁぁ!」
寝間着姿でベッドの上から喚いたフェリスの姿を見て、グウィンの表情に、かすかな安堵の色が浮かんだ。
だが次の瞬間、ばさっ! と激しい音をたてて、その顔面が毛布に覆われる。
フェリスが投げつけたのだ。
「ちょっと、外に出ててよ、着替えるから!」
グウィンは毛布を抱えたまま、言われたとおりに廊下へ出た。
どうやら、すっかり元の調子を取り戻しているようだ。
いや、ここ六日間の反動か、より激しくなっているような気がする。
「……よし! 入っていいよ」
「それで、着替えたのか? さっきと大差ないようだが」
部屋に足を踏み入れて、開口一番そう言うと、今度はブラシが飛んできた。
ばしりとその柄を顔の前で掴み止め、何事もなかったかのようにかたわらの棚の上に置きながら、皮肉っぽく呟く。
「生きていたか。あまり静かだから、死んでいるのかと思ったぞ」
相手を案じる心を憎まれ口に託すのが、リューネの流儀だ。
「ちょっと、休養をとってただけよ」
フェリスはゆったりとした部屋着を羽織り、ベッドに腰を下ろしていた。
髪もおろしたままでとき流し、一見すると、だらしない姿だ。
だが、こちらを見返すフェリスの目に、試合の直後には失われていた光が戻っているのを、グウィンははっきりと認めた。
「お前が引きこもっているあいだに、ティンドロック卿の弟子たちは、ほとんどがこの屋敷に戻ってきたぞ。
家族に反対された者もいたようだが、皆、それを押し切って集まっている。閣下の人徳というものだな。
屋敷の周囲を固めている皇帝の騎士たちも、戻ってくる弟子たちまで差し止める気はないらしい」
「あ、じゃあ、外をうろうろしてる人たちって、マーズヴェルタ城の?」
「気付いていたか?」
「だって、ここの窓から、裏の柵の向こうにちらほら姿が見えるんだもん。道理で身の隠し方が素人っぽいと思った。城詰めの騎士さんたちじゃ仕方ないね」
苦笑いを浮かべて、フェリス。
「それに、みんなが戻ってきてることも、もちろん知ってたよ。この窓からは屋敷の裏手しか見えないけど、表の稽古の声がここまで聞こえてくるから」
これまでと変わるところのない、軽やかな口調だ。
グウィンはそのあいだもフェリスの様子をじっと見つめ、慎重に彼女の状態をはかっていた。
やがて、彼は小さく肩をすくめた。
「イーサンの奴は、まだ戻っていないようだがな」
「あ、そう……まあ、そりゃそうだよね。ティアちゃんのことが心配で、稽古どころじゃないんでしょ。
ティアちゃん、あれからどうなったか、何か聞いてる?」
「いいや。……クレッサ家が放火されたという話は、もう知っているな?」
「うん。キャッサさんから聞いた」
フェリスの目に、一瞬、突き刺すような光がきらめいた。
そこに激しい怒りを見てとり、グウィンはひと時、口をつぐんだが、フェリスの表情そのものは穏やかなままだ。
「キャッサさんは、ティアちゃんがマーズヴェルタ城から出られたら、この屋敷の部屋を使ってもらえるように、陛下にお願いするつもりでいらっしゃるみたい」
「そうだな。家が焼け、身寄りもない今、彼女には戻るあてがない。
だが……おそらく、しばらくのあいだは、このままマーズヴェルタ城に留め置かれるものと思うぞ」
「そうだね。陛下なら、きっとそうなさる。ティアちゃんが今、外を出歩くのは危なすぎる……」
フェリスが視線を向けた窓の外からは、風に乗って、遠く鳴り響くにぎやかな楽器の音がきこえてきた。
騎士たちのはたらきか、ユーザ邸の周囲は変わらぬ静けさが保たれていたが、当初の衝撃から立ち直った今、市街地の人々は邪悪なケモノの消滅と、新たな英雄の誕生とを祝う準備に余念がないらしい。
「ところで、昨日の晩、マーズヴェルタ城からの使者が来た。
式典の日取りが決まったぞ。明後日だそうだ」
懐から、皇帝の紋章入りの書状を取り出し、グウィンは、ずばりと本題に入った。
フェリスの表情は、動かない。
「そして、リューネのレイド将軍から荷物が届いている。
まあ、本当のことを言えば、試合の前日には既に届いていたのだが、例によって『いきなり出して、びっくりさせるように』というお達しでな。
荷物の中身は、おまえが式典の場で身に着ける礼装だ。
――さあ、降りてこい。夫人が衣装の寸法を調整すると張り切っておられるし、ティンドロック卿と登城の手はずも相談しなければならん」
黒いローブをひるがえして踵を返し、さっさと歩きだしたグウィンは、部屋を出て二歩、行ったところで、足を止めた。
振り返る。
フェリスは、窓辺に立ったまま、じっとグウィンを見返していた。
「嬉しくないのか? いよいよ《翼持つ女神の剣》を受け取ることができるというのに」
「《翼持つ女神の剣》……」
呟くように繰り返した一瞬、フェリスは目を伏せたが、次の瞬間には、再び真っ向からグウィンの目を見据えた。
「そうだね。正直に言うけど、あたし、まったく嬉しくない」
「まさか……式典に出ない、などと言い出すつもりではないだろうな?」
呆れたように、グウィン。
だが、思わず一歩、フェリスのほうに踏み出したのは、動揺のあらわれだ。
「お前の、幼いころからの憧れだったのだろう?
その《翼持つ女神の剣》を、陛下から直々に賜ることができるんだぞ。
確かに、ここに至るまでに色々な経緯はあったが……お前自身は、なにひとつ恥じるところのない、正々堂々の戦いで栄誉を勝ち取ったのではないか。
当然受けるべき栄誉を受けるのに、いったい何をはばかることがある?」
「憧れ、ね」
フェリスの唇がかすかに歪んで、笑みのようなものになった。
世の中のことを何も知らぬままに大きな夢や理想を語る若者を、歳を経た先達が、おかしげに眺めるように。
「グウィン。あたしが御前試合に憧れてたのは、誰も殺さずに済むと思ったからよ。ただ、純粋に試合をして、自分の強さを証明することができるからって。
……でも、甘かったわ。結局、どこも、戦場と同じだね」
グウィンは、わずかに表情をこわばらせた。
これまで、どんな苛烈な体験も、乗り越えて、立ち直ってきたフェリスだ。
だが……今回は、そうはいかなかったというのだろうか?
そんな副官の疑念を見抜いたか、フェリスは小さく肩をすくめる。
「分かってる。大丈夫。あたしが何年、隊長やってきたと思ってるの?
もちろん式典には出るし、みんなの前では、こんな辛気臭い顔なんか見せないわ。
だってあたしは、帝国最高の剣士。みんなが褒め称える、怪物殺しの英雄なんだから……」
わざとおどけたように両腕を広げてみせてから、フェリスは不意に、おそろしいほど真剣な目をした。
「でも、やっぱり、あたし、全然嬉しくない。
言っておくけど、良心の呵責に苛まれて、っていうんじゃないの。
あれから何度も考えてみたけど……あたしは、今でも、ああするしかなかったと思ってる。
今、同じ状況になっても、同じようにするわ。
ティアちゃんの、たったひとりのお兄ちゃんを奪うことになってしまったけど……たとえ恨まれるとしても、あたしは、それを受ける。
あたしは、自分のしたことを、後悔していないわ」
グウィンは、黙ってフェリスを見つめ、その言葉に耳を傾け続けた。
今、フェリスは、六日間かけてたどり着いた、自分なりの答えを示そうとしているのだ。
「そう、後悔はしていない。
でも……今《翼持つ女神の剣》を受け取って、それが栄誉だとは、どうしても思えないのよ。
だって、結局、まだ、何も解決してないじゃない!?
ラインスさんが《紫のケモノ》になっちゃった理由も分からないし、黒幕の正体も分からないし。
何一つはっきりしてない、こんな状況じゃ、いくら試合で優勝したからって――あたし、全然、勝った気がしないわ」
フェリスの手が上がり、我知らず左の腰を探るのをグウィンは見た。
今、そこに剣はない。
皇帝ルーシャに預けたきりになっている。
だが、フェリスの心の刃は、わずかばかりも鈍っていない――
むしろ、より鋭く研ぎ澄まされていることを、はっきりと感じた。
「まだ、何かがある。隠された何かが。
それを見つけ出して、叩き潰さない限り、あたしは、本当に勝ったことにはならないのよ!」
グウィンは大きく頷いた。
珍しいことだが、にやりと笑う。
「どうやら確かに、死んだわけではなさそうだな」
「誰が死んだのよ、失礼ね」
「何よりだ。……だが、見つけ出して叩き潰すと言ったところで、具体的には、いったいどうするつもりだ? 証拠となりそうな物品は全て、陛下の魔術師たちが押さえている。今から俺たちが動き回ったところで、得られるものはほとんどないだろう」
「そう、そこなのよね。あたしも、いろんな可能性を考えてはみたけど、証拠が何もないんじゃ、単なる想像になっちゃうし。
皇帝陛下は、調べは自分に任せるようにって仰ったけど、何も報せがないところを見ると、進展はなさそうだし、……んっ?」
フェリスは急に言葉を切って、怪訝そうな顔をした。
グウィンは最初、その理由が分からなかったが、すぐに気付いて鋭い視線を向ける。
かすかに下から聞こえてくる、何事かを言い争うような声と、悲鳴。
屋敷の一階で、騒ぎが起こっているのだ。
「行くよっ、グウィン!」
副官の応えも待たず、放たれた矢のように駆けだしたフェリスは、階段の手すりをつかみ、軽々と二段飛ばしで駆け下りていった。
廊下を駆け抜けながら、手近の壁に掛けて飾ってあった古い剣をつかみ取り、武器とすることを忘れない。
そのすぐ背後に、グウィンが続く。
言い争うような声は、台所のほうから聞こえてきていた。
甲高い悲鳴は、確かにキャッサのものだ。
近づくにつれて、内容もはっきりと聞き取れるようになる。
「ああ、駄目、駄目です! どうか、そちら、そう、その上をお歩きになって! 床が汚れてしまいますわ!」
「……え?」
フェリスとグウィンは、思わず顔を見合わせた。
曲者の侵入、弟子たち同士の乱闘、夫婦喧嘩――
一瞬にして想像したいくつかの騒ぎの理由のうちの、どれにも、キャッサの悲鳴の内容が当てはまらないのだ。
台所の入口の手前で立ち止まり、戸惑いながらのぞき込んだところで、再びキャッサの悲鳴が響き渡る。
「いけません! そこより先へは行かないでくださいませ! 今、布を敷きますから――もう、わたくし嫌ですわ、どうしましょう。みなさん、窓を! 窓を開けてください!」
「おえっ」
異様な臭気に、フェリスもグウィンも、思わず顔をしかめて鼻をつまんだ。
キャッサがいつも清潔に整え、常に薪と香草のすがすがしい香気に包まれていた台所に、まるで肥溜めみたいなにおいが充満しているのだ。
台所には、オルトやガリスをはじめとした年長の弟子たちが、イーサンを除いたほぼ全員、顔を揃えていた。
まさか彼らのうちの誰かが便所壺にでもはまり込んだのか、と思ったが、そういうわけでもないらしい。
全員、臭そうに顔を歪め、腕で鼻をかばいながら、そこらじゅうの窓を開けて回っている。
その中には、ガストンもまじっていた。
「……ふぁ!?」
不意に、入口に突っ立っているフェリスたちに気付き、オルトが目を丸くしてこちらを指差した。
「はねほっ!?」
「何っ!?」
どうやら「姉御」と叫んだらしいオルトの言葉に、全員が一斉にフェリスのほうを向く。
「あ、ほんとだ! ――って、くっせええええッ!? やべえよッ!」
「お、俺、もう、吐きそうになってき……おえっぷ」
「きゃああ! やめてくださいな、こんなところで、いけませんわ!」
「馬鹿者っ、吐くなら外へ行かんか!」
「あ……あの……?」
若者たちが悶絶し、キャッサが悲鳴を上げ、ガストンが怒鳴る大騒ぎの中、そろりと片手など出しながらフェリスは呟いた。
いったいどんな顔をして降りていこうか、などという小さな悩みは、もはや地平の彼方に吹き飛んでいる。
「これ、何がどうなってるんです? 何なの、このにおい……っていうか、誰っ!?」
「大変、申し訳ない」
「お邪魔しています……」
フェリスの問いに答えたのは、ユーザ剣術道場一門の中にまじった、見覚えのない二人の男たちだった。
ひとりは、まるで眠気をかみ殺しているような仏頂面の男。
もうひとりは、ずっと若く見える、茶色い髪の若者だ。
外は澄み切った晴天であるにも関わらず、彼らはなぜか全身ずぶ濡れで、寒さのあまり小刻みに身体を震わせている。
彼らの服から滴り落ちるどろどろの濁り水――その正体が何であるのかは、あまり考えたくない――が、この異様なにおいの源であることは間違いなかった。
「あの、本当にすみません……誰にも見つからずにここまで来るためには、屋敷のすぐ裏手まで、下水道に潜ってくるのが一番いいだろうということになってですね」
「庭でごたごたして表の連中に見咎められないよう、そこの裏口から、とりあえずこちらに入れていただいたのだが……」
それが、よりにもよって台所であったということらしい。
「げ、下水道? 表の連中って……いや、それよりも、あなたたち誰……!?」
と、そこへ、いったん姿を消していたキャッサが、両手いっぱいに古布を抱えて戻ってきた。
それを、男たちの足元に、猛然と並べ始める。
「お話は後です! まずは、身体を清潔にしていらして! ……いいえ、違います、お風呂ではなくて、中庭で! 今、お湯を沸かしますから! もう、とにかく、一刻もはやく、わたくしの台所から出ていって下さいませ――!」
「な……」
「彼らは、捜査部の男たちだ。帝都警備隊の、な」
キャッサに追い立てられる二人の男たちを唖然として見送ったフェリスに、ガストンが説明した。
はっとして顔を向けたフェリスに、ガストンが頷く。
「フィネガン・トロウ元部長と、彼の一の部下、アルシャ・べリム。
……ラインスの上司と、同僚だった二人だ」
* * *
「先程は、大変失礼した。あなたがフェリスデール・レイドさんか」
「はい」
熱い湯で汚れをさっぱりと洗い落し――まだ、そこはかとなく臭かったが――ガストンの服を借りて居間に戻ってきたフィネガンの呼びかけに、フェリスは、表情を硬くして応えた。
フェリス、グウィン、そしてガストンが、低いテーブルをはさんで、フィネガン、アルシャと向かい合っている。
ちなみにキャッサは台所に残って猛然と床掃除をし、オルトたちもそれに付き合わされていた。
「この屋敷にあなたがお戻りになっていたことは、我々にとって、神々の助けだった。
――お初にお目にかかる。俺は、元、帝都警備隊の捜査部部長、フィネガン・トロウ。こちらは、元、部下のアルシャ・べリム。現役の隊員だ」
「はい。……あの」
相手が先を続けるよりも早く、フェリスは、決然として口を開いた。
「あたし、ラインスさんのこと……とても、残念に思っています」
それだけ言って、口をつぐむ。
それ以上は、何を言っても、言い訳になるような気がした。
中庭から戻ってきた彼らは、訪問の目的を話した。
他でもない、フェリス本人と話がしたいのだという。
この二人、フィネガンとアルシャにとって、ラインスは部下であり、同僚であった男だ。
その彼を斬り殺した張本人に対して用があるというのは、どのような用向きであるにせよ、穏やかな話ではあるまい。
だが、たとえ受け入れてはもらえないとしても、自分の気持ちだけははっきりと伝えておきたい、とフェリスは思っていた。
フィネガンが、眠たげな双眸の奥から、射抜くようにフェリスを見つめる。
そして、言った。
「ラインス・クレッサは、利用されていた」
「……えっ?」
「黒幕を暴く資料が、ここにある」
一瞬、言われたことの意味が取れずにぽかんとしたフェリスたちをよそに、フィネガンは、アルシャに向かって頷いてみせる。
アルシャが、懐から小さな品物を取り出し、テーブルの上に置いた。
フェリスたちは一斉に身を乗り出し、食い入るようにその包みを見つめた。
大人の手でひとつかみにできそうなほどの大きさの、やや細長いその品物は、油紙で厳重にくるまれている。
「あ、品物というのは、これの中身です。油紙は、俺が包みました。下水道を通る時、万が一にも落として中身を濡らしてはいけないと思って」
「いや、ですから、その下水道って……?」
平然と説明するアルシャに、思わず呟くフェリスだ。
「ご存じないですか? 地面の下に、水を流す道が通してあるんです。いわゆる暗渠というやつですよ。
中には、人が通れるほどの太さのものもあって、ちょうどそのうちの一本が、この屋敷のすぐ近くまで――」
「いや、下水道がどんなものかっていうのは知ってますけど……そうじゃなくて。どうして、警備隊の人が、下水道を通って来るんですか?」
「こちらにも、色々と事情があったもので」
淡々と答えたのは、フィネガンだ。
「だが一番の理由は、その包みの中身が、相当にやばい代物だからだ。
これの存在を他の者に知られたり、ましてや奪われるわけにはいかない。絶対に」
「……あの、開けても?」
フェリスが問いかけると、彼らは頷いた。
慎重に油紙をはがすフェリスの手元を、ガストンとグウィンが両側からのぞき込む。
何重もの油紙の内側から出てきたもの――
それは、黒っぽいガラスでできた、小型の瓶だった。
おそらくは液体の薬を入れておくためのものだろう。
かなり、がっちりと栓ができるようになっている。
「開けてください」
アルシャに促されるまま、フェリスが栓を抜くと、ざらざらと音をたててテーブルの上にこぼれ落ちたものがある。
砂利だ。
「この小瓶は、帝都警備隊本部の裏庭にある池の底から発見された。砂利は、重りの代わりだ」
「俺が発見したんです! 建物内部では、探せる場所は探しつくしたので、駄目でもともとと思って、夜中に池をさらってみたんです。
いや、本当に大変でしたよ。作業をしているのを、誰にも見つかるわけにはいきませんでしたから。おまけに、水が濁っているせいで底は見えないし、灯りといえば月明かりだけだし……
池が浅くて、本当によかった。もう少しで、こいつを見つける前に凍死するところでしたからね」
フィネガンとアルシャがそれぞれに喋ったが、フェリスは、それらをほとんど聞いていなかった。
砂利にまじって瓶の中から出てきたものは、筒状に丸められた、何枚もの紙の切れ端だ。
激しい動揺の中で書きつづられたことを思わせる乱れた筆跡で、びっしりと文字が書き付けてある。
「……これ、は……」
紙片を開き、綴られた内容を読み進むうちに、フェリスは、驚愕が表情ににじみ出るのを抑えられなかった。
ゆっくりと、アルシャが頷く。
「ラインスさんが書き遺したものです。彼の筆跡は、報告書で見て知っていますから、間違いありません」
「でも……こんな……こんなこと……」
呆然と呟いていたフェリスは、ふと顔を上げ、探るようにアルシャを見た。
「あの……でも。どうして、これを、あたしに?」
「実は……俺、あの日、観客席にいたんです。あなたとラインスさんの戦いも、すべて見ていました」
フェリスは我知らず、表情をこわばらせた。
だが、アルシャの視線に、怒りや憎悪はない。
「最後の瞬間……ラインスさんは、自分からあなたの剣に飛び込んでいったように見えました。
ラインスさんは、自分のしていることが過ちだと気付きながらも、もう、自分では引き返すことができないところまで来ていた。
でも、彼はずっと良心の呵責に苦しんでいたんだと思います。
真実を、誰にも話すことはできない、知られるわけにはいかない……
そう思いながらも、心の奥底では、誰かが真実に気付いてくれることを――そして、自分を止めてくれることを、願っていたのではないでしょうか?
だからこそ、彼はこれを書いて警備隊本部の池に沈めたのだと、俺は思っているんです」
アルシャの目はまっすぐに、食い入るほどに真剣に、フェリスを見据えている。
「フェリスデール・レイドさん。あなたが、ラインスさんを止めてくれた。
そして、あの技量……あの力があれば、あるいは……
あなたならば、ラインスさんの仇を、討ってくださるのではないかと」
「帝都警備隊に与えられた権限では、黒幕に、直接手出しをすることができない」
そう続けたフィネガンの表情は、相変わらずの眠たげなしかめっ面だ。
だが、その口調には、押し殺された感情がみなぎっている。
「かといって、下手にこの資料を上に提出すれば、闇から闇へと握り潰されかねん。それを避け、何してでも、真実を明らかにしなければならん。
俺たちの仲間の、名誉のためにも……」
視線を落として呟くように言い、すっと眼を上げて、フェリスを見据えた。
「フェリスデール・レイドさん。あなたは、近々、登城なさるそうですな?」
その言葉を聞いた瞬間、フェリスは、悟った。
自分が、これから何をなすべきなのかを。
「色々と考えた末、我々は、あなたにすべてを託し、賭けることにした。
……いささか、乱暴な方法ではあるがね」
帝都警備隊の男たちは、充血した目でまっすぐにフェリスを見つめた。
その視線には、どんな壁にぶつかろうとも決して退くことはないであろう、強固な意志がみなぎっていた。
「ご協力願えますか? お嬢さん」
眼差しとは裏腹な物柔らかさで、フィネガンが問いかける。
この時点で、フェリスの心に、迷いは欠片もなかった。
「やるわ」
言い放つその目に、鋼の決意がある。
その視線はすでに、来るべき最後の戦いの時を見据えているかのようだった。




